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スピンオフー第三王女と王国宰相

我が上官

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 ターラント家といえば、王国の中でもちょっとした貴族の家系だ。
 王家との繋がりはないものの、いまの王国の前身である複数の小国の内の一つを治めていたとターラント家に伝わっている古い文献に残っている。
 家に伝わる古い文献は、現存しているのが珍しいアウローラ王家以前の記録文献としてその保存と研究が王国の管理下にある。
 つまりはそれほど古くから続く、百年二百年の間で成り上がったような貴族とは一線を画す。
 正に由緒正しき家系であった。

 そしてそんな家の息子であるこの私、オルランド・ディ・ターラントは、名実ともに貴族の中の貴族といった賞賛の中でそれまでの人生を歩んできたといって過言ではなかった。
 三男ではあるがそんなことはどうでもよい。
 とにかく家柄、容姿、頭脳、乗馬や狩りといった貴族のたしなみとして重要な運動においても二人の兄より出来の良い、ターラント家自慢の息子であったのだ。
 もちろん社交の場に出るようになってからは、女性からの熱い視線も多く集めた。

 家督を継がない貴族の息子が進む道はいくつかあるが、その中で私は上級官吏となる道を選んだ。
 高官に出世すれば王を補佐する者として、王国の運営を指揮する立場となる。
 ただ家の影響力だけが頼りの者には務まらない役目だ。
 これほど私にふさわしい道はないだろう。
 王立学術院を好成績で修めた者でも容赦無く落とされると評判の、超難関の高等文官登用試験を一度で合格して晴れて王宮勤めの上級官吏となり、研修期間を経て最短出世の道と言われている尚書府に配属が決まったのは私の実力であれば当然のこと。
 貴族だけにとどまらず広く平民にも門戸を開いて、優秀な精鋭だけが集められると聞く王都の上級官吏の同期達は、さすがの私も感心するような者も多くいたが、しかし怖れを抱くほどの者はいなかったし、客観的に見てそんな同期たちの中でも家柄・実力が揃った者として私は一目置かれる存在であったと思う。

 しかし世の中、上には上がいる――。

 そんな言い古されたありきたりな文句をまさか、心底から実感させられることになろうとは……それも予科組と呼ばれる平民出の地方出身者である男に。
 トリアヌス・ユニウス。
 平民には珍しく姓があるのは郷里の商人組合ギルドの事務長を三代務めている家であるかららしい。
 尚書府主事として書記官三十名を束ねる、配属先の上官。
 歳は十離れていたが、官吏としては八年先輩。
 おそらく選抜試験か登用試験に苦戦したのであろうなどと一瞬でも思った、世間知らずで思い上がっていた当時の自分を私は殴りつけてやりたい。
 
*****

「新人を歓迎する側なはずの我々が、その当人の家の狩猟園に招かれるとは、いささか釈然とせんものを感じるな」
「まあそうはいっても主事殿、なんといってもターラント家の子息ですし」
「寧ろ挨拶されてしまっているということか、殊勝なことだ」

 背後から、そんな会話が聞こえ暢気者めと内心呟いた。
 それにしても配属先の上官が、まさか予科組と呼ばれる貴族でもない平民出の男とは。
 一見したところではそうとは思えなかった。
 私も容姿が良いと人から言われる側だが、これは次元が違う。
 まるで女子供の好きな絵物語の描かれた絵のように姿形が整っていて、陽に灼けたこともないような肌の色をしていた。鑑賞に耐える容貌とでもいうのか。
 数年前まで商人として労働していたなどと到底思えない。

 主事のトリアヌスだと名乗った男は、自分が上官であることを告げ、そうしてこういったことは最初に言っておくのがよいだろうと予科組であることを伝えた。
 階級的に葛藤することもあろうが、組織においては組織の序列に従ってもらうことになるから割り切ってもらいたい、と。
 有無を言わせぬ妙な迫力を持った、紫がかった灰色の目でこちらをまっすぐに見詰めて。
 この私に、初対面からそんな堂々とした態度で接してくる人間は貴族であっても滅多にいないから悔しいことに気圧されてしまった。
 そして不思議なのは、私と同じ貴族階級の子息で占められている先輩諸氏らがそのことになんら疑問も持っていない様子でいたことだ。 
 
