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スピンオフー第三王女と王国宰相
南都の大鷲
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本当に、わが弟ながらあの愚図には毎度頭が痛い。
あれは自分で少々頭が良くて要領のいい気でいるから始末に負えない。ユニウス家の男児らしい反骨精神と、親兄弟にも安易に甘えないその独立心は買ってやってもいいが、無防備で迂闊なお人好し。
どうせ「知り合いに商売をはじめたてでなかなか良い取引相手に恵まれない」あるいは「知人の店が主を失い女手一つで引き継ごうにも甘く見られて力になりたい」とでも持ちかけられたに違いない。
淑女然とした未亡人に頼られて、嬉々として取引をまとめたのに違いない。
情に厚いのは悪いことじゃない。
だが、それに目が眩むのは最悪極まりない。
人がいいだけの、愚か者では話にならん。
ユニウス家は豪商ではない。手元の富など不自由しないだけあれば十分。それに一つの家の財産など、どれほど裕福だろうがたかが知れている。
ユニウス家は手元の富を増やすことなどに興味はない。重要なのは自在に動かすことが出来る富をどれだけ増やせるかだ。
そのために商人と役人と貴族、街の住人の間に豪商を凌ぐ信用を築いてきた。
動かせるのであれば家の富も他家の富も区別をつける必要はない。豪商からも一介の商人からも役人やお貴族様からすらも金を引き出せ、集め、動かすことができる信用。街の整備に組合事務長としてその必要性を呼び掛け、資金と人足を提供すらできる信用の力。
静かに裏方に徹し、客と己、関係者すべてに利益があることにしか手を出さない。
代々に渡り実直と堅実を信条にしてきたことで得た、ユニウス家の財産。
この財産は、一人の阿呆が迂闊なことをすれば一瞬で失われる。
そして一度失えば、再び取り戻すのに気が遠くなる長い年月と努力を要する危うい財産だ。
いままさに迂闊な阿呆のために、ユニウス家の財産が脅かされそうになっている。
「やはり父上が甘やかして外に出さぬからああなる」
「兄者。チビの頃から格好の人さらいの的だ。仕方がねぇだろ。下手すりゃ家丸ごとさらわれかねん」
「まったく……高い勉強代だ」
「いや、安い買物だろ? この八ヶ月、南都においてこれ以上ない教師があの愚図が持てる武器の使い方を懇切丁寧に教えてくれたのだから」
それに、この家も南都も心置きなく出られるだろう。
結構なことだ。
商売を投げ打っての真昼の家族会議に末っ子のトリアヌスはいない。
奴自身が議題そのものであるからだ。
正面の澄まし返った兄の片眼鏡の硝子だけが光る、窓の逆光に影となっている表情は見えなくてもわかる。
いかにも善良なる南都市民然とした微笑みに目を細めているに違いない。
「なんだかんだでお前は弟が可愛いな、ルビウス」
「いい加減子守から解放されたい。大体、長兄で数字に馬鹿強いからっていち早く楽なところに収まりやがって」
「しかし学術院に出入りして遊んでいるかと思ったら、予科試験とは。あいつはやはり商人には向かないな。別件の目眩ましが必要と思っていたところだ、少々早い気もするが先行投資ということに……」
「お前達――」
父と兄とこの俺、居間のテーブルを囲みほとんど兄と二人で話していたところを上席の位置に座っていた父の声に話を止める。
「まだ家督は譲っておらん。勝手に話を進めるな」
「すみません、父上」
「悪かったよ、親父殿」
四角張った顔していながら痩せた中背で市場の人混みにすぐ紛れてしまうような、冴えない貧相な男であるのに、どうして一言で背筋に震えが走るのだか。
妙に説得力のある、重く深みを伴った賢者のごときその声音。
名誉だけの貧乏貴族の娘ながら、粗末な身なりでも輝くような銀色の髪を持つ美貌で水晶姫などと若い頃には呼ばれていたらしい俺たちの母親が、この貧相な男である父に惚れたのはあまりに名を呼ぶ声が素敵だったものだからといったふざけた理由であるらしい。
それに中身が素晴らしいもの、とも。
まあたしかに。
ユニウス家の人脈を存分に操れるだけの手腕は、兄にもこの俺にもまだない。
「金で片が付く相手なのだな?」
「まあな。お貴族様の元愛妾。自分は貞淑で慎ましやかな未亡人の顔をして街に暮らし、人を使って歓楽街で手広くやってる公認娼館主。住む場所は違えど商人であることには変わりない」
「南都において歓楽街との関わりは不名誉。ユニウス家が関わることは尚更許されない」
「ですが、その利権を握っている高貴なる方々とであれば構いませんよね。父上」
「ならさっさと片付けろ。若い男が、薄幸の未亡人に入れあげている噂で済むうちに」
やれやれ、愚弟一人の不始末のために俺たち二人が役割分担か。
一番、愛妻に似ている末の息子だからって甘やかすにもほどがある。
「まったく、父上はトリアヌスばかりを可愛がる」
「儂は三人の息子のお前達、等しく愛しているぞ。それぞれ持った才覚も誇らしい」
「けっ、トリアヌスになんの才覚がある。不器用で自己完結のお人好し、おまけに小手先ばかり器用で目先の商売さえなんとかなればよいと考えている」
「その点だけは、ルビウスと同感です。商人として実に面白みがない」
「世間知らずで世の中なめくさって、今回の件はいい薬だ。相手が相手だけにこうして集まっちゃいるがそうでなければ勝手に刺されるなり困るなりしろって話だろ」
その女がどんな背景を持つ女か調べも気が付きもせずに。
まあ家の雑用から家業に取り組み始めて三年目の十八。まだ成人したて、なんとなく商売のやり方を覚えて油断が生じる頃でもある。
百歩譲って狡猾な女に騙されるというのは大いにあり得るが、抱え込んだ厄介事が自分の手に余るものと判断出来ない奴はただの阿呆だ。
まったく。資質も見目も頭も悪くはないが、それらが全部裏目に出ている。
慎ましやかな未亡人の皮をかぶった、歓楽街の公認娼館主。
あの阿呆が引っかかったのはそいつの息がかかった小間物を扱う店。卸した化粧油は公認娼館のみならずかなりいかがわしい店にも運ばれている。
南都において娼館と関わる商売は真っ当と見做されない。まして権力者の利権が絡む公認娼館との繫がりなどいくら娼館としてはそれなりの地位を保証されていても、商人としては癒着やよからぬ利益を得ていると勘繰られかねない。
商売で騙されただけでなく、そのことを盾に言い寄られたのだろうが娼館主であり歓楽街で手広くやっている女と関係まで持っては、言い訳が立たない。
信用第一のユニウス家において致命的なことになりかねない状況を自分一人でなんとかしようとしている。
「とにかく水面下で話をつけて別れさせ、本人の希望通りに体面よく王都へ追い出す。でいいですね?」
「ま、予科試験合格なんて平民の名誉ではある。それで街も女も捨てても最低だが仕方がないと言われるだろうし?」
兄と一緒にそう言えば、だからお前達も半人前なのだと父はため息をついた。
トリアヌスと俺は三つ歳が離れている。兄はさらに加えて五つ。
俺は二十一、兄は二十六。どちらも半人前などと言われるような歳ではない。
「な、んっ……親父っ!?」
「あれの才は、商家の倅なんかではおさまらん――」
そして父の言葉通りとなった。
俺たち兄弟が裏で手を回したとも知らず、あっさりすぎるほど穏便かつ簡単にたちの良くない女と縁を切った我が愚弟は、路銀すべて自分でまかなえるなら王都へ出て官吏となってよい。しかし、官吏となれば家と一線を引けと表向き半ば勘当の形で南都を出され、呆れたことにたかだか二十年足らずで、怪物じみた老人がなるものとされていた宰相の地位に就いた。
「……出世しすぎだ、あの馬鹿者」
一国の文官の長の家だからと便宜を図ってもらえるなどとあっては、これまであらゆる階層に築いてきたユニウス家の人脈と利害を超えた信頼にひびが生じる。他人の目が厳しくやりづらい。
本当に、あの愚図は家にろくな運を持ってこない。
*****
「南都の香辛料と油脂を扱う商人、ルビウス・ユニウス殿でいらっしゃいますね?」
トリアヌス――故郷を出ていった、あの愚かな弟はろくな運を持ってこない。
この目の前にいる俺と同世代の男もきっとその一つなのに違いない。
わざわざ簡素な服装して、夕暮れ時の街の広場にその日の仕事を終えた俺を待ち伏せてきた一目で貴族とわかる手入れの良さをした青年。
「ええ、私になにか?」
一応、商売向きの礼儀と言葉遣いで応じる。
家を出てもうかれこれ十年近くになるあの愚弟は、なにやら王都で悪目立ちしているらしく、風の噂でその消息は遠く離れた俺の耳にまで聞こえてくる。
