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隠遁生活編
第5話 敵国の騎士と王女
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――あれはただの麻痺毒ではないから戦場での使用は直ちに止めさせた。狩猟用の毒がどういった毒かよく知りもしない馬鹿者の思いつきでお前たちと応戦した小隊に広まっていたらしい。
俺の手を取り、まるで跪くように頭を下げて女はそう言った。
さらさらと下りる長い黒髪は絹のような艶で、その目を引く黒髪と顔以外、はじめて間近で女全体を着ているものなども含めてよく見れば、紡いだ糸を染めもせずに織ったような布の簡素な衣服だと思っていたそれが、表面も滑らかに緻密に織られた綿織物だと気がついた。
軽く暖かく柔らかく丈夫でもちろん平民の服にも使われているが、絹のような光沢を放つように織られたそれは場合によっては絹よりも高価な品だ。
古着であっても森に隠れ住んでいるような魔女が手にできるような代物じゃない。
*****
目が覚めれば、窓から差す日の光が真昼のそれだった。
昨晩の食事のあとから、朝になっても一度も起きることなくずっと眠っていたことになる。
いくらなんでも眠り過ぎではないだろうか、女が一匙自分で飲んでみせたとても薄いスープからなんとなく具の入っているスープへと近づいていくあの食事の中には、やはりなにか盛られているのではなどと考えてしまう。
身を起こせば、よく眠ったせいだろうか、それまでどこか淀んでいるように感じられていた体が嘘のようにすっきりしていた。
手指を動かしてみれば思う通りに動く。
動ける。
寝台から床へと降り立ってみる。ふらつきは感じなかった。
動いても大丈夫そうだと初めて白い部屋を出てみれば、いきなり女が生きた小鳥に針を突き立てている後ろ姿に出くわして面食らった。
「……っ!!」
広い部屋に広い机。
壁にも床にも書物が溢れ、書物の他にも巻かれた紙やら石やら、動物の骨や剥製に乾燥させた植物と様々なものが所狭しと積み上げられ、壁には公国も記されている広範囲な地図が貼ってあった。
広い机の上には、見たこともないような道具や得体の知れないものが入った瓶や書物や書類、油でも入っているのか火が灯っている瓶などが置いてあるのが見える。
その真ん中で、小鳥にためらいもなく針を刺している姿は、魔女そのもの。
やはりと声をかけた俺に、女は振り返りはしたが驚くどころか興味もほとんどない様子で回復が早いとだけ言って、すぐ手元の作業に戻った。
ほぼ無視だ。
そしてもう一度別の針を小鳥に突き刺すと、ちいさな飼育箱らしいものへ入れて拝む。
なんのまじないなのか見当もつかない。問いただしてみれば、まじないではなく実験だと女は言った。
なんでも俺の切られた傷を治療していて、毒が薬になるかもしれないと思いついたとか……しかし呼吸を止めてしまって難しいようなことを険しい表情でぶつぶつと呟いている。
俺と同じように解毒薬とやらを使えばいいのではと思いそう口にしたら、急に怒ったようにつかつかと近づいてきて。
「解毒したら、せっかくの効果が消えてしまうだろっ」
何故か、怒鳴られた。
おまけに傷がある側の手を取られて、寝台のある部屋へとゆっくり促されながら、許可なく勝手に起き上がるなとまるで軍医のような剣幕で叱られた。
どう考えても十以上は年下の小娘に……。
倒れた時から思っていたが、どうしてこんなに偉そうなんだこの娘は!
思ったそのままを口にしたら、自分がいなければ死んでいたくせになどと冷静に言われてしまった。反論もしようがない事実なので、医者じゃないらしいのに言うこともやることも医者のようではないかとぼやきながら仕方なく女に従う。
寝台に腰かければ、今度は俺の左手をそっと小さな両手で包んで、ゆっくりと拳を握らせ、また開かせようとする。
腹は立つが、俺の体の具合を診たり世話をしてくれる時の女は、その無愛想で偉そうな様子とは反対にいつでも丁寧だ。
おそらく手の指の麻痺を診てくれているのだろうと同じ動作を繰り返せば、納得したように頷いて、毒についてはひとまずもう大丈夫だとお墨付きをもらった。
同時に動くのはまだ厳禁と、主君からの厳命の如き口調で言い渡される。
俺が、恐ろしい侵略者であるはずの帝国側の騎士であることは女もわかっているはずなのに、恐いと思わないのだろうか。
俺が少し強く力を込めれば、簡単に握りつぶせそうな細い手や首をしているのに。
しかし、鍛錬厳禁は困る。
いい加減、体を鍛えなければ本当に剣も振るえなくなってしまう。
だからつい、「体が鈍る」と不満を口にして、すぐ後悔することになった。
立板に水とはまさにこのこと。
滔々と俺がいかに幸運に恵まれて助かったかと説教されてしまった。
騎士長として公国に仕える騎士達を戦場で指揮していたはずの男が、それこそ小鳥のように華奢で、背もせいぜい俺の胸くらいまでしかない少女のような女にまるで子供のように……。
ただ、二度はない――そう凄まれて一瞬だけ背筋が冷たくなった。
偉そうだが、この女の言うことはいちいち筋が通っている。
だからすまんと謝ろうとしたら、ほっとしたような顔を一瞬見せて取られたままの手を額に女に頭を下げられ、そして続いた耳を疑うような言葉。
ずっとどこか淀んでいたような意識ではなく、冴えた状態で女をまともに見れば、森の奥に住んでいるような娘ではないことにようやく気がついて、俺は言葉を失った。
――味方も嬲り殺すようなものが使われていると見過ごした上官も指揮官も馬鹿者だが、これは王国の落ち度といっていい話だ。じき軍規にも加える……申し訳ない。
上官も指揮官も馬鹿者……さらりと言っているが、俺が眠っていた数日の間に矢毒を使用していた隊を突き止め、王国騎士団の軍規にまでも影響を及ぼせるのが本当だとしたら、それは。
それは、相当な立場の娘であること以外に考えられない――。
ティア・アウローラ・クアルタ。
王国の四番目の娘。
第四王女!