 組織の中でうまく立ち回るには、まずはなにをおいても人心掌握だろう。
 不本意ながら新人である以上、書記官の中では下っ端である。
 先輩諸氏に好感を持ってもらうことがまずは第一で、かといって侮られるわけにはいかないから適度に牽制もしておく。血筋も実力の内だ。
 慣例で、配属日は安息日の前日と決まっているらしい。
 初日は配属先での自己紹介と仕事内容や仕事場に関する説明をひたすら聞くのみで終わった。
 尚書府の書記官は三十名が一まとまりの班となって一室に詰めており、さらに大まかに仕事内容で十名ずつの列に分かれ、二人一組になって仕事にあたることになっていた。
 私は、私の当面の教育係として組むウーゴと名乗った先輩官吏と、各列長と副列長、そして主事殿を安息日の狩猟に誘った。
 王宮勤めの官吏は貴族の子弟であっても独身のうちは官舎に入ることが義務付けられているためか、だんだん友人付き合いが希薄になっていくらしい。
 文官になる貴族はそのほとんどが家督を継がない、上の兄弟がいる者達だ。
 結婚すればしたで婚家との付き合いなどがあるらしく、こういった体良く断る理由になる誘いに皆乗ってきた。
 
「しかし鳥猟か……官吏のローブもつけぬ軽装も久しぶりなら弓を引くのも久しぶりだ。こういったのは貴殿らのが得意だろう。狩りは貴族の嗜みと聞くし」
「まあそれは、我々はそれこそある程度の歳になったら父親などに連れ回され覚えさせられるものですが」
「わたしは商人のせがれだからな。機会がまったくなかったわけでもないのだが、あまりそういった心温まるような思い出になるようなものではないな」
「主事殿や先輩方の手間はかけさせません、昼餐の分は私が仕留めますよ」
「さすが、頼もしいな」
 
 ウーゴ殿がそう言い、列長達が笑った。
 日頃の付き合いの狩猟となんら変わらない和やかなものだ。

「たまには体も使わねばと思っていたところであったし、貴殿らの邪魔にならぬようほどほどで」
 
 主事殿は苦笑しながら、乗っている馬の手綱を片手に首を回した。
 馬は貸した馬であった。
 厩舎の中で合いそうな馬をと言ったが、どれでも構わないと一番手近にいた黒い馬に乗っている。
 さすがに由緒ある家の馬はよく躾られたものだと彼は感心していたが、そいつはそれほど大人しい馬ではないはずで、何故それほど大人しく主事殿に扱われるままになっているのか不思議だった。

 物事に、想定外というものはつきものだ。
 それはおそらく私だけではなく、皆がそう思った筈だ。
 成果は七羽。
 内、四羽仕留めたのが主事殿であった。

「やはりたまには体を動かしたほうがいいな、これは……」

 矢をつがない弓の弦を軽く引く真似をして、主事殿は湖に向けている目を遠く細めるように顔をしかめた。
 五本射って、四羽。
 最後の一本だけが鳥の羽を散らし、水面をかすって湖に沈んだ。

「すまん、仕留め損ねて鳥が大半逃げた。昔は集中して外すことはなかったのだが……」
「あの、特に狩猟をやっていたわけではないのですよね?」
「貴殿らのようなのはな。だが、祭日のご馳走とか店の売上げがふるわない時期の日々の食事の材料とか、鳥を獲りにいかされることはたまに」
「材、料……ですか」
「兄弟の一番下で、商人として面白みに欠けると家庭内の評価も低かったから調達係のような雑用を押し付けられていた。獲れなければ兄達からなじられるし、なにより食べ盛りで飢えたくもないし必死だ……言っただろう心温まるような思い出ではないと」

 あ、やっぱりこの人規格外だ……。
 そうウーゴ殿の呟きが聞こえ、思わず乾いた笑いが漏れた。
 食べ盛り……。
 そんなことで鳥の首を正確に一発必中できるようになるものなのか?!