なんでも予科試験による特待で入った王立法科院とかいう王宮の高官職養成所ともいえるような学校を一番の成績で卒業したとか。
その後、王宮勤めの文官になっただけでなく、そこにひしめくお貴族様や金持ちの坊ちゃん達を押しのけて、地方平民階級出身の役人には有り得ない、異例の抜擢で出世して王宮行事を仕切る側にいるとか。
平民としてはある種の快進撃を続けているともいえる。
おかげでどこで知るのか奴の生家であると聞きつけて、腹の底になにかしら抱えた有象無象の輩が、度々こうしてやってくる。
「私は王都に近い東方外れに領地を持つ伯爵家当主ルフス・オルシーニという者です」
「……東方?」
そりゃまた随分と遠い。
王都に近いというのなら随分と北寄りだ。ここ南都とは国の対角の位置になる。
そんな場所のお貴族様の当主が、王都にいる愚弟本人でなくなんだってただの商人の家族のところにまでわざわざ。
「先に申し上げておきますが。もし、うちの愚弟と一悶着おありの貴族様でしたら私共をおさえたところでなんの意味もありません。あれとは絶縁してましてね。互いに煙たがっている間柄でして。そもそもあれは薄情で自らに降りかかった悲劇を受け入れそれに陶酔する愚か極まりない奴ですから私共に手を出したところで伯爵様になんの益ももたらしませんよ」
一息にそう伝えれば。
はあ、それはなにやら複雑なご事情があるようだ……と明らかに困惑の薄ら笑いを浮かべたため違うのかと思った。
「弟君がお嫌いで?」
「ええ。とはいえ身内の秘密を知る者を他者へ売り渡すような愚かもしません」
本心、心底からそう返答すれば、それはまた……と今度は苦笑した。
なんだこの男はと、いかにも育ちの良さそうな優雅な穏やかさを漂わせて立っている相手をあらためて観察する。
シャツに毛織物のベストを着けて、やや使い古しの茶色い細かな格子柄の入ったマントを羽織っている。どちらかといえば身分の高い貴族の旅に随伴して来ている使用人といった様子だ。
明るい亜麻色をまっすぐに顎の線で切り揃え、淡褐色の眼差しは穏やかだが油断ならない形容しがたいものを宿しているように感じられ、父に近い四角張った顔の少々厚みのある口元が見た目の上品さを裏切るどこか精力的雰囲気を漂わせている。
「ルビウス・ユニウス殿。南都の商工組合で事務長を務めていらしゃるお兄様と共に、大掛かりな商談から高度な交渉事まで引き受けている、またの名を“南都の大鷲”。私は貴方に用があって来たのですよ」
「私に?」
「ええ。私は南都の学術院長の邸宅の離れをお借りして滞在しています。よろしければ明日にでも夕食にお招きしたい」
「遠路はるばるこの街にお越しくださった伯爵様のお誘いを、一介の商人が無下にしては非礼になるでしょうね」
「私は気にしません。それに商談というものは断られるのが当然として臨むものでしょう?」
商談。
東方の貴族が、俺になんの商談というのだ。
それになぜ王宮近くに領地を持つ伯爵家当主なんて有力者といっていいような貴族が、商人同士の俺の通称なんか知っている。
それに、どうやら本当にトリアヌス絡みでもないらしい。
「わかりました。ありがたくお招きにあずかります、伯爵様」
「よかった。ではまた明日の夕べに」
応じれば人好きする様子で破顔してみせたルフス・オルシーニなる人物は、その様子俺が呆気にとられている間に広場を去っていった。
*****
私は今年三十になったばかりだ、とオルシーニ伯爵は俺を滞在先の部屋に招いた。あなたとは歳が近そうだと言って。
「同じ歳です」
「そうですか。あらたまった話し方は止してください。普段通りで結構です」
本当に、学術院長の邸宅の離れだった。
学問するには働かないで暮らす金を使えるだけの余裕がいる。学術院の講師達は貴族や富裕の家の者が多いがしかし大金持ちというほどでもない。
商家としては中堅どころのユニウス家とさほど変わらないような広さの邸宅のそばに建てられた一室しかない東屋のような離れであった。食卓となったテーブルと部屋の隅に寝台が備わっている。
家主は離れに干渉しないようで、オルシーニ伯爵は一人でいるようだった。
貴族が、従者の一人も連れずに旅するなど有り得ない。
「ただの挨拶ではなく、本当に」
俺が黙っているので、気を遣っているとでも思ったのだろう。そう、食事の用意されたテーブルについて彼は俺に席を勧めた。
「では、お言葉に甘えて」
椅子を引いて腰掛け、料理を見た。
野菜に香辛料と油をまぶして火にかけたもの、野鳥を炙ったもの、雑穀を挽いた粉で焼いたパン、香草を入れたスープ。特別豪華でも質素でもない食事だった。酒だけは貴族らしく葡萄酒のようだった。
「給仕がないのでご不便かけるでしょうが。あらためて、よくお越しくださいました」
「本当に伯爵様一人でここに?」
相手が杯を持ち上げたのに応じながら尋ねれば、従者はいるが宿は別に取らせて休ませていると彼は答えた。旅の間、四六時中、主人の側では息が詰まるだろうからと。
家督を継いだばかりでその挨拶回りで国内を周遊している途中であるらしい。
南都に縁のある者はいないが、王国最南端に栄える地方都市の近くに来て立ち寄らないのもないだろうと一昨日から滞在しているといった話だった。
「王都学術院の恩師の弟子が、この地の学術院長に就いていると聞いていたので頼った次第で」
「はあ……」
南都には高級宿もあるというのに、随分と慎ましいことだと思いながら。スープを飲んだ。
学術院長の妻は料理上手であるらしい。なかなか旨い。
塩が使われているところをみると、滞在費をはずんでいるらしい。
そもそも領地持ちの貴族が、家督を継いだばかりで領地を留守にできるといった点で余程しっかりした家に違いない。でなければただの家潰しの阿呆だ。
「流石は三大地方都市の一つです。物が豊かで、色々とよく整備されている。聞けばあなたの家も街の運営に随分と貢献しているとか? お父上殿は随分と人望の厚い方のようで」
「ただの調整役です。南都の商家として三番目に古いというだけで大した商家でなくても昨日今日赴任してきたような役人よりはそれなりに信用されている」
「成程」
少し言葉遣いをくだけたものにして会話に応じながら、ナイフの先に突き刺した小玉葱を静かに食っている男の澄ました顔を見た。
この男、家のことを調べてきていると野鳥の肉を手に持っているナイフで割く。
「信用。南都の商人組合の事務長を四代続けてなさっているとか。中堅の商人に珍しく家名をお持ちなのもそのためだと南都の役人からお聞きしました。三年前からお兄様が家督を継いで取引も少しずつ広げていると」
「まあ。随分と我が家にお詳しい」
「客人をもてなすのに、その客人のことを知り敬意を払うのは当然のことです」
「客? 敬意? 俺も家も、王都に近い領地持ちの伯爵様にそんな持ち上げられるような商人じゃありませんよ。そういったのはせめて役所通り沿いに大店を構える商人にでも向けるものでは?」
肉を食いながらそう言えば、少し間をおいて弾かれたように男は声を上げて笑いだした。
なんなんだ一体、この貴族は。
俺の知るようなのとは、様子も振る舞いも違う。
相手の言葉でようやく気がついた。彼の簡素に落とした身なりも、招かれたこの離れも食事の内容も、礼を欠くことなくあたかも自然にそうしていると思わせながら、こちらが馴染みのある普段のものの範疇に合わせているということに。
貴人であることも領主であるといった富も権威を誇示することもなく。
無意識のうちにこちらが気を許しやすくさせて、懐に入りこもうとしている。
「私に言わせれば、中堅の商家などといった評価あまりに不当でご謙遜が過ぎる。この街の財の大半を握っていらっしゃるのはあなたの家ではないですか。大店の商人? そんなもの束にしたってユニウス家の信用の力には遠く及ばない、でしょう?」
相手の思惑がはっきりしない以上、馬鹿正直に答えてやる義理はない。
しかし、普通には気がつかれないようにやっていることを知っていると、こんなに簡単に手の内を見せるなんて意味がわからない。
「昨日あなたを見て、小細工の通用する相手ではないと一目でわかりましたよ。現にもうあらゆることに気がついてもいらっしゃるようだ。流石です、立ち寄った甲斐があった」
「何故、俺に声を?」
「オルシーニ家は代々、旅人や商人と親しんできた家です。彼らは領地に定住し農耕を営む領民と違い新しい物や知見をもたらし領地の繁栄に役立つ。そんなわけで各地の有能な商人の噂はそれとなく耳に入ってくるのですよ。連絡に大鷲を使うとか? 物珍しい商人もいるものだなと思ったら、王宮で異例の速さで出世している文官の生家縁の方だと。興味を引かれるではないですか、折角南都を訪れたなら会って話してみたいと思うのが人情でしょう」
やはりまたあいつせいか、トリアヌス――!
