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第二部 公爵家と新生活
18.魔術師の帰宅
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クローゼットの中に用意されていた、比較的控えめなデザインの空色のドレスに着替えて、リュシーに髪を結い上げてもらった。
あまりにぴったりに誂えられていたドレスの数々は、おそらく魔術師が勝手に頼んだものに違いない。
わたしの婚礼衣装を作った、王妃様をはじめとする錚々たる貴族の方々を顧客に持つ超一流の服飾職人・ナタンさんに、きっと婚礼衣装の採寸を元にして。
魔術師はナタンさんの工房にその有り余る財産を投資している。
ナタンさんの工房だけでなく、彼の目に留まったあちらこちらへと自分では使い切れないお金を有意義に使って貰えばそれでよいとせっせと流し込んでいるが、皮肉なことに富が富を生む状態となって流し込んだ以上のお金が戻ってきているらしい。
そりゃそうだ。性格はともかく彼は趣味がいい。
その彼が気に入ったところにじゃんじゃん資金を投入するのだから、職人や芸術家たちは張り切って良いものを作る。
なにせ遊び暮らして浪費しきっても一向構わないというのだもの、そんな気楽さではその気がなくてもいいものを作ってしまうだろう。才能とは本人がそうと思ってなくてもそうなってしまうもので魔術師はそういった輝きを選びとる目を持っていた。
そんなことをとりとめなく考えながら、一人で屋敷の長い長い廊下を歩く。
そういえば、いま頃王宮はどうしているかしら。
――王妃様、王宮の皆様、いかがお過ごしでしょうか。
なんの因果か、最強の魔術師にして変人大貴族のルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォート公爵に嫁いでしまったマリーベル・ド・トゥール・ユニです。
彼の屋敷に居を移し、早くも三日が過ぎました。
こちらは王宮と比べてとっても静かな環境です。
それもそのはず、かつての王城といった広大過ぎるお屋敷に、全員合わせて両手の指で数えられる人数で住んでいるのですから。
ええ、本当に……。
どうしてやろうかっこのお屋敷っ!
王国以前の七小国の一つの元王城は、無駄に広く、勿体無くその大半を寂れるがまま放置されている。
人も招くことをほとんどしない、おまけに魔術馬鹿といってもいいほど普段は魔術研究に勤しんでいるらしい魔術師が使う部屋はごく限られていて、むしろ使用人の方が惜しみなく各人個室を与えられ彼等の休憩室やら遊興室やら用意されていたりする。なにせ部屋の数は表に見えるだけで推定一千四百、有り余っている。
使用人は地下や屋根裏だなんて発想自体がこの屋敷にはない。
フォート家の使用人は、大変に良い待遇の中で素晴らしく働き者だ。
正直、彼の妻を辞めて、小間使いとして働きたいくらいだ。
「うん、たしかに……変人というか、変わり者の貴族と言われても仕方ない」
調度に埃や蜘蛛の巣が被り放題になっている使われていない区画の廊下に立って、はああ…とため息をついてがくりと首を落とす。
こんなに立派なお屋敷なのに。
気になる。
気になりすぎる。
掃除したい、埃まみれになっていても素晴らしさがわかる調度の数々を磨いて整理したい。
「いくら持てるものだからといって粗末にしていいわけではないのよ」
「まったくもってその通りでございます」
背後からの初老の男性の声に振り返れば、なんとなく平目や鰈を思わせる平べったい印象のお顔をした白髪の目立つ初老の紳士。
フォート家の家令であるフェリシアンさんが、にこにことした表情で立っていた。
先代当主から仕えている最古参の使用人。
柔和な表情、親しみと敬いが絶妙な均衡を保ち、丁寧でも慇懃さはないその使用人として洗練された物腰。
私も王妃様の第一侍女として、王宮で何千何百人といった使用人の一員だった者。
仕事しながら、お勤めする人々を見ていたからこそわかる。
このおじさまは……出来る――っ!
