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第三部 王都の社交
76.王妃様との再会
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王宮にお勤めしていた頃、王宮に出入りする上級貴族の夫人といったら失礼がないようとても気を遣う存在だった。
わたしだけじゃない、王宮使用人なら誰だってそうだと思う。
王宮使用人も上位や中位の職位の方なら、基本的には貴族の子女か貴族の家となんらかの繋がりのある人なのが大半なのだけれど、それでもやっぱりそうなのだ。
いやむしろだからこそなのかもしれない。
そしていまのわたしは……まさにその上級貴族の夫人の立場となって久しぶりの王宮に来ている。
いやもうなんと言いますか。
もちろルイと一緒にいることも大いに影響があるとは思う……仮にわたし一人だったなら、いくら公爵夫人とはいえどうかわからない。
公式な挨拶は王宮主催の夜会。今日はどちらかといえば私的な訪問の部類に入る。
昨日、ルイが使いを出し、すぐさま翌日の午後のお茶の時間を指定されての訪問。
こちらから打診したにせよ、これは半ば招かれたに近かった。
当然、事前に通達されている王の客人としての公爵夫妻の訪問とあれば、最上級の礼を持って対応され、王宮の護衛と先導役の方がついてしかるべき場所へと案内する。
廊下ですれ違う人々も同様。このいたたまれなさ。
当時はあまりよく知りもわかってもいなかったとはいえ。
婚約時代、わたし、よく貴族に対する不敬の罪で投獄されずに済んだものだわ……。
王や王家に連なる親族とは異なる、元七小国王家を祖とすることへの敬意と尊重をもっての公爵の地位は重い。
ちらりとわたしをエスコートするルイの横顔を見上げる。
きっと彼がなにか手回ししていたに違いない。
その頃の自分がどう周囲の方々に見えていたのか考えたくない。
ルイが手を回していたなら、彼との結婚は確定ではなく結婚する気はないと冷やかしに答え、それをルイをはじめ周囲から許されていたわたしは……わたしは……。
完全に、素直じゃない態度も年配男性の包容力で愛でられていた、ただの年若い婚約者ですよね……どうりで王宮中の顔見知りな人たちから、妙に生温い見守るような眼差しで見られていたはずだわ。
あの頃もつらかったけど……いまはもう、つらいっていうより痛い……。
「どうしました?」
「……いえ。なんでもありません」
正直、顔を覆ってうわーっと叫びながら、廊下を駆けて世界の果てまで逃げ出したい気分だけれど、公爵夫人として初の王宮訪問でそんな奇行に走るわけにはいかない。
ああもうなんだか……結果としていまはルイが好きで、彼にも甘やかされてもいるし、ええもう、それならそれでいいじゃない。
いまになって突き詰めて考えたら、そうかもしれないその通り。
最初はただもう驚いて、その後はルイの進め方が気に食わなくて半ば意地になっていたものの、婚約解消後にきれいさっぱりルイから離れるまでは正直考えていなかったかも……だもの。
あまりにこの人が当たり前のように、毎日毎日、わたしの側をうろうろしていたものだから――。
「マリーベル、もしや緊張していらっしゃる?」
「そう見えるのなら……そういったことにしておいてください」
「はあ……?」
色々と思い出してしまって恥じ入ってる真っ最中だけど、表面上はヴェルレーヌに叩き込まれた軽く微笑んでいるようにも見える表情を心掛けゆっくり淑やかに歩いていく。
落ち着いて音は立てずとも速やかに風のように動くのよとしていた侍女の頃とは、馬の駈歩と牛の歩みほどの違いがある。
やがて建物内から庭園に続く回廊へ出て案内されたのは、わたしには馴染み深い、王様や王妃様のお部屋のある棟の王族専用の中庭だった。
王様が、王妃様の好きな花々を集めて整え直した庭園とも繋がっていて、庭園から遠巻きに花咲き乱れるその場所を眺めることは出来るけれど、王族の許しがなければ入れない。
お庭の入口で、先導役の方が声を張ってわたし達の到着の旨を知らせ、どうぞこのままお進みくださいとルイに囁き、自分達はこれ以上は進めないと伝えるように護衛と共に礼を取る。
侍女として何度かお伴したことはある場所だけれど、ここに客人を招くようなことはなかった。このお庭は、数少ない王様と王妃様夫妻の憩いの場所の一つだもの。
ルイと庭をさらに進めば、見覚えのある場所にそこで見たことがあるのとは少し規模を大きくしたお茶の席が用意されていて、すでに王様も王妃様もいらしていた。
「来たか」
わたしがドレスのスカートを摘んで身を屈みかけたところで、よい、と王様に止められた。
中途半端な姿勢で黙礼を返せば、どうせまた夜会で挨拶することになるといった言葉が降ってくる。
「大仰な挨拶は一度で十分だ。其方と会うのを心待ちにしていた我が妃の不興も買いたくない。半ば私的な招きだ好きに話せ」
そう仰られても、遠目にとはいえ人の目に映る場ではあるから、すんなりはいわかりましたそうしますなんてことはできない。
