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挿話

64.5. 或る小間使いの独白

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 ――あっ……はんっ、だめぇ……。
 
 夜も更けて皆様も寝静まるこの時間。
 細かな装飾が彫り込まれた閉じた扉の奥からかすかに漏れ聞こえてくるお声に、今夜もわたくしは廊下を進む足を止めないわけにはいかないのでした。

 盗み聞き?
 いいえ、そんなとんでもない。
 とうに落ちぶれ爵位返上もしているとはいえ、わたくしは元男爵令嬢。
 そんなことは致しませんわ、ええけして。

 ですが、奥方様が公爵様の愛情を受けていらしゃるか心を砕くのも、小間使いの務めですもの。それにわたくしの苦境を見かねてお屋敷に迎えてくださった公爵様のご結婚生活の円満を願うことは、お仕えする者として当然のこと。

 ええそうです。
 こうして扉の前で息を潜めて佇んでいるのも、けしてけして盗み聞きなどではございません。

 わたくしはヴェルレーヌ・リモンヌ。
 豪商だった祖父の代、共和国との戦争において多額の費用を支援した功で、東部片隅にある田舎町を含む小さな領地と男爵位を王家より賜った家に生まれた娘でした。
 しかし両親を亡くし、後継となるような兄弟縁者もなく、どなたかと結婚しなければならなくなったわたくしは、王に賜った爵位と領地を返上し、さらに王宮へ財産の一部を寄進しすることを引き換えに、結婚せず家屋敷を含む残る財産すべての相続とそのままそこに住み続けることを許され、十五にして自由気儘な隠居生活を手に入れました。

 わたくしは生まれつき、日光に当たると火傷をしたように肌が赤く腫れたりただれてしまう体質。そんな女をお嫁さんにしたい殿方はいらっしゃらないだろうし、ささやかな領地でも元豪商で財産だけはある男爵家を目当てにわたくしを妻にと望む方がいても、わたくしは大切に扱われないに決まっておりますもの。
 それなら財産を半分以上失っても、お金で解決できるなら解決してしまうのが合理的。

 社交で夜会に出たところで、どうせ成り上がりの娘だの青白い肌の色が病的で不気味だのお茶会に出てこないなんてつけ上がっているだの、陰で悪口言われるだけですから。
 爵位なども、わたくしにとっては邪魔なだけのもの。
 住むところとささやかに生活できるだけのものさえあれば十分。

 日光に弱いために、両親が生きていたころはカーテンを引いた暗い部屋で過ごしてきました。
 外に出られるのは日が落ちたあとの夜だけ。
 そんなわたくしをなぐさめてくれたのは、本の書かれた物語。
 そして色とりどりの糸を使って思い思いの図案を刺していく刺繍。
 家族以外のほとんど誰とも顔を合わせず、自室で読書と手芸の趣味を満喫する日々。
 両親が亡くなってからは、体質もあって完全に昼夜が逆転した生活を送るようになってしまい、流石に少しは動かないと体に悪いわねと夜の散歩を日課としていたのですが――。

 どうやらわたくしの青白い肌の色は、夜の暗闇に人の目に留まるものだったらしく、いつしか夜な夜な元領地を彷徨い歩く元男爵家を乗っ取った魔物となっておりまして。
 どうしてそんな話が広まってしまったのかわかりませんが、わたくしは哀れにもその魔物に喰われてしまい、いまのわたくしはわたくしを食べた魔物の化身で偽物であるのだとか。

 お父様と昔身分を越えて友情を交していた猟師が、わたくしの暮らし向きを心配して、度々新鮮な獣の肉をお裾分けしてくれていたのも噂話に拍車をかけたようで、いつしか人の生き血を啜る魔物であるとかないとかと元領民だった人々に恐れられ。
 そしてとうとう、返上した領地を与えられたいまの領主様、遠く王都にお住まいの伯爵様は王宮に魔物討伐の要請を行って、なんと軍部にその要請が通ってしまったそうで――。
 
『……軍部から受けた報告では、貴女はその幽玄にして可憐な姿で若者を誘惑し生き血を啜る吸血の魔物とすり替わったことになっています』
『はあ』
『おそらく人攫いの類に狙われたのでしょうが、この半年ばかりの間で五人もの若者が姿を消している』
『まあ、恐ろしい』
『貴女の仕業ということになっているのですよ、ヴェルレーヌ嬢』

