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王宮編

第18話 悪夢を見た王女と眠れない騎士 *

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 ――継承位? そんなの今後の王国をどうしようって考えるのに関係ないよ。

 誰……?

 ――ほら、ティア考えて。一緒に。考えるだけだよ、二人が大人になったらどうすべきか。

 考えるって、なにを? 
 それにこの紙は……目の前に一枚二枚、だんだん増えていく。
 赤い敷布に座っている私の周囲を取り囲むように何枚も何枚も紙が増えていく。
 やめてくれ。
 嫌だ、もう……。
 どんどん増えていく。
 何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も何枚も――。
 
 沢山の蝋燭を灯した金色に輝く燭台が照らす赤い部屋。
 壁や、壁にかけられた織物やクッションも全部が赤い場所に、二人きり。
 
 ――君は特別なんだ。特別な王女だから人々を導く義務がある。王も第一王子もそれをお望みだったろう? 大臣達や文官、貴族達が挨拶に来ただろう? そういう事だよ。

 綺麗な微笑み。
 綺麗な指が文字で埋まった紙を取り、しばらくしてばらりとまた床に落とす。
 また床に紙が増える。拙い、私の字で埋まった……紙。

 ――ああ、これだとこの後は大きな戦争になってたくさんたくさん人が死ぬよ……ティアは王族失格だね。小さな犠牲も出せないから余計に犠牲が大きくなるんだ。ほら歴史の本を見て、同じように大人達が動いてる。これじゃ王国は昔に逆戻りになるやり直し。 

 もう、嫌だ……父様や母様、フェーベ姉様達のところに帰りたい。

 ――さあ、ティア。

 いやだ……もうわからない。
 それだけに心が染まっていく。

 ――小さなティア、可愛いね。君は賢い。きっと満足のいく形で王国と公国をひとつに出来るよ。どちらの国も、僕等の――。

 いやだ……やめてくれ。

*****

 ――やめろっ!

 がばりと跳ね起きて、はあはあとまるで全速力で駆けた後のように呼吸し、はぁっと深く息を吐いた。

「あ……えっと………?」

 まだ心臓がばくばくと脈打っていて、背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
 なにか、ひどく嫌な夢を見た。
 その余韻だけが薄気味悪くまとわりついていて、額に手を当てて考えても思い出せない。
 胸苦しくて、軽く吐き気がした。
 どんな夢かも覚えていないのに体が震える。

「寒い……」

 そうだ、もう晩秋だ、夜は冷える。
 下着のように薄い、寝汗に濡れた寝間着では体が冷えて当たり前だと自分に言い聞かせるように呟きながら、私は自分で自分を抱きしめ、もう一度深く息を吐いた。
 普段、どちらかといえば夜更かし気味で王宮にいた時は侍女頭やトリアヌスから、ここ最近ではフューリィから早く寝るよう注意されていた。
 珍しく早寝したらこれだ、普段しない事はするものじゃない。

「静か、だな」

 もう夜も随分と更けたのだろう。
 月明かりの薄闇に包まれた久しぶりの王宮の私室はしんと静まり返っていて、部屋の外もまるでなんの気配もなかった。
 勿論、王宮には交代で警護をしてくれている者達もいるし、すぐ近くの控えの間には夜勤の使用人がきっとうとうととしながら詰めているだろう。
 それなのに、この、なにもかもが寝静まっているような静けさ。
 まるでこの世に一人きりでいるような心細さを感じた。
 塔は、森に近いこともあってさわさわと葉ずれの音やなんとなく夜に活動する小動物の気配もあるし、なによりここ最近はフューリィの寝息や寝返りを打つ微かな音など結構賑やかな気配に満ちた夜を過ごしていたから、なんだか落ち着かずすっかり目が覚めてしまった。