そもそも夫のルイがまだ一言も王様や王妃様と言葉を交わしてもいないうちからそれを差し置いて好きに話すわけにもいかない。
もう一度、黙礼して王の厚意を受け、姿勢を直せば何故か苦笑された。
「相変わらず、儀礼には忠実だな」
「儀礼にはなどと、そのような意地の悪いことは私までで止めてもらえませんか。ロベール王……席についても?」
「ああ、構わん」
すべてのお許しが出たのでお言葉に甘えて歓待に寛ぎましょうと、気安い様子で肩を竦めたルイに促され、挨拶にお伺いしたはずがいつの間に王の歓待を受けるご身分になっているのと内心首を捻りつつ、お茶の席につく。
「まあまあ、遠くから本当によく来てくれたこと。それに見違えたわマリーベル」
「お久しぶりでございます、王妃様。恐縮です。それにご配慮も……有り難うございます」
お茶の席には、王様の侍従と王妃様の侍女ではない女官が控えていて、席につく世話やお茶の給仕をしてくれた。
たしかに少し前まで王妃様の側で一緒にお仕えしていた同僚とこの庭で、招かれた公爵夫人の立場として、使う側と使われる側として顔を合わせのはちょっと居心地が悪い。
お二人からの配慮だろうと判断して、お礼の言葉はお二人に向けて伝える。
「目敏いのも変わらずか」
「ご挨拶だけでなく、仲睦まじいご様子を再び間近に拝する機会まで許され、光栄に存じます」
「……幾分、たちが悪くなっておらんか」
「あらあら……ふふふ。私が選んだ侍女であったばかりか、私達の恩人で、ルイとも付き合えるマリーベルにあなたが勝てるはずがないでしょう。ルイの言う通り、大人気のない意地の悪いことはお止めくださいな」
「その、恩人とやらの部分。ぜひ彼女の夫である私にお教えいただきたいですね、王妃」
「あらだめよ、ルイ。国の機密です」
うふふふ、とお美しく笑っている王妃様……お変わりないようでなにより。
いつも優しく微笑んでいらっしゃるけれど、こう見えて結構辛辣でお強い方だったりする。
それでもわたしがお仕えし始めた頃は、なにかとお辛いことや煩わしいことが重なって、傍目に気の毒なほど心痛を抱えていたけれど。
王妃である以上、ちょっとでも不幸そうな様子や弱音なんて表にはけして出せない。
そんな王妃様にご自分の不始末まで含めてご家族のことをなにもかも押し付け、まるで渋々義務だけ果たしにいらしゃるようなご様子の王様があまりに許せなくて、人払いされた寝室なのをいいことに、思わず寝台に入ろうとする王様の前に立ち塞がってしまったのだけれど。
あれも……いま思えばよく首を撥ねられずに済んだわ、わたし。
「なんですか、マリーベル?」
「お、王妃様がお話しにならないことを、わたくしが口にできるはずありませんっ」
「そうよルイ、妻を虐めるものではないわ。ねえ、あなた」
「……勘弁してくれ」
うん、なんだか……申し訳ありません、王様。
でも王の立場で、側室制度も廃止されて久しいこの国で、成人したてのご令嬢の愛人疑惑を事実無根だと噂を放置した上に、“王子を二人しか産んでいないからこんな噂が立つ”なんて王妃様を責める言葉を口にする王太后様を諌めることもせず気にするなの一言で済ませようとしたのは、ないと思うのよ。
それに王女様への結婚の打診については、まだ早かろうで我関せずだったし。
なにその、“お前ならわかってくれているはず、上手くやるのも王妃の務め。公務で大変な夫を煩わせるな”みたいな甘え!
けれど平民侍女にご夫婦の寝室で詰められて怒るどころか、きちんと王妃様と話し合い、改めるべきところは改めたのは、流石に度量の広さを見せつけられた。
一人の王国民としてこの国を統べる王に対する好感度と、王家の使用人としてお仕えする忠誠心はむしろ高まった出来事でもある。
「女の結託は恐ろしいぞ、ルイ」
「……大雑把で面倒を嫌う貴方の性格を考え、なんとなく察せられましたが。私はロベール王と違って言葉を尽くし行動を見せるものとしているのでご心配なく」
言葉を尽くし行動を見せる……魔術師って嘘は吐けないのでは?
隠し事は大いになさる方といった認識でいるのですが?
「まあ、ルイ。あなたが妻にはそうなのなら、私も一安心ですよ」
「あの、王妃様……ルイと一体なにが?」
いつだったかわたしがルイのことを尋ねた時と同じ、目がちっとも笑っていません、王妃様。
わたしがルイへと目を向ければ、昔のことですと彼はぼそりと呟いた。
「この人は滅多なことで怒らないかわり意外と執念深い……まだ、あのことを根に持っているんですか。ちょっと谷底に突き落としたぐらいのことで」
は?
いまなんて言いました?
「大丈夫なのよ、マリーベル。王太子妃と決まった私を守り、敵を欺くために独断で黙ってしたことだけれど、ルイは根は優しい人だもの。谷底といっても川が流れていたし、真冬の川の水で冷えたり溺れたり怪我をすることがないよう魔術もかけてくれていたものね」
なんてことを。
それは理由があっても、肉体的には魔術で大丈夫にしていたとしても酷すぎる。
谷から突き落とされた時点で、精神が死んでしまいかねない!
