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第三部 王都の社交

80.魔術師と亡霊

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 いまは、夏。
 太陽は燦々と輝き、その光に木々に茂る葉や草花はその色も鮮やかに、日は長く、日陰の中や宵も過ぎて水辺や公園にでも出れば涼しい風も感じるけれど、照りつける陽の光の熱は夜にもその余韻をいくらか残す。
 もう日も暮れて、閉門の鐘も聞こえてから随分経ったはいるとはいえ。
 赤と金でまとめられた、公爵邸としての威厳は示しつつもどこか温かみのある寛いだ雰囲気なはずの客人用居間シッティングルームが、こんなにも冷え冷えとした空気なのは、何故なのか――。

「申し開きがあるなら聞きます」
 
 淡黄色の壁、やや小ぶりな水晶のシャンデリアが三つぶら下がる金彩を施した漆喰細工の天井、深紅に鬱金で花紋様を織り出した絨毯にカーテン、赤い絹が張られ脚に金彩が施された一人掛けや長椅子のソファが深い飴色の艶を放つテーブルと共にそこかしこに並べられている部屋。
 その中央付近。
 壁にかけられた、それはそれは見事なタペストリーを背にして肘掛付の一人掛けソファに足を組んで座る、濃紺に銀の縁取り刺繍も美しい絹のローブ姿の貴人が微笑むようにその青灰色の瞳の目を細め、わたしの脳裏にいつだったかフェリシアンから聞いた言葉が甦る。

 ―― 一言で表わすならば、怪物。空想上の珍獣、それこそ魔王といって過言ではありません。

 魔王……。
 その銀髪の色は、まるで紺碧の冬の夜空に浮かぶ鋭い刃のような月の如く。
 青灰色の眼差しは氷のように冷ややかで、その視線を向けられたものを凍てつかせるが如く。

「ヴェルレーヌ」
  
 そのしっとりと低く通る声音が、いつもとは違う慄えに体の底から背筋をぞくりとさせる。
 怖い。
 怖い、怖い、怖すぎる――。

 天井からの灯りはなく、サイドテーブルに置かれたランプの揺れる光のみに照らされている、その凶器の美貌が薄ら笑みを浮かべる様は、まさに王国の脅威。
 魔術の頂点に立つ、偉大にして冷徹美麗な魔王そのもの。
 そして。
 夕食を終えて、ロタール領の屋敷から邸宅にルイに呼ばれてやってきた、ヴェルレーヌ。
 薄明かりの室内に真っ直ぐ立ってルイと対峙している、フォート家の夜番小間使いにしてわたしの教育係である彼女も負けてはいない。

 夜向けの藍鼠色の地味なお仕着せドレスは、元男爵令嬢の気品も美しさも損なうどころか、日の光に火傷してしまう体質で透き通るような色白の肌をした、儚げなその容貌をむしろ引き立てていて、こちらは女神ぽさがある。

「なにをお怒りかわかりませんが、公爵様のそのご様子を見るのは久しぶりですわね」

 このルイを前にして平然とした様子で、合わせた両手を左頬の下に傾け、同じ角度で首も傾げて、空色の目をぱちくりさせながらおっとりと答える。
 まったく怯む色が見えないのが凄い。
 それに、久しぶりって前にもあるの!?

「ええ、何度か」
「えっ!?」
「心の声が漏れております、マリーベル様」
「あ……」
「冷静そうに見えて、公爵様は激情家でいらっしゃるようですから。ところで、マリーベル様はどうして公爵様の背後に、まるで侍女のように立って控えていらっしゃるのですか?」

 はーっ、と堪えかねたように嘆息する声が聞こえて、ルイが首を後ろに回してわたしを仰ぎ見た。

「そういえば……どうして立っているのですか?」
「いえ、なんとなく。呼ばれたもののお邪魔してはいけないかしらと」

 あなたの魔王様なご様子に、つい元平民元侍女魂を刺激されたといいますか。
 あ、これはお怒りが過ぎるまでは、静かに後ろに控えておくものだわ……といった。
 
「私が身柄を引き受けているとはいえ、彼女は貴女付きです。彼女に対する権限の半分は女主人の貴女にある」

 掛けてくださいと、ルイの彼の斜め左の一人掛けを勧められて、正直、たとえ脇の位置でも彼とヴェルレーヌの間に座るのは嫌なのだけどと思いながら腰掛けた。
 わたしが座ると、これで落ち着いてお話ができますとヴェルレーヌは微笑んだ。
 彼女がわたしに教えた、なにを考えているのかわからない完璧な淑女の微笑み。

「マリーベル様を立たせたままお話をするなんて出来ませんもの。これでも立場は弁えているつもりですの」
「貴女の弁えているの定義は、私の定義と随分違うもののように思えますが?」
「そう仰いましても」

