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東都編

第37話 調べる王女と予感した宰相

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 東都に貯水池は5つある。水源は大河で、街にもっとも近い川上から汲み上げた水を運ぶ水の道を東都まで通し、運ばれた水を五つの区に分けた東都の各区に分配していた。貯水池は水汲み場でもあると同時に各区の配水の拠点でもある。
 毒の被害にあったのは最も川下の区の貯水池だった。
 池と言っても石を組んで作られた泉のようなもので、被害が発生した当日は補修工事が昼から予定されていて、川上から流れ込む水も配水も前の晩に途中で一度堰き止められていた。
 朝一番の水汲みが終わったら、夕刻まで水汲みが禁止の令が出ていた。

「特に不審なものは周辺には見当たらなかったようです」 
「わかった」

 報告に来たカルロに頷いて、頬に落ちてきた頭飾りの垂れを耳の後ろへと払い、脈をとっていた手に一度両手を添えて大丈夫だと囁きかけて胸元に戻し、屈めていた上体を起こして見下ろす。
 三十過ぎの工夫で、頑健そうで肩や腕も逞しい男であったが毒には勝てない。
 脱水症状を起こしてぐったりとしている。
 着替えて、騎士団支部の療養所に収容されている重篤患者から順に東都の医官長と様子を見て回っていた。

「ティア王女……」
「ん?」
「まさか、皆診られるおつもりですか?」

 東都の医官長の言葉に頷く。
 
「全員診る」
「ここには四十六名おります。王都からいらしたばかりでそんな……」
「なら重篤患者は四十六名というわけか。軽症の者は何人いる?」
「は?」
「全員診ると言った。王都に届いた報告では数十名。軽症者は家で療養なのだろう?」
「さ、さんじゅう……三十二名ですが、王女っ」

 なら全員で七十八名か。
 たしかに数十の範疇ではあるけれど……それなら八十弱とでも知らせてくれればよいものを。
 それでは日暮れ近くまでかかりますなどと言っている医官長の言葉は聞き流しつつ、療養所の通路を歩く。
 慌てていたのかもしれないし、まだ正確な数はわからなかったのかもしれないけれど。

「トリアヌスなら怒る報告だ。物資の試算がいい加減になってしまう」
「はあ」
「父様が多少強引にでも登用進めようとしているのもわかる気がする」

 飲み水や、手ぬぐいの布などを運ぶ下働きの者達の姿は多いが、肝心な患者を見たり、記録をつけたり、警護をするような者達の姿は立働く人々の中にまばらにしか見えない。
 知らなかった。
 医官の数だけじゃない。
 王都……いや、王宮と地方の都市では文官や武官の数が段違いに異なる。
 平常時ではなんとかなっているのかもしれないけれど、都市の広さと人口に対して官吏の数が足りない。

「症状が認められた順はわかるか?」
「誰が、いつ頃発症したかはわかっていますが……順番というのは」
「わからないのか?」
「我々は医官です。患者を診るのが仕事で、そういったことを調査し整理するのは庁舎の文官や騎士団の仕事です」
「なら、その担当者は?」
「わかりません」
「は? 各所で申し送りはやっていないのか?! 回復が長びいてる者ほど危険だろう?!」
「ですから、個々の患者のことはわかっておりますので」 
「ぬぅ……」

 連携が取れていない。
 明らかに症状の重い軽いがこれほどの人数で分かれているなら、毒の濃度が時間で変化しているということじゃないのか? 
 東都の長官職の者はなにを考えて指揮をしているんだ、王宮ならあり得ないぞ……と思わず親指の爪を軽く噛んでしまう。
 
「王女、トリアヌスあやつと他を同列に考えては、それはちと酷というものです」
「爺、でも」
「でももなにも、突発的な出来事にそこにいる者達が連携を取るより先に銘々事に当たり、むしろ上出来ぐらいでは?」
 
 たしかに、爺の言うことももっともだった。
 区画ひとつ、姿も見えない敵に前触れなく強襲を受けたようなものだ。
 まだ三、四日しか経っていない。
 各人が動いて、ひとまず事態は収拾し最低限の対応はできている。