「……ルイ」
「無事に王都に送り届ける要請を叶えたまでです」
「ルイっ!」
わたしが怒って声を心持ち大きくすれば、まったく私より余程にこやかに人を谷底へ突き落とす方であるくせにと王妃様に嘆息しているルイに、ああもうとにこやかな表情は崩さない王妃様を見ながら額を押さえる。
「あらあら。ここは半ば公の場であなたは公爵夫人なのだからそんなに怒って取り乱してはだめよ、マリーベル」
くすくすとルイとわたしを見比べて笑っている王妃様に、あっ……と自分の失態に気がついて声が漏れた。
「……計画は完璧で、謝罪もしています」
「ええ、あの頃はあなた可愛らしい弟みたいで……魔術をかけていたから平気なはずなんて冷静そうに言いながら、合流地点から王宮までの間で……」
「王妃エレオノール……!」
流石にわたしのように声を上げはしなかったけれど、これ以上となく顔を顰めてカップを持ち上げたまま王妃様の言葉を遮ったルイにびっくりした。
ふふふふと、無邪気に笑いながら本当にムキになった弟を愛でるように、にこにこしている王妃様に流石だわと感服して、わたしは気を取り直してお茶を飲んだ。おいしい。
「あなたに名前を呼ばれるなんて久しぶりよ、ルイ」
「誰が一番意地が悪いんです? マリーベルを試すのにロベール王と私を使うついでに軽く弄るような方は貴女くらいですよ」
ふてくされたような声音で呟いたルイに、儂もお前もエレオノールには勝てん諦めろ、と黒すぐりのパイを手に取って王様は一齧りすると太く通る声を立てて笑った。
「しかし、本当に仲睦まじくやっているようだな。偏屈者のお前が」
「……王と王妃が揃って妻に妙な印象操作をしないでください。それはそうと我が王たるロベール王にご相談が、後日あらためても?」
「気位の高いお前が、そのような物言いをするのはろくなことじゃない」
「貴方がお人好しにも公にされない、例の取り交わしのことです」
「あれか……いいだろう、追って知らせる」
王妃様によるわたしへのご指導とちょっとした意趣返しも過ぎて、和やかなお茶な席の雰囲気にルイが王様にもちかけた話が少しばかり気にかかった。
王様が公にされていない例の取り交わし……ルイが結んだ契約魔術のことに違いない。
相談ってなんだろう。
「今度は私のお茶会にいらっしゃいね、マリーベル。あなたに紹介したい人もいるの」
「はい、王妃様。ありがとうございます」
王様とルイの会話に向けていたわたしの注意を逸らすように掛けられた言葉に王妃様を見れば、大丈夫よと仰るように王妃様はわたしに微笑んだ。
わたしが侍女としてのお仕えしていた時に王妃様が向けてくださっていた、政略や社交のためではない微笑みだった。
その後は、結婚後のわたし達のことやその間の王宮のこと、今晩にわたしがルイと出かける観劇の予定などとりとめなく話し、その日のご挨拶とお茶の席は終わった。
「……フォート公爵夫人」
「ん?」
中庭を出る際、二人いた護衛騎士のうちの一人が掛けた声にわたしより先にルイが反応した。遅れてわたしも振り返れば、何度か会話を交わした覚えのある近衛の人だった。
もう一方の騎士の方は先輩らしい、おいっとたしなめられた彼は慌てて、失礼をと呟くように言って中庭と庭園を繋ぐ通路の境に片膝をついた。
「僭越ながら、ご結婚の祝福を申し上げることをお許しいただければ……」
ああ、そうか。
以前に言葉を交わしたよしみでお祝いの言葉をかけたくても、いまのわたしに以前のような気軽なことはできない。本当に貴族面倒くさいと思うけれど仕方ない。
「許します」
「ありがとうございます。マリー……いえ、結実の季節に出会い強固なる護りの季節に結ばれた公爵夫人におかれましては、大聖堂に集う神々と精霊の加護と祝福に満ちた日々をお送りになられるでしょうことを心よりお喜び申し上げます」
じっと真剣な鳶色の眼差しでそんな大層なお祝いの言葉をいただけるとは思ってもないことで思わず瞬きしてしまった。
近衛なのに向こうもあまりこのような儀礼に慣れていないのか、撫で付けられた明るい茶色の髪から見える耳の端が紅潮している。
彼をたしなめたもう一人の騎士の方は仕方のない奴だといった様子で、わたしとルイに騎士の礼を取る。やはり近衛であっても、他の武官同様に多少無骨な向きがあるのかもしれない。
共に王妃様の近くでお仕えする立場で時折話した程度なのに律儀な人だ、けれどいまなら結婚のお祝いも素直にうれしく受け止められる。
「……ありがとうございます、エルネスト様」
王妃様のお側に近い方々のお名前はたとえ直接お聞きしていなくても確認して覚えている。
わたしは微笑んでお礼を返し、中庭を辞した。
再び中庭まで案内くださった方とまた別の護衛騎士がついて王宮の廊下を歩く。
「貴女も存外罪な方ですね」
「え?」
「まあ弁えているようでしたから、多少は目をつぶります」
あれ、わたしなにか見過ごしてしまった?
突然声を掛けられて、もう一方の方もちょっと慌てた様子ではあったけれど。
「なにかあの方に咎めるべきところが? だとしてもとても心のこもったお祝いの言葉でしたしわたくしは気にしません。知り合いの方にあなたとの結婚を祝福されてうれしかったですよ?」
「そうですね。たしかに貴女への門出の祝福ですね……あれは」
「わたくしのお祝いですもの」
「……報われませんねえ」
そんなことを言いながらぽんぽんと頭を軽く撫でてきて、髪飾りがずれますと文句を言えば、やはり橄欖石でよかったですと彼は笑んだ。
出掛けにマルテと橙色に揺らめく石をあしらったものと髪飾りを迷っていたら、後ろからルイがすっと選び取って髪に挿してくれた。