「逃げたあとをオルランド殿が仕留めてくれて助かった。七羽もあれば、昼餐に間に合うだろう」
「いや、我々は主事殿ほど若くもないですから十分かと」
 
 三人の列長の一人がそう言って、やはりこの方に逆らってよいことはないと列長同士で目配せし合っているのを私は見た。 
 
 ******

 尚書府の書記官となって七日が過ぎ、あらためて自分の配属先への疑問が増えた。
 まず、部屋の異なる他の班の書記官は定刻になってもほとんどが帰らないが、私の班は大半が仕事を終えて帰る。
 上官が上官だから任される仕事の量が少ないのかと思ったが、むしろ多いくらいらしい。

「なにせ我々の班は“早く正確”と評判だからな。急ぎの文書の差し込みもよくある」

 学術院の寄宿舎を思い出させる官舎には食堂の他、酒を嗜める場所もある。
 夕食時に先輩諸氏と顔を合わせれば、なんとなくそちらへと流れていく。
 まあそういった付き合いは苦にならないし、うまく組織に溶け込めているのならなによりであった。
 ウーゴ殿を含む同じ列の同僚四人と一つのテーブルを囲んでいた。

「それなのに我々の班だけ定刻で終わっているのか?」

 一体、他の班はどんな無能の集まりなのだと思ったら、それもそうでもないらしい。
 以前は、自分達の班が他と比べて評価は下であったと。 

「やはり主事殿が着任して、いまの体制に変えてからだな」
「ああ、それまでの主事はただ手が空いてそうな奴に適当に仕事を投げていたし」
「最初は二人一組で分けて仕事にかかるなど面倒に思えたが、一方がやった清書を一方が見れば誤りがあればそこで直しがきく。差し戻し仕事の量が減るのがこうも大きいと思わなかった」
 
 各人の仕事具合は列長と副列長が管理をし、その報告で主事殿はおりてくる仕事の割り振りを日々決めているらしい。
 またある程度、内容によって人を決めてもいる。
 記帳や記帳内容を転記した上申書を得意とする者、起案書類から内部文書を起こすのを得意とする者、議事録と草稿から通達文書や命令書を作成する者。
 後者になる程、仕事としては高度になる。
 
「予科組だろうが元商人だろうが、主事としての仕事ぶりは色々と認めざるを得ない。最短の三年で昇格しただけはある」
「そもそも初等学校卒で予科試験で法科院に入って首席卒業などと有り得ない経歴の持ち主だからな」
「は? 初等学校卒?! 首席?!」
「なんでも商人の家の三男で初等学校後は家業の手伝いをしていたと本人が……取引先として出入りしていた地元の学術院の教授から予科試験のことを教えてもらい、冷やかし半分に受けて通ったから官吏になったというのはさすがに冗談だろうが」

 王立法科院といったら学術院を修めた者も行く高等文官養成機関みたいな場所だ。
 卒業者の数は入学者の半分以下と聞く。
 その法科院で首席だと?! 

「配属された時から疑問だったが、皆、やけに主事殿を持ち上げ……いや、遠慮がちでは? いくら主事として有能で、特異な経歴だとしても……」
「オルランド殿」

 やけに真面目な口調でウーゴ殿に名を呼ばれ、私は怪訝に眉をひそめた。
 みればテーブルを囲む諸氏もやけに神妙な顔して杯を口元に運んだりしている。
 一体、なんだ。

「貴殿の教育係として忠告しておくが、もし身分の話をしているのなら、あの人が平民であることは忘れた方がいい。貴殿が名門ターラント家の子息であってもだ」

 うんうんと、一同頷く様子に、だから一体なんなのだ。

「それは、どういった」
「じきにわかる」
 
******
 
 じきにわかるのじきは、翌日に訪れた。
 目の前に、黒い瞳で俺を見上げている幼女がいる。
 私の膝より少し上くらいの背丈しかない黒髪の。
 しかし身につけている絹の服や頭を飾る細い金細工の髪飾り、なによりそのやってきた方向。
 昼食に出て、戻ってきた時に尚書府の前で出くわした私と反対方向。
 王族の住居区画に続く廊下の方向からやってきた。

 広い王宮内で尚書府は王の公務に関わる区画の最奥部にある。
 その尚書府の前の廊下に普通の幼女が入ってくるわけがない。
 黒髪、黒い瞳、現王妃似の可憐な顔立ちをした、年端もいかない王族といったらただ一人。