「そうだな。各所の連携はこれからの話か」
「あの……場所も……できればもう少し広く使える場所があればいいのですが」
「たしかに」

 医官長の言葉に、うんと頷く。
 お世辞にもよい療養環境とはいえない。
 細かな区画というか大部屋に分かれていて、そこへ七、八名ずつ押し込むように並べられていた。
 床にこぼれた吐瀉物や、汚物の処理も完全には行き届いてはいないようで若干臭気もある。
 吐き気がある者には辛いだろう。
 
「爺なら詳しいだろ? ここ以外に使えそうな場所は?」
「ふむ……修練場なら倍の広さが」
「屋根は?」
「もちろん、長雨の時期に対応している稽古場です。むさい者共が集まる場所ですからそれなりに換気も考えられております」
「なら、そこに移す」
「支部と話をつけます」
「うん、詰所も含め再配置して」
「かしこまりました」

 頼む。
 そう爺に言えば、彼は一礼して歩いてきた廊下を戻っていった。
 途中の護衛のつもりだったけど、連れてきてよかったな。
 なんといっても軍神だ。
 騎士団本部の面々の爺に対する態度から見て、反対されることにはならないだろう。
 次の部屋を訪ねようとして、いつの間にか隣からいなくなっている医官長の姿を探して振り返ったら、彼は十数歩後ろで目と口を開いて立ち止まっていた。

「どうした、医官長?」
「いえ……その、流石は……いえ、なんでもありません」
 
 急に中腰に頭を下げた医官長に、頭飾りの垂れの端をつまんで軽く肩をすくめる。
 まあ、この人から見たら王宮に引きこもっていた小娘だからなと胸の内でひとりごちる。
 役に立つことはないだろうと思われていたに違いないし、実際それほど役には立っていない。
 王宮の図書室で、フェーベ姉様と話していたことを思い出す。
 まだ成人していなくて、王宮を出てもいない頃。

『そりゃ姉様は綺麗だから、大丈夫だったろうけど』
『なんの話?』
『もうすぐ十八になる。成人したら流石に私も王族として表に出ないとならないだろ』
 
 いつも足も載せて腰掛け本を読んでいる長椅子の上で、開いた本に顔を伏せて憂鬱だとため息を吐けば、ふふと笑って、私とお喋りをしに来る時の常でお茶の用意を侍女にさせたお菓子をつまんで、私の前で座っていた椅子からフェーベ姉様は立ち上がった。

『あら、大丈夫よティアちゃんなら。かわいいもの』

 手にした小さなお菓子を私の口元に差し出して、にっこりしたフェーベ姉様にそういった問題じゃないと姉様の指からお菓子を咥える。
 卵白に蜂蜜を加えて泡立てたものを焼いて砕いたお菓子だった。
 甘くて口の中でふんわりと溶けて美味しい。

『それにそういうのって、年配の人達から適当にあしらわれそうな気がする』

 ただでさえ、人が苦手な王族としては欠陥品なのに。
 姉様達みたいな迫力もないし。

『なにが起きても毅然としていれば大丈夫よ』
『なにが起きても?』
『ええ、なにが起きても』

 王族は、自らの出来ることを生かした役目を担う。
 王家の社交を担っていたフェーベ姉様だけど、いま思えば、きっとそれ以外にもなにか――。
 
 *****
 
 軽症の者は家で療養しているから、街中の家々を回らなければならない。
 出る前にトリアヌスが東都の庁舎から戻ってきた。
 私が頼むまでもなく、毒の件に関するあらゆる記録文書を借りてきていた。
 その中には、勿論、被害にあった者の一覧や調査の記録もあった。

「ここにいる者は、後になって症状が現れているようだ……」

 詰所でトリアヌスの持ってきた記録に記されている名前を目で追いながら、一人一人の症状を思い浮かべて、やはり診ておいてよかったと呟く。
 単に名前を聞いて顔を見てでは覚えられたものではない。
 名前を見て、誰なのか顔は浮かばないが症状なら浮かぶ。
 残念ながら、私は薬物の名前やその作用などは覚えられても、フェーベ姉様みたいに人のことをそんなに覚えられない。
 四十六件分の症例として、名前はそのいずれの症例かを示す記号でしかなかった。
 こういった時、王族としては欠陥品だとつくづく思う。 

