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王宮編

第17話 王国宰相と公国騎士長

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 王宮の奥、王族の住居と王の公務に関わる区画の境に、回廊が取り囲む中庭がある。
 それほど広くはない。
 芝が生え揃い、適度な間隔で落葉樹が木陰を作っているが、特に噴水や溜池があるわけでも、腰掛ける場所があるわけでもない。
 憩いや鑑賞の場というよりは、王宮の建物が増改築を繰り返しその面積を広げる中で、建物の奥にまで自然光を取り入れるために作られたような空間であった。
 こういった空間はどの区画にも見られるが、とりわけこの中庭は普段手入れしている者がいると思うと気の毒に思える程人の気がない庭だった。
 王族と王の公務に関わる者に出入りが限られているためだろう。

 高等文官登用試験に合格し、上級官吏となったわたしが最初に配属された場所は尚書府の清書部門。
 王宮は王族の住居区に向かって奥に進むほど、機密性の高い部署となる。
 尚書府は王宮内の様々な正式文書の作成やその管理を担い、その長官は王の印を預かる部署であるため王の公務に関わる区画でも最奥の場所に位置する部署の一つであった。
 王の公務に関わる区画にある部署に配属される新人は限られる。
 つまりわたしは今後の働きが期待される側に乗ったということである。

 王国には身分や学歴や出身地に関係なく、優秀な人材を登用する制度がいくつかある。
 地方で行われる予科試験と呼ばれる試験もそんな制度の一つであった。
 合格してすぐ文官に登用されるわけでもなく、合格者が出る方が稀な試験ではあるが、合格さえすればたとえ読み書きと簡単な算術くらいしか教わらない初等学校しか出ていない人間であっても、その資格ありとして王都の王立法科院へ特待入学出来る。
 王立法科院は、文官になるために修めることが必須の法科に特化した専門高等教育機関であった。
 将来国を背負う文官として必要な素養を徹底的に叩き込む高等文官養成機関ともいえる学校で、入学も卒業も王国で最難関。入学できただけで箔がつき、中退しても、地方の現地採用職の事務官くらいならその経歴だけで採用されると言われるほど。
 最高学府である王立学術院出の貴族の子弟も高官職を狙う者は、すぐ登用試験を受けることはせず進学先に選ぶくらいに文官を目指す者にとっては権威がある。
 実際、高等文官登用試験の好成績者は、ほぼ王立法科院卒の者で占められていた。

 その王立法科院に予科試験で入学し、首席卒業した経歴が評価されてのことなのであれば、勉学に励んだ甲斐はあったというものだったが、同僚は貴族や富裕階級出身の王立学術院を出た経歴の持ち主ばかり。
 わたしのような地方出身で平民階級な予科試験合格者は、上級官吏に登用されても予科組と呼ばれて蔑まれ、なにかと足を引っ張られる対象となる。
 百数十人いる尚書府の清書部門の中では数人程、皆まるで息をひそめるように仕事をしていた。
 厳しいと思えた、予科試験や王立法科院での競争などほんの序の口。
 むしろ官吏になってからが競争も本番とわたしは知った。
 高等文官登用試験合格者の上級官吏の出世は、他の登用試験で採用された一般官吏より早いが、上に上がれば上がるだけその枠は小さくなっていく。
 三年の内に認められなければ一生王宮内では使いっ走りで終わる。

