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相手を知るには観察から(3)

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 朝布大学獣医学部内科学第三研究室。
 上津原の連載を担当してもう二年になる早坂にとって、もはや勝手知ったる研究室といってもよいくらい馴染みのある場所だったが、いまのこの気詰まりな沈黙には耐えられない。
 松苗先輩の指名とはいえ本当に勘弁してほしいと、膠着状態の男女の間でため息をつきたくなる。
 大体、初対面の女性に「処女だろ?」なんて聞く人います? 
 ありえないでしょ。
 それも人気急上昇中の美人恋愛小説家である甘糟塔子あまかすとうこを相手に。
 まあでもそれをやっちゃうのがこの先生だけど――と、早坂はソファにふんぞり返っている上津原を見た。

 約二ヶ月前、早坂の尊敬すべき先輩編集者である松苗女史から突然かかってきた電話。
 そこから今日までの怒涛の日々を彼は思い浮かべる。
 松苗女史が乱入した狂乱の会議。無謀と言える掲載スケジュールのための段取り。いくつものイレギュラーな経路と段階を経て通った企画書を作成したのは早坂だが、中味の大半を考えたのは松苗女史だった。
『そうねえ、一種の異種格闘技ってやつ?』
 最初の電話があった翌日、会社の休憩スペースの片隅で密談のごとく行ったミーティングでの彼女の言葉。
 どんな対談になるか予想つかないけれど、その過程も含めて面白いだろうと楽しそうに松苗女史は話していた。
 上津原の連載を担当し始めた頃、早坂は松苗女史に、仕事の悩みというよりは世間のイメージと180度異なる上津原の性格をよく愚痴っていた。彼女も適当な返事で大半聞き流していたように見えていたのに、まさか二年後にこんな形で仕事にしてしまうなんて。
 流石というかなんというか恐ろしい人だ。あらためて彼は研修期間中の元上司に身震いする。
 師と弟子といえる関係のなかで培われた勘で早坂にはわかる。
 本人気がついているのかどうかわからないけれど、松苗女史が楽しそうに目を輝かせている時は、大抵なにか引き当てる時だ。しかしそれに巻き込まれる側はたまらない。
 早坂はあらためて、対談するはずがまったく会話にならない二人を眺める。
「ったく、いい女連れて来るって言ってただろうが。シケた女連れてきやがって」
「あの……早坂さん、私はなにをどうすれば……」
 左に、咥えていた煙草を吸い殻が山盛りな灰皿へ押し込んでいる、徹夜明けで機嫌の悪い上津原。
 右に、その野獣の暴言に怒るどころか萎縮するばかりの可憐な塔子がいる。
 まるで美女と野獣だ。
 あまりに正反対過ぎて、なにをどう捌けばいいのかわからない。
 どうしてこんな目に……しかし嘆いていても状況はなに一つ変わらない。
 嘆くの胸の内だけにして、とにかく進行役としての役目を果たさなければと早坂は表情を引き締める。
 愚痴や文句は後からいくらでも言える。なすべきことをなすのだ。
 でなければ、個人的に後が怖過ぎる――。
 企画の中身を考えたのも、それを強引に企画会議にねじ込んだ上、初回巻頭カラー八頁なんて大枠ぶんどったのもすべては松苗女史の見事なプレゼンテーションの賜物。
 早坂自身は彼女に言われるがまま企画書を作り、操られるように彼女を会議に参加できるよう上司に頼み、指示されるがまま動いているだけだ。
 そしてそのことは、上司や同僚の編集者も百も承知だった。
 この企画は松苗ブランド、だから絶対に失敗するなど有り得ない。
 失敗なんてしたら、彼女に殺される。

「ええっと、先生。甘糟さん美人じゃないですか。それに先生の都合でここまで来てもらったんですから」
 とにかくこの状況をなんとかしなければ、それに誰がどう見ても上津原の態度に問題がある。
