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公国編
第48話 溺れる騎士と虜の王女 *
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公国王都の南側、建物がひしめき合っている街を見渡せ、その向こうの高台に見える宮廷――公爵家の屋敷を臨む丘にその古びた塔はあった。
随分以前から使われなくなっている塔だが、かつては相応の身分の者を幽閉するための牢であったと聞いている。先々代の王の時代には大活躍であったらしい。公爵家の敵であった者、あるいは公爵家が裏切った者、国にとって都合が悪い者、精神異常が認められた者、男が、女が、老人が、若者が、幾人もの者が死ぬまで閉じ込められたのだという。
そんな事実が染み付いていると思うからこそなのか、所々にひび割れや欠けの入った大小の石を積み上げる四角い筒のような塔の堅く厚い壁は、淡い黄土色で西日に照らされ白っぽく明るいというのに、どこか陰鬱な翳りがあるように見えた。
塔は五階建で出入口は一箇所。宮廷に面している側の扉のみ。
背の高い塔はその上部、三階より上にしか窓がない。塔の内部は一階の出入口から壁づたいに幽閉場所となる二階へと登る細く狭い階段しかなく、二階より上は屋根まで吹き抜けていた。
陽の光は入るが、窓に手を伸ばし外に逃れることはもちろん、窓の外を見ることも出来ない。
牢らしく階段から二階へ入る扉も堅牢で錠がかかるようになっている。
階段と塔の入口を破らなければ、外には出られない。
そんな幽閉の塔であったが、公爵家の抜け道の出口の一つでもあった。
地下でつながっていて一階の床石の一部が動き出られるようになっている。
いまとなっては塔の入口を閉じているため抜け道の出口として機能しないが、元々はなにか異なる用途で建てられていたものなのかもしれない。
塔は、彩色こそされていないものの壁面は大小の長方形の連なりと植物文様を刻む横縞の彫刻の装飾が施されており、むしろ壮麗といっていい部類の外観だった。横縞は塔の階の区切りを示している。
「なかなか趣のある塔だ」
俺の胸元で馬に跨って、ティアは塔を前に呟いた。
悪天候に見舞われることも、王国からの追っ手もなく、賊の襲撃もなく、獣を注意しながら進むだけといったこれ以上ないほど至極平穏な旅だった。
王国の王女は女神の化身なのではないかなどと、らしくもないことをファルコネッロが言い出すほどで、おかげで七日かかる予定が五日半で済んだ。
「多くの者がここに幽閉され亡くなっている」
「王女をむやみに怯えさせるようなこと言わなくてもいいだろ」
「事実だ」
幽閉されたまま死んだ者の亡霊が出る塔とも言われている。
公国王都に住む者達の間では、人気のない丘に取り残されている不気味な塔でしかない。
咎めてきたファルコネッロとのやりとりを聞いて、ティアがあからさまな呆れを含んだため息を吐いたのに、俺も含めて皆が怪訝そうに彼女を見た。
「まったく繊細なことだな」
「は?」
「そんな事をいちいち気にしていたら、王国の王宮になど住んでいられないぞ」
なにせ流血の時代を経ている。およそ権謀術数の限りを尽され幽閉どころか謀殺につぐ謀殺、虐殺といっていい出来事だって起きたらしいし、それらすべての屍を蘇らせたならきっと足の踏み場もない上を歩いているだろうな王国の王宮は、と唇の端を吊り上げた悪そうな笑みを見せたティアに、ファルコネッロもその部下の“斧”と“盾”の双子も、ぞっと背筋に寒気が走ったような表情を浮かべた。
もちろん俺も、例外ではない――。
「……お前が一番怖い」
ぼそりと口の中で呟けば、そもそも過去を省みて死人がない街などないだろと身も蓋もないことを言って、いい加減に馬から降ろせとティアは俺にせがんだ。
馬から降りてティアを降ろせば、あの塔に入ればいいのかと勝手にすたすたと歩き出す。
「皆が皆、幸福の絶頂で死ぬわけでも納得して死ぬわけでもない。理不尽な死というのなら病や事故や身近な者との間での争い……いくらでもある」
「はあ、それはそうですがティア王女」
俺に続いて馬を降りたファルコネッロが、慌てて早足にティアの後を追う。
やれやれと、俺はその後についた。
「死は人の営みの一部分だ。その上にいまの我々の営みがある。亡霊が出るというのなら語らってみたいくらいだ。むぅ……開かないぞ」
「捕虜が勝手に進むな」
扉に両手を突いて顔を顰めたティアに、顰め面したいのはこちらだと思いいながら上着から錠の鍵を取り出す。
鉄を挟んでいる厚みのある堅牢な扉だ、ティアの細腕では鍵がかかっていなくても押し開くのは一苦労だろう。
「人を捕まえておいて迎え入れる段取りが悪い」
「ここにいる者しか関与していない」
「なるほど。ところで湯は使えるだろうな?」
「は?」
「仮にも王国の王女を捕虜とするのならそれくらい準備しろ」
「……自分の立場をわかっているのか?」
「もちろん。お前の計画に必要不可欠な大事な王国王女だろう。フェリオス騎士長?」
……なんて豪胆な。
俺を除く、部下三人の心の声が聞こえたような気がした。