なんてことだと、俺は女――いや、王女を引き剥がすように立ち上がるとすぐさま跪いた。
「ご無礼を――」
その一言だけ、なんとか口にできた。
知らなかった……いや、最初からそうと知らされていたけれど、あまりに信じられない状況ばかりでまったく信じてはいなかった。どこの輩とも知れない俺に、あっさり素性を伝えるなんて豪胆が過ぎる。
俺も公国の王の弟ではあるものの、王国と公国では天と地ほどに格が違う。
あちらは古くから栄える盤石の基盤を持つ大国。
こちらは所詮、二百年ほど前に王国を出た一貴族が建てた小国にすぎない。
辺境貴族のようなもので、王国王家の傍系といっても、数百年も王国を治めてきた直系とは全然別物だった。
「そういった、相手の立場で態度を変えるのあまりよくないと思うぞ」
冷静で淡々とした言葉はごもっともではあるが、いやでもそれはちょっと一般的に無理があるだろうと王女を見上げた瞬間。
「――……ッ」
これまでになかったような激痛が体を突き抜け、息が詰まった。
バランスを崩し、がくんと腹と右肩をかばうように押さえ、呻きながら床に横倒しに倒れる。
自分のような男が獣のように呻き声を上げて突然倒れたら、普通の若い娘なら、キャーとかなんとか叫びながら狼狽するだろう。
けれど、この王女は。
「言わんこっちゃない」
まるで年老いた軍医が、無理に動こうとして倒れた血気盛んな若者相手に呆れるようなため息を吐き出して、少しの間我慢していろと倒れている俺を放置して仕切布の向こうへと消えてしまった。
*****
「鎮痛薬が切れたんだな」
「鎮痛薬……」
「どうもお前は、毒に強いのではなく、薬物の効き目が早く切れる体質らしい。頭が少し朦朧としていたのは毒ではなく薬のせいだ。矢の毒は脳には作用しない」
煎じ薬のようなものを持って、戻ってきた女にそれを飲めと言われて飲まされ、起き上がれるかと尋ねた華奢な体を杖代わりに痛みに消耗してふらつく体で立ち上がり、また寝台に逆戻りとなってしまった。
「今朝は、よく眠っていて起こさないでいたからな」
寝台の側の床に膝をついて俺を見下ろし呟いたティアの言葉に、まさかと俺は彼女の顔を見た。
「手当した傷の上にも湿布のように当ててはいるが、最初と朝の食事のスープにも少々」
やっぱり一服盛っていたじゃないか、この女!
「……騙された」
「お前が、見るからに薬など飲むのが嫌いそうだったからだ」
「必要なら飲む」
「どうだかな、私を魔女だと怪しんでいたことだし」
「それはっ、まさかこんな場所に第四王女殿がと……」
「ティアだ。そういったのが性に合わなくて王宮から出て暮らしているんだ。王女とか様とか殿とか儀礼的なことは全面禁止!」
「いやでもっ」
「禁止だ!」
まるで我儘を言い張る子供のようだ。
困惑はしたが、はじめて見る少女らしい外見に釣り合うような様子にこれは相当だと諦めて頷いた。
「それから、私は別に医術が出来るわけじゃない。実験で解剖慣れしているだけで傷の縫合程度ならその延長で出来るというだけだ。薬は研究対象の一つだけれど、必要とあらば普通の医者はやらないやり方や使わない薬も使うし保証もしない」
ぼすっと耳元で音がして、シーツがわずかに波打つ。
俺の頭すぐ傍に、ティアが組んだ腕と顎先を沈めていた。
「それ以上ひどいことになったら、私もどうにもできないんだからなっ」
じっと俺を見る黒い瞳と間近に目が合った。
医者ではなさそうな様子を貫いていたのは、そういうことかと合点がいった。
敵国側の兵が行き倒れた上に死んでしまったら、さすがに王宮へと報告を上げないわけにはいかない。死んだとあっても敵国側の騎士が転がり込んできたとなったら、この塔から王宮に連れ戻されることになる、とティアは語った。
「とにかく。私の捕虜となったからには五体満足でしっかり回復してもらう義務が課せられていると思え。わかったか?」
「……わかった」
どうやら、大変に待遇の良い捕虜となっているらしい。
果たして捕虜といえるのかどうかはわからないが。
しかし、本当に、王女が古い砦の塔に一人住まいをしていたとは。
「侍女も使用人も、本当に誰も連れてきてはいないのか?」
「一人で身の回りのことくらいできるからな。剥製作りにくらべたら日々食べる料理なんて簡単だ。食料や薪や燃料といった物資は王宮から五日に一度、古参の家臣が届けてくれるから、なに不自由もないし、なにもしていないのと同じだよ」
「いや、それは違うだろ」
王国の王女がなにを言っているのか。なにもしていないというのは、衣服につけるブローチ一つも自分の手では留めることはない、公国の貴族の娘みたいな暮らしをいうのだ。
自分で料理し、湯を沸かし、身支度や手入れもしていると?