「フェリシアンさんほどの方がいて、どうしてこんな状態に?」
「わたくしが先の旦那様に拾われた頃からこうでしたもので……」
なるほど。
「……こういうの、魔術でなんとかならないものなのかしら?」
「先代の頃から、この家の旦那様はそのようなことはなさりませんね」
「先代の奥様はなにも仰らなかったの?」
「現在使用している元王妃の棟以外はなかったことにしていらっしゃいました」
「なかったこと……」
「はい」
「……気持ちはわかるわ」
「ええ、大奥様を責める気にはわたくしもなれません。病弱な方でしたし」
そういえば、魔術師はまだ子供といっていい歳に両親を亡くして家督を継いでいる。
なんとなくやや斜め後ろに控えているフェリシアンさんを振り仰いだ。
家令といえば、仕える家の資産に領地、人員から領民のことまで知り尽くしているはず。
まして先代からならなおさら、主である魔術師よりもフォート家について詳しいはず。
けれど良い使用人は同時にその家に入る余所者にとって、ともすれば手強い相手になることもある。わたしはここにきてたかだか三日。
出来る使用人というのは、誇り高い。
主と結婚した奥様というだけで、無条件に受け入れてもらえているかどうかわからない。
魔術師の妻とはいえ、彼の留守中にあれやこれやと聞き出すなんて、不躾でずうずうしく思われるようなことはしないほうがきっと無難だ。
小さく息を吐いて、あの方が戻ってきたら相談してみますといってひとまず引き上げることに決めた。
それよりも、書かなければならない婚儀のお祝いのお礼状が山のようにある。
「旦那様がマリーベル様をお選びになられたのがわかる気がします」
「え?」
「お若いのに慎ましやかで思慮深い」
奥様というのは止してと言えば、あっさり切り替えてくれたのはこの人だけだ。
少しずつ慣れてくださればよいのですといって。
「本当に、無駄に格だけ高いフォート家に嫁いでいただくために大変なご面倒をかけてしまっているというのに、お越しいただいたらいただいたで頭を悩ませてしまい申し訳なく思っております」
「はあ、あの」
「そもそも私共の主と人生を共にするなどと、それだけで尊敬に値します」
「ええと……」
もしかして魔術師って人望、ない?
「ああ失礼いたしました。この家の者達はわたくしを含めて、主に似て口が悪い者揃いなもので」
「それ……堂々仰るようなことではないかと」
「まったくもってその通りでございます」
にこにことそう言ったフェリシアンさんに、たしかに魔術師の言う通り。
フォート家の使用人は少々変わっている。
それは彼らの特殊な事情もあるのかもしれないけれど。
ちなみに、フェリシアンさんは魚の精霊の血を引いていて、彼の手の指と指の間には小さな水かきのような膜がついている。
「部屋に戻ります。お礼状をまだ沢山書かなければいけなくて、昼食、簡単なものを運んでもらえるとありがたいのだけど……」
「では、そうしましょう」
「ありがとうございます」
フェリシアンさんにお礼を言って、部屋に戻り、寝台の上にたっぷりした濃紺の布の塊があるのをみて頰が引きつるのがわかった。
近づいて、中をのぞけば案の定魔術師でしかも目を閉じている。
「いつの間に戻ってきたの……」
フェリシアンさんはなにも言わなかったから、きっと彼が戻ったことに気がついていない。
侍女のリュシーは部屋に飾る花をとりに庭園へ行くといって私と一緒に部屋を出て、まだ戻っていないらしい。
ということは、帰ってきて間もない。
「新妻の顔をみたくて大急ぎで戻ったというのに……随分な物言いですね」
「玄関から?」
「窓からです。驚かせようかと、ただいまマリーベル」
「……ここ、三階です」
「知ってますよ。私がいない間、なにをしていました?」
「お屋敷の中を少しずつ見て回って、あとはひたすらお礼状を書いていました」
「適当でいいですよ、そんなの」
「そういうわけにはいきません!」
お礼状は早く。
基本中の基本だ。
追いついていないのが心苦しいくらいだ。
「本当に真面目ですねぇ、貴女は……」
