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挿話

125.5 交差する夢

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 目まぐるしく移り変わる夢はわたしを混乱させる。
 なにが本当にあったことで、そうでないのか……。
 全部が本当なら、記憶を失くしていた後のわたしは。
 失う以前とはまったく違ったものを見ていたことになる。
  
 あの時と似ている。
 モンフォールの当主様のわたしを見る目。
 父様がずっと守ってくれていたことを知った時。

 けれど、あの時よりも、なにか根本に触れる怖さがあった。
 怖い……。
 目を覚ませば、すべてが変わってしまいそうで。
 なにもかも……。

 白っぽい樹皮に映える黄金色の葉。
 背の高い木々の合間、濃い赤や褐色に色づく葉を見せる背の低い木々。
 西部の北寄りにあるユニ領の落葉樹の秋の森。
 目の前を塞ぐように絶え間なく降り落ちてくる。
 色とりどりの葉が、さわりと頬をかすめた風に流れる。
 不意に風向きは逆方向に強く吹き。
 向い風に乗って襲いかかってきた葉の色に、視界が染まって目を閉じる――。

 びゅぅっ、と。
 耳を塞ぐような風の音に怖々と目を開ければ。
 濃い緑の、どこまでも続くような鬱蒼とした森が広がっていた。
 見晴らしのいい、小高い丘の上かどこか。
 一帯を見渡せる場所に立ち、見下ろしているような。
 そんな景色だった。

 知らない森だ。
 こんな暗く広大な深い森の景色みたことがない。
 ばさばさとたっぷりとした布が煽られはためく音がした。
 翻る、滑らかで厚みのある、薄い灰色がかった絹。
 強く吹く風に乱れて流れる、銀色の綺麗な長い髪が淡い光を散らしている。
 
 知らない。
 針葉樹の森を見下ろす目はわたしじゃない。
 これは誰かが見ている景色。
 不意に重なり見せられている、誰かの記憶。
 直感でそう思った――。


 *****


 国境近くの森と丘陵一帯を見渡せる。
 その様は、絶景といえなくもない。
 しかしあまりに寂寞とした場所だ。
 景色を楽しみにやって来る者などはいない。
 いたところで、かろうじてではあるものの屋敷の敷地内。
 無関係な者は、屋敷の最も外側に施された守りによって目を眩まされ、迂回を余儀なくされる。
 丘というには高く、山というには低い。
 頂きの急峻な岩塊は、長きに渡る風蝕で奇岩の様相を見せている。
 そのような場所だ。

「迷惑なことだ……」

 見渡せる一帯はバランと呼ばれる国境の地。
 王国の東側に位置する隣国との争いは、一方がもう一方に侵攻出来たわけでもなく。
 ただ緑の地を踏み荒らして血で汚し、互いに屍の山築いただけに終わっているが、正式に終結が宣言されたわけでも講和がなされたわけでもない。
 数年前に戦としては一旦の落ち着きを見せてはいるが、暖炉の炭が火は消えているように見えても、内部で燻って時折赤い色を見せるように、時折小競り合いが起きる。
 その兆しである、野営を張っているらしき気配が見てとれた。
 距離はそれなりにあるが、かろうじてそれらしいと目視で捉えられるくらいには近い。

「あの程度ではやはり出向くわけにもいかない」

 報告通りに、規模からして隣国の正規兵でないのは明白だった。
 近隣の有志やならず者達が徒党組み、己が営利の為にやってきたといったところ。
 あの辺りは小集落と竜の棲家である森に近い。
 略奪か、森林資源とわずかに採れる鉱物、鱗などが珍重される魔物を狙ってか。
 ここには一人思索に耽る為に時折来ているが、暫くそう暢気な目的で訪れるわけにはいかなそうだと嘆息する。 

「王国が侵される事自体は、正直どうでもいいものの」

 領内に累が及ぶ事は領主の務めとして避けなければならない。
 特に竜は怒らせると毒息を吐いて、広範囲に病を撒き散らすことがある。
 強く吹く風に煽られて、長く伸びた銀髪が頬を叩いて煩わしい。
 耳の後ろへとやりながら、つい先日、東部の都トゥルーズにある騎士団支部での事が思い返され、鬱陶しい気分で目を細めた。