「ティア王女?!」
 
 慌てて膝をついた。
 当然だ、幼女といえど第四王女。
 いくら順位は低くともれっきとした王位継承権の持ち主だ。 
 王国の前身の小国に遡れる歴史を持つターラント家であっても、数百年もこの王国統治を続けてきたアウローラ王家とは天と地ほども差がある。

「……」

 直立不動でじっと私の顔を無表情に見つめて、ティア王女はぼそりとブンカンと呟いた。
 
「は、オルランド・ディ・ターラントと申し……」
「トリアヌス」
「え?」
「トリアヌスは?」
「……は、あ。主事殿、ですか?」

 左腕のローブの腕をひっぱられ、何故か拳に握っている手で尚書府の入口を示される。
 どうやら案内せよということらしい。
 それにしても兄の娘と同じ年頃なはずだが、子供にしては表情に乏しく口数の少ない。
 私の袖を掴んだまま、私を無言で見上げるその様子にすでに家臣を従える威厳のようなものを感じる。
 お小さくてもやはり王族は王族なのだなと感心してしまった。

「しょうしょふのトリアヌスしらない?」

 もちろん、知ってます。
 尚書府は私の職場で、トリアヌスなら私の上官。
 というより、何故、第四王女があの男のことを。

「ティア王女!」
 
 私と同様に昼から戻ってきたのか、それとも他へ出向いていたのか、少し距離のある場所から主事殿の声が廊下に響き、次いで駆けてくる足音が背後に聞こえた。

「トリアヌス!」

 私をじっと見つめていた無表情からぱっと花が咲いたようにうれしそうな顔で、私の袖をあっさり放して、我々に駆け寄った主事殿にティア王女が抱きついた驚きに、目を見開いた。

「どうしたのです? お一人ですか? ここへは来てはいけませんと、以前、わたしは申し上げたはずでしょう?」

 しかも、抱きつかれたのを引き剥がして身をかがめた主事殿は、恐れ多くも王女に注意している。

「ひろった」
 
 ティア王女が握っていた片手を彼に差し出す。
 小さな手の中になにか入れていたらしいそれを主事殿が指に摘んで、光の差す方向へと持ち上げ透かし見る。
 美しい鮮やかな緑色をした石だった。

「スマラカタの石のようですね。それもなかなか良質な……傷が少なく色も均一に深い」

 スマラカタの石。
 富と権力を象徴する宝石だが、子供の掌ほどもある大粒のものは私もはじめて見る。

「主事殿は、宝石商人か?」
「いや、主に油や香辛料を扱っていた。郷里の学術院の教授に鉱物を専門とする教授がいて標本片手に色々と教わって。この石は非常に脆く欠けやすい。これほど大きな物はなかなか……ティア王女、また使われていない通路に入りましたね?」

 行ってはいけませんとあれほど……迷ったらどうするんです? だれも助けには行けませんよなどと今度は叱っている。
 ティア王女の顔がみるみる不服そうに変化していくが、王族の不興を買うことなど彼はまるで頓着していないようであった。

「むぅ、迷わない」
「まったく、なまじ本当に迷わない方だから厄介だ。あとでわたしに石を見つけた通路を教えてくださいますね?」
 
 主事殿の言葉に、ふるふるとティア王女が首を横に振り、主事殿はため息を吐いた。

「ティア王女……あなたしか知らない通路で以前お昼寝して大騒ぎになったのをお忘れですか?」
「……気をつける」
「気をつける、ですか」

 これはさすがに度が過ぎている。
 相手は王女だぞ?
 一介の文官が説教していい相手ではない。

「主事殿! いくらなんでもティア王女に無礼が過ぎる!」
「王宮は広く深い迷宮も同じだ。使用されていない通路に入って迷えば命に関わることもある。それに調査もしなければならない」
「だからといって……!」
「迷わない! ブンカンうるさいっ」
「ほら、ティア王女もそう仰って……って、私ですか」