「夜に映える石ですが、初夏の新緑の如き色に輝く“太陽の石”。今日の場には相応しいでしょう。夫婦愛を示す石でもあることですし、なにより貴女の髪によく合う」
ごほん、と案内役の方が軽く咳払いして羞恥にうなじが軽く熱を帯びたのがわかった。
は、はやく戻って夜の外出支度をしなければとわたしは少しだけ歩みを早めた。
*****
王都の中央広場近く、小さな森もある公園に建つその劇場は、王立劇場としては三番目の建物でまだ新しくどこもかしこも煌びやか。
通称、“俳優達の家”で親しまれている、歌劇専用ではなく様々な新しい形式のお芝居や時に貴族主催の趣向を凝らした夜会の場に貸し切られもする劇場だった。
そのため新し物好きの貴族はもちろん、平民の富裕層からお小遣いを貯めた庶民もやってくるもちろん席や通路や出入口の区別はあるものの、双方紛れ込むのは可能だ。
いつ訪れても、華やかさと他の劇場にはない開放感のような独特の高揚感と熱気に満ちた劇場に眉を顰める方もいるけれど、舞台だけでなく、王宮や街中とは一風異なった人々の行き交う様子が眺められるのも楽しい。
「まあ貴女は心配するような人ではなく、多少なにか盗られて困るわけでもないですが気をつけてはください。酒に酔ったり雰囲気に気が高ぶって無礼を働く者もいないわけではない」
オドレイが馬を操る劇場に向かう馬車の中でルイから注意されて、大丈夫と頷く。
王立劇場といえど、そんなに上品一色な場ではない。むしろ王宮のように儀礼に縛られた場所ではないといった認識で貴族の方々も多少羽目を外して楽しんでも構わない場所でもある。
区別はあるものの平民も入れる場所だから、物盗りやスリもいる。
舞台に気を取られる分、被害にもあいやすいのだ。
「テレーズの話では、何度も足を運ぶ上級中級貴族のご夫人やご令嬢が多くて、安い席もお付きの侍女で埋まっているとか……」
「侍女?」
「語り合うためだそうですよ。この“恋には恋を”といった演目の舞台、元になっている流行小説の最初の巻の物語を朗唱と歌唱にまとめたそうで本当にとても盛況みたい」
「昨日の今日で、まるでもう見てきたような話をしますね」
「テレーズが教えてくれて、ほら彼女の亡くなったご主人は商会勤めで一緒に店を持つつもりだったでしょう? だから彼女も流行りのものはどうしても気になるみたい。元になった本もいま読んでいるのですって」
「……貴女もいつになく高揚して見えるのですが?」
ルイの問いかけに、だってとわたしは答えた。
舞台の内容やその元になった本については、あまりよくわかっていないけれど。
「主演女優がアンリエッタ・デュ・ベジャールですよ! 王都一可憐な女優! はあ……“エレーヌ姫”って舞台で一度見たことがあって、本当に可憐なお姫様って姿が素敵で、声も真珠でも零れそうな声で……」
「成程、貴女のご贔屓ですか。それはお誘いした甲斐があって結構」
冷めた反応を返されて、ちょっとだけむっとしてしまう。
ルイだって、見たら絶対気に入るんだからとぼやいたら、馬車の壁に肘をかけて頬杖をつきながら、おや気に入ってよろしいんですかなどと言う。
「色好みの貴族と女優なんて、よくある組み合わせですよ?」
「……そういうことではありません。あとわたしの“エレーヌ姫”を汚さないでくださいっ」
「心配しなくても、舞台よりもいつになく艶やかに装った可憐な妻を眺めていたいくらいの気分ですので。個室の一等席ですからね」
「……っ!?」
そ、そういえば……お貴族様専用なバルコニーの個室席って薄暗い劇場の中でちょっと親密が過ぎるのではって影が目に入る時がある。
「不埒なことは考えないで……」
「まさか、善いことしか考えていません。むしろ――不埒なこととはなにか教えて欲しいですね、マリーベル?」
向かい合わせの鼻先に、密やかに低めた声で囁かれて頬に血が上る。
ただでさえ頬紅を一刷けだけ薄く入れているのに……と思う内に口を塞がれ、月のように光る石の雫を連ねた耳飾りを揺らした指に、首筋から露出する肩を撫でられて思わず吐息が漏れる。
「……口紅が、落ちてしまいます」
「直す分はお持ちでしょう?」
小さな音を立ててもう一度軽く口付けられ、続きは後ほどと意地の悪い微笑みをルイはわたしに向けた。
彼の瞳の色に似た夜向けの上着の絹の艶とわたしの耳飾りの石のように淡い光を帯びる銀色の髪にほのかに照らされた白く整った顔が妖しいまでに艶めかしい。
平然とした顔して、わたしの色が薄く移ったご自分の唇を親指で軽くなぞっているのが妙に物馴れた仕草なことについては、あまり深く考えないことにしようと決めたところで劇場に到着した。
人々のざわめきと目が眩むような衣装の色彩が行き交う中をルイにエスコートされ、劇場使用人の案内で侍女だった頃には縁がなかった席へと向かう。
劇場に入った瞬間、明らかにルイに向けられた無数の視線とどよめきは容易に予想出来ることだったから、むしろ自分でも驚くほど落ち着いていた。
白大理石を磨いた広い階段の途中ですれ違う貴族のご夫人やその夫である殿方に見覚えのある顔も何人か。時折、旦那様や奥様とは違う方が隣にいるのは見なかったことにする。
「流石というべきか、想像していたよりはるかに落ちついたものですね。貴女」
「こういうのはなにを見聞きしても平常心が身を守ることかと」
「違いないですね。ここでこれほど落ち着いていられるならまず夜会は大丈夫でしょう」
「もしかして……予行練習?」
「いえ、妻を見せびらかしにきただけです」
見せびらかすほど大層なものでは……と呆れながら個室の一等席に落ち着いた。