*****


「魔狼五体、巨鳥一体、屍食蜘蛛の巣の除去、小精霊の仕業と思われる魔力溜まりの解除……流石は、弱冠十二才の若さで先の戦の功労者の誉をほしいままにした“フォート家の魔術師”と申し上げるべきですな、公爵閣下」

 ここ半年程の間で、領内からの嘆願を受けて処理した魔物や精霊絡みの案件だった。
 東部の騎士団支部がまとめた書類を読み上げた五十絡みの身なりのいい男は、ロベール王――つまりは国王陛下の代理で来た役人であるという。 
 言葉と表情こそこちらを称えるようだが、その眼差しの奥で、女のような若造がとでも言いたげな色が見え隠れしている。

 腰のあたりまで届く髪のせいかもしれない。
 元々肩先で揃えていたが、三年前に領地に戻ってからというもの伸びるにまかせている。
 十五で成人したあたりから体格はそれなりに変化してきたと思うが、どちらかといえば母親似の女顔ではあるため、王宮では男児の服を着ていても令嬢に間違われることがたまにあった。
 もっとも成人女性なら髪は結い上げる。
 
「ロタールは、いまだ伝説伝承をいまに引き摺る古い地。王都や他領には珍事に近いことも、ここでは日常の延長です。たしかに私も出向きましたが、弱らせたり後始末をしているのは騎士団の者達ですから功績の大半は彼等にある」

 さしずめ、王国や王家にその功績を示せと言いにきた。
 ロベール王の意向はともかく、王宮は一枚岩とはとても言えない。
 まだ王は交代したばかり。先王に仕え、ロベール王とは折り合いの悪い王太后におもねる古参の臣も多くいる。三十を迎えたばかりの王の周囲には複雑だった。

 ロベール王を口実に、私を王都に引っ張り、己が陣営に取り込みたい誰かの差金か……。

「竜と単独で戦い首を落としでもすれば、功績にもなるでしょうが」
「ご冗談を」
「先ほどの書類に書かれた程度のことではといった意味です。部屋の外にいる者達が聞けば苦笑するでしょう。東部は国境のある地とはいえ、強者揃いの東部騎士団支部と連携できることは、領主としてお礼申し上げるべきことかもしれません」

 肩から胸元へと滑り落ちてきた髪を後ろへ払い、それなりの地位にあるのだろう王宮の役人の言葉を封じる意図で微笑む。相手はこちらが交渉にも応じない構えであるのを悟ったのだろう。
 わずかに頬を紅潮させ、ばつが悪そうに大仰な咳払いを三度した。

「東部支部の六割がロタール出身。礼を述べるならこちらの側でしょうな」

 王国東部の六割を占める、大領地であるロタール領とほぼ同等の構成。
 ロタール領は一定規模の領地なら持っているはずの私設の衛兵団や自警団の類を持たない。
 建国話に記される、王国の礎となった七つの小国。
 内一つが丸々残って、元小国王家で唯一公爵として貴族としての力を保ち、加えていまの王国を支える魔術の技法を編み出した魔術の家系として存在している。

「王国騎士団である限り、出身がどうあれ王に忠実な騎士。ロタールはその力を借りているだけなのを知らない貴殿ではないでしょう」

 私有の武力を持たず、王国の騎士団に人材を提供するかわり提携関係を結んでいるのは、諸侯達を統べる王家と張り合う気もなく、仇なす気もない意思表示の一つでもある。
 それに万一面倒なことになった際、私がどのように振る舞おうと、王国騎士団に属する彼らが刃を向けるのは王家ではなくフォート家。
 王の忠実なる騎士達を、ロタールの領民だからと咎めることはできない。

「仮にもロベール王の代理と称しているのなら、貴殿の言葉は王の言葉。騎士団支部に私をびつけ、かように誉めそやしてくださるのは、王がそのように私を口説き落とせと?」
「ぬ?」
「それとも貴方個人・・・・の、王宮と疎遠でいる若輩の私に対するお心遣いでしょうか? あるいは元小国王家への……」
「他意はないっ……」

 慌てて言葉を返し、ハンカチを出して額を拭った相手に、そうでしょうともと相槌代わりに首を傾けた。
 軽く微笑みの形に細めた目で、相手を凝視する。
 言い繕うことを考えているのか、ハンカチを額に当てる手を止めて、向こうも若干虚な様子でこちらを見返したが、なにかから逃れるようにすぐに目を逸らせた。

