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公国編

第63話 荒む騎士と仇なす者

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 初夏の風が、頬を撫でていく。
 一年でもっともよい季節だ。空は青く、木々や大地の緑はその葉を茂らせその色を深め、陽の光に輝く。草の上に寝そべる俺の耳にかすかなさざめきの水音をさせる澄んだ湖も――。
 ここは静かだ、俺以外に誰も人は来ない。
 訪れるとしたら鳥や水辺に棲む、小さな生き物くらい。
 稀に栗鼠や野兎も姿を見せるが、俺がいると警戒してあまり出てはこない。
 街の城壁を越えて程近い丘を少しくだった林の中に開けている場所で、俺の逃げ場で隠れ場所だ。
 十五を過ぎて自分の馬を持ってから、宮廷を抜け出し城壁の外へ出ることが多くなった。
 王である父親に疎まれ、体は弱いが優秀な兄がいる第二王子の俺にとって、宮廷はけして居心地の良い場所ではなかった。おまけに母は俺を産んだことが元で亡くなっている。

 兄と俺に学問や剣技や乗馬などを教えたのは、司教のグリエルモだった。
 元は武官で祖父が王であった時代は騎士団の長として、軍神と呼ばれる王国の伝説の騎士団総長と切り結んだことすらあるという。
 だが父が王となったの時に戦うことは止め、神学の徒となりやがて教会権力を統べる立場となった。もともと侯爵家の男だから宮廷の儀礼も理解しており教養もある男だった。
 司教は、俺によく言って聞かせた。
 兄に劣っているわけではない、むしろ公国という国を率いる者と考えた時には兄に勝る部分もある。だからこそ迂闊なことは控えよと。
 俺にとっては馬鹿馬鹿しい話だった。

 次に王になるとしたら兄より他ない。
 体は弱いが、父に好かれ、姿が端正で頭が良く、思慮深い。
 俺などより公爵家に生まれた者として覚悟が決まっていて、子供の頃から家臣達に期待を寄せられている。
 本当に、虚弱なところさえ除けば、まさに次の当主となるべく生まれてきたような兄だった。
 学問や鍛錬から逃げ出し、まともな礼儀も実践できず、体だけは健康で力が強いだけ。
 司教曰く、手が焼ける小僧の俺など逆立ちしたって兄には勝てない。
 公爵家には兄がいれば十分だ、第二王子なんて身分は捨て自由になりたい。
 そのために、公爵家の中では忌避されている大伯父に近づいたくらいだ。

 昔、若い頃は兄と同じく皆の期待を一身に集めながら、いつしか身を持ち崩し乱心ともいえる振る舞いが過ぎて王太子を降ろされ、廃嫡されなかったもののまるでその存在を隠すかのように宮廷の一画から出ることを許されずにいる。
 もっとも、当の本人は酒に溺れ彼の部屋に閉じこもっているようなことが多かったが。時折、廊下に出て家の者を威嚇したり、酔いが回ってだらしない姿を見せたりしている。
 本当なら大伯父に仕えるはずであった司教は、彼について、いつしか現世に関心をもたなくなったと言い哀れむような苦い表情を見せる。
 そんな彼に興味を持った俺を、大伯父は血濡れ児と言った。母の胎を食い破り、そのつもりがなくても多くの血を流させる存在だと。

「俺は、誰にも望まれない――」
 
 宮廷に、公爵家の中にいるのが息苦しい。
 兄とは仲が良かったが、兄のその苛烈なまでに次期当主であろうとする、俺にとっては都合が良いはずのあり方もなにかを迫られているような気がして時折苦しくなる。
 家臣達の扱い辛そうに俺を見る目も煩わしかった。
 そう単純に、俺は、公爵家の人間に向かない――そんなことを思いながら、空をゆっくりと流れていく雲を眺めていたら、ぽしゃりと湖から水音がしてはっとした。

「なんだ、こりゃ。人の縄張りでなに釣りなんかしてやがると思ったら、木の枝と糸? ふざけた野郎だ……」

 寝そべっていたすぐ傍に石で固定し湖に仕掛けていた手製の釣竿を手にし、不快げに顔を顰めて、濡れた糸の先と転がっている俺を交互に見て、突然現れた少年はそう言った。

「縄張り……?」
「ここはオレの釣り場だ。ま、こんなんじゃどうにもなんねえけど」

 そう手にしていた俺の釣竿を少年は背後へと放り投げる。
 それが、俺とファルコネッロの出会いだった。

「どうにもならないのか?」
「はあ? どこのお坊ちゃんかしらねぇけど、呆れて物も言えねえよ」
 
 俺の衣服や近くの木に繋いでいる馬へとざっと目をやって、少年は言った。
 最初は、互いのことを知らずにいた。
 身なりは良かったが、俺はファルコネッロのことを貴族の子弟であると思わなかった。
 人のことをあまり言えたものではないが、それでも少年の言葉や振る舞いは貴族のそれとはかけ離れている。実際、彼は伯爵家に引き取られたばかりで、それまでは貧しくもなく豊かでもない中流の暮らしを送る平民として過ごしていたらしい。