「心と能力は別物です……ティア王女」

 記録を手にため息を吐いた私の考えを察したのだろう、トリアヌスが諭すような声で言った。
 
「少なくとも症状以外にどうでもよいとは思ってはいないでしょう?」
「当たり前だ。けど……」
「フェーベ王女とご自分を比較なさっているのなら、あれは一種の特殊な才能のようなものです。アウローラ直系の方々は一芸に秀でるような傾向を持つようですし」
「まあ、そうかもしれないけれど」
「フェーベ王女なら、この件はティア王女向けだと仰ると思いますよ」
「そうかな?」
「ええ」

 お小さい頃から妙なところで貴女方は時々お互いを意識なさいますね、と言われて、一言余計だとぼやいた。
 私と姉様は仲良しだけど、正反対というか方向性が違うというか時々気になるのだ。
 フェーベ姉様ならどうだろうって。
 お互いということは、姉様もそうなのだろうか?

「しかしティア王女の仰る通りなら、毒は徐々にその強さを増していったことになる」
「遅い順番で症状が出て、ここには収容されていない者もいるようだからそうだと断定はまだできない。ただ、医官長の話やここに書かれている軽症者の証言から遅効性の毒ではなさそうだ」

 大抵、貯水池の水を飲んで間もなくなんらかの症状を訴えたり、倒れたりしている。
 
「遅い順番で症状が出た軽症者は、いつ貯水池の水を飲んだか確かめた方がいいかも……これから医官長と行くから合わせて確認する」
「あの……お着きになられたばかりで、本当によろしいのでしょうか。宰相閣下?」

 私がやってきてすぐ、ずっと診て回っていることを気遣って、医官長がトリアヌスにお伺いを立てる。疲れて、手が足りないところで連れ回されるのが若干迷惑なのかもしれない。
 ちらりとトリアヌスが私の顔を見て、医官長に視線を戻し、そうですね……と息を吐いた。

「非常時にじっとしてる方ではないですが……」
「トリアヌス!」
「医官長には被害者の治療をする仕事があり、ティア王女は医官ではなく医術を修めているわけでもない」

 有無を言わせない声音でたしなめられてひとまず黙る。

「軽症者とは話はできますか? 医官長?」
「まあ……疲れない程度でしたら」
「この通り、被害者の一覧はありますから、慰問ということなら医官長でなく私とティア王女でもいいでしょう。貴殿は本来の職務に戻ってください」
「はい。その……でも、全員診て回るというのは結局変わりなく、お二人で?」
 
 当然です。
 当然だ。

「本当に、よろしいのですか?」

 ほとんど同時に答えた私とトリアヌスに、若干の諦めと呆れを滲ませた声で医官長が繰り返した言葉に、ええ勿論と何故か少々悪そうな笑みをトリアヌスが浮かべたのがちょっと気になったけれどともかく全員診て回ることにトリアヌスは反対ではないらしい。
 騎士団支部を出て、止められるかと思ったと言えばまさかと肩をすくめる。

「王族と宰相でやって来て、暢気にしていたら下に示しがつきません。そうでなくても地方都市の体制は王都ほどしっかりしていないのです。現場の官吏は問題なくとも、上層がどうも……」
「たしかに、王宮ほど連携してはなさそうだ」
「私の力及ばずといったところですが、ティア王女のおかげで多少てこ入れも出来そうです」
「ん?」

 トリアヌスを伴って、騎士団支部から遠い家から順番に訪ねて回る。
 そこでようやく、医官長の「よろしいのですか?」の意味を理解した。
 よく考えたら当たり前のことで、平民階級の家に突然、王族と宰相が一介の官吏の調査みたいにやって来るわけだから、訪ねた家の者達が毎回蜂の巣突いたように動揺する。
 却って迷惑をかけているなと一軒ごとに心が挫けそうになっていったが、とにかく毅然ととフェーベ姉様の言葉を心の中で繰り返し、慰問といった形式で容態や水を飲んだ時間などを確認していった。    