「まあちょっと掃除は苦手だから、爺が来た時に手伝ってはもらっているが」
「掃除をする貴族の娘なんて聞いたこともない!」
「そうか? 騎士団に入った貴族の子弟は身の回りのことするだろ?」
言われてみればその通りだが。
どんな家の子弟も、俺も、最初は従士や騎士見習いからだ。
戦場で身の回りのことができない奴は足手まといにしかならないから、行儀とともに徹底的に仕込まれる。
専任の従士もいるが彼らの役目は主に甲冑の脱ぎ着の手伝いや道具の手入れだ。
「いやでもティアは騎士じゃなく……」
「私がこうして塔住まいを許されたのは、自分で生活もしてみないで民の生活のなにがわかるとお思いかともっともらしい理由をつけて、五年も父様を説得し続けてようやくだ。方便とはいえ説得した以上、その通り実践せねばならない」
「方便……」
「だからそんな騒ぐことじゃない」
「しかし、こんな黒い森と呼ばれる人も寄り付かない場所で寂しくもあるだろう」
いくら定期的に家臣が来るからといっても普段は一人だ。
昼も夜もこんな暗い森の奥で一人きりで暮らすなんて、たぶん若い騎士でも音を上げる。
「寂しいとはなんだ?」
「は?」
「人と付き合うのにすぐ疲れるからこうして王宮を離れているのに。これでも結構この生活を気に入って楽しんでいるんだ、私は」
左に右にと首を傾けながら、少し人の悪そうな笑みをティアは見せた。
見覚えのある笑みだとしばし記憶を辿って、倒れて意識を失う直前に見たあの笑みだと思い出す。
人嫌いで、表には出ず、何千何万冊もの王宮所蔵の本を読みふけっている変わり者と噂の、第四王女といった人物評はどうやら本当らしい。
「そんなことより、痛みは?」
「ん? ああ、随分落ち着いた」
「起き上がれそうか?」
頷いて、身を起こした。痛みさえおさまればどうということはない。
「落ち着いたのなら一度傷を診よう。急場しのぎに裂き布で押さえていて順調そうだったからそのままにしていたが、包帯も届いているし、それにさっきの痛みようでは傷の様子も気になるしな」
ティアも身を起こし立ち上がった。
長い髪がゆらりと視界の端に揺れて、仄かに甘い匂いがする。
貴族の娘たちが纏っているような香水とは違う、涼やかで呼吸がすっと楽になるような花と草の香りだった。
俺が微かな香りに気を取られている間に、ティアは病室――として区切られているからやはりそうなるだろう――を出ていった。
おそらく包帯などを取りにいったのだろうと考え、寝台の上で上半身を起こしたまま待っていたら、その通りだったようで籠に色々とそれらしいものを盛って戻ってきた。
小さな机の上に籠を置き、またすぐ出ていって今度は湯の入った桶を運んできてそれも机の上に置いた。
人嫌いで、表には出ず、何千何万冊もの王宮所蔵の本を読みふけっている変わり者と噂の、第四王女――。
だったらどうして、こうも手厚いのだろう。
死なれたら困るなどと言っていたが、もう毒が抜けて歩けるようにはなっているのだからさっさと追い出せばいいものを。きちんと回復する義務が課せられているなどと言う。
細い指が、丁寧に即席の包帯を外し、湿布をとる。
「見てあまり気持ちのいいものではないと思うが……」
「処置したのは私だぞ」
「それも、そうか」
驚いたことに、傷は細い絹糸で綺麗に縫われていた。
あんな痛みが起きるのが信じられないほどに。
膿んですらいない。ただ赤い肉が醜く盛り上がっている。
冷静な眼差しがその傷をじっと見つめている。
その横顔に、ざわざわと奇妙な動揺に似たものを覚えた。
寝台のそばにしゃがみ込んで脇腹の傷を診られている時など、特に。
消毒薬を染み込ませた布を当てられ、再び湿布されて、ごく簡単に包帯を巻かれる。
「ついでだから体も拭こう」
そう言って背を向けたティアが、また別の布を桶の湯に浸し絞るのを見て、流石に止めた。
「ちょっと待て、さすがにそんな下女のようなことまでさせられない」
自分でやるといえば、左側は満足にできないだろうと呆れられた。
「大体、し尿の処理も寝ている間、私がしていた。清拭くらいいまさらなんだ」
本人けろりとした顔で言ってくれたが。
その言葉に頭を棍棒で殴られたような衝撃を受け、一瞬、目眩がした。
そうだ、ここには彼女しかいない。
眠り込んでいた間、一体どれほどこの身が世話になっていたのか……見当もつかない。
考えてみればずっと寝たきりだったはずなのに、体はこざっぱりとしている。
髭も伸びてはいるが、無精髭程度。
数日眠っていたのならもっと伸び放題なはず。
履いている下履きも新しい亜麻のもの。
おそらくはその下に着けているものも……もちろん体も麻痺して寝ていた俺が自分で身につけられるはずもない。
「……どうした?」
「いや」