 夜の散歩でいつも立ち寄る元領地を見渡せる丘で遭遇した、銀髪の見目麗しい魔術師様。
 もとい軍部からの正式依頼を受けて調査にいらした、広大なお隣の領地を治める公爵様のお言葉だった。

『まったく、同じ東部で近いからなんて理由で王宮から要請を受け、無下にも出来ず領地外に渋々出向いてみれば馬鹿馬鹿しい。とはいえ状況は厄介です。目撃証言やらなにやら状況証拠が揃っている』
『あら』
『あらじゃありません。明らかに貴女のその日課とやらの行動に沿って犯行は行われています。妙な噂を巻いたのもその一味でしょう。人攫い一味の隠蓑にされたのですよ貴女は』

 おそらくもう一味は行方をくらましている、あなたの潔白の証明はかなり困難ですと、公爵様は仰った。
 すでに討伐案件として軍部に通ってしまっている以上、あちらの面子もあって間違いでしたでは済まされず、魔物でなければわたくしは人殺しとして取り調べられ、潔白の証明が難しい以上、裁かれることになると。
 
『そんな……わたくしはただ貴族社会に縛られない悠々自適な隠居生活を満喫していただけですのに』
『満喫し過ぎです。宮廷魔術師でなく私に依頼が回ってきて幸いでしたね。うら若いただのお嬢さんを討伐や捕縛する趣味はありませんので。どうします?』

 公爵様の問いかけに、しばし考える。
 祖父の代から男爵家とはいえ、その実体は変わらず商人同然の家だった。
 昔は結構悪どいこともしていたそうで恨みを持つ商売敵は多い。
 爵位返上したとはいえ、成り上がり貴族の家として妬みや嫉みも買っているし、両親が亡くなり娘一人になったところを狙って陥れられなんて、いかにもありそうです。
 公爵様のおっしゃる通り、申し開きをしたところで状況証拠が揃っていては難しいでしょう。

 だったらもういっそ。
 わたくしは魔物ってことにして表向き公爵様に滅ぼされましたと、裏で揉み消してしまったほうが簡単なのではないかしら?

『ヴェルレーヌ嬢?』
『あの、公爵様のお力でなんとかそれらしい偽装ができないものでしょうか?』
『申し開きをしないおつもりなら、貴女はすり替わった魔物で、元の貴女には死んで貰うことになりますが……』
『わたくしは、いまのような穏やかな生活が送れれば十分なのです。そのためなら多少の工作は厭いません』
『なるほど。しかしどのみちこの地にはいられませんよ。貴女は私に滅せられたことになるのですから。それに王宮に話が通っている以上、軍部はともかく王には筋を通しておかねばならない』

 貴女に許された財産と家屋敷は諦めるほかないでしょうとの公爵様の言葉に、そうよねえと頬を押さえる。
 “最上の魔術師”と名高い公爵様を動かしてしまうような騒動、それを収めてもらうため謝罪と保釈金がわりの寄進を王宮にすれば、きっと間違いなく財産は底をついてしまう。
 この地にもいられないし、魔物が棲みついた屋敷なんて売れるかしら?
 ああでも、そもそも本物のわたくしは魔物に喰われてしまっているってことになってしまうから家屋敷を売りにも出せない、困ったわ……と呟く。

『元男爵令嬢といっても所詮は商人上がりな家の娘です。労働することは恐れませんけれど、わたくし日光に当たると肌が焼けただれてしまう体質で、昼間日の当たる場所には出られませんの。夜な夜な散歩に出ていたのもそのためで』
『それはまた、難儀な体質があったものですね』