 さらに頭を傾け、左手を左頬に当てて右手で左肘を支え、困りましたねと言わんばかりの様子を見せるヴェルレーヌに、さらにルイの目が細まりその眉間に縦皺が刻まれる。

「未婚女性を客分扱いで住まわせるわけにもですから、使用人として扱わざるをえませんが、それでも貴女には出来る限りの配慮と尊重はしてきたつもりです」
「ええ。過分な親切に感謝しております。雇用条件も申し分ありませんし、世間的に死んだことになっている非力な女の身の上など如何様にもできるでしょうに、慰みに使うわけでもなく、僅かに残った財産を取り上げるわけでもなく」

 あまりに明け透けなヴェルレーヌの言葉に思わずむせてしまう。
 そんなわたしを見てから、ルイはヴェルレーヌへ再び視線を移して更に眉間の縦皺を深くした。

「……申し訳ありませんが。貴女自身にも財産にも露ほども興味がありません」
「お持ちになられても困ります」

 そりゃそうだ。
 悪徳を否定しても好色は否定しない人であるルイが、そんな品性下劣で卑怯な下衆ゲス公爵でなくて心からよかったと思うけれど。
 たしかに。
 ヴェルレーヌような容姿の、死んだことになって表に出せない令嬢を引き受けるなんて状況となったら狼藉を働く誘惑に駆られる男性がいても不思議じゃない。

 きれいに編み込まれた金髪のわずかな後毛が白い首筋にこぼれ、薄明かりにきらきらと光るのも、曖昧な笑みを浮かべる様も、淑やかな令嬢といった風情でありながらも妙に色っぽい。
 彼女とわたしは同い年だけれど、正直、二十を迎えて結婚もしているのに、人からいまひとつ大人の既婚女性ではなくお嬢さん扱いされがちな、自分の子供っぽさとの違いはなにかしらと思ってしまう。

「ここに呼び出された用がわからない貴女ではないでしょう。そのように話を混ぜっ返すのは控えてほしいですね」
「さあ、どうして呼び出されたのでしょう。約束を守ることは信用の基本ですわ。自分からそうすると言ったことならなおさら。貴族の少ない日を選び、わたくしだとわからない装いで出かける。王都での自由な観劇をお許しいただいて、わたくし公爵様とのお約束を破った覚えもありませんし……」

 ヴェルレーヌ……と肘掛けに両肘ついて、ルイが両こめかみを指で押さえたのも無理はない。
 わたしとしては、ルイに心底同情したのは初めてかもしれない。

 ルイが怒るのも無理はない。
 軍部にも目を付けられ討伐要請まで通っていたところ、王家に根回して生きているヴェルレーヌを死んだように工作するなんて並大抵のことじゃなかったはずだもの。
 そもそも魔術師は嘘が吐けないのに、彼女を引き受けてもいる。
 ちょっとでも綻びが出れば誤魔化すことはかなり難しく、ばれれば王家も巻き込む醜聞になるのは確実だ。それらすべて飲み込んだ上で、出来る限り彼女の好きにもさせている。

 それなのに、よりにもよって、この王都のど真ん中な王立劇場の五番個室の亡霊の噂話。
 しかも、おそらく劇場から戻った時にこの近辺で姿を消すのも目撃されている。
 おまけにいまの言葉……確信犯であることは明白だ。
 王都中の貴族の大半が他の場所に集まる日ということは、当然、ルイや私もそちらへ出向いている。
 だからヴェルレーヌがどのような装いで、どうしているか知らなかった。
 たしかに監督不行届な面もあるけれど、彼女ならまずいことはしないだろうといった信用もあってのことだった。

「ご心配なら監視でもお付けになります?」
「何故そのような労力を貴女一人にかけなければならない」

 若干、ルイの口調が厳しくなっている。

「“ギー・シャルトルの店”を閉めたっていいんですよ」
「それは困ります。わたくしのいまの身分の代わりを取り上げないでくださいまし」
「ギー・シャルトルの店? 身分の代わり……?」

 ヴェルレーヌを少しばかり早口にさせたルイの言葉にわたしが疑問を呈すれば、ああまだ説明していませんでしたねとルイが言った。

「わたくしの私的な財産の管理やお買い物など、そちらを通してできるようにしておりますの」

 表向き閉店しているように見えてなにかしらの取引はしているお店なら、ただそのための手続きを揃えるだけ。手続きの代理人など立てようと思えばいくらでも立てられるとのことだった。

「もちろんフェリシアンさんの監督の下ですから、わたくし一人で好き勝手にはできませんけれど」
「フェリシアンには便宜を図るよう言ってあります。不自由はないはずです。貴女の私的な部分ですから私もそこにことさら介入する気もありません」
「ええ、本当にありがたいことです」

 だから“ギー・シャルトルの店”を取り上げられるのは、手足をもぎ取られるも同じとヴェルレーヌはわたしに微笑んだ。

「わたくし、公爵様がお店を取り上げようと考えるほど困らせることをした覚えもなければ、その気もありませんわ」
「王立劇場五番個室の亡霊。十分それに該当することだと思いますが?」
「ようやく王都で活動できる機会が巡ってきたのですもの、みすみす逃すつもりもございません。それにわたくしは亡霊なのですから、亡霊がそこにいると噂がたったところで真実その通りでございましょう? たとえ誰かが哀れなる男爵家の娘と言い出したところで、その亡霊だと面白おかしく噂が盛り上がるだけです。こそこそ隠れるようにする方がなにか後ろ暗く生きている・・・・・みたいに見えます」
「……成程」