 王都や王宮とは距離を置いているから、どこのどういった御仁かも知らないが、もう一つの王家などと担ぎ出されるのは迷惑でしかない。
 こうして度々、手を変え品を変え様々な思惑を持ってやってくる手合いに内心辟易しつつ、若者の無邪気さで相手を半ば揶揄からかう態度に、灰がかった白絹のローブの両腕を軽く持ち上げ広げてみせる。
  
「私は魔術師です。一度放った言葉をやはりそれは違うと差し戻すことは、神々と精霊の怒りに触れかねない」
「……」
「本当に他意なく元小国王家の公爵である私の功績を称え、ロタールからの人材の礼をと仰り、私を望むというのなら、ロベール王直々の言葉を私の屋敷に届けるよう進言なさっては?」
「……っ、驕りも甚だしい!」

 私を迎えたいならロベール王が来い、それ以外応じないと伝えれば、相手は見る間に激昂した。荒げた声を聞くのを避けるように顔を斜めにそらし傾ければ、勢い任せに立ち上がる。

「お考えは、陛下にお伝えする!」
「どうぞ、ロベール王もそこまでして私を取り立てようと思わないはず」
「若気の至りなどと、甘い目で見られると思わないことだ」
「そう、王宮は甘くない。ですから、ロベール王の名を背負ってこんなところまできた貴殿が、私を口説き落とせなかったと謗られるのもお気の毒です」
「……ぐ」
「多くの方がお忘れのようですが、共和国との争いは数年前に収まりはしても終結しているわけではありません。私は国境の地を守る務めもある。一応、辺境伯でもありますからね。そのように仰ればよろしいでしょう」 
「失礼するっ!」

 勝手に人に擦り寄ってきて、怒って去っていっては世話がない。
 まったく、と。
 会談の場を支度し、我々の中間の席に座り黙って成り行きを見守るに徹していた東部支部の長を顧みる。

「あれはいささか粗末ですな、閣下」
「戦の後で、王宮も人材不足なのでしょう」
「あの男は、閣下に動揺しただけですよ」
「ん?」
「聞きしに勝る美人に微笑まれ、思わずなにか余計なことを言いたくなった。それを言質に取られてはああなる他ない」
「それはぞっとしない話ですね」
「閣下の見てくれに惑わされる者は多いでしょうな。私もそうだった。親を失ったばかりの非力で華奢な哀れを誘う貴族の少年……とんでもない」

 数年前を語る言葉に息を吐いた。

「閣下の禍々しさを私は直に見ているが……それでも精霊もかくやといった美しさで、私の言葉を平然と静かに聞くばかりな閣下に、悪態を吐くこちらが醜怪に思えてくる」
「悪態などと……貴方の怒りはもっともなものです」

 彼は多くの部下を戦ではなく、私の魔術で失っている。
 非難する権利が彼にはある。
 それにこの程度、戦の後、成人するまでいた王都と比べたら、むしろ真っ当な怒りを向けられるだけ気が安らぐ。

「早々に戦を終わらせる閣下の考えは理解できる。私個人は到底許せるものではない。それに閣下が先程仰った通り、我々は王国の騎士団であることをお忘れなく」
「バラン、ひいてはロタールが危うくなって困るのは王国や王家の側。その点で信頼しています。それはそうと今日の護衛は随分と若い」

 斜め後ろに控えて立っている者を振り仰ぐ。
 体格はいいが、私と同じか下だろう。
 普通はこんな、見習いから昇格したばかりのような者が要人警護にはつかない。
 さっと階級章へ目をやって確認すれば、本当に下っ端もいいところだった。

「閣下もまだ十八でしょう。そいつはムルトといって軍部から追い出されてきた者です。護衛は不要と豪語する閣下の体裁によろしいかと」

 黒髪黒目の強面に濃い髭面の支部長は、王都出ながらあちらとは気が合わないらしい。
 彼とは、私が十二で家督を継ぐことが認められ、共和国との争いに出た時からの付き合いだった。私と違い、騎士団を統括する軍部や王家と関わりが深く、協力的であったと聞く父と親交もあった男だった。
 王国の兵の多くも巻き添えに魔術で狂わせた私に対し苦々しく思いながらも、父との付き合いの義理もあり、こうして務めは務めとして付き合ってくれている。
 他の、同じ戦場にいた者達はこうはいかない。