舞台がよく見えるほぼ正面。本来は六人入れるようで四つの椅子が左右の壁に寄せられ、広々としたところに軽食と砂糖菓子、ワインと果実水、そしておそらくは舞台の説明書きが用意されたテーブルとわたしとルイの椅子がある。
『ジャンヌ、なにをしているの始まってしまいますよ』
『はい、奥様』
ゆったりとした口調のそんな声が柱の向こうから聞こえて、バルコニーに少し身を預ければ一室置いて貴賓席の位置だった。先程の声はそこからのようだ。
たまたまお隣の年配のご夫人もわたしと同じようにしていたため、幾本も蝋燭を立てる無数の燭台が照らす薄明かりの中でふと目が合った気がし、淑女の礼を取る。
きちんと見えているか怪しいものだけれど貴賓席のすぐ隣だなんて上級貴族の夫人以外にあり得ないのでお行儀よくしておくに越したことはない。
「そういえば、オドレイは?」
「彼女はこういった場には向かないため、一度戻って頃合いに迎えに来るよう言ってあります」
「え、帰しちゃったの? 物盗りやスリもいるのに?」
「私や貴女に害をなすと見れば、判断より先に体が動いてしまう。本当はシモンがいいのでしょうが繁華な場所で面倒が起きてもいけない。ここは王都ですから」
シモンはまだフォート家預かりの罪人だ。面倒が起きた時に東部ならまだなんとかなるけれど王都ではそうはいかないということね。
それにしても、オドレイはそれでいいのかしら。
「人外でなければ宮廷魔術師団でも引き連れて襲ってこない限り、私でもなんとかなりますよ」
「そう……」
そんなことを話しながら席につけば、楽団の弦の音が聞こえ始めて舞台が始まった。
わたしだけじゃない、王宮使用人なら誰だってそうだと思う。
王宮使用人も上位や中位の職位の方なら、基本的には貴族の子女か貴族の家となんらかの繋がりのある人なのが大半なのだけれど、それでもやっぱりそうなのだ。
いやむしろだからこそなのかもしれない。
そしていまのわたしは……まさにその上級貴族の夫人の立場となって久しぶりの王宮に来ている。
いやもうなんと言いますか。
もちろルイと一緒にいることも大いに影響があるとは思う……仮にわたし一人だったなら、いくら公爵夫人とはいえどうかわからない。
公式な挨拶は王宮主催の夜会。今日はどちらかといえば私的な訪問の部類に入る。
昨日、ルイが使いを出し、すぐさま翌日の午後のお茶の時間を指定されての訪問。
こちらから打診したにせよ、これは半ば招かれたに近かった。
当然、事前に通達されている王の客人としての公爵夫妻の訪問とあれば、最上級の礼を持って対応され、王宮の護衛と先導役の方がついてしかるべき場所へと案内する。
廊下ですれ違う人々も同様。このいたたまれなさ。
当時はあまりよく知りもわかってもいなかったとはいえ。
婚約時代、わたし、よく貴族に対する不敬の罪で投獄されずに済んだものだわ……。
王や王家に連なる親族とは異なる、元七小国王家を祖とすることへの敬意と尊重をもっての公爵の地位は重い。
ちらりとわたしをエスコートするルイの横顔を見上げる。
きっと彼がなにか手回ししていたに違いない。
その頃の自分がどう周囲の方々に見えていたのか考えたくない。
ルイが手を回していたなら、彼との結婚は確定ではなく結婚する気はないと冷やかしに答え、それをルイをはじめ周囲から許されていたわたしは……わたしは……。
完全に、素直じゃない態度も年配男性の包容力で愛でられていた、ただの年若い婚約者ですよね……どうりで王宮中の顔見知りな人たちから、妙に生温い見守るような眼差しで見られていたはずだわ。
あの頃もつらかったけど……いまはもう、つらいっていうより痛い……。
「どうしました?」
「……いえ。なんでもありません」
正直、顔を覆ってうわーっと叫びながら、廊下を駆けて世界の果てまで逃げ出したい気分だけれど、公爵夫人として初の王宮訪問でそんな奇行に走るわけにはいかない。
ああもうなんだか……結果としていまはルイが好きで、彼にも甘やかされてもいるし、ええもう、それならそれでいいじゃない。
いまになって突き詰めて考えたら、そうかもしれないその通り。
最初はただもう驚いて、その後はルイの進め方が気に食わなくて半ば意地になっていたものの、婚約解消後にきれいさっぱりルイから離れるまでは正直考えていなかったかも……だもの。
あまりにこの人が当たり前のように、毎日毎日、わたしの側をうろうろしていたものだから――。
「マリーベル、もしや緊張していらっしゃる?」
「そう見えるのなら……そういったことにしておいてください」
「はあ……?」
色々と思い出してしまって恥じ入ってる真っ最中だけど、表面上はヴェルレーヌに叩き込まれた軽く微笑んでいるようにも見える表情を心掛けゆっくり淑やかに歩いていく。
落ち着いて音は立てずとも速やかに風のように動くのよとしていた侍女の頃とは、馬の駈歩と牛の歩みほどの違いがある。
やがて建物内から庭園に続く回廊へ出て案内されたのは、わたしには馴染み深い、王様や王妃様のお部屋のある棟の王族専用の中庭だった。
王様が、王妃様の好きな花々を集めて整え直した庭園とも繋がっていて、庭園から遠巻きに花咲き乱れるその場所を眺めることは出来るけれど、王族の許しがなければ入れない。
お庭の入口で、先導役の方が声を張ってわたし達の到着の旨を知らせ、どうぞこのままお進みくださいとルイに囁き、自分達はこれ以上は進めないと伝えるように護衛と共に礼を取る。
侍女として何度かお伴したことはある場所だけれど、ここに客人を招くようなことはなかった。このお庭は、数少ない王様と王妃様夫妻の憩いの場所の一つだもの。
ルイと庭をさらに進めば、見覚えのある場所にそこで見たことがあるのとは少し規模を大きくしたお茶の席が用意されていて、すでに王様も王妃様もいらしていた。