怖くて尋ねることもできないが、たぶん間違いない。
俺は、このまだ少女といってもいいくらい若い王女に、なにからなにまで――。
「男性の人体図なら王宮にいた頃から医学書で飽きるほど見ている。別に生身の裸体を見たからってなにも思わないぞ?」
俺が、思う――!
「頼むから……それ以上はなにも言わないでくれ。あと眠っている間、色々と世話になった」
「重症だったんだ、礼には及ばん」
最初に水を飲ませてくれた時といい、こんなに平然と。
そもそも王族で、この若さではきっと誰とも……。
それとも、もしかして見た目よりも歳は結構上なのだろうか。
「――ティア、は」
「ん?」
「さすが王国の王女だけに若くても随分と気丈に思えるが、歳はいくつだ?」
「十八だ。お前は?」
「今年で三十だ……」
十八!?
ようやく大人と認められる歳になったばかりだろ、いくら王国の王女だからって、十八でこんなに落ち着き払っていられるものなのか!?
「ふうん。三十なら二の兄様と同じだな。あっ、そういえば失念していた。お前、家族は? その歳なら婚姻しているだろ? お前のことを知らせることはできないが、家族の様子を知ることはできないことはないぞ」
「いや……独り者だ」
答えながら、確かにティアの言う通りに重症で殆ど昏睡状態であったとはいえ、十二も年下の王国の王女になんてことをさせてしまったんだ俺はと、そればかりが頭の中をぐるぐると巡っていた。
看病で水を飲ませるためとはいえ、ほとんど一方的にそうされてこちらも動けず喉が干からびていたとはいえ、何度も唇を……いや、あの黒い実を盛られた時を考えたらもっと――。
「それは周囲の者が気を揉んでいるだろうな。フューリィなんて名でも、不義理して名乗れないような家名を持っているのなら、気楽な家でもないだろうし」
「まあそれは……、っ」
細い腕に顎をそっと押し上げられて、天井を仰ぐ。
会話しながら、気がつけば上半身はさっぱりと拭われ、もう脚は自分でもできるだろうと桶の端に布をかけ包帯を持ってくる。
どうやら仮留めだったらしい包帯の上から、元と同じように再び固く包帯を巻かれた。
療養所の看護人たちよりずっと手際が良い。
俺が身を起こしているやや斜め後ろ、寝台の端に、ティアは腰掛けると余った包帯を巻いた玉を両手に軽く弄んでシーツの上に置いた。
「傷が塞がったら肩は少ししっかりと動かさないとかもな。しばらく動かさないでいたら、筋も硬くなるだろうし」
そんな言葉と同時に、不意に首の後ろからぴたりと掌を押し当てるように肩にかけてゆっくりと撫でられ、背に乗ったかすかな重みと肩甲骨が滑る黒髪に擽られたのにはっとした。
「ティア……?」
返事はなく、たぶん額を押し当てられている背に巻いた包帯が彼女の体温に温まっていくのと、微かな振動を感じる。
傷を受けた右肩の背中、肩甲骨のくぼみに顔を埋めて小さく震えている。
「ティア?」
もう一度呼びかければ、すまん……と背中に直接くぐもった小声が響いた。
「毒が抜けきるまではどうなるかわからないと気を張っていたから……少しほっとした」
ああ、そうか。
俺は――。
本当に死ぬはずだったところを、死なずにいるのだ。
この重みともいえない軽さの華奢な王女が、俺を助け、生かしてくれた。
「迷惑かけた、な」
「まったくだ」
一体なにがおかしいのかくすくすと笑い出す。
こっちはもしや泣くのではないかと若干狼狽えていたというのに、若い娘はよくわからない。
この王女なら、素性を明かしても。
そう、あらためて名乗ろうかと思いかけたが……止めた。
ティアは王国の第四王女だ。
ただ敵国の負傷兵を助け、人道的配慮で回復するまで匿ったというのならまだしも。
帝国の属国である公国騎士長、公爵家次男を匿ったとなれば事態の重みが変わってくる。
素性は知らせないほうがいい。
俺の手を取り、まるで跪くように頭を下げて女はそう言った。
さらさらと下りる長い黒髪は絹のような艶で、その目を引く黒髪と顔以外、はじめて間近で女全体を着ているものなども含めてよく見れば、紡いだ糸を染めもせずに織ったような布の簡素な衣服だと思っていたそれが、表面も滑らかに緻密に織られた綿織物だと気がついた。
軽く暖かく柔らかく丈夫でもちろん平民の服にも使われているが、絹のような光沢を放つように織られたそれは場合によっては絹よりも高価な品だ。
古着であっても森に隠れ住んでいるような魔女が手にできるような代物じゃない。
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目が覚めれば、窓から差す日の光が真昼のそれだった。
昨晩の食事のあとから、朝になっても一度も起きることなくずっと眠っていたことになる。