 どんなところでも新人というのはいびられ役となりやすい。
 わたしの役目は書記官、つまりは王宮内の書類を清書する役であった。
 経験の浅い書記官は簡単な文書の清書から始めるはずであったが、わたしの場合、そもそも仕事を一切回してもらえず通達事項も知らされない。
 話しかけてもまるでいない者のように扱われ、それで一日なにもしていないと先輩諸氏から詰られる。
 まさかこんなわかりやすい嫌がらせが横行しているとはと呆れ、理不尽に屈する性格でもなかったが、三十人の書記官を一組とする清書部門で、わたしが所属する組を管理する立場の主事が嫌がらせの首謀者ではどうしようもなかった。
 無為な日々が百日ばかり続いて、とうとうどうせすることもないと部署の部屋を抜け出して、ぶらぶら廊下を歩いていたら王族の住居区画の境にある中庭に行き当たった。
 人のいない中庭の芝の緑が目に沁みて、やはりわたしのような地方の平民出が王都の文官など無理だったのだと柄にもなく落ち込んでしゃがみ込む。
 末端でこれだ、その上となればきっと魔窟に違いない。
 王都の有力貴族や、大臣あるいは高官職の者など知り合いにいないし、それを得るとっかかりもない。
 伝手もなにもなしでこの先とてもやっていける気がしない。
 地方都市の南都で油や香辛料を扱う商人である実家の家業を蔑ろにするわけではないが、自分にはどうにも退屈で、商人としては面白みがないと言われていたし、商才ある兄も二人いることだしと勝手をして王都に出てきたがこれは無理だ。
 少なくとも学問は修められた、故郷に帰れば地方官吏の職くらいにはありつけるだろう。それが無理ならやはりを家業を手伝うしかない。退屈ではあるが大きな失敗はない。食うに困らない程度には稼げる。
 そんなことをつらつら考えていたら、不意に耳元をふにゃっと柔らかいものが撫でる感触に我に返った。
 一体なんだと自分に触れたものを見れば、そこに人形細工かと見紛うような美しい幼女がいた。
 蜂蜜のようなきらきら輝く艶のある髪を肩下まで伸ばし、様々な色を潜める不思議な色合いの琥珀の瞳がじっとこちらを見つめている。
 その髪と目からすぐ第三王女のフェーベ王女と思い至った。
 まだ三歳で、流行病で王妃様である母親を亡くされたばかり。
 そんな王女がわたしに向かって腕を伸ばしている。耳元ではなく頭を撫でるつもりだったと察して、なにをいままでわたしは悩んでいたのだと、途端に馬鹿馬鹿しくなってしまった。
 まさかこんな小さな王女、それも甘えたい盛りで母親を亡くしたばかりの幼女に慰められるとは、わたしはどれほど情けない様子でいたのだろうか。
 王女がじっとわたしを見つめ続けているのに、微笑みを返してわたしは言った。

『わたしなどとは比べようもなくお辛いでしょうに、フェーベ王女はお優しい』

 わたしがいま、王国宰相なんて大層な役目にまで登りつめているのは、フェーベ王女があの時幼いながらに憐れみと慈悲をわたしに向けてくださったからだ。
 あの時、彼女と出会わなければきっと王宮にすら残ってはいない。
 フェーベ王女には幸せになってほしかった。
 ご自身の美貌、その人に敏い感性と観察眼、驚異的な記憶力をもって王宮の社交の中で時に恋愛遊戯にかこつけた情報網の構築や諜報活動などといった危ないことはさっさと止めて、良い人物と一緒になって幸せに……。
 逆手に取られて無理矢理結婚を迫られるならまだいい方で、場合によっては命を狙われる危うさもあるとわかってやっている。わたしも時に頼らざるをえないほどの情報網を構築しているのがまた苦々しい。

 わたしにはティアちゃんのような賢さはないし、二番目のお姉様のように強くもなければ、一番目のお姉様のような芸術家の才能を見出し育てる審美眼もない。
 大兄様のような公平さも、お兄様のような正確に細かなことする能力も。
 わたしにはお母様譲りのこの姿と、人に関する記憶の良さしかないの。
 あなたが掴めない情報も入り込めない場所も、第三王女のわたしなら掴めるし入り込めるでしょう。わたしは王女だもの、だったらその立場を存分に役立てないと――と、彼女を諫めたわたしにそう仰って。
 ただ貴族の噂話に詳しいだけ、その華やかさで社交を担う王宮の華ではない。
 国のために働くといった点では、王の子供達の中で最も自覚的。
 今回のこともそうだ。
 公国の内情を探る為に第二王子の伝手で両替商から聞いたなどと仰っていたが、ご兄妹で最も気の弱い第二王子がそんな伝手をフェーベ王女に斡旋できると思えない。
 そもそもフェーベ王女が、第二王子を自分の役目に巻き込むことがありえない。
 あの方は嘘を吐く。
 それも相当な嘘つきだ。
 蝶のようにふわふわと周囲からもてはやされている王女として振る舞い、周囲の者を、兄妹でさえも騙している。
 ティア王女が単なる社交だけではない、フェーベ王女の本当の働きを知ったらどれほど心配するか。
 ティア王女は賢く隠し事はするが嘘は吐けない。

「まったく……困った方々だ」

 それぞれ異なる賢さと行動力をお持ちだから、お護りするのに骨が折れる。
 ティア王女がフューリィ殿を連れて裏庭を歩く姿の報告は受けていた。
 おそらく学術院へ行くのだろう。
 例の矢毒の検証もあるのだろうが、あそこには純度の高い薬の材料を最も多く持っている工房がある。
 ティア王女はきっと公国王の病を疑っているのだろう。
 ここ最近の王国と公国の間で生じている出来事は、公国の議会が国の実権を握っていることが土台となっている。
 公国の薬は残念ながら質に劣る、王の体調を操るには不向きだ。
 