「一通りのものは揃えております」
たしかに世話役を指示したが、それにしたってやけにティアに恭しく仕えるファルコネッロがそう応じるのになにか面白くないものを感じながら、本当に、敵対する国に一人きり、いくらその中に俺がいるとはいえ男四人に取り囲まれている状態で肝が据わっていると思った。
「ああ、そうだ戦もあるな」
「は?」
「理不尽な、死」
お前達にはおなじみだ、と扉を押し開いた俺のそばを通り過ぎて薄暗い塔の中へとティアは入っていった。振り返れば、部下達が硬い表情で押し黙っている。
挑発するな、と俺は内心ぼやく。
俺に対してまだなにか機嫌を損ねているのだろう。それに多少の人見知りも、きっとある。
ファルコネッロには好感を持っているようで、彼が話しかければ言葉少なに返事をしていたが道中ほとんど喋らず静かにしていた。馬を降りている間はほとんど天幕から出てこない。
王宮も、自分の侍女すら避けるようなそぶりだったが、あれでそこそこ気安い態度だったのかと知る。
――ごめんなさいね。でもティアちゃんがこうも寛いで接する他人はとても珍しいの。ですから気を悪くなさらないで。
王国の王宮でフェーベ王女に言われた言葉が脳裏をよぎる、まったく気難し屋の王女だ。
巣穴から少し顔を出してはすぐ引っ込める野生の小動物じゃあるまいし。
そんなことをつらつらと思いながら、ファルコネッロも連れてティアを塔の部屋に押し込め、縄を外し、全ての鍵をかける。
きっと扉を閉めた途端に興味津々で、自分が閉じ込められた部屋の中を検分するに違いないと思いながら。
*****
塔の鍵は俺が持っているもの一つしかない。
扉を閉め、塔にティア一人を残して俺も部下も本部に戻った。
本部に戻る間、ファルコネッロは最後まで護衛を主張したが他の者に悟られるわけにはいかないと退ける。
表向き、俺たちは防衛体制を整えなおすための視察に出たことになっている。
「本当にいいのかよっ」
俺の執務机に両手を叩きつけたファルコネッロを上目に一瞥して、構わんと切って捨てるように答えた。
「あんな場所に王女一人きりだぞ?!」
「幽閉に使われていた塔だけあって、鍵は勿論、扉も堅牢だ。内部は整えてある問題ない」
「侍女もつけずに……」
「はなから侍女など側においていない。それに万一漏れても、護衛もつけずに閉じ込めるような者ならと思う」
「……で、どうすんだ?」
「司教に引き合わせる」
俺に言いたい事を抑えに抑えている気配が伝わってくる、ファルコネッロの問いかけに簡潔に答えれば、既に吊り上がっていた眉の根元にぐっと力が入ったのが見えた。
良くも悪くもこの男は気のいい奴で、賢しいけれど真っ直ぐな奴でもある。
ここが正念場だ。
ファルコネッロはティアに好感を抱いている。どうやら俺は彼の中で毒や傷の手当てをしてくれた彼女の慈悲に漬け込み、計略を持って口説き落としたくらいに思っているらしい。
一体、ティアのどこを見ているのだか、敵の男四人に囲まれて怯えも見せずにこちらの考えすら見透かすようなことを言っている王女を俺みたいなのがどうこうできるわけがないことは少し考えればわかりそうなものなのに、あの見た目の可憐さは恐るべしだなと思う。
とはいえ、その方が都合がいい。
彼は信頼できる。
だからこそ、ある程度公になる形で決別してもらわなければならない
「それから?」
辛抱強く俺の考えを確かめようとする促しに、司教派以外がどう動くかによると答えれば本気で内乱勃発させる気かと唸るように問い質してくる。
「俺を認めるならそうはならない。王国の王女付で異議を唱える者はいないだろうが」
「本気で王位簒奪する気か……っ、フェリオス!」
「簒奪? 簒奪というのは奪い取ることだ。現王は病に臥せったまま、帝国に好き勝手されていて王として機能しておらず俺はその弟。しかも王国が無視出来ない王女との繋がりも手に入れている。正統性は十分」
「お前の継承位は三位だ」
「適任が上位にいないのならしかたない。戦などしないに越したことはないといつも言っているのは貴様のはずだファルコネッロ。王女も理解しているからここまできた。公国が敵対するのは王国ではない。内側の不穏分子を一掃すればすべて終わる。議会ももはや不要だ」
王国の王女を味方につけるということは、王国の後ろ盾を持つということだ。
公国はその建国経緯自体、王国から分かれたといったもの。それも王国の王に許された形でと伝えられている。王国の王女が俺を支持することは無視できない効力を持つはずだ。
しかし俺がそんな政略に乗り出すことは、ファルコネッロにとっては信じがたいことのはずだ。これまで散々、公爵家の人間であることを捨てられるのなら捨てたいと話してきた相手であり、兄に対する敬意も語ってきた相手だ。
しかし、たとえ不穏分子が紛れていようが騎士団は王の命に従うだけといった立ち位置を維持しておかなければならない。
俺という個人についてしまったら、元の状態に戻せなくなる。
「お前……北でやったようなことをここでやるつもりか……」
「そうならないに越したことはない」
「……わかった」
すっとファルコネッロの俺に対する怒りが引いた。