 ええ、と答えて途方に暮れていたら、しばらくして公爵様はふむとなにか思いついたように頷いた。

『貴女、労働は恐れないと仰いましたね』
『はい。貴族社会に縛られずささやかでも穏やかに暮らせるのなら十分ですので。結婚願望もありませんしむしろ面倒くさいといいますか』
『ご令嬢で十五ともなれば一通りの嗜みは身に付けていらっしゃいますよね』
『一通りの礼儀作法や手芸や詩作や器楽でしたら』
『ああ、手芸はよろしいですね。裁縫や刺繍の腕前は』
『以前、トゥルーズでの夜会で手製の刺繍のハンカチを落としてしまって、それがどちらの工房のものかと話題になってしまったことならありますわ』
『結構。もしよろしければ公爵家に住み込みで勤めませんか?』
『え?』
『事情があって我が家は人手不足です。縫い物や刺繍の修繕ができる者がいると大変助かります。働く時間は貴女のご都合で一向にかまいません。小間使いの扱いにはなってしまいますが……』
『ああ公爵様っ、なんて素敵なご提案! お受けします!』

 はしっと公爵様の手をとって二つ返事で頷けば、では明晩、私の従者を迎えによこしましょうと公爵様は少し離れた場所に控えていらした従者の方をわたくしに示すように振り返る。
 麗しの公爵様に勝るとも劣らない、うっとりしてしまう男装の麗人がそこにはいた。

 そんな経緯で、ここ公爵フォート家のお屋敷の夜番の小間使いとして四年程前からお世話になっているわたくしですけれど、屋根裏でも地下でもない北側の個室を与えられ、王国法の規定以上な労働条件。
 たしかに一風変わってはいるものの、余計なことは詮索しない同僚の方々。
 貴族社会にも縛られず――というより、世間的にわたくしはもう死んだことになってしまったため一般社会にも縛られず――令嬢時代よりもずっと理想的な環境にわたくしは暮らしている。
 それだけでも十分過ぎる幸せですのに。
 
 ――っ、やぁん……そこっ、そこはぁっ……あぁっ。
 ――あまりそのような可愛らしい声をあげないでください……っ、ここですか?
 ――そこっ……んっ……ぁはっ。

 ああ、あの麗しき公爵様が今宵もなんて情熱的な。
 それにあんなにあんなに初々しくも貞淑な、ご結婚前は若くして王妃様の第一侍女だなんて立派な立場にいらっしゃった奥方のマリーベル様がこんなあられもないお声を。
 本当になんてことかしら。
 昼間は貞淑、夜は大胆だなんて殿方の夢ではありませんかっ。
 可愛らしい魔性、なんて罪深い……いえ罪深さで言えば公爵様のがさらに。
 あの怜悧な眼差しをどれほどの情熱に熱く燃やしているのかしらと想像したら、わたくしは……思わず拳を握り締めてしまいます。
 
 公爵夫妻、尊いっっ!
  
「どうしましょう。ああこの胸の昂りを誰かと分かち合いたくても夜番の使用人はわたくしだけですもの。オドレイさんもたまに起きていらっしゃいますけれど、あの方はあの方で……」

 公爵様に負けず劣らずな美女が禁欲的な男装に身を包み、常に冷静沈着な様子でいらっしゃるだけになおのこと一層妖しく漂うその色香。
 そんなオドレイさんが、以前、まだこのお屋敷にいらしたばかりのマリーベル様にお休み前のお茶をお運びになって仰った言葉を通りがかりについ聞いてしまったのです。

『閨のことでお悩みでしたら、私がお教えしましょうか?』
『え?』
『旦那様はおそらく強者でしょうが、骨抜きにできそうな術なら私もいくつか……』
『なっ……、い、いいですっいいですからっ。それとこのお茶……普通のお茶よね?』

 ああっ、そんなっ!
 いけないわ。公爵夫人と男装の麗人の従者がなんて。
 主従関係にある可愛らしいお嬢様と妖艶な美女が、そんなこと……禁断過ぎてっ。

 高まるっっ!

「なんて罪深いお方なのかしら……マリーベル様」

 マリーベル様がいらしてからというもの、フェリシアンさんしか知らないわたくしの副業は捗るばかり。

 だってですよ。
 平民階級ながら華やかな王都で王妃様の侍女を務めるお嬢様と、英雄でありながら地方の領地にひっそりと暮らす孤高の公爵様のロマンスだなんて。
 こんな、美味しすぎるお話がありますかっ!