「しかしそうなると……」

 帝国は何者かが作り上げたまやかしといったティア王女の突飛な考えが、少しばかり現実味を帯びてくる。
 それに学術院の工房は機密と危険物を集めたような場所、王国の者とて部外者は簡単には入れない。
 そんな場所へあの男まで連れて出向いていったということは――きっとご自分で動く考えに違いない。
 そこまで考えを巡らせて、かさっと落ち葉を踏む音に、音のした方向を振り返った。
 振り返ったと同時に美しい声で名を呼ばれる。

「ティアちゃんのこと? それとも王国のこと? もしくはあの公国の騎士長のこと?」
「全部です。そして貴女のことも……第二王子だなんて嘘でしょう。貴女がご兄妹で一番気の弱いお兄様を巻き込むはずがない」

 あらばれちゃった。でも危険なことはしていないわと肩をすくめたフェーベ王女に、どうでしょうねとわたしは返した。
 やはりフェーベ王女も気になるのだろう。
 帝国に関するティア王女の考えについてフェーベ王女と少し議論し、日が暮れてきたので部屋にお戻りになるよう促して、まだ少し残っている途中で放ってきた自分の執務に戻った。
 一通り今後のことについて話したあと、フェーベ王女はカルロ殿が時折口にする下世話な冗談を引き合いに出して、行き遅れたらお嫁さんにしてくれる? などと揶揄からかってきてきて、この人のことだからなにか誤魔化すつもりでと一瞬勘ぐったが、そういったわけでもなさそうであった。
 いい機会なので、これまで散々縁談を断り続けていることについて、誰か心に決めている人でもいるのかと尋ねてみればいないと即答するし、だったらどうして危ないことから手を引いて縁談に関心を向けてくれないのかこの方はといった思いを深めただけであった。
 いつも美しい微笑みを浮かべ周囲の者を魅了する理想の美女などではなく、本当は、わたしと中庭で話している時のように少し生意気でいつまでも子供のように甘える無邪気なお方で、わたしが一人考え事に耽っていればなにかあったかとわざわざ気遣いにくるような優しいお方だというのに。
 
「王国宰相様などと……まったく……」

 文官の長として王を助ける役目を担っている者が、王の娘婿などになってしまったら一部の人間をどれほど刺激するか。冗談でもそんな話が広まったら……カルロ殿にはあらためて注意しておかなければ。
 わたしの野心の道具にされたとフェーベ王女を見る者だってきっと現れる。
 わたし自身がなにを言われようとどうでもよいが、フェーベ王女がそのような好奇の目に晒されるなど考えるだけでも許し難い。そう考える者も、そんなことを考えさせるような状況を作り出す自分のことも。

 ――だから背負わせるものをなるべく潰していく所存だ。

 平民出の文官が王女を娶る以上に、宰相が王女を娶る意味がわからない二人ではないはずだろうに、揃いも揃って悪い冗談だとぼやきながら、自分の執務室へと向かっていてふとあの男の言葉が脳裏に甦り、眉間に皺が寄るのを自覚した。

「そんなことは……大馬鹿者の王の弟だから言えるのだ……」

 だが、考えるより先に何故か腑に落ちてしまった。
 ティア王女にはこの男のような者でなけれならないのかもしれないと。
 身分も政治的にも今回の件が片付いたなら丁度いい相手とした、カルロ殿の言う事には一理ある。
 だからこそ余計に腹立たしい。
 騎士としてどれだけ勇猛なのかしらないが、国の実権をみすみす目の前で取り上げられ、蚊帳の外に置かれてしまう情けない者がティア王女をなどと――。 
 