それまで俺に身を乗り出すようにしていた姿勢を直して、伯爵家の息子、元中隊長然とした様子で俺に向き合った。
「ならば貴方の副官など出来ない。騎士団も即刻辞める」
「部下を見捨て伯爵家に身を寄せるのなら別に構わん。だが、流石、灰色のデキウス家の跡取りだけある」
「……っ」
「望み通り副官は解任してやる。満遍なくどの派閥とも付き合う腹心など腹心ではないからな。好きにするといい」
「そうかよっ!!」
ガンッと、憤り任せの蹴りに執務机が斜めにずれた。
不敬もいいところで呆れるが、負け犬のことなど歯牙にもかけないといった様子でやり過ごせば執務室の扉が破れるような勢いで閉まる激しい音が執務室の空気を振動させてファルコネッロは出て行った。
静寂とともに急に室内の温かみがなくなったような執務室に一人、取り残されたような形になった俺は椅子に深く身を預けて息を吐く。
これでいい。
明朝には、騎士団および宮廷関係者に俺が王位を主張する意志があることが伝わるはずだ。
*****
「お前も無茶苦茶なことをする……」
蜜蝋一本を灯しただけの薄暗い部屋に呆れ返るような声が、吹き抜けになった高い天井へと吸い込まれていくように響いた。
夜が更けるのを待って、騎士団本部をでて宮廷の離宮から抜け道の地下通路をつかって、ティアのいる塔へ出向いた。馬鹿みたいな距離を歩くことにはなるが秘密裏に逢うためには仕方がない。
宵っ張りだから起きているだろうとは思っていたが、炉の前に椅子を運んで、部屋の中に唯一置かれる祈祷書を読んでいた。
炉の中のものが、薪ではなく木炭とは気が利いてるとティアは言った。
塔に暖炉はない。吹き抜けでおまけに石造り、手の届かない窓は明かり取りで鎧戸をしめることは出来ない。ほとんど外も同然だ。晩秋の夜を過ごすには厳しいと炉を入れさせたがその中身までは気を回していなかったからファルコネッロの判断だろう。
塔は外気が常に入るし、煙や燃焼時間を考えたら薪よりは良さそうだ。
着てきた服を脱いで用意しておいた橙色の毛織物のドレスとストールを羽織っている。
快適そうでなによりだと、部屋の扉にもたれて口の中で呟いた。
「まあしかし相手の動揺を誘うといった点では悪くないかも。で?」
「ん?」
「お前、私に求婚でもするのか?」
書物から顔を上げず、遠慮して扉のところにいる俺を側に招くでもなくのティアの言葉に、ぐっと言葉を詰まらせる。
「方便だ」
「ふうん。自害騒ぎでも起こしてやろうかな」
「……冗談、止してくれ」
それこそ大問題になる。
本に目を落としたままぼそりと呟いたティアの言葉に俺は自分の額の左右を両手で掴んだ。
やっぱりまだ機嫌が悪いようだ。その証拠に、再会直後以外で、王国からの移動からいまのいまもティアは俺をまともに見ない。
「公国から戻るのが遅くなったのは謝る」
「別にいつと約束はしていない」
「ティア……」
「今晩中に来なかったら、本当に舌を噛んでやろうかとは思ってたけど」
「おいっ」
いくらなんでも冗談が過ぎるぞと近寄って、本を取り上げ、腕を上げて睨むようにようやく俺を見たティアが文句を言う前に細い両肩を掴んで口を封じる。舌を捕まえ顎を動かせないほど強く吸い上げれば、ん、んんっ、と苦しげにティアが呻いて俺の腹部を蹴りつけてきたが、構うものかと椅子から攫うように抱えて石の床に腰を下ろして腕の中に閉じ込める。
ッ……はっ……はあ、はあ……ん――。
一度、解放すれば離れた口元にどちらのものともつかないとろりとした雫が橋をかけて滾れ落ちるのをすくうようにして再び重ねる。
落ち着いて話をするために会いに来たのになにをしているんだ俺はと思ったが、触れたら止められなかった。
「や……ちょっ、と……まて……」
これまで聞いたことがない慌てたティアの制止に、どこか意地の悪い小気味良さを覚えながら再び彼女の言葉を封じ込める。
「ぁ……ん……っ」
漏れる声が僅かに甘くなったように聞こえて、ティアの髪を軽く掴んだ。
湯を使ったらしい、さらさらとした手触りだった。
植物のような青さを含む甘い肌の匂いを感じて抱きしめている背中の線を掌で軽く撫でる。
本当にこうしてしまえばたわいもない、いくらでも自由に出来るだろう華奢で小さく頼りないほど柔らかいティアの身体だ。
「じょ、冗談だ……舌なんて噛まないからっ、んっ……」
「ティア……」
耳を軽く食めば、俺の袖を握りしめていた力が一瞬緩んだ。どうやら弱いらしい。
舌の先で軽く舐めれば、やっ……と弱々しく鳴いて身を捩る。
流石にやりすぎだ、なによりこのままでは自分が危ない。
久しぶりに抱きしめた雛のような体を組み敷いてこのまま貪り尽くしたい欲望を無理矢理追いやって、拘束を緩めれば涙を滲ませた真っ赤な顔でお前……と恨めしげに言ったティアが脳天に拳を振り下ろした。
細い腕の力ではなんということはないものの、それなりには痛い。
「いきなり盛るなっ、馬鹿者っ!!」
ごもっともだ。
これでは捕虜にした姫を蹂躙に来た下劣な者と変わらない。
すまんっ、ちょっとした意趣返しのつもりが調子に乗ったと平謝りに謝れば、まったく……なにをしに来たんだと妙に拗ねた声で胸元で詰られて、戻したはずの理性が軽くぐらついた。