「軍部?」
「どんな粗相をやらかしたのだか。軍部では事務周りでした。魔術が多少使え、十五ですが体格はそれらしいため護衛役に当てたまでです」
「まさしく体裁。魔術はなにを?」

 魔術と聞いて興味を引かれ、焦茶色の髪と目をした、たしかに十五とは思えない体格と顔つきをした少年に話しかけた。
 紹介された名に家名がつかないとなれば平民。平民で魔術が出来ると、王国の組織内で正式に認められている者は珍しい。
 軍部の事務周りというのも珍しいが、平民からの登用枠もあるにはある。魔術が出来るなら技官としても使えるから有利だろう。教育不足で粗相をして、まだ完全には落ち着いていない国境警備の後方支援に飛ばされたなら話としてはあり得るし、筋は通っている。

「魔術院で一通り」
「それはまた。汎用魔術でもものにしたなら大したもの……」
「閣下」

 人の言葉を遮るようにした支部長に目を向ければ、貴方の魔術的興味に団員を巻き込むなと釘を刺された。
 彼の警戒は当然だ。私は敵味方問わず、生身を業火に焼かれる現実とほぼ変わらぬ幻を魔術で見せて、何百といった者達を狂わせて壊し、再起不能や死に至らしめた魔術師。
 あの王都の役人とやらはわかっていない様子だったが、先の戦の功労者とは、一部では忌まわしい意味と怨嗟を込めた蔑称に等しい。
 
「私に当てる護衛がないというのは、例の対処で? 正規の兵ではない報告でしたが」
「左様です。野営を敷いているのは略奪か資源狙いのならず者の類でしょうが場所が悪い」
「竜の棲む森……」
「閣下の手はわずらわせません。あのような惨状ことは二度と御免ですので」

 私は人同士が戦う場には出入り禁止らしい。
 支部長の言葉を区切りに、自分も失礼するといって部屋を出た。
 体裁でも護衛の騎士であるムルトは廊下を歩く私の後をついてくる。
 
「君は……」
「統括組織まで送り届けるよう命令です。支部長のあの言い方は少々……」
「それだけのことをしました。軍部にいたのなら聞いているのでは?」
「しかし」
「王宮の者達よりずっと真っ当な人です。東部は危険任務が多い。配属さればかりで私の護衛役をあてがったのでしょうが、訳ありであっても君を悪いようにはしないはずです」

 王宮では、大領地ロタールの若き領主、共和国との戦で功績を挙げた魔術師というだけで様々な者がいた。
 取り込もうとする者、命を狙う者、失脚を企てる者、恐れ、羨望、嫉妬、憧憬……様々な思惑を持つ者が押し寄せ、本心と嘘を見極め区別するのも面倒で、確実なこと以外すべて曖昧にやり過ごすようになった。

「容姿については、自分でも火傷跡のひとつでもつけようかと時折考えるくらいです」

 自分の見てくれに対し思い入れを抱く者達も、欲が露骨であるだけに酷いものだった。騙し打ちのような誘いを受けたことも一度や二度ではない。
 王宮での私は十五に満たない子供。
 どちらも上手くやりすごそうにも限界がある。
 魔術がなければかわせなかった。
 特に露骨な欲で身が危ない時は。自衛でも、有力者の妻や娘を傷つけるわけにはいかない。男であれば尚更。醜聞を負うのは年若く王宮で力もないこちらの側だ。
 このようないざこざに、当時王太子であったロベール王が私の公な味方として関われるはずもない。

「火傷跡ひとつで損なわれるものが閣下にあると思えませんが」
「貴族社会では十分です……しかしそうですね。なかなか面白いことを言う」

 ムルトの言う通りだ。
 都合が悪くなれば火傷跡ひとつ、私ならいつでも魔術で消せる。
 そうなればまた元通りだろう。
 なんの意味もない――。

 その後、竜が五体も暴れる事態が発生し、争いの場はただ人が魔物に一方的に嬲られ肉塊と血に塗れた地獄となった。
 それを機に度々生じていた小競り合いもなくなり、国境は長く平穏を保つことになる。