あの愚弟……領地持ちの貴族に警戒されているなど、あいつ王宮で一体なにやらかして成り上がっている!?
「昨日も言いましが、弟はもはや家も街も捨てて王都に出ていったも同然な奴です。奴は商人に向かず、ろくに家業も覚えないまま官吏になった。器用貧乏というか変に小手先の要領がいいから官吏なんかに向いてるんでしょう」
「昨日も思ったが弟君に随分と辛辣だ」
「俺はすぐ上の兄だからと奴の尻拭いばかりさせられましたからね。上級の官吏となれば貴族や大金持ちのお坊ちゃんが多い。家柄や資力で太刀打ちできないから、多少かじった商売の知恵でも応用して小狡く立ち回ってるんでしょう。伯爵様が気に留めておくような奴じゃないですよ」
「成程、しかし王女のお気に入りでは、そういったわけにもいかない」
王女!?
たしかいまの王家に王女は四人……第一王女は侯爵家に嫁して、第二王女がそろそろ年頃のはず……あいつ一体なにやってる!?
「おや、身内のルビウス殿がご存知ない。ああそうか、王宮内部のことはあまり外部にはもれない。本当に疎遠なのですね」
商売で多少そんな向きはあったし、あいつの容貌は男女関係ない。貴族かその奥方か娘くらいたらしこんで口添えでもしてもらっているか上官に取り入って出し抜くくらいのことはしているんだろうなんて思っていたが……よりにもよって王族に手を出すなんぞ。
「なにやら随分と気骨のある弟君なようで。予科試験あがりの地方平民出身でありながら王女を後ろ盾に、上官の不正を暴いて大臣に売り飛ばす。出世のためには手段を選ばない狡猾な人物と」
「そういうのは狡猾じゃなく、馬鹿の向こう見ずって言うんですよ。王族なんて俺たちにとってはおとぎ話の住人に近い、雲の上にいる存在だ。そんなお方が後ろ盾なんて、ただ近い場所に勤めてるってだけであいつはなにを思い上がって……」
「おやおや。まあ彼が言い寄ったわけではなく、王女が勝手に彼に懐いているというか……普通の貴族上がりの子弟では恐縮しきって遊び相手にならないでしょうからねえ」
「……」
本気で殺すぞあいつ……この男の口ぶりだと王宮内の力関係の一端として黙認されているようだが、王族なんてたらしこんで万一失脚してみろ、生家であるユニウス家だってただじゃ済まない。
「まだ幼いですからあまり身分なんて区別ないでしょうし、それにアウローラ王家は実力重視で階級意識はあまりない方々ですしね」
ん?
まだ……幼い?
「第三王女のフェーベ王女は十歳、第四王女のティア王女は四歳。王宮の中庭で鞠遊びや追いかけっこに付き合わされているとか」
王女は王女でも、年頃の方じゃなく子供?
俺としたことが、乗せられた……男を見れば微笑ましいと言わんばかりの表情でにこにこしながら自分の皿の上に取り分けた料理を食べ終えて、酒の杯に口をつけている。
「あなたは沈黙がお上手だ。先程から不用意な言葉は出さない。言い繕うような嘘もつかない。弟君には多少口が悪くなるようだが」
「……」
「そう警戒なさらずに。思惑はありますがそれよりも友人になりたいと思って招いたのですから。でなきゃこんなに聞かれもしない弟さんのことなんてぺらぺら話して聞かせたりはしませんよ。公認娼館の利権を押さえている方々に介入までできるような方に」
「友人? 領地持ちの伯爵家当主が一介の商人なんかと? 警戒するなと言う方が無茶だ」
「オルシーニ家もまた、アウローラとはまた違って階級などは気にしない。現に私の従者は薔薇通りと呼ばれる王都の歓楽街出身です。有能でしてねとても」
その有能な従者になにもかも調べ上げさせた上で近づいてきたということか。
これは、貴族様だからといって適当に応じていたら痛い目を見る。
目的はなんだ、ユニウス家の財産か? だがこんな領地持ちの貴族が地方都市の利権なんかに介入してなんの利がある? 面倒ごとを抱え込むだけで旨味に欠ける。
そもそもどうしてこんな厄介そうな東方のお貴族様なんかに南都の商家が目をつけられる羽目に陥る。
これというのもやっぱりあのお人好しの愚か者が……もしや、いずれ政敵になるとでも思われていて、いまのうちに生家を掌中に納めておこうなどと目論んでいるとか、だったらとんだ迷惑だ。
話通りに狡猾にやってるならまだしも、子供の王女の遊び相手などどうせ懐かれてなし崩し的にそうなっただけのところを周囲が気を回しているのだろう。上官云々の話もどうせ青臭い義憤に駆られて動いたのがたまたま功を奏しただけに違いない。
あいつはそういった奴だ。
何故か知らんがあいつが得たいものを持っている奴を引きつけるだけ引きつけて、後の始末に周囲が巻き込まれる。
本人は不運な星回りだと思っていそうなのが、また腹が立つ。
「とにかく、弟のことはお察しの通りに嫌っている。どんな思惑があるのか知らんし、なにを聞かれたところでユニウス家はただ真っ当な商売とそのために関わる人々には貴族も役人も商人も都市の住人も分け隔てなく接し互いの利になることに尽力する。それだけだ。それがたまたま外部の人間から見てなにかありそうに見えたとしても、個別の対応が偶然重なっただけのこと」
「でしょうね。金品の利益や利権の恩恵を得ているならわかりやすいが、信用なんて目に見えないそれでいて人も金も無尽蔵に引き出せる力を持つものを財産とするなど、実に見事だ。あったところで使うには才覚を要するし、それに自身は高潔にして潔白でいなければならない」
大いに共感できると、目を伏せて頷いた男になんだと思う。
共感?