 ルイは一度姿勢を直して背もたれに深く身を預けるように座り直すと、肘掛けに肘をついている右腕の先を口元へと運んだ。彼がなにか考える時の仕草だ。

「“売られた喧嘩は、買い叩いて売り飛ばす”」
「ん?」
「家訓ですの」

 わたしもルイも虚を突かれて、ほぼ同時に彼女の顔を見る。
 ヴェルレーヌは曖昧な笑みを深めた。

「お金の力で爵位を得たと侮られるのは構いません。大人しく付き合う気もなかったでけど、真実その通りですもの」

 そういえば、礼儀作法や所作や身の処し方について教えてもらっていた時に、無用の面倒を避けるために仕方なく学んで身につけたのだとヴェルレーヌはわたしに話した。
 無意識でもそれが出来るようになれば必ず役に立つはずだから、とにかく頭より体に覚えさせる必要がある、そのためには日々実践と反復あるのみだと。

「共和国との戦争中、わたくしのお爺様は当時の財産をほぼ丸ごと国に投げ出して、馬鹿者だなどと言われたそうですが……」
「え?」
「お金など命があって、自由な活動が許されて、平穏の世なら如何様にでも増やせますもの。お爺様はそれを維持するものとして王家に投資したのです。貴族の特権と王家の信用までおまけでついてきて、戦後にあっという間に財産は元の倍に。お爺様は高笑いしたそうです」

 豪商の家長ともなると、考えることもやることもどうかしている。
 質素堅実に蓄財に励み備えることを是としてきたユニ家で育ったわたしには、いくら国に勝ってもらうのためとはいえ、戦時に全財産を投げ出すなんて聞いているだけでもくらくら目眩がするような話だ。
  
「王家の信用とは、北東の境を含む元男爵領のことですね」
「その通りです。どこかの家が放置して、お隣だった公爵様がついでで守っていた地です」
「別にそのつもりはなかったのですが、しがらみもあって仕方なく。そう攻められる場所ではないものの王都がある北部に隣接している。結局無駄骨でしたが」

 何故だかルイは、ヴェルレーヌに対する怒りも呆れもすっかり収めて、急にロタール領の隣の小領地であったリモンヌ家の領地だった場所へと話の矛先を向けた。
 なんだか脈絡もなく、少なくともわたしには話がまったく見えない。
 けれどもヴェルレーヌは、リモンヌ家の元領地にルイが言及したことでどこか満足したような様子で頬に手を当てていたのを止めて、両腕を下ろした。

「あの時は、保身が第一でした。いくら軍部の面子が立たないといっても小領地の事件です。公爵様が覆せないなんてありますでしょうか。いくらなんでも無茶苦茶です。それに輪をかけて無茶苦茶なわたくしの提案に公爵様は協力してくださり、王家はすんなり通しました」

 公爵様はもっともらしいことを仰いますけれど、嘘は吐けない魔術師の言葉ほど信用ならないものはありませんと言ったヴェルレーヌの言葉には、その通りと頷くしかない。
 どうしてそこで貴女が同調するのですか、とルイに軽く睨まれたけれど当然だ。

「嘘は吐かずとも、肝心な部分は語らないような方は厄介です。言葉巧みにこちらの解釈を誘導される方も」
「ええ、ええ、まったくですっ」
「……マリーベル」

 いまは別の話ですとルイが言って、組んだ膝の上で両手を組む。
 
「正直、やがて訝しむと思っていましたが。まさか五年経って突飛な行動に出るとは思いませんでした」
「半分は純粋に楽しみです。もちろん観劇の。ですが折角の各地から皆さん集まっている時期の王都ですもの。わたくしが王立劇場に入り浸っていたことは知る人は知っています。後ろ暗いことのある方なら思い当たることもあるでしょう」
「何者かの画策で貴女の家が潰されたとお考えなのですね? 考えなしの酔狂でないというのならいいでしょう。戻ってよろしいですよ」
「……公爵様?」

 魔王の如くお怒りだったわりには、あっさりとお咎めなしで解放したルイがかえって不気味に思えたのだろう。ヴェルレーヌが少しばかり不安気に彼を見る。
 わたしもなんとなく違和感を覚えた。

「ことはずっと複雑なのでしょうか?」
「いえ、単純だと思います。何事も取るに足らないような単純なことが多い」

 ルイ……?

 ほとんど無意識にまた口元に指を当ててそういった彼に、なにか物言いたげな表情を見せたヴェルレーヌだったけれどそれ以上尋ねても収穫はないと判断したのだろう。
 失礼いたします、といつ見ても綺麗な礼をして部屋を出ていった。
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