「ちょ……っと!?」
警戒して距離をとっていたのに、突然、跳ね起きた勢いで私の腕をとり、再び寝台に倒れこんだ魔術師に引っ張られて、彼の上にどさりと落ちた。
「私達は新婚で蜜月ですよ。多少遅れたところでああそうかって思われるだけです」
「それ、絶対いやです」
言いながらも、心臓が早鐘を打っているのがわかった。
意外と硬い胸が布越しに、どう意識をそらしてもまだそう日の経っていない初夜のことが思い出されてしまう。
「やはり、後処理はオドレイに任せて戻ったきた甲斐がありました」
「……どこへ、行っていたの?」
意識をそらすために、尋ねたはずがぎこちない言い方になってまるでこれじゃあ初夜が明けてすぐ出ていたのを軽く詰って甘えているみたいだ。
「領地の小集落です。魔狼の害があったと知らせがあって……まあ家を壊された人などもいたので少々面倒でしたね」
「魔狼……?」
「狼の魔物というか精霊というか、その間くらいの存在です。名前の通りに魔力を持つ狼で一匹でも追い払うのは骨なのですが三匹もいて」
「狼って」
驚いて彼の上で身を起こす。
普通の獣の狼だって恐ろしいものなのに、私の顔を見たくてなんて言って、オドレイさんを置いて先に、人知れず戻って横になっているなんて怪我などしていないでしょうねと魔術師の腕などに触れ、彼の顔のそばで手を掴まれた。
「怪我などはしてません。勿論、オドレイも」
「本当に?」
「本当です。少々疲れたので横になっただけですよ。信用ないですね」
「だって……」
あなた自分のことはなにも言わないじゃない。
子供といっていい歳に当主になって、戦場にも出ていた人。
その後も、この広すぎる屋敷にほんのわずかな使用人と長く独り身のまま。
「ああ、やはり仕立て屋に任せたのは正解でしたね。よく似合ってます」
「やっぱりこれ、ナタンさんに?」
「採寸をしているでしょう、だったらと」
青みがかった灰色の瞳が細められるのを見下ろしながら、ナタンさんの言葉が脳裏に蘇る。
なんとなく、魔術師に聞けないでいるフォート家の噂。
――フォート家って、少子短命で有名だから。先代も先々代も四十位で亡くなっていて。
――子供も大抵一人なのよね。運良く男の子で代が途絶えてはないけれど。
――あのすかした大貴族様らしくないし、ちらっとそんなこと思っちゃったんだけど、まあお元気そうだし、恋は盲目っていうし。
長く、独り身でいたはずなのにどうして急にわたしと強引に結婚したの?
「なにを考えているんですか? マリーベル」
「別に……いつまで人の手を掴んでいるのかしら、とか?」
「触れていたいんですよ」
「またそういうこと言って……」
大体、彼の胴体に座ったままでいる。
頰にもう一方の手が触れて、少し彼が身じろぎしたのに、彼から寝台の上に横座りに移動する。
変だ。
すごく変だ。
だって魔術師の顔が近づいているのに、なんだか動く気になれない。
唇に吐息がかかって目を閉じかけた時、ドアがノックされてはっと我に返って、慌てて返事をすれば、昼食をお持ちしましたとフェリシアンさんが部屋に入って、おやお帰りになっていらしたのですか旦那様とさして驚いた様子もなく言った。
「フェリシアン」
「はい、旦那様」
「間が悪い……」
低い声で呟いた魔術師に、早々に退室いたしますのでと彼は答えて私室の机の上でよろしいですか? とわたしに尋ねてきたのに、え……ええと返事をした。
大変に、気まずい。
これ、絶対誤解されてる……なんていうのその、仲睦まじいお二人でって感じに。
私室にお皿に蓋をかぶせてある昼食を置いて、戻ってきて茶器をのせたトレーを持ってチェス盤を象ったテーブルに置いたフェリシアンさんはわたしの顔を見てにっこりと微笑んだ。
「お茶はこちらのテーブルに置いておきます」
「あ、あのね……違うの、部屋に戻ったらこの人が窓から入ったとか言って寝てて……」
「リュシーには、しばらく部屋の外の用事を申しつけておきましょう」
「や、だから……あのっ」
「失礼いたします、旦那様、奥様」
「そうじゃなくて」
だから、違うのーーーーーっ!