いくらなんでも眠り過ぎではないだろうか、女が一匙自分で飲んでみせたとても薄いスープからなんとなく具の入っているスープへと近づいていくあの食事の中には、やはりなにか盛られているのではなどと考えてしまう。
身を起こせば、よく眠ったせいだろうか、それまでどこか淀んでいるように感じられていた体が嘘のようにすっきりしていた。
手指を動かしてみれば思う通りに動く。
動ける。
寝台から床へと降り立ってみる。ふらつきは感じなかった。
動いても大丈夫そうだと初めて白い部屋を出てみれば、いきなり女が生きた小鳥に針を突き立てている後ろ姿に出くわして面食らった。
「……っ!!」
広い部屋に広い机。
壁にも床にも書物が溢れ、書物の他にも巻かれた紙やら石やら、動物の骨や剥製に乾燥させた植物と様々なものが所狭しと積み上げられ、壁には公国も記されている広範囲な地図が貼ってあった。
広い机の上には、見たこともないような道具や得体の知れないものが入った瓶や書物や書類、油でも入っているのか火が灯っている瓶などが置いてあるのが見える。
その真ん中で、小鳥にためらいもなく針を刺している姿は、魔女そのもの。
やはりと声をかけた俺に、女は振り返りはしたが驚くどころか興味もほとんどない様子で回復が早いとだけ言って、すぐ手元の作業に戻った。
ほぼ無視だ。
そしてもう一度別の針を小鳥に突き刺すと、ちいさな飼育箱らしいものへ入れて拝む。
なんのまじないなのか見当もつかない。問いただしてみれば、まじないではなく実験だと女は言った。
なんでも俺の切られた傷を治療していて、毒が薬になるかもしれないと思いついたとか……しかし呼吸を止めてしまって難しいようなことを険しい表情でぶつぶつと呟いている。
俺と同じように解毒薬とやらを使えばいいのではと思いそう口にしたら、急に怒ったようにつかつかと近づいてきて。
「解毒したら、せっかくの効果が消えてしまうだろっ」
何故か、怒鳴られた。
おまけに傷がある側の手を取られて、寝台のある部屋へとゆっくり促されながら、許可なく勝手に起き上がるなとまるで軍医のような剣幕で叱られた。
どう考えても十以上は年下の小娘に……。
倒れた時から思っていたが、どうしてこんなに偉そうなんだこの娘は!
思ったそのままを口にしたら、自分がいなければ死んでいたくせになどと冷静に言われてしまった。反論もしようがない事実なので、医者じゃないらしいのに言うこともやることも医者のようではないかとぼやきながら仕方なく女に従う。
寝台に腰かければ、今度は俺の左手をそっと小さな両手で包んで、ゆっくりと拳を握らせ、また開かせようとする。
腹は立つが、俺の体の具合を診たり世話をしてくれる時の女は、その無愛想で偉そうな様子とは反対にいつでも丁寧だ。
おそらく手の指の麻痺を診てくれているのだろうと同じ動作を繰り返せば、納得したように頷いて、毒についてはひとまずもう大丈夫だとお墨付きをもらった。
同時に動くのはまだ厳禁と、主君からの厳命の如き口調で言い渡される。
俺が、恐ろしい侵略者であるはずの帝国側の騎士であることは女もわかっているはずなのに、恐いと思わないのだろうか。
俺が少し強く力を込めれば、簡単に握りつぶせそうな細い手や首をしているのに。
しかし、鍛錬厳禁は困る。
いい加減、体を鍛えなければ本当に剣も振るえなくなってしまう。
だからつい、「体が鈍る」と不満を口にして、すぐ後悔することになった。
立板に水とはまさにこのこと。
滔々と俺がいかに幸運に恵まれて助かったかと説教されてしまった。
騎士長として公国に仕える騎士達を戦場で指揮していたはずの男が、それこそ小鳥のように華奢で、背もせいぜい俺の胸くらいまでしかない少女のような女にまるで子供のように……。
ただ、二度はない――そう凄まれて一瞬だけ背筋が冷たくなった。
偉そうだが、この女の言うことはいちいち筋が通っている。
だからすまんと謝ろうとしたら、ほっとしたような顔を一瞬見せて取られたままの手を額に女に頭を下げられ、そして続いた耳を疑うような言葉。
ずっとどこか淀んでいたような意識ではなく、冴えた状態で女をまともに見れば、森の奥に住んでいるような娘ではないことにようやく気がついて、俺は言葉を失った。
――味方も嬲り殺すようなものが使われていると見過ごした上官も指揮官も馬鹿者だが、これは王国の落ち度といっていい話だ。じき軍規にも加える……申し訳ない。
上官も指揮官も馬鹿者……さらりと言っているが、俺が眠っていた数日の間に矢毒を使用していた隊を突き止め、王国騎士団の軍規にまでも影響を及ぼせるのが本当だとしたら、それは。
それは、相当な立場の娘であること以外に考えられない――。
ティア・アウローラ・クアルタ。
王国の四番目の娘。
第四王女!