 早坂もここまで機嫌が悪い上津原は見たことがないし、女性に当たり散らすようなことをする人物ではないはずなのだが、実際酷い態度を甘糟塔子に対して取っているし、彼にとっても仕事なはずなのにまるでそんな気がないように見える。
 そんな早坂の考えを、上津原は察したらしい。
 不服満面といった顔で早坂を睨みつけてくる。元々目つきが悪く、鋭い。
 すっかり慣れたつもりでいたが、思わずひっと恐怖の声を上げそうになって慌てて早坂は飲み込んだ。
 そんな彼に「あの……」と塔子が声を掛け、早坂にとって信じられない言葉を口にする。
「いいです……シケた女って本当のことですし」
「え?」
「それに、美人とかそういった気遣もいりません。そういうのって、あまり……」
「は、え? いや、いやいやいや!」
 そんな潤んだような憂いを帯びた眼差しと、艶やかな長い黒髪も麗しいお姿で。
「なに言ってんですかっ、甘糟さんっ!」
「ぶわっははははっ……っ!」 
 狭い部屋に柄の悪い笑いが響き渡る。
「本当、最低な女だなあんたっ」と上津原が腹を抱えたのに、きっと我慢も限界に達したのに違いない。 
 塔子がきれいな弓型の眉をひそめて上津原を軽く睨んだ。
「なっ、なにが最低……なんですか」
 彼女の言葉は、その途中で顔を上げた上津原に怯んで勢いを失う。
 それでもこれまで萎縮していた甘糟塔子がこの感じの悪い上津原に対して言い返したことに、正直、早坂は驚いた。
 上津原との付き合いは二年になる。
 言葉は荒っぽく少々扱いにくい性格ではあるものの、結構面倒見がよく物事に対し気の回る人物でもあることを早坂は知っている。機嫌が悪かろうがいまや慣れたもので平然と話せるが、彼女はまったくの初対面。
 上津原は概して無愛想で口も悪い。おまけに整った顔立ちは鋭さのある雰囲気でとっつきにくい。
 彼曰く、広報宣伝向けの穏やかさで振る舞っている時はともかく、そうではない通常の状態では気安く話しかける事自体、人に躊躇わせるところがある。
 上津原が指導している学生も、上津原ではなく彼の下で働く助教に相談を持ちかけることが多いらしい。
「あんたをおもんぱかって俺を諌めようとした、早坂さんの立つ瀬がねえだろ」
 早坂同様、上津原も彼女の態度は意外だったようだ。
 ため息交じりにそう言った彼の言葉に、それまでのような彼女を揶揄やゆする気配はなかった。
「そんな……そもそもあなたが色々と」
「失礼なこと言うからって? こっちは年明けからずっとあんたのせいで迷惑してる。仕事にかこつけて嫌がらせの一つもしたっていいだろ。しっかし美人て言われてそこまでどんより暗くなるってのも珍しいな」
 嫌がらせだったのか、先生。
 それに巻き込まれて、こんな状況になっていることの方が立つ瀬がないんですが。
 文句を言いたい早坂だったが、そんな口を挟める雰囲気ではないため黙っていた。
 自分のせいで迷惑したと上津原から訴えられて動揺し、塔子は再びおどおどと萎縮している。
 それにしても。
 これほどネガティブかつ不安定な女性を、よく松苗女史はベストセラー作家になるまでに育て上げたものだ。
 早坂は、いつ見かけても女性ファッション誌から抜け出してきたような姿でいる、魅力的な女傑を思い浮かべる。
 新人教育がトラウマ過ぎて、強く美しい彼女を異性として見られないものの、彼女の指導を受けられ今も気にかけてもらえるのは最大の幸運だと自信を持って言える。
 院卒採用の早坂は、学部卒で入社した同じ年齢の社員とは二年遅れになる。
 同期の中では優秀と評価され、担当している仕事への自負もあるものの、三十代を目前に同じ年齢の先輩社員と比較すれば焦りを覚えることもあるが、落ち込むほどではないのは松苗女史の下で鍛えられたから。
 それに入社四年目で、こんな特別企画を担当する機会を得られたのも、彼女のご威光があってこそだ。