本当に、こいつは――。
「――で、公国の王はとりあえずは生きていたと」
「ああ。かなり弱っていたが」
離れている間に兄や議会や騎士団について見聞きしたことを一通りせば、ふむとティアは頷く。
パチっと炉の中で炭に亀裂の入る音がする。
寝台を厚く覆う毛織物をティアが剥いで炉の側の床に敷き、その上に並ぶように座して話していた。塔の外周はそれほどない。百を数えるうちに小柄なティアの歩幅で室内を一回りできる広さで家具といえば小さな書き物机と椅子一脚、簡素な寝台くらいしかない。
「その司教殿とやらの話を信じるなら、毒ゴマをちょっと使った程度でそんなことになるのはおかしい。診てみないことにはなんともだけど……つまり私は王女にして優秀な医者として紹介されるわけだ」
「まあ」
「ふうん」
「さっきからなんなんだ? その妙に含みをもたせた相槌は」
「別に。前にもいったが私は医術の訓練は受けていない」
「わかっている、だが毒には詳しいだろ?」
「どちらにしても会ってみないとだ……」
口元に指を当てて俯き加減に黙り込んだティアの横顔を見ながら、そうかと答えた。
さっき抱き締めた時も思ったが、少し痩せた気がする。
それに表情……顔つきとでも表現すればいいのだろうか、いや、それも違う気がする。長い睫毛を伏せるその眼差しや彼女がまとっている雰囲気に僅かな翳り、ただ可憐で儚げなだけではない憂いを帯びたような、しばらく会わないうちに少し大人びたと思った。
「最初に取引したのはお前の兄と議会の長、北方の騎馬民族の風体をした少年王、事実上の休戦の申し入れ、その発端は北方の戦……」
見事なものだ……口の中で呟いたようなぼそぼそとした言葉であったが、確かにそう聞こえた。考え込むようにティアは目を伏せている。
王国で接していた時のティアとはなにかが違うように感じられるのは、王女としての彼女の様子を見てしまったからだろうか。
あらためて感じる。
彼女が敵に回ったら、間違いなく俺が最も苦手に思う相手だろうことを。
どこまで先を読み、どれほど彼女の頭の中で思う通りに自分は振舞っているのか、疑念を一度持ってしまえばきっとそれを完全に拭い去ることはできない。
「ティア?」
「お前も色々あったんだろうな。話し以外にも、離れている間」
「ん? ああ……そりゃ、まあ」
不意に俺の左腕に寄りかかってきたティアに曖昧な相槌で答えれば、私も色々あったと寄りかかったまま両腕を俺の腕に絡めてくる。
厚い毛織の騎士服越しに仄かな温かみがゆっくりと伝わってくる気がした。
もう秋も深まっていて、塔の中は炉に入れた火をなしに過ごすには少々厳しい冷たさだった。
「……寒いのか?」
尋ねれば、大丈夫と答える。
そうかと俺の腕に緩くしがみついているようなティアの黒髪の艶を見下ろせば、ややあってふっと皮肉気な笑みを漏らしたような声がして、ティアが俺を見上げた。
いや、と音はなく唇を僅かに動かす。
「やっぱり少し冷えたかも」
「そうか」
「うん」
フューリィ……と、あまり呼ばれない俺の名を言い終える前に、互いに顔を寄せていた。
静かな、石造りの塔に唇の音が小さく反響する。
なにか物言いたげに揺れる黒い瞳を見詰めながら、床に敷いた織物に絹糸のような黒髪が広がっていくのを見下ろす。
見下ろしている俺を捉えているティアはなにも言わない。
白く小さな顔の頬に口付け、首筋を唇で食めば、ため息を漏らす声がして細い指が俺の髪を梳く。熱を分けろと無言の要求のままに被さり唇を合わせる。何度も。どこまでも深く終わらないように思えた。
「ん……フューリィ……」
「お前だからな……いまは……」
はあっと口元を離し、額を合わせれば長い睫毛を上下させてティアが瞬きする。
手を枕のように彼女の後頭部に差し入れながら囁いた。
「誘ったのは」
「……うん」
白く細い手に両頬を包まれて、思わずため息が漏れる。
吐息が熱を帯びていることを自覚していた。
そういえば、初めて抱いた時もそうだった。
取り返しのつかないことくらいしろと、めちゃくちゃな誘い文句を言って。
「ティア……」
「お前がいたらいいのにって何度も思った」
俺もだ、と思うより先に抱きすくめて、俺が用意した服を着ているその襟元からのぞく華奢な肩を甘く噛んでいた。小さく、言葉にならない澄んだ声が塔の吹き抜けた天井へと吸い込まれる。ティアに触れながら自分の服のボタンを外すのがもどかしい。
「お前、私に求婚でもする……?」
うわごとのような問いかけにああと答えて、ティアの襟元を閉じている交差する紐の結び目を指で解き、その指の背で彼女の唇をなぞり睨め上げるように彼女と目を合わせる。
「あらゆることに片をつけたら」
「ものすごく酷い、王国の王女でも?」
「なにを今更。王女じゃなくても結構酷いぞ……めちゃくちゃだし、怖いし、敵に回ったら俺が一番苦手とする相手だし、我が儘で気難しいし」
だが、たまらなく好きだ――。
「そんなこと言えるような立場や状況じゃなくても、どうしようもない」
「うん……」
私もだ。
細い囁きに、こんな状況にティアを巻き込んだのは自分であるのに俺は彼女に溺れる。