寝台からもうとっくに去って行って閉じられた扉に手を伸ばしているわたしを、再び寝そべって眺めていた魔術師がなにが違うんですかと意地悪く尋ねてくるのに、うっと言葉に詰まる。
「ふむ、リュシーはしばらく来ませんか」
「あの、よからぬことは考えないで……」
「よいことしか考えていません」
「よいことも考えないでっ」
「まあ、少し落ち着いてお茶でも飲みませんか」
えっ、と振り返ったわたしに魔術師は喉を鳴らすように笑い声を立てた。
からかわれた……。
「本当に……かわいらしいですね貴女は、マリーベル」
「うぅ~~、だからそうやって人を――」
唇に、もう違和感を失った温もりが触れる。
触れただけ。
触れているだけ。
どさっと頭の後ろで音がして、さっきの彼と位置が交代していた。
「おかえりと、言ってくれないんですか? マリーベル」
「お……かえり、なさい……」
「結構」
すっと彼が身を引いて、優雅な所作で移動しテーブルの椅子に腰掛け、お茶を入れ始めたのに呆気にとられる。
「昼食も持ってきましょうか?」
問われてこくりと頷く。
変だ。
絶対、変だ。
隣の部屋に魔術師の姿が消えたのを見てそっと、自分の唇に指先で触れる。
もう少しだけ、なんて……。
「思ってない、絶対思ってないっ」
ぶんぶんと首を横に振って、わたしは寝台をおりた。
あまりにぴったりに誂えられていたドレスの数々は、おそらく魔術師が勝手に頼んだものに違いない。
わたしの婚礼衣装を作った、王妃様をはじめとする錚々たる貴族の方々を顧客に持つ超一流の服飾職人・ナタンさんに、きっと婚礼衣装の採寸を元にして。
魔術師はナタンさんの工房にその有り余る財産を投資している。
ナタンさんの工房だけでなく、彼の目に留まったあちらこちらへと自分では使い切れないお金を有意義に使って貰えばそれでよいとせっせと流し込んでいるが、皮肉なことに富が富を生む状態となって流し込んだ以上のお金が戻ってきているらしい。
そりゃそうだ。性格はともかく彼は趣味がいい。
その彼が気に入ったところにじゃんじゃん資金を投入するのだから、職人や芸術家たちは張り切って良いものを作る。
なにせ遊び暮らして浪費しきっても一向構わないというのだもの、そんな気楽さではその気がなくてもいいものを作ってしまうだろう。才能とは本人がそうと思ってなくてもそうなってしまうもので魔術師はそういった輝きを選びとる目を持っていた。
そんなことをとりとめなく考えながら、一人で屋敷の長い長い廊下を歩く。
そういえば、いま頃王宮はどうしているかしら。
――王妃様、王宮の皆様、いかがお過ごしでしょうか。
なんの因果か、最強の魔術師にして変人大貴族のルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォート公爵に嫁いでしまったマリーベル・ド・トゥール・ユニです。
彼の屋敷に居を移し、早くも三日が過ぎました。
こちらは王宮と比べてとっても静かな環境です。
それもそのはず、かつての王城といった広大過ぎるお屋敷に、全員合わせて両手の指で数えられる人数で住んでいるのですから。
ええ、本当に……。
どうしてやろうかっこのお屋敷っ!