 甘糟塔子は、どんなに泥沼な恋愛模様を描写しても不思議に切ない透明感を保つ作風で、新刊はそこそこ古い作品も細く長く売れ続けるといった作家だった。
 一作ごとに固定ファンを着実に獲得していくといったタイプで、実を言えば早坂もファンの一人だ。
 それも、少女小説時代の作品も一般文芸に転向した頃の短編掲載誌までコンプリートしている古参の。
 姉の影響で読んでいた少女小説文庫の作品イメージ通りに可憐な姿の作家が、いままさに早坂の目の前に座っている。神はいる。
 思っていた以上に繊細な性格のようだけれど、年上の女性であるのに守らなければといった気分にさせられる。
 そうここは編集者として上津原を諌め、彼女を守るべきだ。
 これは仕事をやり遂げるためであって、けして私情ではない。
「迷惑って……私、なにか……?」
 かなりの間を空けたタイミングでの躊躇ためらいがちな問いかけ。
 沈黙していた時間はなにか思い当たることはないか考えていたのだろう。
 あまり人のことは言えないが、他人の言葉をすべてそのまま真に受けるような損な性格をしていると早坂は思った。
「映画」
「え?」
「ったく、会う女、会う女、判で押したみたいに……なんだってああいうのがいいかね。まさか、もう十回以上は見たなんて言えんだろうが。チケット代もばかにならないってのに、他にもパンフやら文庫やら買わされるし」
「小さっ」
 それで原作者である彼女に感じ悪く接していたのか、人間が小さ過ぎる。上津原聡!
「なんか言ったか?」
「いえ、なんでも」
 早坂がつい漏らした呟きを聞き逃さなかった上津原に、早坂はすぐさま応じる。
 これも松苗女史の教育の賜物で、大抵のことはしれっと受け流すことが出来るようになっていた。
 しかし彼女は、早坂と同じ考えではないらしい。
「はあ……それは、その……申し訳ないというか、なんというか……ありがとうございます?」
 恐縮して恥じ入るように頭を下げている。
 いや申し訳ないのはこのおっさんだからと余程言ってやりたい早坂ではあったが、とにかく進行役として速やかにこの場を収拾、仕切り直して、対談を進めることが最優先事項。
 下手なことを言ってこの野獣男が再び荒ぶったら、いつまでたっても対談どころか雑談だってできないと自分を抑える。
「ていうかあんた、男と付き合ったこともないだろ」
「ちょっと、先生っ」
「なんだよ、早坂さん」
 トントンと煙草の箱の縁を指で叩き、新たな一本を取り出そうとしながら面倒くさそうに横目に早坂を見た上津原に、今度こそ早坂は彼を諌めにかかる。
「なんでまたそこで、話を戻そうとするんですか」 
「別にいいだろ。で、あんたの話だが……絶対ないな。賭けてもいい。それで俺相手に恋愛テーマで対談? どんだけ身の程知らずな女だよ」
「なっ。別に、私っ……」
「そりゃあんたが考えた企画じゃないだろうが、ここにいる時点であんたはそれに乗っかったわけだろ?」
 箱の縁から一本飛び出した煙草を咥えながらの上津原の言葉に、反論しかけて塔子はたじろいだ。乗っかったというより乗せられたという方が正しいと、早坂は小さくなって俯いている塔子に心底から同情する。
「まあ、その……そう、かも……しれませんけど……」
 カチッ、とライターを点ける音がし、新しい煙の匂いが狭い部屋に漂う。
 上津原の背後。彼のデスクの前に窓はあるが、窓の半分以上は積み上げられた本と書類に塞がれていて、とてもそこを開けて空気の入替えなどは出来ない。
「これまでそこそこ本が売れて、一発当てて、まあ当面安泰で調子づく気持ちもわからんでもないけどさ」
「そんな、違いますっ」
 震えるような小声が、上津原の話を遮った。
「私だって別に好きで、表に出ようなんて思ってなくて……むしろ困ってて……っ」
「お」