 
*****


 ロタールで過ごす日々は平穏そのもの、淡々とただ過ぎていくといっていい。
 時折、王都からの煩わしいことで騎士団支部や統括組織に出向くことはあるものの、大した頻度ではない。
 領内の各地域の管理は統括組織に任せてあるから、私の領主としての仕事もしれている。
 屋敷で魔術の研究に勤しみ、年中行事には聖職者の真似事をし、祝辞を述べる。
 領内から上がってくる嘆願に応じて、人にとっては害となる魔物や精霊の対処をし、年に一度、国境の護りの魔術を補強する。
 
 使用人がいくらか増え、屋敷が少しばかり賑やかさを増しても変わらない。
 ロベール王が王として力を強め、私自身もそう簡単に付け入られることがない程度に立ち位置を固め、力と知恵をつけた頃には。
 多少王宮と関わったところで、ほとんど煩わされることもなくなっていた。

 昔から、訪れては思索に耽っている場所に立ち。
 老いて死すまでの気が遠くなるほどの日々を、こうして過ごしていくのかと自問自答すれば荒涼とした大地を眺めているような気分になることもある。
 目の前に広がるのは、青々と深い針葉樹林の森と丘陵地であるのに――。
 
「……それ以上なにを望むことがある」

 なにもない。
 いずれ適当な後継者を見つけなければならないだろうが、母や私を翻弄したフォート家の“祝福”を次代に続かせる気もない。
 魔術とていまやフォート家だけのものでもなし、ロタールの領民に影響さえなければいい。 
 このまま静かに終わらせるのが最善で、自分の務めでもあると考えていたはずだった。あの日、王宮の廊下で、彼女に目を留めるまで――。

 ロベール王の要請でただ会議の場に出ただけであったというのに、すぐ王宮内の自室に戻らず、これと用もない廊下を歩いたのはただの気紛れだった。
 廊下の隅を飾る花瓶に零れんばかりに蔓バラが生けられていたのが目を引いて、庭園を見下ろせるテラスに立ち寄る気になっただけ。
 それだけだった。

 歩いていた目の端でなにか複数の男女が揉めているような様子を捉えてはいたが、そんなことは王宮では珍しいことでもない。気に留めるまでのことでもない。
 
 鮮やかな黄色のドレスが令嬢の歩みではない速度で自分の目の前を横切り、すれ違いざまにその袖が軽く私に触れることがなければ、そのまま素通りしたに違いない。

「――あ、ごめんなさい」
「気になさらず、問題ありません」
「本当に、失礼いたしました」

 急いでいるためかろくにこちらを見ず、しかし模範的な淑女の礼を、通常かける時間の半分くらいの早さで済ませて去った。
 素行の悪さが噂になっていた内務大臣の子息を、廊下の突き当たりに追い詰めて諌めるといった。私からすれば、勇敢ながら下手すれば自滅しかねない。
 そんな令嬢の行動が少しばかり気にかかり、そっと距離を置いて様子を見ていたが、私のことなどまったく気が付きもせずにどこかへ行ってしまった。
 
 まるで不意に目の前をひらりと横切って去り、またひらりとこちらに戻ってきて通り過ぎていく、蝶を見たような。
 そんなものであったが、黄色いドレスの色、結い上げた栗色の髪、なにより陽を受けて輝く新緑の葉のような緑色の瞳がやけに目に焼きついた。

 近づいても、警戒しか見せず。
 私や、私に付随するものに、爪の先ほどの興味も持たないくせに。
 まるで魔術師のように慎重に言葉を選び、私を真っ直ぐに見つめて、私に応える。
 捕まえたいと思うのに、そう時間はかからなかった。

 フォート家の“祝福”は一人を選ばせる。
 私にとっては呪いに等しいそれを一生遠ざけるつもりでいたはずなのに。
 選んでしまったのだと思った。
 

******


 気がついたら眠っている彼女の胴体に半ば被さるように寝台に突っ伏していた。
 カチッと手元でなにかぶつかったのに頭を持ち上げれば、彼女の左手と自分の左手が重なり、指に嵌めている金の輪が接している。

「っ……私まで、眠ってどうする」

 彼女が眠る寝台の周囲に視線を巡らす。
 特に変わりない、室内に施した守りも生きている。

「夜も更けたか」

 流石に十日を過ぎると、魔力を消費し続ける疲労も堪えるものになりつつあった。
 部屋には夕方のまだ明るいうちに入ったはずで、いまはすっかり暮れている。
 深夜の静けさと暗さで、随分と眠ってしまったらしい
 室内を満たす回復魔術はともかく、負荷の高い守りは固定させることもできなくはない。
 しかし、側についていない時にマリーベルが目を覚ましたことを考えると、やはり自分と切り離さず繋げておきたいと思える。
 