 *****

 王宮勤めの官吏はその個々の性格などはともかくとして、仕事においては優秀だ。
 優秀でなければいつまでも勤めてはいられない。
 だから部下に言っておけば、あの二人が学術院から王宮に戻ればすぐわたしの元にその報告が入る。
 ティア王女も、あの方しかしらない通路だけを歩いて移動できるわけではない。
 フューリィ殿については遠目にはただの近衛騎士なので特に説明無し。
 万一尋ねられたら、不本意だがわたしが引き合わせティア王女が認めた者といった事にするつもりでいた。
 これでフェーベ王女の発言ともつじつまはひとまず合う。
 見慣れぬ者であると、騎士団から問合せがあった場合は公国に遊学していた者を戻しティア王女の要請で引き合わせた関係上、表向きそうしているとでも返答すれば勝手になにか事情がありそうだとしてそれ以上突っ込んではこないだろう。
 こういった話は文官側にも伝わる。
 客間を用意させているといった事実と情勢的に王女絡みの特殊事情と深読みし、踏み込んでは来ないはずだ。
 ティア王女もカルロ殿でなくはじめからわたしに言ってくれれば、いくらでももっと無理のない設定で整えるものを……あれでは悪目立ちして仕方がない。
 気にくわないがあの男は美丈夫であるし、生まれ持った雰囲気といったものは隠しようがなく滲みでてしまうものだ。いくら貴族出の多い近衛だとしても、一介の騎士にしては気迫と気品がありすぎた。気にくわないが。

 つらつらと、とりとめもないことを考えながらティア王女の部屋まであと十数歩のところまでくれば、丁度、二人がティア王女の私室の扉の前にいるのが見えた。
 大らかが過ぎて大雑把なフューリィ殿も、さすがに成人女性の私室に立ち入るような無遠慮なことはなさそうだが、どうもこの、認めたくはないが恋する二人はひとたび目が合うものならあまり周囲のことは視界に入らないらしい。
 それこそ生まれた時からその成長を見守ってきた王女が、他国の、それもいまや敵国の男の掌に片頬を委ねるように懐いている様を眺めるのは、なかなか複雑な気分ではある。
 これがまた男の方がだらしのない様子でいるのならともかく、カルロ殿曰く、馬鹿な程、真面目と評されるだけあって至極真剣にティア王女を案じているのが遠目にもわかるし、ティア王女はティア王女で、少しはにかむような安心し切った微笑みに目を細めていてそんな表情もなさるのかといった衝撃も与えてくるしで、我ながら意地が悪いと思いながらも自分の存在を二人に知らせるために軽く咳払いをすれば、驚いたように二人――というよりはフューリィ殿はすぐさま離れた。

「フューリィ殿、貴殿の客間を用意したので案内する」

 どうでもいいような取り繕いの言葉が発せられるのを遮るようにそう言って、ティア王女に一礼し、自分についてくるよう彼を促した。
 ついてくるよう、といってもティア王女の私室の前の廊下を突き当たりまで進んで向かい側にある部屋だが。
 それほど遠く離れた部屋ではない。
 恋に没頭するには分別がありすぎる二人であることくらいは理解しているので、人の目さえ、特にわたしの目にさえ映らないのなら、どちらかの部屋で語らえるくらいの寛容さは示す距離と位置関係の部屋を選んだつもりではある。
 気に食わないが、王国法典は婚姻していない未婚の者の恋愛にまで規定は設けてはいないし、それは王族であっても同じだ。慣例においても特に禁じられてはいない。
 十三歳を迎えた王族の女子は、昔から伝わるある薬効があるとされる樹皮を刻んだものを混ぜたお茶を嗜むよう王家に仕える者達に習慣づけらることはあるけれど。
 赤味の濃い水色が特徴のそのお茶は、他の数種類のハーブを混ぜたお茶とさして風味の違いもなく、ただ“王女のお茶”として供されていて懐妊を防ぐといったその薬効を知らず嗜む男も多い。
 生々しい話ではあるが、王宮の公式行事を取り仕切る儀典長の副官であった時にその事を知った。
 王家の使用人達も、ただ王家の伝統に従っているだけで本当のところを知るものは少ない。
 
 そんな生々しくも細やかな配慮までされている王家の伝統などまったく知らず、半歩下がってわたしの後をついてくる男は、なにやら学術院でティア王女の莫大な財産のことを聞き及び、今頃になって彼の治療やら所持品の修復やらこれまで彼のために用意された物の費用について思い至ったらしく項垂れており、こちらが脱力しそうになった。