 揺れる声音で途切れがちに話す塔子に、煙草を持ち上げていた手を若干下げて上津原が目を見開く。
 体ごと塔子を向いて早坂は、これはちょっとまずいと慌てた。
 初回でカメラマンは入れない方がいいと言った、松苗女史の忠告通りにしてよかった。
 両膝の上に置いた固く握った拳を小刻みに震わせながら、上津原を睨みつける塔子の目からぼとぼとと大粒の涙が垂れ落ちている。
「だいたい……初対面で……どうしてそこまで言われなきゃならないんですか……っ」
「泣くならもうちょっと色気のある泣き方しろよ」
「放っといてくださいっ!」
「別に、構っちゃいねぇよ」 
 両腕を頭の後ろに回しずるりとソファの背を滑る上津原に、「ならいいです」と噛み合っているようで支離滅裂な返事をし、涙を拭く仕草も見せずに傍に置いたベージュの鞄を手に立ち上がった塔子に、慌てて早坂は彼女を止める。
「あ、甘糟さんっ、落ち着いてっ」
 ここでこの仕事から降りるなどと言い出されたら非常に困る。
 もう掲載スペースは確保している。
 松苗女史が強引に手を回して取ったスペースだから、いまさら差し替えなどできない。
 いや、差し替えは出来るだろうけれど、様々なしがらみや松苗女史や塔子や自分の身にその後起こるだろうことを考えると絶対にそれは避けたい。
 ここにきてはじめて早坂は、自分もまた降りられないことに気がついた。
 この仕事は受けた彼等だけではなく、彼等にこの話を持ちかけた早坂自身も放り投げることは出来ない仕事だ。
 やっぱりあの人が、ただ上津原先生の担当だからというだけで自分を指名するわけがないと思った――!
「大変だな、早坂さんも」 
 自分が怒らせ泣かせている女性を目の前にして、飄々と煙草をふかしている余裕があるのはなんなのか。
「暢気にしてないで先生もっ。本気でそんなこと思ちゃいないんですから、謝ってくださいよ」
「詫びたところで治る陰気さなのかよ。で?」
 早坂の引き止めに俯いてソファの側でつっ立っている塔子の顔をソファからだらしのない姿勢で覗き込むようにして上津原が投げかけた疑問の声に、ぴくりと塔子は反応しわずかに顔を上げた。 
「帰りたきゃ帰ればいいし、止めなら止めで俺は構わない。まだ初顔合わせだ、雑誌だってなんとかなるだろうさ。煙草代がなくなるのは痛いが、あんたらほど俺の腹は痛まない」
 呆気に取られたように停止している塔子をソファからずり落ち気味にふんぞり返って眺めていた上津原だったが、しばらくして軽く煙を吐いて煙草を咥えなおすと、空いた右手の人差し指を自らの方向へくいっと曲げて、塔子に対しこっちへ来いと促すような仕草をみせた。
 早坂が大学の敷地内で何度か見たことのある、猫を呼び寄せている時の上津原の仕草だった。
 何故か寄ってくる。
 上津原が呼ぶと猫でも犬でも、場合によっては女性までもが彼の側に寄る。
 ついつられたといった様子で、塔子もまた低い位置にいる上津原へと身を乗り出し、そんな彼女の肩を上津原は捕まえると白衣のポケットを探って、いつからそこに入っていたのかわからない薄いブルーのハンカチを取り出し上半身を起して涙に濡れた彼女の顔に押当てた。
 ほとんど鷲掴みの手つきで、ハンカチごと彼女の顔を揉みしだく。
「やっ、ちょっ……なにす……」
「その酷い顔で出ていくのはやめろ。俺の品位が疑われるだろうがっ」
「……やめっ」
「なんだって?」
「やめ……やめてっ……ください!!」
 叫んだ塔子が上津原の手首を掴んでハンカチだけ奪い取り、再びソファに腰掛ける。
 いつから白衣のポケットに入っていたのかわからない。
 早坂と同じことを塔子も考えたらしく、手にしたハンカチをしばし見詰めていたが、もうすでに一度は顔全体包まれた後だったため同じ事だと思ったのだろう。
 恐る恐る、淑やかな動作で目元や頬だけでなく顔全体を拭った。