「来たか」
わたしがドレスのスカートを摘んで身を屈みかけたところで、よい、と王様に止められた。
中途半端な姿勢で黙礼を返せば、どうせまた夜会で挨拶することになるといった言葉が降ってくる。
「大仰な挨拶は一度で十分だ。其方と会うのを心待ちにしていた我が妃の不興も買いたくない。半ば私的な招きだ好きに話せ」
そう仰られても、遠目にとはいえ人の目に映る場ではあるから、すんなりはいわかりましたそうしますなんてことはできない。
そもそも夫のルイがまだ一言も王様や王妃様と言葉を交わしてもいないうちからそれを差し置いて好きに話すわけにもいかない。
もう一度、黙礼して王の厚意を受け、姿勢を直せば何故か苦笑された。
「相変わらず、儀礼には忠実だな」
「儀礼にはなどと、そのような意地の悪いことは私までで止めてもらえませんか。ロベール王……席についても?」
「ああ、構わん」
すべてのお許しが出たのでお言葉に甘えて歓待に寛ぎましょうと、気安い様子で肩を竦めたルイに促され、挨拶にお伺いしたはずがいつの間に王の歓待を受けるご身分になっているのと内心首を捻りつつ、お茶の席につく。
「まあまあ、遠くから本当によく来てくれたこと。それに見違えたわマリーベル」
「お久しぶりでございます、王妃様。恐縮です。それにご配慮も……有り難うございます」
お茶の席には、王様の侍従と王妃様の侍女ではない女官が控えていて、席につく世話やお茶の給仕をしてくれた。
たしかに少し前まで王妃様の側で一緒にお仕えしていた同僚とこの庭で、招かれた公爵夫人の立場として、使う側と使われる側として顔を合わせのはちょっと居心地が悪い。
お二人からの配慮だろうと判断して、お礼の言葉はお二人に向けて伝える。
「目敏いのも変わらずか」
「ご挨拶だけでなく、仲睦まじいご様子を再び間近に拝する機会まで許され、光栄に存じます」
「……幾分、たちが悪くなっておらんか」
「あらあら……ふふふ。私が選んだ侍女であったばかりか、私達の恩人で、ルイとも付き合えるマリーベルにあなたが勝てるはずがないでしょう。ルイの言う通り、大人気のない意地の悪いことはお止めくださいな」
「その、恩人とやらの部分。ぜひ彼女の夫である私にお教えいただきたいですね、王妃」
「あらだめよ、ルイ。国の機密です」
うふふふ、とお美しく笑っている王妃様……お変わりないようでなにより。
いつも優しく微笑んでいらっしゃるけれど、こう見えて結構辛辣でお強い方だったりする。
それでもわたしがお仕えし始めた頃は、なにかとお辛いことや煩わしいことが重なって、傍目に気の毒なほど心痛を抱えていたけれど。
王妃である以上、ちょっとでも不幸そうな様子や弱音なんて表にはけして出せない。
そんな王妃様にご自分の不始末まで含めてご家族のことをなにもかも押し付け、まるで渋々義務だけ果たしにいらしゃるようなご様子の王様があまりに許せなくて、人払いされた寝室なのをいいことに、思わず寝台に入ろうとする王様の前に立ち塞がってしまったのだけれど。
あれも……いま思えばよく首を撥ねられずに済んだわ、わたし。
「なんですか、マリーベル?」
「お、王妃様がお話しにならないことを、わたくしが口にできるはずありませんっ」
「そうよルイ、妻を虐めるものではないわ。ねえ、あなた」
「……勘弁してくれ」
うん、なんだか……申し訳ありません、王様。
でも王の立場で、側室制度も廃止されて久しいこの国で、成人したてのご令嬢の愛人疑惑を事実無根だと噂を放置した上に、“王子を二人しか産んでいないからこんな噂が立つ”なんて王妃様を責める言葉を口にする王太后様を諌めることもせず気にするなの一言で済ませようとしたのは、ないと思うのよ。
それに王女様への結婚の打診については、まだ早かろうで我関せずだったし。
なにその、“お前ならわかってくれているはず、上手くやるのも王妃の務め。公務で大変な夫を煩わせるな”みたいな甘え!
けれど平民侍女にご夫婦の寝室で詰められて怒るどころか、きちんと王妃様と話し合い、改めるべきところは改めたのは、流石に度量の広さを見せつけられた。
一人の王国民としてこの国を統べる王に対する好感度と、王家の使用人としてお仕えする忠誠心はむしろ高まった出来事でもある。
「女の結託は恐ろしいぞ、ルイ」
「……大雑把で面倒を嫌う貴方の性格を考え、なんとなく察せられましたが。私はロベール王と違って言葉を尽くし行動を見せるものとしているのでご心配なく」
言葉を尽くし行動を見せる……魔術師って嘘は吐けないのでは?
隠し事は大いになさる方といった認識でいるのですが?
「まあ、ルイ。あなたが妻にはそうなのなら、私も一安心ですよ」
「あの、王妃様……ルイと一体なにが?」
いつだったかわたしがルイのことを尋ねた時と同じ、目がちっとも笑っていません、王妃様。
わたしがルイへと目を向ければ、昔のことですと彼はぼそりと呟いた。
「この人は滅多なことで怒らないかわり意外と執念深い……まだ、あのことを根に持っているんですか。ちょっと谷底に突き落としたぐらいのことで」
は?
いまなんて言いました?
「大丈夫なのよ、マリーベル。王太子妃と決まった私を守り、敵を欺くために独断で黙ってしたことだけれど、ルイは根は優しい人だもの。谷底といっても川が流れていたし、真冬の川の水で冷えたり溺れたり怪我をすることがないよう魔術もかけてくれていたものね」
なんてことを。
それは理由があっても、肉体的には魔術で大丈夫にしていたとしても酷すぎる。
谷から突き落とされた時点で、精神が死んでしまいかねない!