「今頃、そこに気がついたとは実に公国貴族らしい経済観念のなさですな。フューリィ殿」

 これだから贅沢三昧が目に余る貴族が多い公国の王弟殿は……といった呆れと同時に、いま貴殿の悩むところはそこかっと怒鳴りつけたいような気もしたが、フューリィ殿の話しぶりにどうもわたしの知る公国の貴族ではなさそうな気配を感じたので、少々嫌味を含めた説明で答えてやる程度にとどめておいた。
 客間に通せば目を見開いてその設えに素直に驚く様子を見せるし、いよいよ毒気が抜けてしまった。
 認めたくはないが、わたしもまたこの男のことをカルロ殿同様に気に入りはじめている。
 なんと表現したらいいのか権力だとか色欲だとか名誉欲だとか、武功を上げる騎士や生まれた時から権力者として育った者にありがちな邪気があまり無い。
 公国王が軍事を任せたのもわからないでもない。
 公国王にとっては弟ほど謀反や裏切りから遠い存在はいなかったのだろう。
 王国ほど制限が厳しくない権力にあぐらをかく者共に嫌われるわけだと、内心呟いて閉めた扉に背をあずけた。
 フューリィ殿はどうやら浴室に一番感嘆しているようだった。
 浴場ではなく、個人で湯を好き勝手に使うといったことはかなりの贅沢だ。
 それだけの湯を沸かす水と燃料と運ぶ人や様々な用意を行う人がいる。
 客人のもてなしとしてこれほど分かりやすいものもない。

「客人用の部屋だからな。傷があるから湯に浸かることはしないだろうが。清拭用の湯なら廊下に控えている者に言ってもらえればいつでも用意できる」
「あ、ああ」
「で、学術院はどうだったのだ?」

 尋ねれば、すぐにわたしがこうして案内した意味を悟ったらしくテーブルへと促された。
 大方、ティア王女の話を聞いたわたしの予想した通りの内容で、まったく頭痛の種がまた一つ増えたとテーブルに肘をついて手を合わせ、面倒なことになったと思わず漏らしてしまう。
 
 学術院の工房など、他国の者が容易に入れる場所じゃない。
 それはもしこの状況が何者かの企てによるものであったとしたら、その何者かは王国縁の者である可能性が高いことを意味している。
 狙いは王国であることに変わりはないが。
 これは侵略ではなく、簒奪だ。

 ――首謀者は、もうこの世にはいないのよね?

 中庭で話したフェーベ王女の言葉が耳の奥で甦る。
 首謀者とは、まだ幼いティア王女を王宮から連れ出し五日間も軟禁した或る貴族のことだ。
 その貴族は、遠いが古い系図をたどれば王族の傍系ではあって、ティア王女救出後、簒奪の罪で秘密裏に極刑に処せられた。
 救出の発端となったのが、フェーべ王女が普段見かけない人が廊下を行き来していることに気がつきわたしにそれを尋ねたのがきっかけだった。
 王宮に出入りするものは無数にいる。
 不審な者であればともかく役人や出入りする貴族の顔ひとりひとりに注意を払う者また正確に覚えている者などいない。
 それができるのはフェーべ王女だけだ。
 ティア王女は丁重に扱われていた。
 身内の何気ない冗談から、ティア王女に取り入ろうとする者達が急激に増えたことに怯えて閉じこもりがちになっていたティア王女を心配した王と王妃に頼まれて、しばらく王宮を離れて信頼できる家臣の屋敷でのんびり過ごしていただくためにお迎えにあがったといって連れ出したと首謀者は尋問に答えている。
 聡明なティア王女でも自分が攫われていたと自覚している可能性は低かったが、助け出されたティア王女はひどく疲れていた。
 その様子についても勿論問い質したが、ずっと本や物語を書いたりして遊んでいた、危害は加えていないの一点張りで、たしかにいかにもティア王女が好みそうな歴史の本などが幾冊かあり、お菓子や果汁を絞ったものなども用意されていて、その証言にも嘘はないようだった。
 医師も身体にはなにも異常はなく、尋常な疲労ではないがそもそもティア王女が王宮を出たこと自体が初めてであり、まだ八歳で聡明だからこそ普段と異なる環境に神経が参ってしまったためではないかと話していたが、わたしはいまだに納得していない。
 ティア王女は丸三日眠り、目が覚めた時にはご自分の身に起きた出来事をきれいさっぱり忘れていた。そして本格的に人を避け始め、ついにはそんなご自分のことを、人と付き合うとすぐに疲れる王族としては欠陥品などといった認識に塗り替えた。
 なにかあったに違いないのだ。
 無自覚な防御が働くまでに、幼いティア王女を苛んだなにかが。

「……殿、宰相殿!」

 何度か呼ばれていたらしいフューリィ殿の声に、はっと我に返った。

「ああ、すまない。考えに耽っていた。なにか?」
「いや、その」
「ん?」
「宰相殿が気を悪くしそうで気がひけるのだが」

 やけに歯切れも悪く、言いづらそうにしている様子に目を細めた。
 この男がわたしに遠慮がちになにか尋ねてくるとしたらティア王女のことだろうから、息を吐いて合わせていた両掌を彼に見せるようにして肩をすくめた。