「こうなることわかっていたな。トリアヌス」

 橙色の屋根と石壁の建物が左右に連なっている、石畳の道を歩きながら彼を睨めば、くっくっと喉を鳴らすように苦笑しながら申し訳ありませんとトリアヌスは言った。

「私が上から物を言うより、皆の想像以上に若く可憐な姿のティア王女自らこれだけ献身的に動いて地方における体制の改善要請を出したとしたら、どんな頭の固い者でもそう文句は言えません」

 東都は王妃様の出身地であることを盾にして、なかなかこちらの指示を聞き入れないでいたのですが、ティア王女はその王妃様の娘でもありますから、おかげで東都の体制は早期に手を入れられそうですなどと説明されて、お役に立ててなによりだと返した。

「一つの事で二つ、三つの事が片付くのならそうしなければならないのが私の職務です。お許しください」
「いいけど」
「ありがとうございます。失礼ながら途中で癇癪起こされないかと実は内心危ぶんでおりました」
「王族として表に出たら、なにが起きても毅然としてれば大丈夫ってフェーベ姉様が……」
「フェーベ王女が?」
「こういったなにかだとは思っていなかったけれど」
「フェーベ王女が……そうですか」

 遠くにあるものを見るように目を細めて、なにが起きても……と呟きながら細めた目を伏せてなんだか苦い笑みのようにも見える表情をしたトリアヌスに、姉様のことなにか知ってる? と尋ねてみる。

「なにかとは?」
「姉様はただの社交を担う王宮の華ってわけでもないような気がして。護衛も普通とは別につけてるだろ?」
「あの方はお立場上、王族の中でもっとも狙われやすいですから。王宮の外や地方だけでなく、自治領や公国など警備が難しい場所へ出向くことも多い」
「まあそうだけど」
「なによりあの才能が危険です。フェーベ王女が注意を向けて見たら、顔やその時の振る舞いも含めて記憶されてしまうのですから」

 たしかにそうだ。
 フェーベ姉様の人に関する記憶力は尋常じゃない。フェーベ姉様の頭の中には様々な場所での貴族や高官の名前や容姿や声や動作や発言、交友関係までもそのままそっくり残っている。
 それはたぶん、見る人が見れば黄金よりも貴重なものなのに違いない。

「ティア王女同様、あの方もあまり表には出ずに静かに暮らしていただきたいのですが」
「私ははなから引きこもりたい気でいるぞ。なあ……前からちょっと思ってたけど、トリアヌスって姉様のこと好きなのか?」
「それは勿論、ティア王女同様、お小さい時からお側で見ている大切な方ですからね」

 いや、そういった話じゃなく……と、言いかけてここですと遮られた。
 歩いていた道は開けた広場に出ていた。
 円形の広場の隅に騎士団の制服を着た男が三人、私とトリアヌスを見て敬礼する。
 広場の中央に、水を湛えた石造りの貯水池がある。
  
「この貯水池です、ティア王女」
 
 *****
 
 貯水池は水汲み場だけでなく憩いの場でもあるようだった。
 円形の広場の中央に配されたそれは、深さは大人の膝下くらいで、二人ほど腰がかけられる石段を四方に備えている。
 川上から水を送る通路は落ち葉や小動物や虫の死骸や今回のような毒の混入を防ぐ為、地下に通しているようで、貯水池の内側の壁に数個穴が開いている。
 水が出る口と工房などに配水するためのものだろう。
 毒が混入した当日、補修工事の準備で水の流れが止められていたのは不幸中の幸いだろう。
 配水がされていたらもっと被害は広がったはずだ。
 工事予定だったのを裏付けるように、貯水池から少し離れて、積み石や木材や薪などが一箇所にまとめられ、貯水池の内壁に沿って、等間隔に目印らしい真新しい薄く細い木の杭が軽く差し込んである以外に特に不審な点はない。
 治安部隊と文官の調査は一通り済んでいるらしい。