どれだけ触れても足りない。
甘く泣き崩れるような声がどれだけ響いても足りない。
腕の中でその壊れそうな身体がどれほど震えても足りないと思った。
随分以前から使われなくなっている塔だが、かつては相応の身分の者を幽閉するための牢であったと聞いている。先々代の王の時代には大活躍であったらしい。公爵家の敵であった者、あるいは公爵家が裏切った者、国にとって都合が悪い者、精神異常が認められた者、男が、女が、老人が、若者が、幾人もの者が死ぬまで閉じ込められたのだという。
そんな事実が染み付いていると思うからこそなのか、所々にひび割れや欠けの入った大小の石を積み上げる四角い筒のような塔の堅く厚い壁は、淡い黄土色で西日に照らされ白っぽく明るいというのに、どこか陰鬱な翳りがあるように見えた。
塔は五階建で出入口は一箇所。宮廷に面している側の扉のみ。
背の高い塔はその上部、三階より上にしか窓がない。塔の内部は一階の出入口から壁づたいに幽閉場所となる二階へと登る細く狭い階段しかなく、二階より上は屋根まで吹き抜けていた。
陽の光は入るが、窓に手を伸ばし外に逃れることはもちろん、窓の外を見ることも出来ない。
牢らしく階段から二階へ入る扉も堅牢で錠がかかるようになっている。
階段と塔の入口を破らなければ、外には出られない。
そんな幽閉の塔であったが、公爵家の抜け道の出口の一つでもあった。
地下でつながっていて一階の床石の一部が動き出られるようになっている。
いまとなっては塔の入口を閉じているため抜け道の出口として機能しないが、元々はなにか異なる用途で建てられていたものなのかもしれない。
塔は、彩色こそされていないものの壁面は大小の長方形の連なりと植物文様を刻む横縞の彫刻の装飾が施されており、むしろ壮麗といっていい部類の外観だった。横縞は塔の階の区切りを示している。
「なかなか趣のある塔だ」
俺の胸元で馬に跨って、ティアは塔を前に呟いた。
悪天候に見舞われることも、王国からの追っ手もなく、賊の襲撃もなく、獣を注意しながら進むだけといったこれ以上ないほど至極平穏な旅だった。
王国の王女は女神の化身なのではないかなどと、らしくもないことをファルコネッロが言い出すほどで、おかげで七日かかる予定が五日半で済んだ。
「多くの者がここに幽閉され亡くなっている」
「王女をむやみに怯えさせるようなこと言わなくてもいいだろ」
「事実だ」
幽閉されたまま死んだ者の亡霊が出る塔とも言われている。
公国王都に住む者達の間では、人気のない丘に取り残されている不気味な塔でしかない。
咎めてきたファルコネッロとのやりとりを聞いて、ティアがあからさまな呆れを含んだため息を吐いたのに、俺も含めて皆が怪訝そうに彼女を見た。
「まったく繊細なことだな」
「は?」
「そんな事をいちいち気にしていたら、王国の王宮になど住んでいられないぞ」
なにせ流血の時代を経ている。およそ権謀術数の限りを尽され幽閉どころか謀殺につぐ謀殺、虐殺といっていい出来事だって起きたらしいし、それらすべての屍を蘇らせたならきっと足の踏み場もない上を歩いているだろうな王国の王宮は、と唇の端を吊り上げた悪そうな笑みを見せたティアに、ファルコネッロもその部下の“斧”と“盾”の双子も、ぞっと背筋に寒気が走ったような表情を浮かべた。
もちろん俺も、例外ではない――。
「……お前が一番怖い」
ぼそりと口の中で呟けば、そもそも過去を省みて死人がない街などないだろと身も蓋もないことを言って、いい加減に馬から降ろせとティアは俺にせがんだ。
馬から降りてティアを降ろせば、あの塔に入ればいいのかと勝手にすたすたと歩き出す。
「皆が皆、幸福の絶頂で死ぬわけでも納得して死ぬわけでもない。理不尽な死というのなら病や事故や身近な者との間での争い……いくらでもある」
「はあ、それはそうですがティア王女」
俺に続いて馬を降りたファルコネッロが、慌てて早足にティアの後を追う。
やれやれと、俺はその後についた。
「死は人の営みの一部分だ。その上にいまの我々の営みがある。亡霊が出るというのなら語らってみたいくらいだ。むぅ……開かないぞ」
「捕虜が勝手に進むな」
扉に両手を突いて顔を顰めたティアに、顰め面したいのはこちらだと思いいながら上着から錠の鍵を取り出す。
鉄を挟んでいる厚みのある堅牢な扉だ、ティアの細腕では鍵がかかっていなくても押し開くのは一苦労だろう。
「人を捕まえておいて迎え入れる段取りが悪い」
「ここにいる者しか関与していない」
「なるほど。ところで湯は使えるだろうな?」
「は?」
「仮にも王国の王女を捕虜とするのならそれくらい準備しろ」
「……自分の立場をわかっているのか?」
「もちろん。お前の計画に必要不可欠な大事な王国王女だろう。フェリオス騎士長?」
……なんて豪胆な。
俺を除く、部下三人の心の声が聞こえたような気がした。
「一通りのものは揃えております」
たしかに世話役を指示したが、それにしたってやけにティアに恭しく仕えるファルコネッロがそう応じるのになにか面白くないものを感じながら、本当に、敵対する国に一人きり、いくらその中に俺がいるとはいえ男四人に取り囲まれている状態で肝が据わっていると思った。