「心配しなくても、貴殿を前にしているだけで十分気を悪くしている」
「……宰相殿はそれほどまでに俺が気に食わないのか?!」
「冗談だ。なんだ? 言っておくが貴殿は敵国の王の弟で騎士長だ、ティア王女のことでも王国のことでもすべて包み隠さず話すわけにはいかない」

 そう言えば、わかっているむしろこうして王宮の奥に通されていることといい、そこまで知り得ていいのかと思っているくらいだとフューリィ殿は言った。
 わかっているから、これがまたなんとなく癪に障る。
 もちろんわかっていないようなら論外だ。

「ティア……の、ことだが。王宮に来て思った。いくら儀礼や人嫌いでも少しおかしくはないか? ここはあいつにとっては自分の家で、いるのも家臣だろう? どうして王女であるティアがここまで極力誰とも出会わないように動く?」

 思わず、深いため息が出た。
 これだから……この男は、気に食わない。
 隣国の変わり者の王女の噂話なら多少は耳にしているだろうに。
 それに、出会い方もその変わり者の王女といった噂話の印象を強めるだけでのものであっただろうに。
 そういった風聞などはなから気にも留めていなければ、判断を左右されることもない。
 王国の王女といったことを理解しているが、あくまでティア王女自身を見ている。

「ティアがあの若さの娘が背負うようなものではないものを背負い、不器用というか愛想がないというか……彼女自身の性格を考え、彼女自身の言葉を聞いていてもやはり少し違和感がある」
「違和感、と」
「宰相殿ならそれについてなにか知っているのではないのか? ティアは若いが俺なんかとは比べようもなく賢くてしっかりしている。けれど時折、ひどく儚げというか危うげに見える時もある。俺はそれが気にかかる、普段はそんなことは微塵も感じない、本当に偉そうで思うまま振る舞うし、腹が立つこともあるが」

 黙って聞いていれば、少し感心したわたしが間違っていた。
 なんだ、最後のその言葉は。

「普段はそんなことは微塵も感じない、本当に偉そうで思うまま振る舞い、腹が立つ……ほう、王国の第四王女に随分と辛辣だな、フューリィ殿は」
「あ、いや……宰相殿」
「いまさらそんな薄ら笑いを浮かべても、吐いた言葉は元には戻らんっ。王国の第四王女だ、貴殿に偉そうで当たり前だ。前にもいったが王国と公国では格が違うっ!」

 すまん、失言だった……悪気はない、それはそれでティアらしいとは俺も思っている……などと、テーブルに額を擦り付けんばかりに頭を下げて弁明するフューリィ殿に着ているローブの襟を直して背筋を軽く伸ばし、彼の頭頂部を見下ろした。

「まあ、貴殿にも弁明の権利はある」
「宰相……殿……」
「ああっ、思い切り意外そうな顔をするなっ! それではまるでわたしが王女の信奉者のようではないかっ!」
「どう考えてもそうでは? まあ宰相殿がティアを心配するというのはわかるが」
「っ……あの方のことは、生まれた時からその成長を見守っていて第一王女や第二王女と比べると多少思い入れがあるだけだ。心配の度合いで言えばフェーベ王女のがより深い」
「フェーベ王女?」
「貴殿には関係ないっ! ティア王女の人嫌いについては本当のところはわたしも知らん。きっかけはあるが話せん」
「……わかった」
「聞き分けがいいな」
「宰相殿も本当のところを知らないのなら、聞いても仕方がない。きっかけとやらも気にはなるが聞いたところであまり俺の気がかりの助けにはならなそうだ」

 騎士長だけあって、判断だけは本当に的確だなこの男……これまで政治的手腕はまるでなさそうな話しか耳に入ってこなかったのが不思議に思えるほどだ。
 
「それに少々眠くなってきた。宰相殿も気に食わない俺といつまでもこうして喋っているほど暇ではないだろ? ティアには時折危うげに見えるだけのなにかがあるらしいと聞けたら俺はもうそれでいい」
 
 それでいい、などと。
 さっぱりと言ってくれるが、いま貴殿は王国宰相のわたしからあっさり聞きたいことだけ聞き出したのだぞと、思わず顔を顰めてしまった。
 政治を抜きにしても議会とやらの面々に大いに嫌われているだろうな、この男……と、わたしは椅子から立ち上がった。
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