なんてことだと、俺は女――いや、王女を引き剥がすように立ち上がるとすぐさま跪いた。
「ご無礼を――」
その一言だけ、なんとか口にできた。
知らなかった……いや、最初からそうと知らされていたけれど、あまりに信じられない状況ばかりでまったく信じてはいなかった。どこの輩とも知れない俺に、あっさり素性を伝えるなんて豪胆が過ぎる。
俺も公国の王の弟ではあるものの、王国と公国では天と地ほどに格が違う。
あちらは古くから栄える盤石の基盤を持つ大国。
こちらは所詮、二百年ほど前に王国を出た一貴族が建てた小国にすぎない。
辺境貴族のようなもので、王国王家の傍系といっても、数百年も王国を治めてきた直系とは全然別物だった。
「そういった、相手の立場で態度を変えるのあまりよくないと思うぞ」
冷静で淡々とした言葉はごもっともではあるが、いやでもそれはちょっと一般的に無理があるだろうと王女を見上げた瞬間。
「――……ッ」
これまでになかったような激痛が体を突き抜け、息が詰まった。
バランスを崩し、がくんと腹と右肩をかばうように押さえ、呻きながら床に横倒しに倒れる。
自分のような男が獣のように呻き声を上げて突然倒れたら、普通の若い娘なら、キャーとかなんとか叫びながら狼狽するだろう。
けれど、この王女は。
「言わんこっちゃない」
まるで年老いた軍医が、無理に動こうとして倒れた血気盛んな若者相手に呆れるようなため息を吐き出して、少しの間我慢していろと倒れている俺を放置して仕切布の向こうへと消えてしまった。
*****
「鎮痛薬が切れたんだな」
「鎮痛薬……」
「どうもお前は、毒に強いのではなく、薬物の効き目が早く切れる体質らしい。頭が少し朦朧としていたのは毒ではなく薬のせいだ。矢の毒は脳には作用しない」
煎じ薬のようなものを持って、戻ってきた女にそれを飲めと言われて飲まされ、起き上がれるかと尋ねた華奢な体を杖代わりに痛みに消耗してふらつく体で立ち上がり、また寝台に逆戻りとなってしまった。
「今朝は、よく眠っていて起こさないでいたからな」
寝台の側の床に膝をついて俺を見下ろし呟いたティアの言葉に、まさかと俺は彼女の顔を見た。
「手当した傷の上にも湿布のように当ててはいるが、最初と朝の食事のスープにも少々」
やっぱり一服盛っていたじゃないか、この女!