「朝に汲んだ水を飲んだ者達が十数名、ほぼ同時に嘔吐と気分の悪さなど不調を訴えたのが最初です。各家庭での騒動が住民間へと広がり、騎士団の治安部隊が駆けつけて水を飲まぬよう警告を出すまでの約一刻の間で八十名弱に被害が及びました。以降、この広場は関係者以外立ち入り禁止になっています」  
 
 ローブの袖の中から取り出した報告書に目を落としながらのトリアヌスの言葉に、そのようだなと頷く。
 
「ティア王女の推察通り、軽症者は比較的早い段階で不調を訴えています。貯水池の水は止められていた。つまり濃度は時間の経過と共に変化していたことになります」
「煎じ薬を流し込んだなどではなさそうだ。けれど徐々に溶けるようなものなら少なくとも目視できる塊のはず。水を汲みにきた人達が誰もそれらしいものを見ていないのはおかしい」
「透明な結晶などは?」
「そんなもの市場にはまず出回っていないものだぞ。毒物を結晶化して取り出すなんて、塩水から塩を取り出すような簡単なものじゃない。そもそも精製できる設備が限られる。真冬ならともかくいまはまだ秋だから液体を凍らせて運ぶ事もできないし」

 本当に、なにもなかったのかと尋ねれば、調書を信じるならそれらしいものは特にといった返事にため息が漏れる。

「ちょっと聞いてみようか」

 広場の隅で見張っている中で一番年嵩な、三十半ばくらいの騎士団の者に近づいて声を掛ければ、慌ててひざまずこうとするのにそういうのいいからと止める。

「……王女の仰る通りにしてください」

 額を掴むようにうなだれて後ろからとぼとぼとやってきたトリアヌスに、騎士団の者はぽかんとした顔ではあと答えた。所属と名前をトリアヌスが確認し、どうぞティア王女と声をかけられて質問する。

「調べには立ち会っている?」
「はい。最初の調査の指揮を取ったのは私です。様子を知っているということで見張り役に立っております」
「ああ、なるほど」

 男は治安部隊の小隊長らしい。年配で役付きなのに、こんな下っ端がやりそうな務めをしているのはそのためかと納得した。
 たぶん交代で、万一の見落としがないよう調査に立ち会った者が一人は見張りにつくことになっているのだろう。

「最初の時、本当にこの様子と同じだった?」
「はい」
「不審なものはなにも?」
「見つかっていません」
「水の中は? なにか溶け残っていたとかそういった」
「水の中は勿論、特に入念に複数人で調べています。棒や網を使って底を浚ってもいますがなにもありませんでした」
「そう。ありがとう」
「とんでもございません、ティア王女」

 再び敬礼した男に目礼だけ返して、うーんと顎先をつまんで考える。
 完全に溶けていたのか?
 いやでもなにか腑に落ちない。
 第一、朝一番に水を汲みに来た人たちだってなにもなかったと証言がある。
 騎士団の調査と合わせて水の中にはなにもそれらしいものはなかったと考えるのが妥当だ。
 
「なにか見落としてる……?」

 振り返って、貯水池を見る。
 等間隔に杭が打たれている古びた円形の水汲み場がなにか禍々しい呪いのように見えて、思わず顔を|顰(しか)めた。
 
「もう十年近く東都の警備についていますが、こんな恐ろしくも気味の悪い事は初めてです。死者が出ていないのが幸いです」
「まったく同感ですね」
「恐れながら宰相閣下、毒はなにか判明したのでしょうか?」
「まだ調査中でなんとも」
「そうですか」

 なんの毒、か。
 騎士団の小隊長とトリアヌスの会話を聞きながら診てきた者達の症状を考える。
 医官長は指貫草の煎じ薬を誤飲した時に似ていると言った、たしかにそうだった。
 悪心に嘔吐、下痢や腹痛、四肢脱力、めまいが出ている者もいる。
 だけど……。