「……フューリィ」

 呟いても、ただしんと暗い部屋があるだけ。
 塔の寝台だって悪くないけれど、王宮の寝台はふかふかで暖かだ、けれどそうじゃない温もりがいま欲しかった。
 さみしい。
 最近覚えたこの感情はなかなか厄介で、一度そのように感じてしまうと一人ではそう簡単に消えてくれない。
 彼の部屋の位置は、眠る前の用を聞きにきた侍女から知らされている。
 廊下の突き当たり、向かい側。
 あまり使われていない、というより私がこの部屋を自分の部屋として与えられてから一度も使用された覚えがない客人用の部屋だった。
 そろりと足を寝台から伸ばして起き上り、冷えた部屋の空気に少し身震いした。
 足元に用意されていた毛織物のストールを肩に羽織り、そっと部屋を出る。
 こんな夜中に迷惑なのはわかっている。
 ここは塔ではないから誰かに見咎められたらひどくはしたない事であるのもわかってはいたけれど、塔で看護をしていた時のように眠っているその側にいるだけでもよかった。
 一人きりで、夢の余韻と寒さとどちらかわからない震えを止められそうもない。

*****

 ――っ?!

 気配は抑え、扉も音を立てずに開けたつもりだったけれど、寝台に近づいた瞬間、強い力で腕を取られて組み敷かれたのに驚いて、悲鳴を上げかけた。
 幸い口元は大きな掌に塞がれて、もごもごした小さな呻き声が少し漏れただけだったけれど。
 でなければ、飛び起きた使用人や衛兵が駆けつけて大騒ぎになる。

「ティア?!」

 驚いているフューリィに口を塞がれ手足を押さえつけられたままこくこくと頷く。
 なにか持っていたら即座に喉笛かき切られそうな隙のなさで、私を真上から見下ろす驚き顔には寝入っても油断はしない騎士の表情がまだ残っていた。

「悪い。戦場で寝る事が多いから習性で、つい」
「あ……うん」

 塔で看護をしていた時はこんな事はなかったけれどと思ったが、すぐ薬を使っていたなと思い至った。
 なにも使っていなければ、こんな簡単に目を覚ましてしまうのか。
 口元の手を外されて、すぐ尋ねた。

「きちんと眠れているのか?」
「たぶんな、でなきゃ体もたない。だがなにか寄ってくるような気配には寝ていても気がつく」

 それはきちんと眠れていないのではと思ったが、一応休息はとれているらしいのでそれ以上深く尋ねることはよした。
 塔ではぐっすりよく眠っている印象しかなかったから、なにもなければよく眠れるのかもしれない。
 器用というよりまるで森に棲む獣だ。

「こんな夜更けにどうした?」
「え……っと」

 先程までの鋭さが急に溶けた、柔らかい声音になにか胸の内側をきゅっと掴まれたような気がした。
 そういえばまだ寝台の上でフューリィに組み敷かれているままだし、それに。

「……ど、どうしてこんな冷える夜に服着てないんだっ」
「ん? なにせ羽の詰まった絹だからな下穿きで十分だ、暑い」
「まあ、たしかにお前……温かいけど」

 そもそもその温かさに触れたくてここにきたのだけれど。
 びっくりし過ぎて、なんだか悪夢の余韻も少し消えたかも。

「や、もういいかも。起こしてすまなかった……戻――」

 言い終える前に抱き起こされて、腕の中にすっぽり入れられてしまった。
 剥き出しの胸に頬をあてれてば、熱い。
 部屋は私の私室と同じくらいに冷えているのに不思議だ。

「寒くないのか?」
「さっきまで被って寝てたしな。お前のほうが冷えてる。どうした?」
「ちょっと……嫌な夢を見て……覚えてないけど」
「なんだそれは」
「お、覚えてないけど、嫌な夢だったんだ!」

 フューリィの呆れ声にちょっとむきになってしまって、身を寄せたのを離して言い返しながら彼の顔を見上げれば声音とは裏腹に心配そうな顔していたので、急に甘えたいような気持ちになって彼の首にぶら下がるように腕を回す。
 感情が、忙しい。

「目が覚めてしまって、なんだか静か過ぎて寒いし……それで……」
「俺も少し目が覚めた。いつもより早く寝たしな。なにか飲むか?」
「ん」

 冷えるならここにいろと、フューリィは私に羽の詰まった寝具を巻きつけて自分は寝台を降り、テーブルの椅子にかけてあった服を被ると、火種用の蝋燭から、燭台の蝋燭に火移して灯し、さらにその火を炭を入れた鉢にも移して鉄製の水差しを上に置いた。
 そうしてまた戻ってきて、たしかに少し冷えるな今夜はと言って寝台の縁に腰掛けて私を膝の上に乗せ、私が被っていた寝具を一緒に被る。