「私の家も清廉性を元手に独自の影響力を維持しているもので。“大家令”という大臣職が王宮にはあってオルシーニ家は代々世襲でその任に就いている」
「大臣……?」
「ああ、大げさにとらえないでください。大臣といっても普段はなんの権限も持たないただの名誉職で王宮に上がることもないですし、俸禄だって無いですしね」
なんの権限もなければ王宮にも上がることもなく俸禄もない。
そんな大臣があるのか。いや、その前に男はなんと言った。
「“普段は”と前置きするということは、普段じゃない時というのは」
「いい質問です。“大家令”は王が代替わりする時だけに、その戴冠式を取り仕切る。いわば次代の王の正統性を保証する役目」
「……なっ」
王の正統性を保証する!?
馬鹿を言うな、雲の上どころじゃないそんなのは、この国にとっては神みたいなものではないか。
「というわけで、私は多くの友人を必要としている。父の交友関係は引き継いでいるがそれはあくまで父の築いた人脈。私自身のというわけじゃない」
「……申し訳ないが、大臣様の話が見えない」
「貴族社会のことなんかは嫌でも耳に入ってくるが、そんなものはむしろどうでもいいようなことだ。それより貴族の立場ではなかなか見えないものを見る目と聞こえないものを聞く耳とそれを冷静に判断する賢さを持った友を必要としている」
貴族の立場ではない目と耳、そして判断を必要としている。
成程、見えてきた。
それであればユニウス家に目をつけたのも一応の納得がいく。
旅人や商人と親しんできた家。
ものは言い様だ……そういった者達から話を聞き出すことで方々の情報を得ている。
父親の交流関係、家督を継いでの各地への挨拶周り。おそらく組織的な情報網も持っているに違いない。そこへユニウス家の人脈を取り込みたいというなら合点がいく。
あの愚弟が王族なんかと親しいならその動向もだろう、あいにくそこはまったくもって役に立たないとしか言えないが。
「そういえば昨日は商談と仰っていた。俺に一体どんな御用向きで?」
「広域の商売に乗り出すご興味は」
「なに?」
「そうですね。手始めに西方自治領、そして西と南にまたがる港湾地帯、南北を隔てる砂原に点在する自立緑地都市、東方の水道拠点都市……ゆくゆくはヒューペリオ公国なんかとも」
「は? ユニウス家の財産に目をつけたのでは?」
「それは魅力的ではあるものの、あなたやあなたの家は許さないでしょう。ならそれを操れる才覚に目をつけるのが合理的。つまりはあなた自身。最初からそう言っているつもりでいますが」
「……公国はともかく。どこもその地の有力商が取引を牛耳っている。交易組織はその地の民だ。取引を結びつけるだけでも難しいのに、よその人間が割り込んで利権を害し商売なんて旅商人でも有り得ない」
「まあそこは、名誉だけでも大臣職の貴族です。彼等を怒らせない程度の特権を調整づけることくらいは。こればかりはどんな旅人や商人でもというわけにはいかなくてね」
広域の商売を隠れ蓑にした、王国中に巡らされた情報網の再構築。
それも王権が及ばない自治区や都市を含めた。
それだけでもものすごく旨味のある話だ。蠱惑的ですらある。それは王国全土に渡る商人の情報網……しかもそこで動く者達は自分がどんな役割を演じているか知らない。
ただ組合に注意すべきことを報告し、商人仲間同士の情報交換しているだけ。
しかし。
「そんな大掛かりなこと、ユニウス家の商売の範疇外だ」
「そう仰ると思いましたが、しかしこれは万一の時、ユニウス家の財産に対する保険にもなる」
「保険? 危険の間違いだろ」
「弟君は早晩、抜擢人事で高官職へ繋がる立場に就く。そうなれば働き如何で長官職や宰相ですら手が届く。それは必ずしもユニウス家にとって手放しで喜べることではないのでは?」
「いくら王女の後ろ盾があるにしてもそんな無茶苦茶が」
「通用しますよ。彼にはそれだけの条件が揃っている」
「……条件?」
「いまは子供でもそのうち成長する王女が二人も彼に懐いている。おまけに彼は王宮の駒として非公式の調査にも関わっている。いつまでも上級官吏を部署単位でまとめる中途半端な監督職程度で遊ばせておくわけがない。彼はもう王の側近候補です」
あいつが?
冗談じゃない。そんなことになったら一体周囲からどんな目で見られるか。
中央から便宜を図ってもらっているなんてなったら。
「そこで、“大家令”である私の影響下に入っておくことの意味が出てくる。一介の商人はその辺りの機微は知らずとも貴族や官吏や大商人ならわかる話です。そういったことはなんとなく知らぬ者達の間に雰囲気で伝わるものでしょう。しかも王家と敵対しているわけじゃない」
人の機微に敏感で、便利なものは使い倒すのがあなた方では?
「……俺が表立つのは困る」
「なら代表などは他を当たりましょう。あなたはあくまで一員というだけで」
「何故そこまで俺を立てる?」
「鷲というのは使うのではなく仕えるものとか……」
「ん?」
「勇猛な鳥の信頼と結びつきを得られれば、唯一無二の友にもなると」
――“南都の大鷲”と友になりたいのですよ、私は。
「大臣職の伯爵様がか?」
「友に身分は関係ないでしょう。境遇含めてあなたとは気が合いそうだと勝手に思ってまして。それにあなたは一つの街の商売なんかでは満足できないはず」
口元をつりあげたお貴族様に、俺は自分の杯に葡萄酒をなみなみと注いで一息に呷った。
嫌な笑みだ。
だが信用できる笑みだと思った。
「すぐに返事はできない」
「もちろん。あと五日います。それで答えが出ないのならそれは無理だということです」
「一つ聞くが、その“大家令”って世襲で負わされる役目を面倒だと思ったことは?」
代々にわたって清廉性を保つなど、なかなかしんどいことだ。
代が続くほどその重みは増していく。
「ありませんね」
「むっ」
「“王”を審査し監視できる役目ですよ? こんな楽しいことが出来るなら容易いことです」
たしかに、気は合うかもしれない。
*****
一風変わった大臣職のお貴族様と交流を持ってさらに十年以上の年月が流れた秋。
収穫祭の商売に俺は公国へ入った。
王国とは小競り合いの最中。国交も制限されていると聞いていたが案外すんなりと公国王都に入れた。
まあ、ちょっとした厄介事はあったが。
それもまた、いまや迷惑にも王国宰相なんてものになってしまっているあの愚弟絡みであったが。
「いまも、あいつの尻拭いに間接的に関わることになっているわけだが……どうなってんだ、王宮は」
まったく王国のティア王女が公国入りしているだと。
事故で片付けられているが東都では毒騒動、同時期に王宮では第三王女の暗殺未遂。
オルシーニ家の知らせではこの非常時に王は王宮を抜け出しているという。恐らくは王宮内でくすぶっているらしい戦をしたい奴らの議論を表立たせないための措置だろうが。
王抜きでそんな大事勝手に議論なんかできるはずもない。
俺に関係あることじゃないが、国が危うくなれば商売だって危うくなる。
あれだけ国内の体制に注力していてこれでは片手落ちもいいところだあの愚図は。
狭い範囲のことにとらわれがち、自分の力でどうにかなると考えがちなのはいまも変わらず。
成長がない。
本当に。
「半ば戦を仕掛けられている形になっている以上、王国自ら公国に向けて動くことはできない。公国の王弟からの要請で単身赴いたティア王女の手引きで外交問題で処理する算段だろうが……」
市中があまりにきな臭い。
歓楽街で見聞きする帝国兵の数、騎士団の風紀の緩みも進んでいる。
それでいて帝国の属国になっているはずが、その支配者の影がいまひとつ薄い。
諸々、なにかしら工作されているとしか思えない。
「こんなところに乗り込んできたところで、あの愚図になにができる。相変わらず詰めの甘い」
ま、俺は俺の商売と友の頼みごとに動くのみだ。
そう思いながら顔を洗って、宿を出る。
公国滞在中にあの愚弟、トリアヌスと顔を合わせるようなことだけにはならないことを願いつつ歩いた。
あれは自分で少々頭が良くて要領のいい気でいるから始末に負えない。ユニウス家の男児らしい反骨精神と、親兄弟にも安易に甘えないその独立心は買ってやってもいいが、無防備で迂闊なお人好し。
どうせ「知り合いに商売をはじめたてでなかなか良い取引相手に恵まれない」あるいは「知人の店が主を失い女手一つで引き継ごうにも甘く見られて力になりたい」とでも持ちかけられたに違いない。