「でもたぶん、指貫草じゃない」
「指貫草? 傷などに塗るあれですか?」

 私の呟きに反応して、すぐ、申し訳ありませんと男が謝った。
 たぶん勝手に私に話しかけたことに対してだろうと思い至って、構わないと答える。

「いちいち発言するのに断りを入れられていては議論も出来ない。そうか、騎士団の者なら馴染み深いな民間薬だけど」
「はい」
「医官長が誤飲した時の症状に似てると言っていましたね……ティア王女は違うと?」
「たぶん。指貫草は民間薬の中で効能がいいとされているから、学術院が強壮剤の開発でいくつか調べた記録の中にあって……」

 騎士団の者がいる手前、ちょっとぼやかしながら言ったけどトリアヌスは察したようで、若干眉間に皺が寄った。
 不正なことはしていないものの、あまり不特定多数に聞かせていい話ではないのは確かであるから、騎士団の者にあらためて礼を言って彼から離れ、貯水池の側に戻る。

「学術院が?」
「勿論、誤飲した際の症状も十分に調べた上でだ」

 学術院が調べるつまり研究には、実験も含まれている。
 そしてそれは、動物だけとは限らない。
 誤飲した者の中には命を落とした者もいる。
 毒と薬は紙一重なのだ、適量を適切に用いれば薬になるし、量や用法を間違えれば毒になる。
 結論としては強壮剤として用いるには適量の範囲が難しく危険と判断されて、実用化には至っていない。

「指貫草の煎じ薬を飲んで中毒症状を起こした場合、脈が乱れを生じることが多い。けど重篤者にも軽症者にもそれはなかった」
「だから全員を診ると言って脈を……」

 トリアヌスの言葉に頷く。
 
「短時間で脈の異常を見るのは難しいから断定はできないけれど、八十人近く診て一人も引っかからなかった。でも似た特徴を持つ毒ではあると思う。例えば……」

 はっと、思い浮かんだものに、もう一度貯水池を見て、再び騎士団の男に私は駆け寄って、貯水池を指さした。

「あれっ! いつからあるっ?!」
「ティア王女っ?! あれとは?」
「あの、貯水池に刺さっている木の杭だっ。いつから刺さってるっ!」
「工事の当日かと……昼からの予定でしたがおそらくは準備のために」

 真新しい杭。
 あれは生木だ……だとしたら。

「誰が、いつ? 杭が打たれる前に水を汲んだ者はいるか調べたか?」
「いえ。それは……」

「調べてないならいますぐ調べろっ、その家の者で中毒者が出ていないかも!」
「ティア王女、突然どうなさったのですか?」

 しどろもどろな男に詰め寄っている私に声を掛けたトリアヌスを振り返って、私は言った。

「ネロスの木だ」
「は?! ネロ……?」
「川辺とか土が湿った森の中なんかによく生えている。細長い葉を八方に広げて夏から秋にかけて白や桃色の花を咲かせる背の低い木で、花、葉、枝、根、果実すべてに毒がある。それもたった数枚の葉で家畜一頭を殺しかねない猛毒だ。特に生木は燃やした煙にまで毒を持つ。あの杭がそれなら……」
 
 生木から滲み出た樹液が徐々に溶け込む。

「すぐ調べます! おいっ、お前等貯水池に刺さってる杭を回収しろっ」
「素手で触っちゃだめだ。もしそうだったら経口毒だけじゃない。素手で触れれば炎症も起こす」

 注意すれば、手袋をはめろと声が飛ぶ。
 頭飾りを外して、騎士団の者から杭を一本分けてもらったのに直に触れないように巻き、一度戻ろうとトリアヌスに促した。

「指貫草の毒とほぼ同じ症状だけど脈の異常はあまり出ない」
「ティア王女の仰るような木ならあれかと思い浮かぶものがありますが、そんな身近な木に……」
「触ったり近づかなければ大丈夫。燃やすのは危険で葉は腐らせても毒があるから下手に取り除こうとしないほうが安全だ」