「言ってる」
「うっせえよ。んなこといちいちつつくな」
「性分だ、言葉がちぐはぐというのはどうも」

 身を起こしながらそう返せば、変な奴と言われた。
 しかし縄張りか。

「俺は数年前から、この場所を知ってたびたび来ているのだがな……君が管理する場所とは知らなかった」
「管理……」
「縄張りというからには、なにかしら所有権か管理権を持つのだろ」
「……っ、あんた貴族か」
「まあ一応は。疎まれている次男ではあるが」

 この国において君主といった立場にある者が父で、第二王子と呼ばれている身分ではあるが。
 流石にそれを言っては相手をむやみに驚かせるばかりであろうし、それにいくら公爵家にうんざりしているとはいえ、余計な厄介事を起こして兄や父に迷惑をかけるのも本意ではない。
 
「一応……? まあいいや、貴族様の事情なんざ首突っ込んでもろくなことねえし」
「そう言ってくれると助かる」
「……変な奴。ファルコネッロだ。あんたは?」
「フェリオス」

 少年が手を差し出してきたのに、その手をとって立ち上がって名前だけを名乗った。
 彼は特に家名などは尋ねてはこなかった。
 フェリオス自体は他にいない名でもない。
 
「まさか、ここ、あんたの土地とか言わねえだろうな?」

 俺の問いを、貴族流の嫌味かなにかに受け取ったらしい。
 正直どう答えたものか迷った。
 たしかに公爵家の直轄地以外は家臣である公国貴族の領地ではあるが、分け与えているのは公爵家であり取り上げることも出来ないわけでもないから、公国全土が公爵家の土地ではある。
 しかしその権限を持っているのは公爵家当主で公国王である父であるから、俺の土地とはいえない。

「いや、違う」
「ああそう。だったらあれだ……ここが実際、誰の領地かなんて知らねえよ。なんで口止めがてらここを自由に使っていいし、なんなら釣りを教えてやってもいい」
「君はなんの権限をもたない場所だというのに、許可がいるのか」
「だからっ、んなこといちいちつつくなっての! あんただってどうせ勝手に過ごせるような場所が必要なんだろ」
「まあ」
「なら、オレとあんたは共犯ってことで。そこの馬、よさげな馬だしそこそこの家の貴族様と見た。万一の時あんたがいたら都合良さそうだ」
「……随分な取引だな、それは」
「この場所気に入ってんだろ?」
「それは」
「なら、決まりだ」

 しばらく、そう二年ほどは互いの素性を知らないままでいた。
 彼がその実力だけでなく父親の威光をも使い、入団二年で小隊長となり、異例の早さでの中隊長昇進への立ち回りで、第二王子として騎士団の長であるハサンの軍に預けられている俺のことを知るまでは。

「はあっ!? フェリオスっ、お前、第二王子殿下様ってふざけんなよっ!」
「そちらこそ……あのデキウス家の後継者候補だったとは」
「うっせえっ! あの家とは無関係だっ、てか殿下だからって私が師であることには変わりないからな」
「ああ、釣りのな。これまで通りで構わない。俺とて王に疎まれている息子だ」

 結局、互いの身分がわかったところで、自分の家と折り合いが悪い者同士変わりなかった。
 むしろ、家と折り合いが悪いことを愚痴る相手が出来た分、より親しい間柄になったともいえた。
 俺はデキウス家の当主が嫡男よりも庶子を優遇するほどのファルコネッロの優秀さを知り、一方、ファルコネッロは公爵家の中で微妙な立ち位置にあり、父親に警戒され命を狙われている節もある俺のことを知った。
 そして翌年、突然ともいえる父の逝去に兄が王位を継ぎ、ハサンを降ろして俺が騎士長に任命されることになった。
 部下としてつける信頼できるような者はいなかった。
 だから中隊長で、部下の損耗の少ない将官候補として名を上げつつあったファルコネッロを俺の副官に引っ張った。

 俺とファルコネッロは、互いのことを知らなかった頃から十年来の付き合いだ。
 もしも。
 もしも、ファルコネッロが公国に仇なす存在だというのなら。
 その動機はなんだ。
 俺との関係は、一体いつから嘘だ……。

*****

「下手に考えを巡らせるより仮眠でもとられては?」
 
 ファルコネッロと違い、兵を鍛え、まつりごとの中枢にも覚えめでたいいまの副官は俺につきっきりというわけにもいかないハサンであったが、午後になって俺の執務室にいた。
 昼食も取らず団員の処分に当たっての事務を片付けながら聞いた、彼の言葉であった。
 
「手は動かしているようだが、殿下が机上で細かなことを思案するのに向いていた記憶はない。そうでなくても、三晩かけてろくに休んでいらっしゃらないようでは、まともな考えなど浮かぶはずもない。まともな配下の者達にるいが及ばないうちに」