 つい出来心でお二人を参考に、ご本人とわからないよう少々脚色も加えて書いたロマンス小説原稿をヴァレリー・リシャールの偽名で王都の版元様へ送ったら出版されて、間もなく続編も刊行予定。

 なんでも王宮描写や貴族社会が真に迫っていると、貴族階級の方々にも売れているようで作者であるわたくしへの支援を申し出が版元様に相次いでいるのだとか。
 とはいえわたくしは表向きは死人ですもの、元貴族の娘として王都の社交にも顔を出しておりましたし表に出るわけには参りません。
 そのような事情で版元様もわたくしのことを知らない覆面作家なのですが、そうなると版元様への出資が相次いだようで。
 わたくしのところにも、お金もたくさん入ってきました。
 ありがたいことです。ちゃんと堅実な投資に回して増やしておきましょう。
 
 わたくしが初めてマリーベル様と言葉を交わしたのは、マリーベル様がこの屋敷にいらしてまだ一ヶ月も経たない頃のことでした。
 珍しく公爵様が不在がちで、まだお屋敷に慣れていな心細さで寝付けない夜を過ごしていらしたのか、マリーベル様は寝室から出て廊下の窓から星を眺めていらっしゃってました。
 そこへわたくしが通りかかったのです。 
 
『あ、えっと……あなたは……夜の番の』
『はい、夜番の小間使いヴェルレーヌです。奥様』
『たしか日に当たれないのでしたよね。フェリシアンさんからそう聞いています』

 流石は王妃様の元第一侍女です。
 ちらっと一度ご挨拶に伺ったわたくしをきちんと覚えていらっしゃるどころか、ただの小間使いであるわたくしの難儀な体質までもきちんと把握されている。

『はい、奥様。ですがお気遣いは無用です』
『あ、えっとごめんなさい。そんなつもりでは。それから奥様というのはちょっと……』
『はい?』
『ええとその……なんだか』

 面映いのね、なんて初々しい。
 そうですねここで諭してもいいですけれど、どうせならもう少し親しくなりたいところかも。
 わたくしと同い年だと聞いておりますし、なんだか可愛らしいのですもの。

『では、マリーベル様でよろしいでしょうか』

 わたくしが尋ねれば、ええ、とマリーベル様は微笑み、ああフェリシアンさんに続いてようやく二人目と仰いました。
 なんのことかはよくわかりませんけれど、喜んでいらっしゃるようならよしです。
 このお屋敷で、細かいことを気にしていたらきりがありませんもの。

 それにしても
 フェリシアンさんに伴われて夜に一度ご挨拶した際は、もうお休みの支度をされていたのであまりきちんとそのお顔を見ることもできなかったのですが。
 本当に、王宮で王妃様の第一侍女を約三年務めて、わたくしと同い年だと思えないくらい、若くて可愛らしい。

 眠るために下ろした栗色の髪はつやつやと触り心地がよさそうで、ふっくら瑞々しい頬も柔らかそうです。どちらも殿方ならつい手をのばして、撫でたりつまんだりしてみたくなる気持ちになるでしょう。
 鮮やかな緑色の瞳のくりっとした大きな目はどこか小動物めいているけれど、その眼差しには芯の強さと柔らかさも現れていて。
 なにより素晴らしいのはその赤味の強い唇です。
 小さめでいてふっくらと肉感的でいながらきゅっと引き結ばれた、情感と貞淑。
 
 これはある種の殿方の心を掴む可憐さです。
 そう、例えるなら。
 
 “ただの美人や可愛らしいだけのご令嬢なんて掃いて捨てるほどいますが、貴女は珍しい小鳥です”

 とでも、公爵様のような手練れや名うての貴公子に言わせるような。
 あるいは。

 “君のような人は、俺ぐらいでないと。そのへんの男では手に余る”

 なんて、ちょっと自信家の殿方に言わせるような。
 そうですね……育ちの良い家督は継げない貴族の次男や三男で、その恵まれた資質を生かし騎士団で大隊長あたりやっていらっしゃるような。
 彼女のことを幼い頃から見守っていたりすると、よろしいですね。

 もしくは。

 “き、君みたいなの側にいられたら楽しいだろうな”

 なんて、あまり女性に慣れていない殿方に言わせるような。
 こちらはちょっと線の細い努力家タイプがよろしいですね。
 家柄は低めでも努力して実力で近衛の役目をつかみ取ったなんてどうかしら。
 日頃は殿方ばかりの世界で、屈強な騎士団の方々を怖いと避ける王宮のご令嬢方と違って、親切で面倒見のよい彼女に心惹かれてなど。なかなかいいかもしれません。