淑女然とした未亡人に頼られて、嬉々として取引をまとめたのに違いない。
情に厚いのは悪いことじゃない。
だが、それに目が眩むのは最悪極まりない。
人がいいだけの、愚か者では話にならん。
ユニウス家は豪商ではない。手元の富など不自由しないだけあれば十分。それに一つの家の財産など、どれほど裕福だろうがたかが知れている。
ユニウス家は手元の富を増やすことなどに興味はない。重要なのは自在に動かすことが出来る富をどれだけ増やせるかだ。
そのために商人と役人と貴族、街の住人の間に豪商を凌ぐ信用を築いてきた。
動かせるのであれば家の富も他家の富も区別をつける必要はない。豪商からも一介の商人からも役人やお貴族様からすらも金を引き出せ、集め、動かすことができる信用。街の整備に組合事務長としてその必要性を呼び掛け、資金と人足を提供すらできる信用の力。
静かに裏方に徹し、客と己、関係者すべてに利益があることにしか手を出さない。
代々に渡り実直と堅実を信条にしてきたことで得た、ユニウス家の財産。
この財産は、一人の阿呆が迂闊なことをすれば一瞬で失われる。
そして一度失えば、再び取り戻すのに気が遠くなる長い年月と努力を要する危うい財産だ。
いままさに迂闊な阿呆のために、ユニウス家の財産が脅かされそうになっている。
「やはり父上が甘やかして外に出さぬからああなる」
「兄者。チビの頃から格好の人さらいの的だ。仕方がねぇだろ。下手すりゃ家丸ごとさらわれかねん」
「まったく……高い勉強代だ」
「いや、安い買物だろ? この八ヶ月、南都においてこれ以上ない教師があの愚図が持てる武器の使い方を懇切丁寧に教えてくれたのだから」
それに、この家も南都も心置きなく出られるだろう。
結構なことだ。
商売を投げ打っての真昼の家族会議に末っ子のトリアヌスはいない。
奴自身が議題そのものであるからだ。
正面の澄まし返った兄の片眼鏡の硝子だけが光る、窓の逆光に影となっている表情は見えなくてもわかる。
いかにも善良なる南都市民然とした微笑みに目を細めているに違いない。
「なんだかんだでお前は弟が可愛いな、ルビウス」
「いい加減子守から解放されたい。大体、長兄で数字に馬鹿強いからっていち早く楽なところに収まりやがって」
「しかし学術院に出入りして遊んでいるかと思ったら、予科試験とは。あいつはやはり商人には向かないな。別件の目眩ましが必要と思っていたところだ、少々早い気もするが先行投資ということに……」
「お前達――」
父と兄とこの俺、居間のテーブルを囲みほとんど兄と二人で話していたところを上席の位置に座っていた父の声に話を止める。
「まだ家督は譲っておらん。勝手に話を進めるな」
「すみません、父上」
「悪かったよ、親父殿」
四角張った顔していながら痩せた中背で市場の人混みにすぐ紛れてしまうような、冴えない貧相な男であるのに、どうして一言で背筋に震えが走るのだか。
妙に説得力のある、重く深みを伴った賢者のごときその声音。
名誉だけの貧乏貴族の娘ながら、粗末な身なりでも輝くような銀色の髪を持つ美貌で水晶姫などと若い頃には呼ばれていたらしい俺たちの母親が、この貧相な男である父に惚れたのはあまりに名を呼ぶ声が素敵だったものだからといったふざけた理由であるらしい。
それに中身が素晴らしいもの、とも。
まあたしかに。
ユニウス家の人脈を存分に操れるだけの手腕は、兄にもこの俺にもまだない。
「金で片が付く相手なのだな?」
「まあな。お貴族様の元愛妾。自分は貞淑で慎ましやかな未亡人の顔をして街に暮らし、人を使って歓楽街で手広くやってる公認娼館主。住む場所は違えど商人であることには変わりない」
「南都において歓楽街との関わりは不名誉。ユニウス家が関わることは尚更許されない」
「ですが、その利権を握っている高貴なる方々とであれば構いませんよね。父上」
「ならさっさと片付けろ。若い男が、薄幸の未亡人に入れあげている噂で済むうちに」
やれやれ、愚弟一人の不始末のために俺たち二人が役割分担か。
一番、愛妻に似ている末の息子だからって甘やかすにもほどがある。
「まったく、父上はトリアヌスばかりを可愛がる」
「儂は三人の息子のお前達、等しく愛しているぞ。それぞれ持った才覚も誇らしい」
「けっ、トリアヌスになんの才覚がある。不器用で自己完結のお人好し、おまけに小手先ばかり器用で目先の商売さえなんとかなればよいと考えている」
「その点だけは、ルビウスと同感です。商人として実に面白みがない」
「世間知らずで世の中なめくさって、今回の件はいい薬だ。相手が相手だけにこうして集まっちゃいるがそうでなければ勝手に刺されるなり困るなりしろって話だろ」
その女がどんな背景を持つ女か調べも気が付きもせずに。
まあ家の雑用から家業に取り組み始めて三年目の十八。まだ成人したて、なんとなく商売のやり方を覚えて油断が生じる頃でもある。
百歩譲って狡猾な女に騙されるというのは大いにあり得るが、抱え込んだ厄介事が自分の手に余るものと判断出来ない奴はただの阿呆だ。
まったく。資質も見目も頭も悪くはないが、それらが全部裏目に出ている。
慎ましやかな未亡人の皮をかぶった、歓楽街の公認娼館主。
あの阿呆が引っかかったのはそいつの息がかかった小間物を扱う店。卸した化粧油は公認娼館のみならずかなりいかがわしい店にも運ばれている。
南都において娼館と関わる商売は真っ当と見做されない。まして権力者の利権が絡む公認娼館との繫がりなどいくら娼館としてはそれなりの地位を保証されていても、商人としては癒着やよからぬ利益を得ていると勘繰られかねない。
商売で騙されただけでなく、そのことを盾に言い寄られたのだろうが娼館主であり歓楽街で手広くやっている女と関係まで持っては、言い訳が立たない。
信用第一のユニウス家において致命的なことになりかねない状況を自分一人でなんとかしようとしている。
「とにかく水面下で話をつけて別れさせ、本人の希望通りに体面よく王都へ追い出す。でいいですね?」
「ま、予科試験合格なんて平民の名誉ではある。それで街も女も捨てても最低だが仕方がないと言われるだろうし?」
兄と一緒にそう言えば、だからお前達も半人前なのだと父はため息をついた。
トリアヌスと俺は三つ歳が離れている。兄はさらに加えて五つ。
俺は二十一、兄は二十六。どちらも半人前などと言われるような歳ではない。
「な、んっ……親父っ!?」
「あれの才は、商家の倅なんかではおさまらん――」
そして父の言葉通りとなった。
俺たち兄弟が裏で手を回したとも知らず、あっさりすぎるほど穏便かつ簡単にたちの良くない女と縁を切った我が愚弟は、路銀すべて自分でまかなえるなら王都へ出て官吏となってよい。しかし、官吏となれば家と一線を引けと表向き半ば勘当の形で南都を出され、呆れたことにたかだか二十年足らずで、怪物じみた老人がなるものとされていた宰相の地位に就いた。
「……出世しすぎだ、あの馬鹿者」
一国の文官の長の家だからと便宜を図ってもらえるなどとあっては、これまであらゆる階層に築いてきたユニウス家の人脈と利害を超えた信頼にひびが生じる。他人の目が厳しくやりづらい。
本当に、あの愚図は家にろくな運を持ってこない。
*****
「南都の香辛料と油脂を扱う商人、ルビウス・ユニウス殿でいらっしゃいますね?」
トリアヌス――故郷を出ていった、あの愚かな弟はろくな運を持ってこない。
この目の前にいる俺と同世代の男もきっとその一つなのに違いない。
わざわざ簡素な服装して、夕暮れ時の街の広場にその日の仕事を終えた俺を待ち伏せてきた一目で貴族とわかる手入れの良さをした青年。
「ええ、私になにか?」
一応、商売向きの礼儀と言葉遣いで応じる。
家を出てもうかれこれ十年近くになるあの愚弟は、なにやら王都で悪目立ちしているらしく、風の噂でその消息は遠く離れた俺の耳にまで聞こえてくる。
なんでも予科試験による特待で入った王立法科院とかいう王宮の高官職養成所ともいえるような学校を一番の成績で卒業したとか。
その後、王宮勤めの文官になっただけでなく、そこにひしめくお貴族様や金持ちの坊ちゃん達を押しのけて、地方平民階級出身の役人には有り得ない、異例の抜擢で出世して王宮行事を仕切る側にいるとか。
平民としてはある種の快進撃を続けているともいえる。