「マリーベル……」 
 
 フォート家の“祝福”に巻き込まないつもりでいたが、いまとなっては思い上がりも甚だしい。
 選んで望んでしまった時点で巻き込んでいる。
 私と出会っていなければ、彼女の母親が願ったまま。
 あえて期限を明確に定めずに施されていたものは、解けることはなかった。

 ――まったく其方は愛し子に僥倖だった。人の綴じ糸に干渉できる“人の子の王”にして、全てを含む我らの力で揺さぶれる“ヴァンサンの子”。

 私が見せられたマリーベルの夢が、すべて本当なら。
 地の精霊は、とても四大精霊が人間に持つと思えない執着を、彼女と彼女の母親に見せている。

「あれは、本当に……」

 あの日、私が王宮のあの廊下にいたのは。
 本当にただの私の気紛れだったのだろうか?
 
 いくら精霊でも人の心にまで干渉はできない。
 だから彼らの力を利用する魔術も同じく……人を操れるのはあくまで契約の縛りのみ。
 本人の意思とは関係ない。
 
 だが、きっかけは?
 選ばせるという、“祝福”は?

 こうして眠っている彼女を側で眺めながら、何度も繰り返し考えてしまう。
 もしも私が、フォート家の血が、精霊に利用されたのならこの先もないとは限らない。
 離れた方がいい。
 だが、ただ離れるわけにはいかない。
 
 王家が直接管理したがるような力。それも過去にない四大精霊である地の精霊の“加護などと……どれほどの思惑が彼女に群がろうとするか、かつて自分の身に降りかかったことを思うと考えるのもおぞましい。
 なんの保証ないまま結婚が白紙になれば、どのような思惑でどんな相手をあてがわれるかもわからない。
 ロベール王自身の事は信じられても、国王としてのこの先どうするかまでは信用できない。
 出来る限り完全に彼女が守られ、私もその監視に当たれる立場の確約が必要で、それは取り付けた。

 寝台に少し乱れている彼女の髪を、指を梳き入れて直し、その一筋を指にかけて口付ける。
 時折、苦しそうにするが成す術がない。
 いまは穏やかな様子で眠っていることに、少しばかりほっとする。

 ――夫人が目を覚ましてから、白紙にするための手続きの審議に入る。
 
「いっそこのまま……」

 眠り続けている限り、精霊側も人の側もマリーベルに対してその扱いは保留になる。
 彼女をロタールの屋敷に連れ帰り、ずっと……。
 
 ロベール王の告げた言葉が脳裏に過って、思い浮かべてしまったことを言葉にしかけて思い留まる。
 そんな馬鹿げたこと、あっていいはずがない。
 彼女も私も、そんなことは望まない――。

「マリーベル……」

 横たわっている細い身体を抱きしめずにはいられないが、腕を回すことはできない。
 重みをかけないよう、軽く覆い被さるようにして頬に触れるだけ。
 
「……ル、イ……?」

 ほとんど吐息のような、しかしたしかに聞こえた声に腕を寝台について彼女を見下ろした。
 眠ってはいる。
 ただわずかに睫毛がふるえるのが見えた。
 目を覚ます兆候なのか判断がつかず、呆けたようにただ彼女眺める。

「……行か……ないで……」

 思わず息を飲んで、彼女の顔を凝視した。
 やはり吐息のような……しかしたしかに聞こえた言葉に、自分の表情が歪むのがわかった。
 それは叶えられない。
 もう間も無くその目は開くに違いない。
 それまで。

「どこへも行きません、貴女がその目を開くまで……」

 ここでこうして見守ると決めて、彼女の頬に再び触れる。
  
「マリーベル」
 
 私が側にいては彼女は守れない。
 しかしなにか糸口を掴んだところで。
 関わった者の人生を幾度となく狂わせ、彼女もまた私の為にそうなっているというのに。
 何事もなかったように近づくことは正しいことなのか――。
 二度目の求婚の約束は、果たしたくても果たせないものなのかもしれない。
 
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