『眠れないのでしたら、なにかお持ちいたしましょうか?』
『いえ、いいの。ちょっと目が覚めてしまっただけだから……』
『ご用がありましたらいつでもお申し付けください』
『ありがとう』

 それに。
 このガウンを羽織った寝間着姿の、少し物憂げな風情で星を眺める初々しい色香。
 儚げな細身に見えますけれど、わたくしの目は誤魔化せません。
 よく見れば、これは脱がすと意外に悪くないといった適度な肉付き。
 柔らかく包み込むようでいて、けして浮つくことなく淑やか。

 流石は公爵様。
 わかっていらっしゃる。

 ――まったく……貴女という人は、足も。

 あ、足ですって!?
 耳に飛び込んできた言葉に、わたくしははっと我に返りました。
 つい回想と妄想の世界に没頭してしまいました。
 いけません、お二の会話を聞き逃すところでした。
 
 ――や、待って……。
 ――なにを遠慮しているんです、いまさら。
 ――だから、足はちょっと恥ず……んんっ。
 ――ああ、身構えず……力を抜いてください。
 ――あ、だめ。そんなのされたら……っ。

 脚……足……寝所ですもの、もちろん素足ですよね!?
 紳士淑女であれば、他者の目には絶対に晒したりなどしない。
 たとえ親密な間柄でも、触れるのはどこか背徳的な素足ですよね!?
 
 そんなのって、どんなのですか。
 一体、なにをどうなさっているんですか、公爵様っ!?
 詳しく教えてくださいましっ!

「お二人ともなんて淫靡な……」

 ため息しか出ない。
 マリーベル様はいうなれば原石。
 そう、磨けば光る原石なのです。
 公爵様の手で磨き上げられる様をお側で眺められるなんて……。

 滾るっ!

 まったく毎日、刺激的で……などとまた想像の世界に耽っておりましたら、すっかり扉の向こうは静かになってしまっていました。
 どうやらご夫妻はお休みになられたご様子です。
 わたくしも裁縫部屋へ行って、さっさと自分の仕事を終わらせましょう。
 版元様からは早くも三作目のあらすじをと催促の手紙が届いていることですし。

 次回作、どうしようかしら。


*****

「はあ、どうしよう……」
「どうしました?」
「わたしもう、ルイなしにはいられなくなってしいまいそうで……」
「うれしい言葉ではありますが、違う意味ならもっと嬉しいのですけどね、マリーベル?」

 薄暗い寝室。
 寝台にぐったり脱力してしまったわたしの頭上から呆れたようなルイの声が降ってきて、うんっ……と寝具に埋めていた顔をわたしは動かした。

「まったく……毎日毎日、どうしてこうも全身凝り固まってしまうんです?」 
「だって……」
「だって?」
「あなたの課題をこなすだけでも肩首背中が……」
「ふむ」
「でもって、いまは春です。薬草園のお世話も色々と立て込んでいて屈んだままの姿勢はどうしても腰や膝に……それにお屋敷修繕のための調査もあるでしょう? このお屋敷は広すぎますから毎日少しずつお部屋を回って財産目録をつけていくだけでも足が棒になって……」

 至福の心地よさでうとうとしながら、ルイの問いかけに答える。
 なにしろ、ここのところ毎晩のようにぱんぱんに張っていた肩や足などほぐしてくれているルイなので、正直億劫だけど彼の問いかけを無視するわけにはいかない。

「……とても公爵夫人の言葉と思えませんね。前にも言いましたが貴女は暢気にしているくらいでいいのですよ」
「人手不足だもの、仕方がありません」
「それはそうですが。しかしまだ諦めていなかったんですか、この屋敷の修繕」
「とりあえず建物がしっかりしているこの棟と対の棟だけでもと。それに目録くらいきちんとしておいたほうがいいと思います」
「それで足が怠くなるまで屋敷を歩き回るとは」

 横臥に肩肘を立てて頭を支えているルイは、うつ伏せて顔だけ横向けているわたしを見下ろすと、頬にかかるわたしの髪を耳の後ろへと直してため息を吐いた。
 彼の手が、わたしの目の前に置かれてじっと見つめてしまう。