おかげでどこで知るのか奴の生家であると聞きつけて、腹の底になにかしら抱えた有象無象の輩が、度々こうしてやってくる。
「私は王都に近い東方外れに領地を持つ伯爵家当主ルフス・オルシーニという者です」
「……東方?」
そりゃまた随分と遠い。
王都に近いというのなら随分と北寄りだ。ここ南都とは国の対角の位置になる。
そんな場所のお貴族様の当主が、王都にいる愚弟本人でなくなんだってただの商人の家族のところにまでわざわざ。
「先に申し上げておきますが。もし、うちの愚弟と一悶着おありの貴族様でしたら私共をおさえたところでなんの意味もありません。あれとは絶縁してましてね。互いに煙たがっている間柄でして。そもそもあれは薄情で自らに降りかかった悲劇を受け入れそれに陶酔する愚か極まりない奴ですから私共に手を出したところで伯爵様になんの益ももたらしませんよ」
一息にそう伝えれば。
はあ、それはなにやら複雑なご事情があるようだ……と明らかに困惑の薄ら笑いを浮かべたため違うのかと思った。
「弟君がお嫌いで?」
「ええ。とはいえ身内の秘密を知る者を他者へ売り渡すような愚かもしません」
本心、心底からそう返答すれば、それはまた……と今度は苦笑した。
なんだこの男はと、いかにも育ちの良さそうな優雅な穏やかさを漂わせて立っている相手をあらためて観察する。
シャツに毛織物のベストを着けて、やや使い古しの茶色い細かな格子柄の入ったマントを羽織っている。どちらかといえば身分の高い貴族の旅に随伴して来ている使用人といった様子だ。
明るい亜麻色をまっすぐに顎の線で切り揃え、淡褐色の眼差しは穏やかだが油断ならない形容しがたいものを宿しているように感じられ、父に近い四角張った顔の少々厚みのある口元が見た目の上品さを裏切るどこか精力的雰囲気を漂わせている。
「ルビウス・ユニウス殿。南都の商工組合で事務長を務めていらしゃるお兄様と共に、大掛かりな商談から高度な交渉事まで引き受けている、またの名を“南都の大鷲”。私は貴方に用があって来たのですよ」
「私に?」
「ええ。私は南都の学術院長の邸宅の離れをお借りして滞在しています。よろしければ明日にでも夕食にお招きしたい」
「遠路はるばるこの街にお越しくださった伯爵様のお誘いを、一介の商人が無下にしては非礼になるでしょうね」
「私は気にしません。それに商談というものは断られるのが当然として臨むものでしょう?」
商談。
東方の貴族が、俺になんの商談というのだ。
それになぜ王宮近くに領地を持つ伯爵家当主なんて有力者といっていいような貴族が、商人同士の俺の通称なんか知っている。
それに、どうやら本当にトリアヌス絡みでもないらしい。
「わかりました。ありがたくお招きにあずかります、伯爵様」
「よかった。ではまた明日の夕べに」
応じれば人好きする様子で破顔してみせたルフス・オルシーニなる人物は、その様子俺が呆気にとられている間に広場を去っていった。
*****
私は今年三十になったばかりだ、とオルシーニ伯爵は俺を滞在先の部屋に招いた。あなたとは歳が近そうだと言って。
「同じ歳です」
「そうですか。あらたまった話し方は止してください。普段通りで結構です」
本当に、学術院長の邸宅の離れだった。
学問するには働かないで暮らす金を使えるだけの余裕がいる。学術院の講師達は貴族や富裕の家の者が多いがしかし大金持ちというほどでもない。
商家としては中堅どころのユニウス家とさほど変わらないような広さの邸宅のそばに建てられた一室しかない東屋のような離れであった。食卓となったテーブルと部屋の隅に寝台が備わっている。
家主は離れに干渉しないようで、オルシーニ伯爵は一人でいるようだった。
貴族が、従者の一人も連れずに旅するなど有り得ない。
「ただの挨拶ではなく、本当に」
俺が黙っているので、気を遣っているとでも思ったのだろう。そう、食事の用意されたテーブルについて彼は俺に席を勧めた。
「では、お言葉に甘えて」
椅子を引いて腰掛け、料理を見た。
野菜に香辛料と油をまぶして火にかけたもの、野鳥を炙ったもの、雑穀を挽いた粉で焼いたパン、香草を入れたスープ。特別豪華でも質素でもない食事だった。酒だけは貴族らしく葡萄酒のようだった。
「給仕がないのでご不便かけるでしょうが。あらためて、よくお越しくださいました」
「本当に伯爵様一人でここに?」
相手が杯を持ち上げたのに応じながら尋ねれば、従者はいるが宿は別に取らせて休ませていると彼は答えた。旅の間、四六時中、主人の側では息が詰まるだろうからと。
家督を継いだばかりでその挨拶回りで国内を周遊している途中であるらしい。
南都に縁のある者はいないが、王国最南端に栄える地方都市の近くに来て立ち寄らないのもないだろうと一昨日から滞在しているといった話だった。
「王都学術院の恩師の弟子が、この地の学術院長に就いていると聞いていたので頼った次第で」
「はあ……」
南都には高級宿もあるというのに、随分と慎ましいことだと思いながら。スープを飲んだ。
学術院長の妻は料理上手であるらしい。なかなか旨い。
塩が使われているところをみると、滞在費をはずんでいるらしい。
そもそも領地持ちの貴族が、家督を継いだばかりで領地を留守にできるといった点で余程しっかりした家に違いない。でなければただの家潰しの阿呆だ。
「流石は三大地方都市の一つです。物が豊かで、色々とよく整備されている。聞けばあなたの家も街の運営に随分と貢献しているとか? お父上殿は随分と人望の厚い方のようで」
「ただの調整役です。南都の商家として三番目に古いというだけで大した商家でなくても昨日今日赴任してきたような役人よりはそれなりに信用されている」
「成程」
少し言葉遣いをくだけたものにして会話に応じながら、ナイフの先に突き刺した小玉葱を静かに食っている男の澄ました顔を見た。
この男、家のことを調べてきていると野鳥の肉を手に持っているナイフで割く。
「信用。南都の商人組合の事務長を四代続けてなさっているとか。中堅の商人に珍しく家名をお持ちなのもそのためだと南都の役人からお聞きしました。三年前からお兄様が家督を継いで取引も少しずつ広げていると」
「まあ。随分と我が家にお詳しい」
「客人をもてなすのに、その客人のことを知り敬意を払うのは当然のことです」
「客? 敬意? 俺も家も、王都に近い領地持ちの伯爵様にそんな持ち上げられるような商人じゃありませんよ。そういったのはせめて役所通り沿いに大店を構える商人にでも向けるものでは?」
肉を食いながらそう言えば、少し間をおいて弾かれたように男は声を上げて笑いだした。
なんなんだ一体、この貴族は。
俺の知るようなのとは、様子も振る舞いも違う。
相手の言葉でようやく気がついた。彼の簡素に落とした身なりも、招かれたこの離れも食事の内容も、礼を欠くことなくあたかも自然にそうしていると思わせながら、こちらが馴染みのある普段のものの範疇に合わせているということに。
貴人であることも領主であるといった富も権威を誇示することもなく。
無意識のうちにこちらが気を許しやすくさせて、懐に入りこもうとしている。
「私に言わせれば、中堅の商家などといった評価あまりに不当でご謙遜が過ぎる。この街の財の大半を握っていらっしゃるのはあなたの家ではないですか。大店の商人? そんなもの束にしたってユニウス家の信用の力には遠く及ばない、でしょう?」
相手の思惑がはっきりしない以上、馬鹿正直に答えてやる義理はない。
しかし、普通には気がつかれないようにやっていることを知っていると、こんなに簡単に手の内を見せるなんて意味がわからない。
「昨日あなたを見て、小細工の通用する相手ではないと一目でわかりましたよ。現にもうあらゆることに気がついてもいらっしゃるようだ。流石です、立ち寄った甲斐があった」
「何故、俺に声を?」
「オルシーニ家は代々、旅人や商人と親しんできた家です。彼らは領地に定住し農耕を営む領民と違い新しい物や知見をもたらし領地の繁栄に役立つ。そんなわけで各地の有能な商人の噂はそれとなく耳に入ってくるのですよ。連絡に大鷲を使うとか? 物珍しい商人もいるものだなと思ったら、王宮で異例の速さで出世している文官の生家縁の方だと。興味を引かれるではないですか、折角南都を訪れたなら会って話してみたいと思うのが人情でしょう」
やはりまたあいつせいか、トリアヌス――!