 うん、とティア王女が頷いたのに、出すぎた真似を……といささか、いやかなり納得いかない気分で頭を下げた。
 何故、私が庇ったはずの王女に叱責されねばならぬのだ。

「ティア王女。彼はターラント家のオルランド殿です。あなたのお父様である王も信頼する大貴族の方です」
「うん」
「……まあ、いいでしょう。しかしこれは王家の宝石かもしれませんね、侍従長に渡しに行かなければ」
「ほうせき? こうぶつじゃない?」
「鉱物です。特別美しいものを宝石として珍重するのです」
「ふうん」
「ですからティア王女の観察遊びには使えません」
「むぅ」
「むくれてもダメです。窃盗罪になりますよ」

 な、な……なにを言っているのだこの男は。

「窃盗罪だとっ?! 貴殿は王女に向かってなんということをっ」
「事実だ。これは単なる綺麗な石ころではない。しかもおそらく使われていない通路で見つかったもので王家の物かもしれない。それより、いつまでひざまずいて事の成り行きを眺めている。貴殿にそんな暇はないはず」
「なっ」
「貴殿に任せている徴税の帳簿の記載とその上申書類の作成は?」
「ぐっ」
「こういったものが王宮内から出た場合、侍従長から宝物殿へ届け出る必要がある。王家の宝物は国の宝物。たとえ王女であっても勝手に私物化は出来ないことくらい貴殿も知っているはず」
「しかし王女はまだ……」

 子供ではないか、と言い掛けたのを俺は飲み込んだ。
 王女から顔を上げ、廊下に膝をついているこちらを見た、その、初対面で気圧された時の比ではない威圧感。

「まだ? なんだ? まさか子供だからとでも言い出すのなら」
「な……」
「貴殿は何故ここにいる? 文官であれば王ではなく王国法典に従う身だ。王族や権力者が私情のみを優先し、手続きも踏まず勝手を通そうとするならばそれを止めるのは我々の役目であり、我々にしか出来ない。王族におもねたいというのなら貴族の息子に戻られよ。八日とはいえ上官だったよしみだ、私が告発ししかるべき裁きにかけてやる」

 目が、本気だ。
 王国の王は一冊の法典である――それは法科を修めた者のみならず、広く貴族や権力者の間で口にされる皮肉の言葉。
 私欲と権力の暴走を止めるため、王国法典は我々のような貴族や権力者に厳しい。

「ティア王女は幼いが王族だ。誰よりそれをしてはいけないお立場、分別がついていないならそれを教えて諌めるのが家臣の役目。その程度の規範もすぐ思い浮かばず判断もできずよく登用試験を通ったものだ」
 
 正論とはまさにこのこと。
 怒鳴っているわけではない、静かに諭すような調子の言葉が発せられる度に周囲の空気が冷えていくようで、私は完全に蛇に睨まれた蛙のように血の気の引く思いでじっとしているしかなかった。
 どうして上官とはいえ下級管理職に過ぎない主事殿を前に、こんな、武官に剣の切っ先でも向けられているような畏怖を感じなければならないのだ。

「法典百回読み直せ、馬鹿者」

 ふっと、苦笑して主事殿はティア王女を抱き上げた。

「こわいぞ、トリアヌス」
「ティア王女が我儘仰るからですよ」
「オルランド、ブンカンじゃなくなる?」
「まさか、優秀かつ将来有望な者をみすみす辞めさせるほどわたしは愚かではありません」
「え?」
「あとで、トリアヌスだけに教える」
「わかりました。わたしはこれから侍従長のところへ石を届けに行かねばならなくなったから、列長達に今日の分をまとめておくようわたしからの指示だと伝えてくれ」

 可憐な王女を抱き上げ、私を見下ろした上官の姿は、まるで見た者に畏怖心を抱かせる一枚の荘厳な絵のようで。

「畏まりました」

 気がつけば、心底から平伏する思いでそう主事殿に私は返事をしてしまっていた。
 

******

「あーそりゃ、怒る。あの人が一番怒るやつだ」
 
 申し訳ありません、とひれ伏したくなったと話せば、わかると大いに同情された。
 いや本気で怖いからな主事殿は、実際、不正を行っていた自分の上官と癒着していた貴族をまとめて告発し失脚させたこともあるし、と。