「……ルイ」
「無事に王都に送り届ける要請を叶えたまでです」
「ルイっ!」
わたしが怒って声を心持ち大きくすれば、まったく私より余程にこやかに人を谷底へ突き落とす方であるくせにと王妃様に嘆息しているルイに、ああもうとにこやかな表情は崩さない王妃様を見ながら額を押さえる。
「あらあら。ここは半ば公の場であなたは公爵夫人なのだからそんなに怒って取り乱してはだめよ、マリーベル」
くすくすとルイとわたしを見比べて笑っている王妃様に、あっ……と自分の失態に気がついて声が漏れた。
「……計画は完璧で、謝罪もしています」
「ええ、あの頃はあなた可愛らしい弟みたいで……魔術をかけていたから平気なはずなんて冷静そうに言いながら、合流地点から王宮までの間で……」
「王妃エレオノール……!」
流石にわたしのように声を上げはしなかったけれど、これ以上となく顔を顰めてカップを持ち上げたまま王妃様の言葉を遮ったルイにびっくりした。
ふふふふと、無邪気に笑いながら本当にムキになった弟を愛でるように、にこにこしている王妃様に流石だわと感服して、わたしは気を取り直してお茶を飲んだ。おいしい。
「あなたに名前を呼ばれるなんて久しぶりよ、ルイ」
「誰が一番意地が悪いんです? マリーベルを試すのにロベール王と私を使うついでに軽く弄るような方は貴女くらいですよ」
ふてくされたような声音で呟いたルイに、儂もお前もエレオノールには勝てん諦めろ、と黒すぐりのパイを手に取って王様は一齧りすると太く通る声を立てて笑った。
「しかし、本当に仲睦まじくやっているようだな。偏屈者のお前が」
「……王と王妃が揃って妻に妙な印象操作をしないでください。それはそうと我が王たるロベール王にご相談が、後日あらためても?」
「気位の高いお前が、そのような物言いをするのはろくなことじゃない」
「貴方がお人好しにも公にされない、例の取り交わしのことです」
「あれか……いいだろう、追って知らせる」
王妃様によるわたしへのご指導とちょっとした意趣返しも過ぎて、和やかなお茶な席の雰囲気にルイが王様にもちかけた話が少しばかり気にかかった。
王様が公にされていない例の取り交わし……ルイが結んだ契約魔術のことに違いない。
相談ってなんだろう。
「今度は私のお茶会にいらっしゃいね、マリーベル。あなたに紹介したい人もいるの」
「はい、王妃様。ありがとうございます」
王様とルイの会話に向けていたわたしの注意を逸らすように掛けられた言葉に王妃様を見れば、大丈夫よと仰るように王妃様はわたしに微笑んだ。
わたしが侍女としてのお仕えしていた時に王妃様が向けてくださっていた、政略や社交のためではない微笑みだった。
その後は、結婚後のわたし達のことやその間の王宮のこと、今晩にわたしがルイと出かける観劇の予定などとりとめなく話し、その日のご挨拶とお茶の席は終わった。
「……フォート公爵夫人」
「ん?」
中庭を出る際、二人いた護衛騎士のうちの一人が掛けた声にわたしより先にルイが反応した。遅れてわたしも振り返れば、何度か会話を交わした覚えのある近衛の人だった。
もう一方の騎士の方は先輩らしい、おいっとたしなめられた彼は慌てて、失礼をと呟くように言って中庭と庭園を繋ぐ通路の境に片膝をついた。
「僭越ながら、ご結婚の祝福を申し上げることをお許しいただければ……」
ああ、そうか。
以前に言葉を交わしたよしみでお祝いの言葉をかけたくても、いまのわたしに以前のような気軽なことはできない。本当に貴族面倒くさいと思うけれど仕方ない。
「許します」
「ありがとうございます。マリー……いえ、結実の季節に出会い強固なる護りの季節に結ばれた公爵夫人におかれましては、大聖堂に集う神々と精霊の加護と祝福に満ちた日々をお送りになられるでしょうことを心よりお喜び申し上げます」
じっと真剣な鳶色の眼差しでそんな大層なお祝いの言葉をいただけるとは思ってもないことで思わず瞬きしてしまった。
近衛なのに向こうもあまりこのような儀礼に慣れていないのか、撫で付けられた明るい茶色の髪から見える耳の端が紅潮している。
彼をたしなめたもう一人の騎士の方は仕方のない奴だといった様子で、わたしとルイに騎士の礼を取る。やはり近衛であっても、他の武官同様に多少無骨な向きがあるのかもしれない。
共に王妃様の近くでお仕えする立場で時折話した程度なのに律儀な人だ、けれどいまなら結婚のお祝いも素直にうれしく受け止められる。
「……ありがとうございます、エルネスト様」
王妃様のお側に近い方々のお名前はたとえ直接お聞きしていなくても確認して覚えている。
わたしは微笑んでお礼を返し、中庭を辞した。
再び中庭まで案内くださった方とまた別の護衛騎士がついて王宮の廊下を歩く。
「貴女も存外罪な方ですね」
「え?」
「まあ弁えているようでしたから、多少は目をつぶります」
あれ、わたしなにか見過ごしてしまった?
突然声を掛けられて、もう一方の方もちょっと慌てた様子ではあったけれど。
「なにかあの方に咎めるべきところが? だとしてもとても心のこもったお祝いの言葉でしたしわたくしは気にしません。知り合いの方にあなたとの結婚を祝福されてうれしかったですよ?」
「そうですね。たしかに貴女への門出の祝福ですね……あれは」
「わたくしのお祝いですもの」
「……報われませんねえ」
そんなことを言いながらぽんぽんと頭を軽く撫でてきて、髪飾りがずれますと文句を言えば、やはり橄欖石でよかったですと彼は笑んだ。
出掛けにマルテと橙色に揺らめく石をあしらったものと髪飾りを迷っていたら、後ろからルイがすっと選び取って髪に挿してくれた。
「夜に映える石ですが、初夏の新緑の如き色に輝く“太陽の石”。今日の場には相応しいでしょう。夫婦愛を示す石でもあることですし、なにより貴女の髪によく合う」
ごほん、と案内役の方が軽く咳払いして羞恥にうなじが軽く熱を帯びたのがわかった。
は、はやく戻って夜の外出支度をしなければとわたしは少しだけ歩みを早めた。
*****
王都の中央広場近く、小さな森もある公園に建つその劇場は、王立劇場としては三番目の建物でまだ新しくどこもかしこも煌びやか。
通称、“俳優達の家”で親しまれている、歌劇専用ではなく様々な新しい形式のお芝居や時に貴族主催の趣向を凝らした夜会の場に貸し切られもする劇場だった。
そのため新し物好きの貴族はもちろん、平民の富裕層からお小遣いを貯めた庶民もやってくるもちろん席や通路や出入口の区別はあるものの、双方紛れ込むのは可能だ。