「ああ、そうだ戦もあるな」
「は?」
「理不尽な、死」
お前達にはおなじみだ、と扉を押し開いた俺のそばを通り過ぎて薄暗い塔の中へとティアは入っていった。振り返れば、部下達が硬い表情で押し黙っている。
挑発するな、と俺は内心ぼやく。
俺に対してまだなにか機嫌を損ねているのだろう。それに多少の人見知りも、きっとある。
ファルコネッロには好感を持っているようで、彼が話しかければ言葉少なに返事をしていたが道中ほとんど喋らず静かにしていた。馬を降りている間はほとんど天幕から出てこない。
王宮も、自分の侍女すら避けるようなそぶりだったが、あれでそこそこ気安い態度だったのかと知る。
――ごめんなさいね。でもティアちゃんがこうも寛いで接する他人はとても珍しいの。ですから気を悪くなさらないで。
王国の王宮でフェーベ王女に言われた言葉が脳裏をよぎる、まったく気難し屋の王女だ。
巣穴から少し顔を出してはすぐ引っ込める野生の小動物じゃあるまいし。
そんなことをつらつらと思いながら、ファルコネッロも連れてティアを塔の部屋に押し込め、縄を外し、全ての鍵をかける。
きっと扉を閉めた途端に興味津々で、自分が閉じ込められた部屋の中を検分するに違いないと思いながら。
*****
塔の鍵は俺が持っているもの一つしかない。
扉を閉め、塔にティア一人を残して俺も部下も本部に戻った。
本部に戻る間、ファルコネッロは最後まで護衛を主張したが他の者に悟られるわけにはいかないと退ける。
表向き、俺たちは防衛体制を整えなおすための視察に出たことになっている。
「本当にいいのかよっ」
俺の執務机に両手を叩きつけたファルコネッロを上目に一瞥して、構わんと切って捨てるように答えた。
「あんな場所に王女一人きりだぞ?!」
「幽閉に使われていた塔だけあって、鍵は勿論、扉も堅牢だ。内部は整えてある問題ない」
「侍女もつけずに……」
「はなから侍女など側においていない。それに万一漏れても、護衛もつけずに閉じ込めるような者ならと思う」
「……で、どうすんだ?」
「司教に引き合わせる」
俺に言いたい事を抑えに抑えている気配が伝わってくる、ファルコネッロの問いかけに簡潔に答えれば、既に吊り上がっていた眉の根元にぐっと力が入ったのが見えた。
良くも悪くもこの男は気のいい奴で、賢しいけれど真っ直ぐな奴でもある。
ここが正念場だ。
ファルコネッロはティアに好感を抱いている。どうやら俺は彼の中で毒や傷の手当てをしてくれた彼女の慈悲に漬け込み、計略を持って口説き落としたくらいに思っているらしい。
一体、ティアのどこを見ているのだか、敵の男四人に囲まれて怯えも見せずにこちらの考えすら見透かすようなことを言っている王女を俺みたいなのがどうこうできるわけがないことは少し考えればわかりそうなものなのに、あの見た目の可憐さは恐るべしだなと思う。
とはいえ、その方が都合がいい。
彼は信頼できる。
だからこそ、ある程度公になる形で決別してもらわなければならない
「それから?」
辛抱強く俺の考えを確かめようとする促しに、司教派以外がどう動くかによると答えれば本気で内乱勃発させる気かと唸るように問い質してくる。
「俺を認めるならそうはならない。王国の王女付で異議を唱える者はいないだろうが」
「本気で王位簒奪する気か……っ、フェリオス!」
「簒奪? 簒奪というのは奪い取ることだ。現王は病に臥せったまま、帝国に好き勝手されていて王として機能しておらず俺はその弟。しかも王国が無視出来ない王女との繋がりも手に入れている。正統性は十分」
「お前の継承位は三位だ」
「適任が上位にいないのならしかたない。戦などしないに越したことはないといつも言っているのは貴様のはずだファルコネッロ。王女も理解しているからここまできた。公国が敵対するのは王国ではない。内側の不穏分子を一掃すればすべて終わる。議会ももはや不要だ」
王国の王女を味方につけるということは、王国の後ろ盾を持つということだ。
公国はその建国経緯自体、王国から分かれたといったもの。それも王国の王に許された形でと伝えられている。王国の王女が俺を支持することは無視できない効力を持つはずだ。
しかし俺がそんな政略に乗り出すことは、ファルコネッロにとっては信じがたいことのはずだ。これまで散々、公爵家の人間であることを捨てられるのなら捨てたいと話してきた相手であり、兄に対する敬意も語ってきた相手だ。
しかし、たとえ不穏分子が紛れていようが騎士団は王の命に従うだけといった立ち位置を維持しておかなければならない。
俺という個人についてしまったら、元の状態に戻せなくなる。
「お前……北でやったようなことをここでやるつもりか……」
「そうならないに越したことはない」
「……わかった」
すっとファルコネッロの俺に対する怒りが引いた。
それまで俺に身を乗り出すようにしていた姿勢を直して、伯爵家の息子、元中隊長然とした様子で俺に向き合った。
「ならば貴方の副官など出来ない。騎士団も即刻辞める」
「部下を見捨て伯爵家に身を寄せるのなら別に構わん。だが、流石、灰色のデキウス家の跡取りだけある」