 荒っぽい上津原のためにかえって化粧崩れが酷くなったと全部拭き取ってしまうことを選んだのだろうと理解した早坂は、色味がとれた塔子の顔を盗み見る。
 もともと整った顔立ちをしているためか、化粧が落ちる前とさして変わらない。

「ず、随分華やかな女性遍歴をお持ちなようですが」
 一呼吸置いて、塔子が上津原に話しかけた言葉に彼は天井を仰いでかっかっ、とおやじ臭い笑い声を放った。
「遍歴ときたか。いいねぇ」
 どういったわけか早坂が進行するまでもなく、対談が始まっている。
 何故、そうなる……。
 それならそれで問題はないが、なんとかしようと必死だった早坂としては狐につままれたような心持ちだ。
「か、上津原さんにとって、女性と恋をする最初のきっかけってなんでしょうか?」
「んなもん、いい女だと思ったら声かけるだけだろ」
「……はあ」
「あんただって男はないにしても、その辺のぷらぷらしてる野良猫とか散歩の犬とかに声かけたことあるだろ?」
「えっと……野良猫や散歩の犬と人間は違うと思うのですけど?」
「そうか? 一緒だろ」
 早坂が塔子を見れば、明らかに理解不能といった表情をしている。
「で、では……上津原さんにとって“いい女”っていうのはどんな女性……」
「まーとりあえず、シケた美女よりエロいブスのが百万倍マシだな」
 再び問いかけようとした塔子の言葉を上津原が途中で遮った刹那、早坂の視界をなにかが素早い動きで横切り、バシッという音に続いて、「いでっ」と上津原の声が上がった。
 なにが起きたのかわからないまま早坂が上津原を見れば、彼の顔のすぐ間近まで身を乗り出した塔子が手にした鞄を振り上げてやや不自然な体勢で小刻みに震えている。
「あ、甘糟さんっ!?」
「ケダモノっ!!」
 室内全体に塔子の叫び声が響く。
 はじめて塔子の声を早坂ははっきり聞いた。
「そんなのっ、下心だけじゃないですかっ!」
「はぁ? 下心も持てねぇ女を好きになれるわけないだろうが。っていうか、けだものってなんだよ」
「そのままの意味ですっ!」
 中腰で斜めに上半身を伸ばしていた不自然な体勢を真っ直ぐに起し、手にした鞄を腕に下げ直し、今度こそ部屋を出て行こうとする塔子に早坂は手を伸ばす。
「あ、あまか……っ」
「オイッ、待て! 喪女ッ!」
 引き止めようとした早坂の声に、鼓膜が破れそうな怒号が被さった。
「殴るのはいいとして認識を改めろっ! 性欲といった話なら、野生動物より人間のがずっと本来の目的とはズレたありかただ!」
 叫んだ上津原に背を向け、小さな靴音を鳴らして部屋を出ようとする塔子に、煙草を床に吐き出す勢いで上津原が再び声を上げる。
「おい、待てっ、コラッ!」
 ドアが開く音がし、それと同時に塔子の靴音が止んだ。
 上津原の呼び止めが効いたのか、ドアノブを持ったまま振り返った塔子が彼に顔を向けて佇んでいる。
「よーし、いい子だ。いいか、つまり人は野生動物と違って――」
「私、たしかに恋愛経験はゼロですけれど……」
「生殖目的ではな……ぁん?」
 塔子の認識を改めさせるための講釈を続けようとした上津原は、ぼそぼそと噛み合わない言葉を紡ぐ彼女に目を細める。
「人の話聞けよ……てか、やっぱり俺の見立て通りじゃねぇか」
「人を好きになるって、身近な関係から段々大切な存在に思えて意識してもあると思いますが?」
「身近な関係ねぇ、ただのお友達や同僚だったのにって?」
 こくんと頷いた塔子に、はんと上津原は腕組みする。
「いかにも恋愛小説の作家先生だ。けどその大切な存在ってなるトリガーは所詮は相手への身勝手な幻想と欲望だろ」
「最低……」
「ま、いいけどよ。早坂さん、連載期間って何ヶ月だ?」
「えっと、反響次第ですがひとまず六ヶ月の予定ですけど」
「六ヶ月……ならまあ、仕事相手としてはそこそこ身近な人間になりそうな期間なんじゃねぇの」

 ――え?