王国以前の七小国の一つの元王城は、無駄に広く、勿体無くその大半を寂れるがまま放置されている。
人も招くことをほとんどしない、おまけに魔術馬鹿といってもいいほど普段は魔術研究に勤しんでいるらしい魔術師が使う部屋はごく限られていて、むしろ使用人の方が惜しみなく各人個室を与えられ彼等の休憩室やら遊興室やら用意されていたりする。なにせ部屋の数は表に見えるだけで推定一千四百、有り余っている。
使用人は地下や屋根裏だなんて発想自体がこの屋敷にはない。
フォート家の使用人は、大変に良い待遇の中で素晴らしく働き者だ。
正直、彼の妻を辞めて、小間使いとして働きたいくらいだ。
「うん、たしかに……変人というか、変わり者の貴族と言われても仕方ない」
調度に埃や蜘蛛の巣が被り放題になっている使われていない区画の廊下に立って、はああ…とため息をついてがくりと首を落とす。
こんなに立派なお屋敷なのに。
気になる。
気になりすぎる。
掃除したい、埃まみれになっていても素晴らしさがわかる調度の数々を磨いて整理したい。
「いくら持てるものだからといって粗末にしていいわけではないのよ」
「まったくもってその通りでございます」
背後からの初老の男性の声に振り返れば、なんとなく平目や鰈を思わせる平べったい印象のお顔をした白髪の目立つ初老の紳士。
フォート家の家令であるフェリシアンさんが、にこにことした表情で立っていた。
先代当主から仕えている最古参の使用人。
柔和な表情、親しみと敬いが絶妙な均衡を保ち、丁寧でも慇懃さはないその使用人として洗練された物腰。
私も王妃様の第一侍女として、王宮で何千何百人といった使用人の一員だった者。
仕事しながら、お勤めする人々を見ていたからこそわかる。
このおじさまは……出来る――っ!
「フェリシアンさんほどの方がいて、どうしてこんな状態に?」
「わたくしが先の旦那様に拾われた頃からこうでしたもので……」
なるほど。
「……こういうの、魔術でなんとかならないものなのかしら?」
「先代の頃から、この家の旦那様はそのようなことはなさりませんね」
「先代の奥様はなにも仰らなかったの?」
「現在使用している元王妃の棟以外はなかったことにしていらっしゃいました」
「なかったこと……」
「はい」
「……気持ちはわかるわ」
「ええ、大奥様を責める気にはわたくしもなれません。病弱な方でしたし」
そういえば、魔術師はまだ子供といっていい歳に両親を亡くして家督を継いでいる。
なんとなくやや斜め後ろに控えているフェリシアンさんを振り仰いだ。
家令といえば、仕える家の資産に領地、人員から領民のことまで知り尽くしているはず。
まして先代からならなおさら、主である魔術師よりもフォート家について詳しいはず。
けれど良い使用人は同時にその家に入る余所者にとって、ともすれば手強い相手になることもある。わたしはここにきてたかだか三日。
出来る使用人というのは、誇り高い。
主と結婚した奥様というだけで、無条件に受け入れてもらえているかどうかわからない。
魔術師の妻とはいえ、彼の留守中にあれやこれやと聞き出すなんて、不躾でずうずうしく思われるようなことはしないほうがきっと無難だ。
小さく息を吐いて、あの方が戻ってきたら相談してみますといってひとまず引き上げることに決めた。
それよりも、書かなければならない婚儀のお祝いのお礼状が山のようにある。
「旦那様がマリーベル様をお選びになられたのがわかる気がします」
「え?」
「お若いのに慎ましやかで思慮深い」
奥様というのは止してと言えば、あっさり切り替えてくれたのはこの人だけだ。
少しずつ慣れてくださればよいのですといって。
「本当に、無駄に格だけ高いフォート家に嫁いでいただくために大変なご面倒をかけてしまっているというのに、お越しいただいたらいただいたで頭を悩ませてしまい申し訳なく思っております」
「はあ、あの」
「そもそも私共の主と人生を共にするなどと、それだけで尊敬に値します」
「ええと……」
もしかして魔術師って人望、ない?