いつ訪れても、華やかさと他の劇場にはない開放感のような独特の高揚感と熱気に満ちた劇場に眉を顰める方もいるけれど、舞台だけでなく、王宮や街中とは一風異なった人々の行き交う様子が眺められるのも楽しい。
「まあ貴女は心配するような人ではなく、多少なにか盗られて困るわけでもないですが気をつけてはください。酒に酔ったり雰囲気に気が高ぶって無礼を働く者もいないわけではない」
オドレイが馬を操る劇場に向かう馬車の中でルイから注意されて、大丈夫と頷く。
王立劇場といえど、そんなに上品一色な場ではない。むしろ王宮のように儀礼に縛られた場所ではないといった認識で貴族の方々も多少羽目を外して楽しんでも構わない場所でもある。
区別はあるものの平民も入れる場所だから、物盗りやスリもいる。
舞台に気を取られる分、被害にもあいやすいのだ。
「テレーズの話では、何度も足を運ぶ上級中級貴族のご夫人やご令嬢が多くて、安い席もお付きの侍女で埋まっているとか……」
「侍女?」
「語り合うためだそうですよ。この“恋には恋を”といった演目の舞台、元になっている流行小説の最初の巻の物語を朗唱と歌唱にまとめたそうで本当にとても盛況みたい」
「昨日の今日で、まるでもう見てきたような話をしますね」
「テレーズが教えてくれて、ほら彼女の亡くなったご主人は商会勤めで一緒に店を持つつもりだったでしょう? だから彼女も流行りのものはどうしても気になるみたい。元になった本もいま読んでいるのですって」
「……貴女もいつになく高揚して見えるのですが?」
ルイの問いかけに、だってとわたしは答えた。
舞台の内容やその元になった本については、あまりよくわかっていないけれど。
「主演女優がアンリエッタ・デュ・ベジャールですよ! 王都一可憐な女優! はあ……“エレーヌ姫”って舞台で一度見たことがあって、本当に可憐なお姫様って姿が素敵で、声も真珠でも零れそうな声で……」
「成程、貴女のご贔屓ですか。それはお誘いした甲斐があって結構」
冷めた反応を返されて、ちょっとだけむっとしてしまう。
ルイだって、見たら絶対気に入るんだからとぼやいたら、馬車の壁に肘をかけて頬杖をつきながら、おや気に入ってよろしいんですかなどと言う。
「色好みの貴族と女優なんて、よくある組み合わせですよ?」
「……そういうことではありません。あとわたしの“エレーヌ姫”を汚さないでくださいっ」
「心配しなくても、舞台よりもいつになく艶やかに装った可憐な妻を眺めていたいくらいの気分ですので。個室の一等席ですからね」
「……っ!?」
そ、そういえば……お貴族様専用なバルコニーの個室席って薄暗い劇場の中でちょっと親密が過ぎるのではって影が目に入る時がある。
「不埒なことは考えないで……」
「まさか、善いことしか考えていません。むしろ――不埒なこととはなにか教えて欲しいですね、マリーベル?」
向かい合わせの鼻先に、密やかに低めた声で囁かれて頬に血が上る。
ただでさえ頬紅を一刷けだけ薄く入れているのに……と思う内に口を塞がれ、月のように光る石の雫を連ねた耳飾りを揺らした指に、首筋から露出する肩を撫でられて思わず吐息が漏れる。
「……口紅が、落ちてしまいます」
「直す分はお持ちでしょう?」
小さな音を立ててもう一度軽く口付けられ、続きは後ほどと意地の悪い微笑みをルイはわたしに向けた。
彼の瞳の色に似た夜向けの上着の絹の艶とわたしの耳飾りの石のように淡い光を帯びる銀色の髪にほのかに照らされた白く整った顔が妖しいまでに艶めかしい。
平然とした顔して、わたしの色が薄く移ったご自分の唇を親指で軽くなぞっているのが妙に物馴れた仕草なことについては、あまり深く考えないことにしようと決めたところで劇場に到着した。
人々のざわめきと目が眩むような衣装の色彩が行き交う中をルイにエスコートされ、劇場使用人の案内で侍女だった頃には縁がなかった席へと向かう。
劇場に入った瞬間、明らかにルイに向けられた無数の視線とどよめきは容易に予想出来ることだったから、むしろ自分でも驚くほど落ち着いていた。
白大理石を磨いた広い階段の途中ですれ違う貴族のご夫人やその夫である殿方に見覚えのある顔も何人か。時折、旦那様や奥様とは違う方が隣にいるのは見なかったことにする。
「流石というべきか、想像していたよりはるかに落ちついたものですね。貴女」
「こういうのはなにを見聞きしても平常心が身を守ることかと」
「違いないですね。ここでこれほど落ち着いていられるならまず夜会は大丈夫でしょう」
「もしかして……予行練習?」
「いえ、妻を見せびらかしにきただけです」
見せびらかすほど大層なものでは……と呆れながら個室の一等席に落ち着いた。
舞台がよく見えるほぼ正面。本来は六人入れるようで四つの椅子が左右の壁に寄せられ、広々としたところに軽食と砂糖菓子、ワインと果実水、そしておそらくは舞台の説明書きが用意されたテーブルとわたしとルイの椅子がある。
『ジャンヌ、なにをしているの始まってしまいますよ』
『はい、奥様』
ゆったりとした口調のそんな声が柱の向こうから聞こえて、バルコニーに少し身を預ければ一室置いて貴賓席の位置だった。先程の声はそこからのようだ。
たまたまお隣の年配のご夫人もわたしと同じようにしていたため、幾本も蝋燭を立てる無数の燭台が照らす薄明かりの中でふと目が合った気がし、淑女の礼を取る。
きちんと見えているか怪しいものだけれど貴賓席のすぐ隣だなんて上級貴族の夫人以外にあり得ないのでお行儀よくしておくに越したことはない。
「そういえば、オドレイは?」
「彼女はこういった場には向かないため、一度戻って頃合いに迎えに来るよう言ってあります」
「え、帰しちゃったの? 物盗りやスリもいるのに?」
「私や貴女に害をなすと見れば、判断より先に体が動いてしまう。本当はシモンがいいのでしょうが繁華な場所で面倒が起きてもいけない。ここは王都ですから」
シモンはまだフォート家預かりの罪人だ。面倒が起きた時に東部ならまだなんとかなるけれど王都ではそうはいかないということね。
それにしても、オドレイはそれでいいのかしら。
「人外でなければ宮廷魔術師団でも引き連れて襲ってこない限り、私でもなんとかなりますよ」
「そう……」
そんなことを話しながら席につけば、楽団の弦の音が聞こえ始めて舞台が始まった。
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