 上津原の言葉に、早坂と塔子が同時に疑問の声を漏らす。
 パチンと上津原は指を鳴らし、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「早坂さんには世話んなってるしな。カドワカはこの企画ポシャったらまずいんだろ?」
「はい?」
 上津原の確認の問いかけに頓狂な声が出てしまった。嫌な予感しかしない。
「おい、喪女!」
 呼びかけられて塔子がビクッと肩を揺らし、ソファーに腰掛け直した上津原を見下ろす。
「対談にならないなら、俺と恋愛してみるってのはどうよ?」
「は?! え? れ、れんあ……」
 言い終えるまでにその色白な顔が一気に耳まで赤く染まれば、勘違いすんなと上津原は鼻白んだ。
「擬似だよ擬似。本当に口説いてくれってなら口説いてもいいけどよ」  
「お断りします!」
 きっぱり毅然と塔子はまっすぐに上津原を見て即答した。
「本当、最低っ!」
 ドアが勢いよく閉じて部屋全体に風圧がかかり、上津原のデスクに積まれた書類の幾枚か吹き上げられて空中を舞った。ヒラヒラと床へ落ちていく書類を呆然と早坂が成す術もなく眺めていたら、閉じたはずのドアが僅かに開いて、出ていったばかりの塔子が部屋のなかへそろりと上半身だけ乗り出し頭を下げる。
「お……お邪魔、しました」
 律儀というか生真面目というか、間の抜けた退室の挨拶の後、今度こそ本当に去るのだと主張するようにドアがやけに室内に余韻の残る音を立てて、風圧なく閉まる。
 しんと研究室全体を包んだ静寂を、本日一番の上津原の柄の悪い大きな笑い声が破る。
「くっ、ははは……ぶわっははははっ――!!」
「笑い事じゃないですよっ、先生!!」
 この二人で、半年間も対談なんて続けられるのだろうか……と早坂は頭を抱える。
 話題性はあっても、組み合せとしては最悪。意見の相違どころか完全に別種族。
 たしかに面白いかもしれないが、対話を進行させるのは早坂であり、それを書き起して原稿にするのもまた彼である。あんたがやるのよと松苗女史からの厳命を受けている。
「で、早坂さんは書けんの?」
 この一言で、上津原が現状を理解した上で面白がっていることが理解できた。
「先生、なにか僕に恨みでもあるんですか?」
「別に。原稿の取り立てでデート中断させられたとか、原稿の取り立てで寝不足になったとか、連れて来た女が残念至極でもはや詐欺レベルでも仕事だからな、嫌がらせしようなんて恨みこれっぽっちも持たねーよ」
 持ってるじゃないですか。
 上津原が、教授に昇進しておかしくない業績があっても推薦されないのは、素行と性格の悪さのためだと学内の噂を何度も早坂は耳にしたが、案外本当のことなのかもしれない。
 学生達も上津原に対しては、好き嫌いがきっぱりと分かれるらしい。
「写真撮影は次回からで」
「ん、ああ。で、やっぱり男無しだったけど?」
「え?」
蓼喰たでくふ虫も好きずきっていうか。最低、月一頻度では会えるわけだ。がんばれ」
「がんばれ?」
「ずーっと、ぼうっとしてほとんどあの女しか見てなかっただろうが。企画持ってきた時の落ち着きなさといい長年ファンで会ってみれば好みど真ん中だったってやつ?」
 どうしてこうなにからなにまでわかるんだ、この人。
 はははっと愉快そうな笑い声を立てている上津原を眺め、この人は悪魔だ……と早坂は諦念のため息を吐いた。
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