「ああ失礼いたしました。この家の者達はわたくしを含めて、主に似て口が悪い者揃いなもので」
「それ……堂々仰るようなことではないかと」
「まったくもってその通りでございます」
にこにことそう言ったフェリシアンさんに、たしかに魔術師の言う通り。
フォート家の使用人は少々変わっている。
それは彼らの特殊な事情もあるのかもしれないけれど。
ちなみに、フェリシアンさんは魚の精霊の血を引いていて、彼の手の指と指の間には小さな水かきのような膜がついている。
「部屋に戻ります。お礼状をまだ沢山書かなければいけなくて、昼食、簡単なものを運んでもらえるとありがたいのだけど……」
「では、そうしましょう」
「ありがとうございます」
フェリシアンさんにお礼を言って、部屋に戻り、寝台の上にたっぷりした濃紺の布の塊があるのをみて頰が引きつるのがわかった。
近づいて、中をのぞけば案の定魔術師でしかも目を閉じている。
「いつの間に戻ってきたの……」
フェリシアンさんはなにも言わなかったから、きっと彼が戻ったことに気がついていない。
侍女のリュシーは部屋に飾る花をとりに庭園へ行くといって私と一緒に部屋を出て、まだ戻っていないらしい。
ということは、帰ってきて間もない。
「新妻の顔をみたくて大急ぎで戻ったというのに……随分な物言いですね」
「玄関から?」
「窓からです。驚かせようかと、ただいまマリーベル」
「……ここ、三階です」
「知ってますよ。私がいない間、なにをしていました?」
「お屋敷の中を少しずつ見て回って、あとはひたすらお礼状を書いていました」
「適当でいいですよ、そんなの」
「そういうわけにはいきません!」
お礼状は早く。
基本中の基本だ。
追いついていないのが心苦しいくらいだ。
「本当に真面目ですねぇ、貴女は……」
「ちょ……っと!?」
警戒して距離をとっていたのに、突然、跳ね起きた勢いで私の腕をとり、再び寝台に倒れこんだ魔術師に引っ張られて、彼の上にどさりと落ちた。
「私達は新婚で蜜月ですよ。多少遅れたところでああそうかって思われるだけです」
「それ、絶対いやです」
言いながらも、心臓が早鐘を打っているのがわかった。
意外と硬い胸が布越しに、どう意識をそらしてもまだそう日の経っていない初夜のことが思い出されてしまう。
「やはり、後処理はオドレイに任せて戻ったきた甲斐がありました」
「……どこへ、行っていたの?」
意識をそらすために、尋ねたはずがぎこちない言い方になってまるでこれじゃあ初夜が明けてすぐ出ていたのを軽く詰って甘えているみたいだ。
「領地の小集落です。魔狼の害があったと知らせがあって……まあ家を壊された人などもいたので少々面倒でしたね」
「魔狼……?」
「狼の魔物というか精霊というか、その間くらいの存在です。名前の通りに魔力を持つ狼で一匹でも追い払うのは骨なのですが三匹もいて」
「狼って」
驚いて彼の上で身を起こす。
普通の獣の狼だって恐ろしいものなのに、私の顔を見たくてなんて言って、オドレイさんを置いて先に、人知れず戻って横になっているなんて怪我などしていないでしょうねと魔術師の腕などに触れ、彼の顔のそばで手を掴まれた。
「怪我などはしてません。勿論、オドレイも」
「本当に?」
「本当です。少々疲れたので横になっただけですよ。信用ないですね」
「だって……」
あなた自分のことはなにも言わないじゃない。
子供といっていい歳に当主になって、戦場にも出ていた人。
その後も、この広すぎる屋敷にほんのわずかな使用人と長く独り身のまま。
「ああ、やはり仕立て屋に任せたのは正解でしたね。よく似合ってます」
「やっぱりこれ、ナタンさんに?」
「採寸をしているでしょう、だったらと」
青みがかった灰色の瞳が細められるのを見下ろしながら、ナタンさんの言葉が脳裏に蘇る。
なんとなく、魔術師に聞けないでいるフォート家の噂。
――フォート家って、少子短命で有名だから。先代も先々代も四十位で亡くなっていて。
――子供も大抵一人なのよね。運良く男の子で代が途絶えてはないけれど。
――あのすかした大貴族様らしくないし、ちらっとそんなこと思っちゃったんだけど、まあお元気そうだし、恋は盲目っていうし。
長く、独り身でいたはずなのにどうして急にわたしと強引に結婚したの?