 夜になって、トリアヌスの元に報告が届いた。
 夜明け前に水を汲んで売る、水売りの娘から杭は見なかった証言とその水を買っていた家からは中毒は出ていなかった。
 回収した杭を削り、魚を用いて調べたところ約半分が毒を持つと判明した。
 私の持ち帰ったものも、毒を持っていた。
 鼠取りの罠にかかった鼠で試した。

「毒は判明しましたが、その毒ではやはり対処療法しかありませんね」
「たしかに……」
 
 詰所に戻ってきたラテオと医官長が話しているのを横目に、私は別のことを考えていた。
 二人が言う通り、毒が排出されるの待つしかないからこれ以上毒そのものについて考えることはない。
 それに私は医官ではないから、考えることは治療のことではない。
 先に休むと断って、用意された貴賓室の椅子に落ち着く。
 長官の娘は、簡易で構わないと夕食だけ用意させてもう家に返してある。
 湯は戻ってすぐに使った。
 部屋の扉を叩く音が聞こえて、入れと言えばトリアヌスと爺が連れ立って入ってきた。
 入ってきた二人に、なにをしたいのかがわからないと私が言いながらテーブルの椅子をすすめる。たしかにとトリアヌスが応じて、二人共椅子に座った。

「調査はどうまとめることになった?」
「事故で。実際、杭を作って打った者は不明でも見つかっても過失で処理できます。死人も出ておりませんし。みだりに不穏にする必要はないと上層は騎士団も含めて全員一致です」
「正直微妙なところですがな……死人が出なかったのはたまたま運良くに近い」
「うん。けど、杭の全部がそうじゃないなら少なくとも殺す気ではなかった。そんな毒の知識がある者ならもっと確実にやろうと思えばできる」

 すごく、嫌な感じだ。
 ただ混乱させたいだけじゃないものを感じる。

「帝国や公国への反感情を促す目的ではなさそうで、儂も解せん」
「どうして東都なんだろう……?」
「それは、国境から近いからでは」
「国境からの距離なら地点にもよるが、王都だって大して変わりないぞ?」

 それらしい犯人の目撃証言がないのも気になる。
 目立つような者ではないということだ。
 武官ではなさそうだし、適当な者を送りこむにしても出入りは簡単にできない。
 それに都合が良すぎる。まるで水が止められていたのを狙ったみたいに相手は王国に詳しいと思っていたけれど詳しすぎる。

「王国に潜り込むには一苦労なはず。毒の知識もあって、狡猾なやり方も思いついて、それなのに帝国や公国への反感情を促すこともせず、陽動にしてもこれではやらないほうがましだ」
「敵襲ならともかく毒騒ぎでは騎士団が動く必要はないしの。せいぜい派遣される医官と文官の警護程度で」
「だろ?」
「……医官」

 ぽつりと呟いたトリアヌスに、首を傾げた。

「あり得ない……東都と違って王都の配水設備は構造も水量もまったく違う……警備も厳重でそんなこと……いや、違う。まさか……オルランドに知らせなければっ」
「トリアヌス?!」 
「王宮から、毒の対処に慣れた医官を派遣しました」

 ぶつぶつと巡る思考をそのまま口にするような呟きを漏らし、突然立ち上がったトリアヌスを呼び止めれば返ってきた言葉に、まさかと私も呟いた。
 ただでさえ医官は少ない。そして毒の対処に慣れているような医官はさらに少ない。
 大抵風邪などの病気を診るか、怪我を治すかのどちらかに医官は分かれていて、どちらも毒など稀にしか対処しない。
 父様や母様はまず心配ない。毒味や確認は万全だから。
 けれど、継承位も低くやがて王家を出る王女は父様達ほど厳重ではない。

 宰相閣下――っ!
 
 廊下から騎士団の団員らしい慌てた声がした瞬間、普段絶対にない荒々しさでトリアヌスが部屋の扉を開け放して聞き返す声に、指先が冷えるような嫌な予感がした。
  
 王宮から鳩がっ……フェーベ王女に毒が盛られたと――。

 廊下に怒号のようなトリアヌスの声が響き、すぐ近くでまさか……と爺の声を聞いた。
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