「湯になるまで少しかかる」
「うん……」

 気がついたら、どちらからともなく顔を寄せて唇を重ねていた。
 フューリィの舌が少し熱くて、なにか抑えているように深くなりかけては躊躇ためらう。
 よく考えたら、こんな夜更けに寝台の上で、互いに薄着で……これじゃまるで。

「まるで、そういったことでもするような状況だな……」

 はあっ、と軽い溜息と共にフューリィがそう言って後ろから抱きしめてくる。
 とても温かい。

「しないのか?」
「あまりそういう事言うな。ただの疑問だとわかってても多少そんな気になってくる」
「多少」
「大いにだ。本当はさっきみたいに、さっきとは違う風に。だからそういう事っ……」

 どさり、と寝台が音を立てて衣擦れが鳴る。
 口付けて、肩に手を掛け、横倒れに重心を傾けたのは私だ。
 首筋にフューリィの熱い吐息を感じる。額を撫でる手と、耳の後ろから首筋を辿る唇も。

「……っそ」

 獣のようなくぐもった唸り声がして、横たわったまま横抱きに背中から抱きしめられる。

「ここまでだ」
「フューリィ?」
「なにも知らないくせに……まったく。こういうのはもっと色々ちゃんとしてからだ。どうした? お前一体なにを焦って怯えてる?」
「焦る? 怯える?」
「いま手折らないと、萎れてなくなってしまうからって顔して」
「どんな顔だ……それは……」

 前々からなんとなく思っていたけれど、フューリィは武官にしては時折妙に詩的な言い回しをする。
 その顔で真面目にそんな言葉で問い詰められても答えに困る。

「言っておくが、稀代の女たらしならいざ知らずこんな事は普通滅多にない。好きな女が深夜訪ねてきてこんな状況でまるで誘うようにされて男としてはかなり忍耐を強いられてるぞ」

 お前を貪りそうで怖い、と耳打ちされて急に立ち上ってきた羞恥心に頬や耳まで熱くなる。
 少し離れようと身じろぎしたけれど、それは反対に許さないといった感じに抱き込まれた。

「あまり俺をもてあそぶな」
「弄んでなんかない。お前が好きだし心ごと連れ去って欲しい」
「すごい殺し文句だ」
「でないと、また、攫われる……」
「攫われる?」
「わかってるっ、あれは……夢でっ……けど、すごく嫌な夢の感じがずっと残って……お前があんなすぐ起きるなんてびっくりして少し消えたけど、でも……っ」

 自分でも、言ってることが支離滅裂で訳がわからない。
 ふっ、と喉の奥から声が漏れて、泣いている事に気がついた。
 止まらない。
 突然、子供みたいに鳴咽おえつし出した私にフューリィが狼狽うろたえている。
 とても困らせている事はわかっているけれど、どうしたらいいのかわからない。

「ティア、おい」
「ごめっ……なんだか止まらない……」

 ――怖い。

「そんなに、怖ろしい夢だったのか?」

 膝に横座りに向き合うように抱き締められ、宥めるように背中を撫でてくれているフューリィにわからないと首を横に振る。
 どんな夢かも思い出せないのに、おかしい。
 焦って怯えている。
 フューリィの言葉を反芻する。
 たしかになにかとても重大なものを忘れているような、どこかへ置いてきているような嫌な焦燥感があった。
 そしてそれがなにか考えているに、思い出すのが怖い。
 しゅんしゅんと部屋の真ん中から軽快な音がし、それに気を取られて一瞬涙が止まった。
 ひっくっとしゃくり上げる声が出てフューリィの胸に顔を埋める。
 なにもかも奪って欲しかった。
 私の心も、まだ誰も触れていないこの身も、こうしているうちにも嵐のような勢いで色々なことが巡っては消えていくとりとめのない思考も、王国の王女である事もすべて。
 全部奪われて身一つで捨てられてもいいような気すらする。
 いっそその方がなんとなく安全そうにも思える……そこまで思考を巡らせた時、あまり妙な事考えるなと頭の上から直接伝えるような近さで聞こえたフューリィの声に我に返った。