「なにを考えているんですか? マリーベル」
「別に……いつまで人の手を掴んでいるのかしら、とか?」
「触れていたいんですよ」
「またそういうこと言って……」
大体、彼の胴体に座ったままでいる。
頰にもう一方の手が触れて、少し彼が身じろぎしたのに、彼から寝台の上に横座りに移動する。
変だ。
すごく変だ。
だって魔術師の顔が近づいているのに、なんだか動く気になれない。
唇に吐息がかかって目を閉じかけた時、ドアがノックされてはっと我に返って、慌てて返事をすれば、昼食をお持ちしましたとフェリシアンさんが部屋に入って、おやお帰りになっていらしたのですか旦那様とさして驚いた様子もなく言った。
「フェリシアン」
「はい、旦那様」
「間が悪い……」
低い声で呟いた魔術師に、早々に退室いたしますのでと彼は答えて私室の机の上でよろしいですか? とわたしに尋ねてきたのに、え……ええと返事をした。
大変に、気まずい。
これ、絶対誤解されてる……なんていうのその、仲睦まじいお二人でって感じに。
私室にお皿に蓋をかぶせてある昼食を置いて、戻ってきて茶器をのせたトレーを持ってチェス盤を象ったテーブルに置いたフェリシアンさんはわたしの顔を見てにっこりと微笑んだ。
「お茶はこちらのテーブルに置いておきます」
「あ、あのね……違うの、部屋に戻ったらこの人が窓から入ったとか言って寝てて……」
「リュシーには、しばらく部屋の外の用事を申しつけておきましょう」
「や、だから……あのっ」
「失礼いたします、旦那様、奥様」
「そうじゃなくて」
だから、違うのーーーーーっ!
寝台からもうとっくに去って行って閉じられた扉に手を伸ばしているわたしを、再び寝そべって眺めていた魔術師がなにが違うんですかと意地悪く尋ねてくるのに、うっと言葉に詰まる。
「ふむ、リュシーはしばらく来ませんか」
「あの、よからぬことは考えないで……」
「よいことしか考えていません」
「よいことも考えないでっ」
「まあ、少し落ち着いてお茶でも飲みませんか」
えっ、と振り返ったわたしに魔術師は喉を鳴らすように笑い声を立てた。
からかわれた……。
「本当に……かわいらしいですね貴女は、マリーベル」
「うぅ~~、だからそうやって人を――」
唇に、もう違和感を失った温もりが触れる。
触れただけ。
触れているだけ。
どさっと頭の後ろで音がして、さっきの彼と位置が交代していた。
「おかえりと、言ってくれないんですか? マリーベル」
「お……かえり、なさい……」
「結構」
すっと彼が身を引いて、優雅な所作で移動しテーブルの椅子に腰掛け、お茶を入れ始めたのに呆気にとられる。
「昼食も持ってきましょうか?」
問われてこくりと頷く。
変だ。
絶対、変だ。
隣の部屋に魔術師の姿が消えたのを見てそっと、自分の唇に指先で触れる。
もう少しだけ、なんて……。
「思ってない、絶対思ってないっ」
ぶんぶんと首を横に振って、わたしは寝台をおりた。
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