「……っ」
「望み通り副官は解任してやる。満遍なくどの派閥とも付き合う腹心など腹心ではないからな。好きにするといい」
「そうかよっ!!」
ガンッと、憤り任せの蹴りに執務机が斜めにずれた。
不敬もいいところで呆れるが、負け犬のことなど歯牙にもかけないといった様子でやり過ごせば執務室の扉が破れるような勢いで閉まる激しい音が執務室の空気を振動させてファルコネッロは出て行った。
静寂とともに急に室内の温かみがなくなったような執務室に一人、取り残されたような形になった俺は椅子に深く身を預けて息を吐く。
これでいい。
明朝には、騎士団および宮廷関係者に俺が王位を主張する意志があることが伝わるはずだ。
*****
「お前も無茶苦茶なことをする……」
蜜蝋一本を灯しただけの薄暗い部屋に呆れ返るような声が、吹き抜けになった高い天井へと吸い込まれていくように響いた。
夜が更けるのを待って、騎士団本部をでて宮廷の離宮から抜け道の地下通路をつかって、ティアのいる塔へ出向いた。馬鹿みたいな距離を歩くことにはなるが秘密裏に逢うためには仕方がない。
宵っ張りだから起きているだろうとは思っていたが、炉の前に椅子を運んで、部屋の中に唯一置かれる祈祷書を読んでいた。
炉の中のものが、薪ではなく木炭とは気が利いてるとティアは言った。
塔に暖炉はない。吹き抜けでおまけに石造り、手の届かない窓は明かり取りで鎧戸をしめることは出来ない。ほとんど外も同然だ。晩秋の夜を過ごすには厳しいと炉を入れさせたがその中身までは気を回していなかったからファルコネッロの判断だろう。
塔は外気が常に入るし、煙や燃焼時間を考えたら薪よりは良さそうだ。
着てきた服を脱いで用意しておいた橙色の毛織物のドレスとストールを羽織っている。
快適そうでなによりだと、部屋の扉にもたれて口の中で呟いた。
「まあしかし相手の動揺を誘うといった点では悪くないかも。で?」
「ん?」
「お前、私に求婚でもするのか?」
書物から顔を上げず、遠慮して扉のところにいる俺を側に招くでもなくのティアの言葉に、ぐっと言葉を詰まらせる。
「方便だ」
「ふうん。自害騒ぎでも起こしてやろうかな」
「……冗談、止してくれ」
それこそ大問題になる。
本に目を落としたままぼそりと呟いたティアの言葉に俺は自分の額の左右を両手で掴んだ。
やっぱりまだ機嫌が悪いようだ。その証拠に、再会直後以外で、王国からの移動からいまのいまもティアは俺をまともに見ない。
「公国から戻るのが遅くなったのは謝る」
「別にいつと約束はしていない」
「ティア……」
「今晩中に来なかったら、本当に舌を噛んでやろうかとは思ってたけど」
「おいっ」
いくらなんでも冗談が過ぎるぞと近寄って、本を取り上げ、腕を上げて睨むようにようやく俺を見たティアが文句を言う前に細い両肩を掴んで口を封じる。舌を捕まえ顎を動かせないほど強く吸い上げれば、ん、んんっ、と苦しげにティアが呻いて俺の腹部を蹴りつけてきたが、構うものかと椅子から攫うように抱えて石の床に腰を下ろして腕の中に閉じ込める。
ッ……はっ……はあ、はあ……ん――。
一度、解放すれば離れた口元にどちらのものともつかないとろりとした雫が橋をかけて滾れ落ちるのをすくうようにして再び重ねる。
落ち着いて話をするために会いに来たのになにをしているんだ俺はと思ったが、触れたら止められなかった。
「や……ちょっ、と……まて……」
これまで聞いたことがない慌てたティアの制止に、どこか意地の悪い小気味良さを覚えながら再び彼女の言葉を封じ込める。
「ぁ……ん……っ」
漏れる声が僅かに甘くなったように聞こえて、ティアの髪を軽く掴んだ。
湯を使ったらしい、さらさらとした手触りだった。
植物のような青さを含む甘い肌の匂いを感じて抱きしめている背中の線を掌で軽く撫でる。
本当にこうしてしまえばたわいもない、いくらでも自由に出来るだろう華奢で小さく頼りないほど柔らかいティアの身体だ。
「じょ、冗談だ……舌なんて噛まないからっ、んっ……」
「ティア……」
耳を軽く食めば、俺の袖を握りしめていた力が一瞬緩んだ。どうやら弱いらしい。
舌の先で軽く舐めれば、やっ……と弱々しく鳴いて身を捩る。
流石にやりすぎだ、なによりこのままでは自分が危ない。
久しぶりに抱きしめた雛のような体を組み敷いてこのまま貪り尽くしたい欲望を無理矢理追いやって、拘束を緩めれば涙を滲ませた真っ赤な顔でお前……と恨めしげに言ったティアが脳天に拳を振り下ろした。
細い腕の力ではなんということはないものの、それなりには痛い。
「いきなり盛るなっ、馬鹿者っ!!」
ごもっともだ。
これでは捕虜にした姫を蹂躙に来た下劣な者と変わらない。
すまんっ、ちょっとした意趣返しのつもりが調子に乗ったと平謝りに謝れば、まったく……なにをしに来たんだと妙に拗ねた声で胸元で詰られて、戻したはずの理性が軽くぐらついた。
本当に、こいつは――。
「――で、公国の王はとりあえずは生きていたと」
「ああ。かなり弱っていたが」
離れている間に兄や議会や騎士団について見聞きしたことを一通りせば、ふむとティアは頷く。
パチっと炉の中で炭に亀裂の入る音がする。