「……騙された」
「お前が、見るからに薬など飲むのが嫌いそうだったからだ」
「必要なら飲む」
「どうだかな、私を魔女だと怪しんでいたことだし」
「それはっ、まさかこんな場所に第四王女殿がと……」
「ティアだ。そういったのが性に合わなくて王宮から出て暮らしているんだ。王女とか様とか殿とか儀礼的なことは全面禁止!」
「いやでもっ」
「禁止だ!」
まるで我儘を言い張る子供のようだ。
困惑はしたが、はじめて見る少女らしい外見に釣り合うような様子にこれは相当だと諦めて頷いた。
「それから、私は別に医術が出来るわけじゃない。実験で解剖慣れしているだけで傷の縫合程度ならその延長で出来るというだけだ。薬は研究対象の一つだけれど、必要とあらば普通の医者はやらないやり方や使わない薬も使うし保証もしない」
ぼすっと耳元で音がして、シーツがわずかに波打つ。
俺の頭すぐ傍に、ティアが組んだ腕と顎先を沈めていた。
「それ以上ひどいことになったら、私もどうにもできないんだからなっ」
じっと俺を見る黒い瞳と間近に目が合った。
医者ではなさそうな様子を貫いていたのは、そういうことかと合点がいった。
敵国側の兵が行き倒れた上に死んでしまったら、さすがに王宮へと報告を上げないわけにはいかない。死んだとあっても敵国側の騎士が転がり込んできたとなったら、この塔から王宮に連れ戻されることになる、とティアは語った。
「とにかく。私の捕虜となったからには五体満足でしっかり回復してもらう義務が課せられていると思え。わかったか?」
「……わかった」
どうやら、大変に待遇の良い捕虜となっているらしい。
果たして捕虜といえるのかどうかはわからないが。
しかし、本当に、王女が古い砦の塔に一人住まいをしていたとは。
「侍女も使用人も、本当に誰も連れてきてはいないのか?」
「一人で身の回りのことくらいできるからな。剥製作りにくらべたら日々食べる料理なんて簡単だ。食料や薪や燃料といった物資は王宮から五日に一度、古参の家臣が届けてくれるから、なに不自由もないし、なにもしていないのと同じだよ」
「いや、それは違うだろ」
王国の王女がなにを言っているのか。なにもしていないというのは、衣服につけるブローチ一つも自分の手では留めることはない、公国の貴族の娘みたいな暮らしをいうのだ。
自分で料理し、湯を沸かし、身支度や手入れもしていると?
「まあちょっと掃除は苦手だから、爺が来た時に手伝ってはもらっているが」
「掃除をする貴族の娘なんて聞いたこともない!」
「そうか? 騎士団に入った貴族の子弟は身の回りのことするだろ?」
言われてみればその通りだが。
どんな家の子弟も、俺も、最初は従士や騎士見習いからだ。
戦場で身の回りのことができない奴は足手まといにしかならないから、行儀とともに徹底的に仕込まれる。
専任の従士もいるが彼らの役目は主に甲冑の脱ぎ着の手伝いや道具の手入れだ。
「いやでもティアは騎士じゃなく……」
「私がこうして塔住まいを許されたのは、自分で生活もしてみないで民の生活のなにがわかるとお思いかともっともらしい理由をつけて、五年も父様を説得し続けてようやくだ。方便とはいえ説得した以上、その通り実践せねばならない」
「方便……」
「だからそんな騒ぐことじゃない」
「しかし、こんな黒い森と呼ばれる人も寄り付かない場所で寂しくもあるだろう」
いくら定期的に家臣が来るからといっても普段は一人だ。
昼も夜もこんな暗い森の奥で一人きりで暮らすなんて、たぶん若い騎士でも音を上げる。
「寂しいとはなんだ?」
「は?」
「人と付き合うのにすぐ疲れるからこうして王宮を離れているのに。これでも結構この生活を気に入って楽しんでいるんだ、私は」
左に右にと首を傾けながら、少し人の悪そうな笑みをティアは見せた。
見覚えのある笑みだとしばし記憶を辿って、倒れて意識を失う直前に見たあの笑みだと思い出す。
人嫌いで、表には出ず、何千何万冊もの王宮所蔵の本を読みふけっている変わり者と噂の、第四王女といった人物評はどうやら本当らしい。
「そんなことより、痛みは?」
「ん? ああ、随分落ち着いた」
「起き上がれそうか?」
頷いて、身を起こした。痛みさえおさまればどうということはない。
「落ち着いたのなら一度傷を診よう。急場しのぎに裂き布で押さえていて順調そうだったからそのままにしていたが、包帯も届いているし、それにさっきの痛みようでは傷の様子も気になるしな」
ティアも身を起こし立ち上がった。
長い髪がゆらりと視界の端に揺れて、仄かに甘い匂いがする。
貴族の娘たちが纏っているような香水とは違う、涼やかで呼吸がすっと楽になるような花と草の香りだった。
俺が微かな香りに気を取られている間に、ティアは病室――として区切られているからやはりそうなるだろう――を出ていった。
おそらく包帯などを取りにいったのだろうと考え、寝台の上で上半身を起こしたまま待っていたら、その通りだったようで籠に色々とそれらしいものを盛って戻ってきた。
小さな机の上に籠を置き、またすぐ出ていって今度は湯の入った桶を運んできてそれも机の上に置いた。
人嫌いで、表には出ず、何千何万冊もの王宮所蔵の本を読みふけっている変わり者と噂の、第四王女――。
だったらどうして、こうも手厚いのだろう。
死なれたら困るなどと言っていたが、もう毒が抜けて歩けるようにはなっているのだからさっさと追い出せばいいものを。きちんと回復する義務が課せられているなどと言う。