「ティアは遠くの事までなにもかもいっぺんに考え過ぎる。道具とか戦略とかそういった事ならまあそれでもいいのかもしれないが、自分の事まで同じようにするのは考えものだな」
「フューリィ?」

 まだ少し喉のひくつきが残っていて、しゃくりが止まらないような声を立てながら彼を見上げれば、ぐしゃぐしゃと頭の上を掌で乱された。

「一応、十二も年長だからな。そう思って聞いてくれ。ティアはまだ十八だ、そのほとんどを王宮やその延長の塔の中で暮らしてきたし人も避けてきた。そこへ俺に関わってこんな間柄にまでなって、王国と公国の事に否応無しに巻き込まれて……お前がそのままなにも変わらないとでも?」
「えっと、なんの話?」
「黙って聞け。第一、恋を知らないのはいいとして、さみしいを知らなかったってなんだ。有り得ないだろ。はっきり言って、幼児以下だぞ。こういうのは賢さや知識とは違うが、同時に近くもある。使い方に影響するって言えばいいのか……」
「フューリィ?」
「過去になにがあったかなんて俺は知らないし、それが影響する事は勿論あるだろうが、少なくともさみしいを知らなくて一人で引きこもっていたティアと、怖い夢に怯えて俺に甘えに来るようなティアではかなり違ってくると俺は思うが?」

 まったくもってその通りかもしれないけれど、なんだか悔しいような腹が立つような。
 それに別に甘えに来たというわけでは。
 いや、そうなるのかもしれないけれど、そんな怖い夢見て泣きにきたみたいなそんなのではなかったつもりで……たぶん。

「湯も沸いたし、とりあえず温まるものを飲め。俺も何度も戦地で経験しているが、寒い夜に考えてもあまりろくな事は思い浮かばない。大体そんな薄着でいたら寒くて当然だ」
「……子供扱いするな」
「大人扱いしてもいいが、それだと甘えるどころでは済まなくなるぞ」

 目頭に唇が触れて顔を舐められた。
 ああそうか、泣いた後を辿ったのかと少し遅れて思い至ったと同時に口付けられる。
 さっきみたいな躊躇うようなことはなく、口の中を探られた。
 苦しくなりかけた時に息継ぎのように角度を変えて、何度も。
 しゅんしゅんと湯の沸く音に、唇の音が混じる。
 なんだかとても――ここまでだって、言ったのに……全然違うじゃないかと思った。
 フューリィの体温に温められたからか、なんだか頭がぼうっと熱ぽくて、じっとしていられなくて彼の服を掴んだ。

「……ん……っ」

 自分の声ではないような声が漏れたのに驚いて逃げかけたところを、引き戻されて、部屋に来た時と同じように寝台の上に組み伏せられる。

「……あまり俺を弄ぶな」

 掠れた声に、怖さじゃない。
 名前が付けられない感情と感覚にぞくりとした。
 フューリィの顔がまともに見られなくて顔を少し背けると、彼は塩辛いなと苦笑して僅かに身を起こした。
 さっき触れていた時よりも熱い手の甲が頰をゆっくりと撫でていく。
 そのまま滑り落ちて鎖骨に触れ、その指先が肩を覆うストールを滑り落としたのに何故か体が強張った。

「少しだけ触れても、いいか?」

 乞うような言葉にゆっくりと頷けば、寝間着の襟元を少しずらされた鎖骨の下に吸い付かれた。
 じくんと鈍い痛いような痺れるような奇妙な感覚に目を瞑れば、みすみす攫わせたりするほど間抜けじゃないぞ俺はと囁くように額に軽く唇で触れて、もうこれ以上は俺が危ないと突然私から離れてフューリィは寝台を降りた。

「結構眠ったが、ティアのおかげですっかり目が冴えた」

 そんな文句とも愚痴ともつかない事を言いながらフューリィがお茶をいれてくれている間、なんだか寝台から出られなかった。
 羽を詰めた絹を顔半分まで被って、死ぬかもしれないと思えるほど早くなった心拍を鎮めようとただ必死で、フューリィに吸われた場所に痣が残っている事にもしばらく気がつけなかった。
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