 私が力なく主事殿の言葉を伝えた際は、各自そうかと仕事に勤しんでいたが、なにしろ尚書府の真ん前での出来事であったし、官舎に戻って夕食を取りに降りた食堂で取り囲まれるように事の次第を尋ねられて一部始終を話しての先輩諸氏の言葉であった。
 また、どうやら私は。

「しかし八日目か~。あと二日頑張ってもらいたかったなあ、オルランド殿には」
「三日ぐらいだと思っていたが、読みが甘かった……」
「それはいくらなんでも早過ぎるだろう」
「法典百回、十日目くらいだと思っていたんだがなあ」

 しきりに残念そうにする我が教育係殿に、どうやら私は、何日目で主事殿の部下を叱責する際の決まり文句らしい言葉が出るかで賭けの対象とされていたらしいことを知った。
 
「しかしさすがターラント家のご子息だ」
「主事殿の威圧をまともに受けて、多少落ち込んでいる程度なら十分、王宮でやっていける」
「大臣連中のように怒鳴りはしないが、なんていうか刃を突きつけられているような気分になる」
「まああの人、新人にはちょっと大げさ過ぎるほど厳しからあまり気にするな」
「俺はしばらく主事殿の顔も見られなかった……」
「声掛けられただけでつい反射的に謝り倒して、怪訝な顔をされたりな……」

 はあっ……と、全員が一斉に溜息を吐く。
 
「王女二人の後ろ盾なんて、もうそれだけで粗相できんだろう」

 二人?!
 王家の区画へと出向きついでに抱えていったティア王女だけでなく。
 私の表情を読んだのか、誰かが第三王女のフェーベ様だと言った。
 
「元々ティア王女が産まれる前にフェーベ王女が主事殿に懐いて、異母妹でも仲の良いティア様も同じように。主事殿が午後に尚書府を離れるのはそのためだ」
 
 隣の列長殿がそう説明したのに、はあと相槌を打つ。
 言われてみれば、午後、主事殿は夕暮れに時に差し掛かる前まで席を外している。
 定刻になる少し前に戻って、書記官の仕事をまとめてほぼ定刻通りに終わらせる。

「最初の内はフェーベ王女にせがまれてだそうだが、いまでは王家からの正式な要請で毎日のようにお二人の遊び相手を務め、勉強を教えるなどしている」
「しかもあの人、王家の要請受けているのに、私の仕事は書記官ですと言って、自分の仕事がきっちり終わらせる目処をつけた上でと条件づけて」

 俺の所属する列長が後を継いで説明した。
 つまり彼は尚書府主事の仕事と王女二人の子守兼家庭教師役を掛け持ちしているというわけか。

「そもそも王家の方々と対等に接しているのを、王家の使用人達から容認されている時点でおかしい」
「まあ、そういった恐ろしくも規格外な方なのだよ我々の上官は」

 平民の元商人で初等学校卒にもかかわらず法科院首席卒業で、最短年数で主事に昇格し、主事として三十人の書記官を統率して功績を上げ、選ばずに馬を操れ、弓は名手といっていい腕前で、王女二人の後盾を持ち、おまけに絵に描かれるような美貌。
 なにより。
 
 ――王族や権力者が私情のみを優先し、手続きも踏まず勝手を通そうとするならばそれを止めるのは我々の役目であり、我々にしか出来ない。
 
「上には、上がいる……」

 いや、上だなんて比較するのもおこがましい。
 私はなんと、世間知らずで思い上がった貴族の息子であったのか。

 ――四年後。
 最短の三年というわけにはいかなかったが、私は尚書府主事に昇格し、私にその席を譲るように主事殿は儀典長副官となって尚書府を去った。
 文官の階級にして何段飛びになるのか、異例の抜擢人事であった。
 王国行事を取り仕切る役目だ。
 これで彼は王と顔を合わし仕事をする機会を得られる。
 王が彼を捨て置くはずがない、彼はさらに上へと進むだろう。
  
 日々うんざりするほどの清書の数に、ただの文字、文書の枚数でつい見てしまうが、尚書府は王の印を預かり、すべての機密を預かる場所であることを忘れてはならないと、異動の日、彼は私に言い残した。

 その数ヶ月後、尚書府の長官が突然、長期療養の休暇に入りほどなくして更迭となった。
 尚書府は大騒ぎとなり様々な憶測が飛び交う中、私の脳裏にあの鋭い紫がかった灰色の眼差しが浮かんだが、憶測に過ぎないと黙っていた。
 