 お前に細かな策略など考える頭はない。そうでなくても部下に個人的な懊悩で迷惑かけるような考えが浮かぶ前に寝ろといった、ハサンの言葉にため息をつく。

 ここではないどこかへ、違う国へ行きたい――。
 為政者とならない公爵家の者が国に尽くす務めとして騎士団を選んだのは、そのためだったのかもしれない。

 公爵家の子が無謀に出れば周囲に迷惑なだけとわかっていたが、それでも俺は前に出ようとした。
 司教の稽古、騎士団の訓練、その機会あらば不必要なほど力を揮って。
 それを父親譲りのあるいは公爵家の武勇の血だと見る者もあったが、そうじゃない。
 前線へ出たかった、領土拡大を目指すというのならその戦場はこの国の涯だ――。
 戦や争いなど嫌いだ、人が血を流すところなど見たくない。
 俺は、昼寝して、詩など読んで、下手の横好きで嗜む絵など描いて、迷惑がられながらもたまに農作業など手伝って……そんな暢気さでいたいが、この国にいる限りそれは叶わないだろう。
 それなら、この国ではない地をこの目で見て踏める立場に。
 どうせだれに望まれてもいない血塗れ児というのなら、その通りに国のために殺し憎まれ、そしてまだこの国の土地となっていない場所でいずれは……かつてそんな焦燥に取り憑かれていた俺の目の前に、父に勝るとも劣らない威圧を纏って現れたのがこの男だった。
 父の腹心、当時の騎士長。

『王の命とお考えはともかく、殿下は私が引き受けましょう』
 
 騎士として認められる年齢となった俺に、ハサンはそう言った。
 背丈も体格的にもそれほど変わらないはずであるのに、二周りは大きな男にその時は見えた。

『公爵家と公国のために――』   
 
 厳かにそう言放ったハサンは、恐ろしく冷たい目をした男に見えた。
 なにを考えているかよくわからない。実際、あと一歩のところまで来ていた救いに向かったはずの急襲を受けた集落をあっさり見捨て、俺を含めた弱った者を遅れるならばと顧みることなく見限ろうとすることすらできる。
 
「殿下がご自分をどう思っていようが、公国騎士団の長。いざという時に使い物にならねば騎士団のみならず公国で暮らす者すべてが困る」
「俺が使い物にならなくなっても、貴殿がいる」
「私が公国に仇なす機会をじっと狙う者であったなら?」
「それは……」
「そのように口籠る内は、ご自分の立場を明け渡すようなことなど考えぬことだ……殿下は」

 ハサンの言葉に、執務机の上に手を組み思わず自嘲が漏れる。

「貴殿もだが、ファルコネッロからもよく無能の扱いされていた……」
「殿下」
「だからわからん……俺は誰をなにを信じればいい……」
「仮に試すための言葉だとしても、信を置いての言葉だとしても、これほど愚かな言葉もない。あの王国の王女にも同じ言葉を言ってみますか」
「なに……?」

 王の許可付きで、本部訪問の申し出がティアから届いたとハサンの言葉に目を見開いた。
 表向き俺が押さえていることになっているティアが?
 兄の許可付きで?

「このことっ」
「取次いだ者には口止めを。しかし、宮廷からの使者が動いていては、耳聡い者に伝わるのは時間の問題かと」

 王の回復の兆しと、俺が簒奪を目論んで支援者として連れてきたはずのティアが兄側に回ったと受け取られかねない申し出だった。

 ――たしかにティア王女が私の側にいてくれたらかなり心強くはあるが。
 ――ふむ、狂言でなく争うか? そうなるとフューリィ……フェリオス公弟殿下は議会を掌握しないと難しくなるが、私は介入しないぞ。

 つい先日、兄やティアと交わした会話が甦る。
 治療のためもあってティアはほとんどの時間、兄の部屋にいる。
 まだ体力は戻りきってはいないが、兄はもう会話できるほど回復している。
 短期間でやけに気安いような様子であるし、あの言葉が冗談にしてもティアを気に入っている様子なのは明白だった。
 なにより二人共、俺とは違う。
 いや、しかしだからこそそんなことはあるはずがない。
 二人が結託して動くとしたら、なにか考えがあってのことだ。
 双方の国のため――。

 ――心配しなくても王国が許すはずないだろ、お前との間だって難しいものがあるのに。

 俺に見せるティアの顔と、王国の王女としてのティアの顔はまったく違う。
 いまのあいつの考えの中に、俺とのことは含まれているのだろうか……。
 
「さしずめ、近しい者すべて敵の心境」
「ハサン……」
「やはり殿下は仮眠をとられるがよろしい。申し出の時刻は夕方まだ二刻以上もある」

 ハサンの言葉に、なにも言うことができなかった。
 彼の言う通りだ、ハサンもファルコネッロも兄も、ティアにも。
 それぞれへの疑念が俺の中にある。 

「その上で、今度こそ私の問いの答えを出すがいい」

 おそらく、宮廷へ返答するためだろう。
 俺に背を向けて執務室を出たハサンの言葉は、この状況においてはたしかに最善かもしれず……俺は従うしかなかった。
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