あの愚弟……領地持ちの貴族に警戒されているなど、あいつ王宮で一体なにやらかして成り上がっている!?
「昨日も言いましが、弟はもはや家も街も捨てて王都に出ていったも同然な奴です。奴は商人に向かず、ろくに家業も覚えないまま官吏になった。器用貧乏というか変に小手先の要領がいいから官吏なんかに向いてるんでしょう」
「昨日も思ったが弟君に随分と辛辣だ」
「俺はすぐ上の兄だからと奴の尻拭いばかりさせられましたからね。上級の官吏となれば貴族や大金持ちのお坊ちゃんが多い。家柄や資力で太刀打ちできないから、多少かじった商売の知恵でも応用して小狡く立ち回ってるんでしょう。伯爵様が気に留めておくような奴じゃないですよ」
「成程、しかし王女のお気に入りでは、そういったわけにもいかない」
王女!?
たしかいまの王家に王女は四人……第一王女は侯爵家に嫁して、第二王女がそろそろ年頃のはず……あいつ一体なにやってる!?
「おや、身内のルビウス殿がご存知ない。ああそうか、王宮内部のことはあまり外部にはもれない。本当に疎遠なのですね」
商売で多少そんな向きはあったし、あいつの容貌は男女関係ない。貴族かその奥方か娘くらいたらしこんで口添えでもしてもらっているか上官に取り入って出し抜くくらいのことはしているんだろうなんて思っていたが……よりにもよって王族に手を出すなんぞ。
「なにやら随分と気骨のある弟君なようで。予科試験あがりの地方平民出身でありながら王女を後ろ盾に、上官の不正を暴いて大臣に売り飛ばす。出世のためには手段を選ばない狡猾な人物と」
「そういうのは狡猾じゃなく、馬鹿の向こう見ずって言うんですよ。王族なんて俺たちにとってはおとぎ話の住人に近い、雲の上にいる存在だ。そんなお方が後ろ盾なんて、ただ近い場所に勤めてるってだけであいつはなにを思い上がって……」
「おやおや。まあ彼が言い寄ったわけではなく、王女が勝手に彼に懐いているというか……普通の貴族上がりの子弟では恐縮しきって遊び相手にならないでしょうからねえ」
「……」
本気で殺すぞあいつ……この男の口ぶりだと王宮内の力関係の一端として黙認されているようだが、王族なんてたらしこんで万一失脚してみろ、生家であるユニウス家だってただじゃ済まない。
「まだ幼いですからあまり身分なんて区別ないでしょうし、それにアウローラ王家は実力重視で階級意識はあまりない方々ですしね」
ん?
まだ……幼い?
「第三王女のフェーベ王女は十歳、第四王女のティア王女は四歳。王宮の中庭で鞠遊びや追いかけっこに付き合わされているとか」
王女は王女でも、年頃の方じゃなく子供?
俺としたことが、乗せられた……男を見れば微笑ましいと言わんばかりの表情でにこにこしながら自分の皿の上に取り分けた料理を食べ終えて、酒の杯に口をつけている。
「あなたは沈黙がお上手だ。先程から不用意な言葉は出さない。言い繕うような嘘もつかない。弟君には多少口が悪くなるようだが」
「……」
「そう警戒なさらずに。思惑はありますがそれよりも友人になりたいと思って招いたのですから。でなきゃこんなに聞かれもしない弟さんのことなんてぺらぺら話して聞かせたりはしませんよ。公認娼館の利権を押さえている方々に介入までできるような方に」
「友人? 領地持ちの伯爵家当主が一介の商人なんかと? 警戒するなと言う方が無茶だ」
「オルシーニ家もまた、アウローラとはまた違って階級などは気にしない。現に私の従者は薔薇通りと呼ばれる王都の歓楽街出身です。有能でしてねとても」
その有能な従者になにもかも調べ上げさせた上で近づいてきたということか。
これは、貴族様だからといって適当に応じていたら痛い目を見る。
目的はなんだ、ユニウス家の財産か? だがこんな領地持ちの貴族が地方都市の利権なんかに介入してなんの利がある? 面倒ごとを抱え込むだけで旨味に欠ける。
そもそもどうしてこんな厄介そうな東方のお貴族様なんかに南都の商家が目をつけられる羽目に陥る。
これというのもやっぱりあのお人好しの愚か者が……もしや、いずれ政敵になるとでも思われていて、いまのうちに生家を掌中に納めておこうなどと目論んでいるとか、だったらとんだ迷惑だ。
話通りに狡猾にやってるならまだしも、子供の王女の遊び相手などどうせ懐かれてなし崩し的にそうなっただけのところを周囲が気を回しているのだろう。上官云々の話もどうせ青臭い義憤に駆られて動いたのがたまたま功を奏しただけに違いない。
あいつはそういった奴だ。
何故か知らんがあいつが得たいものを持っている奴を引きつけるだけ引きつけて、後の始末に周囲が巻き込まれる。
本人は不運な星回りだと思っていそうなのが、また腹が立つ。
「とにかく、弟のことはお察しの通りに嫌っている。どんな思惑があるのか知らんし、なにを聞かれたところでユニウス家はただ真っ当な商売とそのために関わる人々には貴族も役人も商人も都市の住人も分け隔てなく接し互いの利になることに尽力する。それだけだ。それがたまたま外部の人間から見てなにかありそうに見えたとしても、個別の対応が偶然重なっただけのこと」
「でしょうね。金品の利益や利権の恩恵を得ているならわかりやすいが、信用なんて目に見えないそれでいて人も金も無尽蔵に引き出せる力を持つものを財産とするなど、実に見事だ。あったところで使うには才覚を要するし、それに自身は高潔にして潔白でいなければならない」
大いに共感できると、目を伏せて頷いた男になんだと思う。
共感?