 知らなかった。
 魔術師というものが、こんな手技まで持っているものだったなんて。

 聞けば、医師とはまた違う観点からではあるものの、魔力の流れを作るのに人体理解は魔術師にとって不可欠だそうで。
 就寝前にわたしが凝り固まった首や肩を回して動かしていたら、随分と辛そうですねと寝台にうつ伏せになるよう指示されて。
 一体なにをされるのかと最初は警戒や羞恥で身構えたものの、あまりの的確な揉みほぐしの手技にいまでは逆らえなくなってしまっている。

「働き者もほどほどにしてください。それに揉みほぐしている最中の悩ましい声はどうにかならないものですか?」
「うっ……だって」
「あれは正直、かなりそそられます」

 つっと、ルイがわたしの顎先を手で捉え妖しく目を細めたのに、まずいと、もぞもぞもわたしは寝具の中へ逃げ込もうと手足を動かした。

 いえ、別にいいのだけれど。
 わたしは彼の求婚を、ユニ領で受け入れてもいるわけだし。
 受け入れる前も初夜だけでなく……だし。
 ユニ領から戻って、互いに求め合ったりもしているわけで。

「中途半端に逃げながら、なにを考えているんです?」
「えっ、いえその……」

 銀色の髪の毛先が、鼻の頭をくすぐる。
 横臥に肩肘を立てていた体をこちらに倒し、両手を寝台についてわたしの背中に覆い被さるように真上から見下ろしているルイに、頬が熱を帯びる。
 
「それならそれで構わない?」
「……そういったわけでは」
「そそられはしますが、私も半端に凝りをほぐして雪崩れ込むというのは……少々」

 ルイは、結構……完璧主義? 
 どうやら、やるなら何事もきっちりとといった性格なようで。
 凝り固まっている体をほぐすしていて、中途半端にそれとは異なる行為へ移行するのはどうやらその気になってもなにか引っかかるらしい。
 
「ぜ、善処します……っ」
「ぜひ、そうしてください」

 少し眠そうにふやけている貴女をというのならぜひともですけどね、と耳打ちされて首の後ろが粟立つような慄えが走る。
 この人に耳元で囁かれるのに、わたしは少し弱い。
 特にやたらしっとりと艶めいた低い声音で囁かれると、いたたまれないような、胸の奥から漣み立つような感覚が指先まで波及していく。
 
「マリーベル、こっちを」

 彼に促されて、うつ伏せていたのを仰向けに寝転がろうと仕掛けて、額から、鼻筋を通って右頬へ、触れるか触れないかといった頼りなさで唇で撫でられる。
 目を閉じたまま、完全に仰向けに転がれば口付けられた。
 彼の舌を受け入れ唇で応えれば、音を立てるように何度も重ね直される。

 ルイの唇が離れていくのに合わせて目を開く、わたしを上からじっと見つめていたらしい彼と目があって、青みがかった灰色の瞳がわずかに細まるのにどきりとする。
 顔が熱いから、たぶん頬は真っ赤になっていることだろう。
 寝台の側に置いたランプの結晶はもう随分小さくなって、光が弱いのが幸いだ。

「寝ますか?」
「……そういった、言わせるような聞き方って狡い」
「私がなにを貴女に言わせると?」
「人を揶揄からかうなら寝なさいっ」

 むっとしてそう言えば、揶揄ってなどいませんよとくくくっと喉を鳴らすように苦笑して、覆い被さっていたのから、また私の隣に戻ってくる。
 彼の手が、額から広がる髪を梳くように撫でる。
 
「揶揄ってなどいません」

 熱を帯びた声音。
 仰向けから少しルイに向けて体を傾ければ、引き寄せられて首筋を食まれ、吐息が漏れる。
 恐る恐る彼の首から肩にかけて両腕を回せば、寝具と背中の間に差し込まれた彼の腕がわたしを抱きしめる。

「寝ますか?」

 そう、言って。
 わたしの寝間着の胸元を閉じる紐を結んだその端を咥えて引っ張るように顔を持ち上げると、ルイは私を見下ろしてじつに悪徳好色魔術師な笑みを浮かべた。
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