 そして更に十年の歳月が過ぎたいま、私は――。

*****

 長い王宮の廊下の途中で立ち止まり、私は目の前の扉を叩いた。
 入室の許可を経て、失礼しますと一礼し部屋に入った。

「宰相閣下、フェーベ王女からの報告書を預かってまいりました」
「ああ、すまないオルランド。貴殿も忙しいだろうに本来わたしが出向くところを遣いにやってしまって」
「副官が遣いをするのは当然のことです。まあ、フェーベ王女は拗ねておりましたがね」
「拗ねる? うるさく言われずにほっとしていたの間違いでは?」

 そう言いながら、フェーベ王女より預かった封書の封を切り、書面に目を通し始める。
 文字を追う目が、行ったり来たりを繰り返すごとにその表情に暗いものが浮かんでいった。

「またあの方は、無茶なことを……明後日あたり公国に向かうことになる」
「手配いたします」
「国交が断たれるかもしれん」
 
 受け取ったばかりの報告書の端を、ランプの火にかざしてみるみると焦げていく紙を軽食が載っていたらしい金属製のトレーの上に乗せる。
 紙は四角い形を残した灰となって崩れた。
 なにが書いてあったのかはわからないが、あまりいい内容ではなさそうだ。
 フェーベ王女がそのお立場と広い人脈でなにかしら情報収拾をしていることは知ってはいるが、詳しいことは私も知らない。
 詳細すべてを知っているのはおそらく宰相閣下ただ一人だろう。

「ティア王女への物資はしばらくカルロ殿に頼むしかないな。まったくお二人とも妙なところで行動力があって頭が痛い」
「お茶でも入れましょうか?」
「いい。それよりフェーベ王女の身辺にしばらく気をつけるよう。少々、王女に熱が過ぎている者がいる。あの方が巻いた種ではあるが……お前に妻子がなければ、フェーベ王女を勧めるのだが名門ターランド家の者で私が目を光らせられる直属の部下でもあるし」

 真顔で恐ろしいこと言うからなこの人、と私は苦笑した。
 王女の娶るにふさわしい家柄で嫡男ではない男で、王女が大切に扱われるよう常に監視下に置いて目を光らせておけるなどと、そこまで大事ならご自分が娶ればいいと思うのだが。
 独身でいらっしゃるのだし。
 たしかにお小さい頃からその成長を見守っているとはいえ、父……といった感情でももはやないような。

「あまり笑えない冗談はよしてください。第一、フェーベ王女に断られるのがおちです」
「貴殿なら大丈夫だろう」
「何故、そう思えるんですかね」

 フェーベ王女なら大昔に縁談が持ち上がって断られている。まだ少女の王女を許嫁にどうかといった話で。
 王女が嫌がり破談にするための口添えをしたご本人が、相手が私であることを知らないようだ。
 このあらゆる物事に聡い方が、何故あの一途なご様子を見て気がつかないのか不思議だ。
 やはり娘のように見ているのだろうか。
 それにしては……少々疑問を覚えるところもある。

「フェーベ王女に例のお役目を止めて欲しいのなら、そう申し上げればよいでしょう」
「何度も言っている」
「縁談の話にかこつけてでしょう。そうではなくてただ止めるようにと」
「それも何度も言っている、あの方には幸せになってもらいたいのに」
「同感です、加えて宰相閣下に対しても私は同じことを思いますよ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。公国出立の手配をしなければなりませんのでこれで」
「ああ、頼む」
「失礼します」

 ほどほどのところで会話を切り上げ、入室した時と同じように一礼し、私は彼の執務室を出た。
 恋愛などとは違い、男が男に惚れるということがある。
 結局、私はあの方の後を追うように仕事に励み着実に出世をしていった。
 いくらか家の威光もあったようで、あの方ほどではないが同期の中ではもっとも昇進が早かった。
 どの上官の下にいても、あの方ならどう判断するか頭の片隅で考えていた。
 我が上官はだだ一人。
 上には上がいると若い私の思い上がりを叩きのめした、現王国宰相以外に有り得なかった――。
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