細い指が、丁寧に即席の包帯を外し、湿布をとる。
「見てあまり気持ちのいいものではないと思うが……」
「処置したのは私だぞ」
「それも、そうか」
驚いたことに、傷は細い絹糸で綺麗に縫われていた。
あんな痛みが起きるのが信じられないほどに。
膿んですらいない。ただ赤い肉が醜く盛り上がっている。
冷静な眼差しがその傷をじっと見つめている。
その横顔に、ざわざわと奇妙な動揺に似たものを覚えた。
寝台のそばにしゃがみ込んで脇腹の傷を診られている時など、特に。
消毒薬を染み込ませた布を当てられ、再び湿布されて、ごく簡単に包帯を巻かれる。
「ついでだから体も拭こう」
そう言って背を向けたティアが、また別の布を桶の湯に浸し絞るのを見て、流石に止めた。
「ちょっと待て、さすがにそんな下女のようなことまでさせられない」
自分でやるといえば、左側は満足にできないだろうと呆れられた。
「大体、し尿の処理も寝ている間、私がしていた。清拭くらいいまさらなんだ」
本人けろりとした顔で言ってくれたが。
その言葉に頭を棍棒で殴られたような衝撃を受け、一瞬、目眩がした。
そうだ、ここには彼女しかいない。
眠り込んでいた間、一体どれほどこの身が世話になっていたのか……見当もつかない。
考えてみればずっと寝たきりだったはずなのに、体はこざっぱりとしている。
髭も伸びてはいるが、無精髭程度。
数日眠っていたのならもっと伸び放題なはず。
履いている下履きも新しい亜麻のもの。
おそらくはその下に着けているものも……もちろん体も麻痺して寝ていた俺が自分で身につけられるはずもない。
「……どうした?」
「いや」
怖くて尋ねることもできないが、たぶん間違いない。
俺は、このまだ少女といってもいいくらい若い王女に、なにからなにまで――。
「男性の人体図なら王宮にいた頃から医学書で飽きるほど見ている。別に生身の裸体を見たからってなにも思わないぞ?」
俺が、思う――!
「頼むから……それ以上はなにも言わないでくれ。あと眠っている間、色々と世話になった」
「重症だったんだ、礼には及ばん」
最初に水を飲ませてくれた時といい、こんなに平然と。
そもそも王族で、この若さではきっと誰とも……。
それとも、もしかして見た目よりも歳は結構上なのだろうか。
「――ティア、は」
「ん?」
「さすが王国の王女だけに若くても随分と気丈に思えるが、歳はいくつだ?」
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「ふうん。三十なら二の兄様と同じだな。あっ、そういえば失念していた。お前、家族は? その歳なら婚姻しているだろ? お前のことを知らせることはできないが、家族の様子を知ることはできないことはないぞ」
「いや……独り者だ」
答えながら、確かにティアの言う通りに重症で殆ど昏睡状態であったとはいえ、十二も年下の王国の王女になんてことをさせてしまったんだ俺はと、そればかりが頭の中をぐるぐると巡っていた。
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「それは周囲の者が気を揉んでいるだろうな。フューリィなんて名でも、不義理して名乗れないような家名を持っているのなら、気楽な家でもないだろうし」
「まあそれは……、っ」
細い腕に顎をそっと押し上げられて、天井を仰ぐ。
会話しながら、気がつけば上半身はさっぱりと拭われ、もう脚は自分でもできるだろうと桶の端に布をかけ包帯を持ってくる。
どうやら仮留めだったらしい包帯の上から、元と同じように再び固く包帯を巻かれた。
療養所の看護人たちよりずっと手際が良い。
俺が身を起こしているやや斜め後ろ、寝台の端に、ティアは腰掛けると余った包帯を巻いた玉を両手に軽く弄んでシーツの上に置いた。
「傷が塞がったら肩は少ししっかりと動かさないとかもな。しばらく動かさないでいたら、筋も硬くなるだろうし」
そんな言葉と同時に、不意に首の後ろからぴたりと掌を押し当てるように肩にかけてゆっくりと撫でられ、背に乗ったかすかな重みと肩甲骨が滑る黒髪に擽られたのにはっとした。
「ティア……?」
返事はなく、たぶん額を押し当てられている背に巻いた包帯が彼女の体温に温まっていくのと、微かな振動を感じる。
傷を受けた右肩の背中、肩甲骨のくぼみに顔を埋めて小さく震えている。
「ティア?」
もう一度呼びかければ、すまん……と背中に直接くぐもった小声が響いた。
「毒が抜けきるまではどうなるかわからないと気を張っていたから……少しほっとした」
ああ、そうか。
俺は――。
本当に死ぬはずだったところを、死なずにいるのだ。
この重みともいえない軽さの華奢な王女が、俺を助け、生かしてくれた。
「迷惑かけた、な」
「まったくだ」
一体なにがおかしいのかくすくすと笑い出す。
こっちはもしや泣くのではないかと若干狼狽えていたというのに、若い娘はよくわからない。
この王女なら、素性を明かしても。
そう、あらためて名乗ろうかと思いかけたが……止めた。
ティアは王国の第四王女だ。
ただ敵国の負傷兵を助け、人道的配慮で回復するまで匿ったというのならまだしも。
帝国の属国である公国騎士長、公爵家次男を匿ったとなれば事態の重みが変わってくる。
素性は知らせないほうがいい。
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