寝台を厚く覆う毛織物をティアが剥いで炉の側の床に敷き、その上に並ぶように座して話していた。塔の外周はそれほどない。百を数えるうちに小柄なティアの歩幅で室内を一回りできる広さで家具といえば小さな書き物机と椅子一脚、簡素な寝台くらいしかない。
「その司教殿とやらの話を信じるなら、毒ゴマをちょっと使った程度でそんなことになるのはおかしい。診てみないことにはなんともだけど……つまり私は王女にして優秀な医者として紹介されるわけだ」
「まあ」
「ふうん」
「さっきからなんなんだ? その妙に含みをもたせた相槌は」
「別に。前にもいったが私は医術の訓練は受けていない」
「わかっている、だが毒には詳しいだろ?」
「どちらにしても会ってみないとだ……」
口元に指を当てて俯き加減に黙り込んだティアの横顔を見ながら、そうかと答えた。
さっき抱き締めた時も思ったが、少し痩せた気がする。
それに表情……顔つきとでも表現すればいいのだろうか、いや、それも違う気がする。長い睫毛を伏せるその眼差しや彼女がまとっている雰囲気に僅かな翳り、ただ可憐で儚げなだけではない憂いを帯びたような、しばらく会わないうちに少し大人びたと思った。
「最初に取引したのはお前の兄と議会の長、北方の騎馬民族の風体をした少年王、事実上の休戦の申し入れ、その発端は北方の戦……」
見事なものだ……口の中で呟いたようなぼそぼそとした言葉であったが、確かにそう聞こえた。考え込むようにティアは目を伏せている。
王国で接していた時のティアとはなにかが違うように感じられるのは、王女としての彼女の様子を見てしまったからだろうか。
あらためて感じる。
彼女が敵に回ったら、間違いなく俺が最も苦手に思う相手だろうことを。
どこまで先を読み、どれほど彼女の頭の中で思う通りに自分は振舞っているのか、疑念を一度持ってしまえばきっとそれを完全に拭い去ることはできない。
「ティア?」
「お前も色々あったんだろうな。話し以外にも、離れている間」
「ん? ああ……そりゃ、まあ」
不意に俺の左腕に寄りかかってきたティアに曖昧な相槌で答えれば、私も色々あったと寄りかかったまま両腕を俺の腕に絡めてくる。
厚い毛織の騎士服越しに仄かな温かみがゆっくりと伝わってくる気がした。
もう秋も深まっていて、塔の中は炉に入れた火をなしに過ごすには少々厳しい冷たさだった。
「……寒いのか?」
尋ねれば、大丈夫と答える。
そうかと俺の腕に緩くしがみついているようなティアの黒髪の艶を見下ろせば、ややあってふっと皮肉気な笑みを漏らしたような声がして、ティアが俺を見上げた。
いや、と音はなく唇を僅かに動かす。
「やっぱり少し冷えたかも」
「そうか」
「うん」
フューリィ……と、あまり呼ばれない俺の名を言い終える前に、互いに顔を寄せていた。
静かな、石造りの塔に唇の音が小さく反響する。
なにか物言いたげに揺れる黒い瞳を見詰めながら、床に敷いた織物に絹糸のような黒髪が広がっていくのを見下ろす。
見下ろしている俺を捉えているティアはなにも言わない。
白く小さな顔の頬に口付け、首筋を唇で食めば、ため息を漏らす声がして細い指が俺の髪を梳く。熱を分けろと無言の要求のままに被さり唇を合わせる。何度も。どこまでも深く終わらないように思えた。
「ん……フューリィ……」
「お前だからな……いまは……」
はあっと口元を離し、額を合わせれば長い睫毛を上下させてティアが瞬きする。
手を枕のように彼女の後頭部に差し入れながら囁いた。
「誘ったのは」
「……うん」
白く細い手に両頬を包まれて、思わずため息が漏れる。
吐息が熱を帯びていることを自覚していた。
そういえば、初めて抱いた時もそうだった。
取り返しのつかないことくらいしろと、めちゃくちゃな誘い文句を言って。
「ティア……」
「お前がいたらいいのにって何度も思った」
俺もだ、と思うより先に抱きすくめて、俺が用意した服を着ているその襟元からのぞく華奢な肩を甘く噛んでいた。小さく、言葉にならない澄んだ声が塔の吹き抜けた天井へと吸い込まれる。ティアに触れながら自分の服のボタンを外すのがもどかしい。
「お前、私に求婚でもする……?」
うわごとのような問いかけにああと答えて、ティアの襟元を閉じている交差する紐の結び目を指で解き、その指の背で彼女の唇をなぞり睨め上げるように彼女と目を合わせる。
「あらゆることに片をつけたら」
「ものすごく酷い、王国の王女でも?」
「なにを今更。王女じゃなくても結構酷いぞ……めちゃくちゃだし、怖いし、敵に回ったら俺が一番苦手とする相手だし、我が儘で気難しいし」
だが、たまらなく好きだ――。
「そんなこと言えるような立場や状況じゃなくても、どうしようもない」
「うん……」
私もだ。
細い囁きに、こんな状況にティアを巻き込んだのは自分であるのに俺は彼女に溺れる。
どれだけ触れても足りない。
甘く泣き崩れるような声がどれだけ響いても足りない。
腕の中でその壊れそうな身体がどれほど震えても足りないと思った。
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