「私の家も清廉性を元手に独自の影響力を維持しているもので。“大家令”という大臣職が王宮にはあってオルシーニ家は代々世襲でその任に就いている」
「大臣……?」
「ああ、大げさにとらえないでください。大臣といっても普段はなんの権限も持たないただの名誉職で王宮に上がることもないですし、俸禄だって無いですしね」
なんの権限もなければ王宮にも上がることもなく俸禄もない。
そんな大臣があるのか。いや、その前に男はなんと言った。
「“普段は”と前置きするということは、普段じゃない時というのは」
「いい質問です。“大家令”は王が代替わりする時だけに、その戴冠式を取り仕切る。いわば次代の王の正統性を保証する役目」
「……なっ」
王の正統性を保証する!?
馬鹿を言うな、雲の上どころじゃないそんなのは、この国にとっては神みたいなものではないか。
「というわけで、私は多くの友人を必要としている。父の交友関係は引き継いでいるがそれはあくまで父の築いた人脈。私自身のというわけじゃない」
「……申し訳ないが、大臣様の話が見えない」
「貴族社会のことなんかは嫌でも耳に入ってくるが、そんなものはむしろどうでもいいようなことだ。それより貴族の立場ではなかなか見えないものを見る目と聞こえないものを聞く耳とそれを冷静に判断する賢さを持った友を必要としている」
貴族の立場ではない目と耳、そして判断を必要としている。
成程、見えてきた。
それであればユニウス家に目をつけたのも一応の納得がいく。
旅人や商人と親しんできた家。
ものは言い様だ……そういった者達から話を聞き出すことで方々の情報を得ている。
父親の交流関係、家督を継いでの各地への挨拶周り。おそらく組織的な情報網も持っているに違いない。そこへユニウス家の人脈を取り込みたいというなら合点がいく。
あの愚弟が王族なんかと親しいならその動向もだろう、あいにくそこはまったくもって役に立たないとしか言えないが。
「そういえば昨日は商談と仰っていた。俺に一体どんな御用向きで?」
「広域の商売に乗り出すご興味は」
「なに?」
「そうですね。手始めに西方自治領、そして西と南にまたがる港湾地帯、南北を隔てる砂原に点在する自立緑地都市、東方の水道拠点都市……ゆくゆくはヒューペリオ公国なんかとも」
「は? ユニウス家の財産に目をつけたのでは?」
「それは魅力的ではあるものの、あなたやあなたの家は許さないでしょう。ならそれを操れる才覚に目をつけるのが合理的。つまりはあなた自身。最初からそう言っているつもりでいますが」
「……公国はともかく。どこもその地の有力商が取引を牛耳っている。交易組織はその地の民だ。取引を結びつけるだけでも難しいのに、よその人間が割り込んで利権を害し商売なんて旅商人でも有り得ない」
「まあそこは、名誉だけでも大臣職の貴族です。彼等を怒らせない程度の特権を調整づけることくらいは。こればかりはどんな旅人や商人でもというわけにはいかなくてね」
広域の商売を隠れ蓑にした、王国中に巡らされた情報網の再構築。
それも王権が及ばない自治区や都市を含めた。
それだけでもものすごく旨味のある話だ。蠱惑的ですらある。それは王国全土に渡る商人の情報網……しかもそこで動く者達は自分がどんな役割を演じているか知らない。
ただ組合に注意すべきことを報告し、商人仲間同士の情報交換しているだけ。
しかし。
「そんな大掛かりなこと、ユニウス家の商売の範疇外だ」
「そう仰ると思いましたが、しかしこれは万一の時、ユニウス家の財産に対する保険にもなる」
「保険? 危険の間違いだろ」
「弟君は早晩、抜擢人事で高官職へ繋がる立場に就く。そうなれば働き如何で長官職や宰相ですら手が届く。それは必ずしもユニウス家にとって手放しで喜べることではないのでは?」
「いくら王女の後ろ盾があるにしてもそんな無茶苦茶が」
「通用しますよ。彼にはそれだけの条件が揃っている」
「……条件?」
「いまは子供でもそのうち成長する王女が二人も彼に懐いている。おまけに彼は王宮の駒として非公式の調査にも関わっている。いつまでも上級官吏を部署単位でまとめる中途半端な監督職程度で遊ばせておくわけがない。彼はもう王の側近候補です」
あいつが?
冗談じゃない。そんなことになったら一体周囲からどんな目で見られるか。
中央から便宜を図ってもらっているなんてなったら。
「そこで、“大家令”である私の影響下に入っておくことの意味が出てくる。一介の商人はその辺りの機微は知らずとも貴族や官吏や大商人ならわかる話です。そういったことはなんとなく知らぬ者達の間に雰囲気で伝わるものでしょう。しかも王家と敵対しているわけじゃない」
人の機微に敏感で、便利なものは使い倒すのがあなた方では?
「……俺が表立つのは困る」
「なら代表などは他を当たりましょう。あなたはあくまで一員というだけで」
「何故そこまで俺を立てる?」
「鷲というのは使うのではなく仕えるものとか……」
「ん?」
「勇猛な鳥の信頼と結びつきを得られれば、唯一無二の友にもなると」
――“南都の大鷲”と友になりたいのですよ、私は。
「大臣職の伯爵様がか?」
「友に身分は関係ないでしょう。境遇含めてあなたとは気が合いそうだと勝手に思ってまして。それにあなたは一つの街の商売なんかでは満足できないはず」
口元をつりあげたお貴族様に、俺は自分の杯に葡萄酒をなみなみと注いで一息に呷った。
嫌な笑みだ。
だが信用できる笑みだと思った。
「すぐに返事はできない」
「もちろん。あと五日います。それで答えが出ないのならそれは無理だということです」
「一つ聞くが、その“大家令”って世襲で負わされる役目を面倒だと思ったことは?」
代々にわたって清廉性を保つなど、なかなかしんどいことだ。
代が続くほどその重みは増していく。
「ありませんね」
「むっ」
「“王”を審査し監視できる役目ですよ? こんな楽しいことが出来るなら容易いことです」
たしかに、気は合うかもしれない。
*****
一風変わった大臣職のお貴族様と交流を持ってさらに十年以上の年月が流れた秋。
収穫祭の商売に俺は公国へ入った。
王国とは小競り合いの最中。国交も制限されていると聞いていたが案外すんなりと公国王都に入れた。
まあ、ちょっとした厄介事はあったが。
それもまた、いまや迷惑にも王国宰相なんてものになってしまっているあの愚弟絡みであったが。
「いまも、あいつの尻拭いに間接的に関わることになっているわけだが……どうなってんだ、王宮は」
まったく王国のティア王女が公国入りしているだと。
事故で片付けられているが東都では毒騒動、同時期に王宮では第三王女の暗殺未遂。
オルシーニ家の知らせではこの非常時に王は王宮を抜け出しているという。恐らくは王宮内でくすぶっているらしい戦をしたい奴らの議論を表立たせないための措置だろうが。
王抜きでそんな大事勝手に議論なんかできるはずもない。
俺に関係あることじゃないが、国が危うくなれば商売だって危うくなる。
あれだけ国内の体制に注力していてこれでは片手落ちもいいところだあの愚図は。
狭い範囲のことにとらわれがち、自分の力でどうにかなると考えがちなのはいまも変わらず。
成長がない。
本当に。
「半ば戦を仕掛けられている形になっている以上、王国自ら公国に向けて動くことはできない。公国の王弟からの要請で単身赴いたティア王女の手引きで外交問題で処理する算段だろうが……」
市中があまりにきな臭い。
歓楽街で見聞きする帝国兵の数、騎士団の風紀の緩みも進んでいる。
それでいて帝国の属国になっているはずが、その支配者の影がいまひとつ薄い。
諸々、なにかしら工作されているとしか思えない。
「こんなところに乗り込んできたところで、あの愚図になにができる。相変わらず詰めの甘い」
ま、俺は俺の商売と友の頼みごとに動くのみだ。
そう思いながら顔を洗って、宿を出る。
公国滞在中にあの愚弟、トリアヌスと顔を合わせるようなことだけにはならないことを願いつつ歩いた。
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