本條玲子とその彼氏

ミダ ワタル

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19. 上京

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 ――遅い!

 帰宅して早々、長袖のTシャツとショートパンツ姿で玄関先で仁王立ちで待っていた詩織にそう言われて肩をすくめた。
 靴入れの脇に備え付けてある使い古しのフェルト布とブラシを手に取ったついでに、靴入れの上の置き時計の時間を見る。
「遅くない、まだ十時前だよ」
「もう、十時前! 学校休む手続きなんて電話で済む話じゃない」
 学校だけなら詩織の言う通りだ。
「そうでもない。先生だけじゃなく色々都合もある」
「それって、女? 洋ちゃんの今の彼女?」
「相変わらずの詮索したがりだな」
 上がり框に腰掛け靴を脱ぎながら笑うと、詩織は仁王立ちのまま頬を膨らませそっぽを向いた。
「洋ちゃんのことは全部知りたいの……」
 ぶすりとした表情で口の中でもごもごとそんな事を言う。
 全部、それは不可能だろう。
 誰しも自分のことすら全て知ることはできないと思う。
「無理だよ」
「じゃあ、洋ちゃんの彼女との都合を教えて。なんの予定? 放課後デートだったとか?」
「違うよ。一緒に登校してて、迎えにいってるから休むこと伝えないと待たせて困るだろ?」
「はあぁっ?! なによそれ!」
 反応は予測していたが、考えていた以上に甲高く上がった呆れ声に思わず耳を塞いだ。
 甲高い女性の声は身内であってもどうにも苦手だ。
 聴覚の高音域を感知する神経が損傷するんじゃないかと思える。
「それこそ電話で済む話じゃない!」
「知らないんだ」
「は?」
「クラスも違うから、連絡網も違うし……」
「本当に洋ちゃんの彼女なの……?」
 ワントーン下がって接近した声に振り仰げば、手を当てたまま腰を折り曲げ、詩織に背を向けて座っている俺に鼻先をつけるように身を乗り出している詩織がいた。
「まあね」
「電話番号も知らないで?」
「まだ、付き合って一週間だし。尋ねる必要もなかったから……いや、こういう時のために聞いておくべきだったな」
 そういえば、玲子からもそんな質問はなかった。
 朝、玲子を迎えに行き、その後の予定を伝え合う。
 都合が合えば第一図書室で会って話し、都合が合わなければ会わない。
 それが定まりかけていた玲子との付き合い方のベースだった。
「呆れた。その人って洋ちゃんのこと本当に好きなの?」
「たぶんね」
 なにしろ本人から想いを告げられている。
 一緒にいる様子を見ても、普通に好意を持ってもらっている様子だ。
 何故かと問われれば、心当たりがまったくないけれど。
 しかし、詩織の興味はそこで終わったようだった。
 乗り出した身を今度は持ち上げて反らせ、まるで女王様のようにふんぞり返って詩織は両腕を組む。
「まっ、いいわ。早く支度して」
「すぐ出るのか?」
 振り仰いだ顔を元の位置に戻し、脱いだ靴底に付いた土をブラシで払う。
「出たい」
「学校の下見ぐらい、一人で行って欲しいんだけどな」
「いやよ」
 とすん、と背に重みが掛かった。
「心細いもん、洋ちゃんも付いてきて」
 ぼそぼそと囁く声に軽く息を吐いて、肩から突き出されるしなやかな手の甲に、持っていた靴を床に置いた手を軽く添えてやる。
 高飛車で勝気な詩織だったが、それは臆病な性格の裏返しでもあった。
 小さな頃から、人前で箏を弾く前日は必ず熱を出したり吐いたりしていた。
 たぶん、今もだろう。
 国際的に活躍する演奏者として世間の注目を浴び、プレッシャーがきつくなっているだけ酷くなっているかもしれない。
 詩織は金沢で母親と一緒に住んでいるが、年の大半を国内外の演奏会に出演するために飛び回っている。
 地元で進学した学校にはまともに通えていない。
 幾分か融通を利かせてはもらっているようだったが、普通の公立学校では足りない出席日数を考慮するのも制度的に限界があった。
 なにより、音楽科でもない。
 演奏活動においても地方は移動上のロスが大きい。
 国内の演奏会は東京・大阪・名古屋・福岡といった主要都市が多く、それらは東海道新幹線でひとつなぎに繋がっているし、海外から戻る時も成田か羽田だ。
「叔父さんが勤めてる大学の付属校なら心配ないよ」
「どうだか」
 諸々の理由で東京に部屋を借り、叔父が客員教授として講義をしている東京の音大付属の高校への編入を詩織は検討していた。  
 部屋を借りてといっても完全な一人暮らしは危なっかしいから、中道の家が雇っている詩織のマネージャーが住むマンションに入る予定だ。
 仕事とはいえ、詩織のマネージャーもご苦労なことである。
 最初、俺の家も詩織の住居候補だったそうだが、東京から通学に一時間かかるのでは本末転倒となってしまうため却下となった。
「洋ちゃんと違って、わたしのことはパパいい加減だもの」
「そんなことないよ」
「あるの。洋ちゃんは天才、わたしは凡才」
「16歳の天才邦楽少女がなにを言っているのだか」
「洋ちゃん……それ、すっごい嫌味……」
 ぐいぐいと圧し掛かってくる重みに苦笑して、立てないと言えば詩織は離れた。
「一門の若手の中でも文句無しに詩織は一番だよ」
「洋ちゃんを除けばね」
 背を向けたまま詩織にそう言えば、溜息混じりに彼女は小さく呟いた。
「俺は、一門の人間とはいえないよ」
 周囲の見よう見真似、叔父が幼い俺が訊ねるまま教えてくれたのを元にして好き勝手に弾いているにすぎず門下生として修練したことがない。
 それなのに一門の定演会に出ているのもおかしな話だ。
 皆、一門の奏者扱いしてくれているが、それは俺が前家元の血を引く息子だからだろう。
 春・夏・秋・冬と年四回の定演会。
 毎年のように今年は出るのを止そうと思うのだが、その準備を取り仕切っている古株の内弟子の人達に当たり前のように出演者の頭数に入れられてしまうため、毎回断りそびれていた。
「……ふざけてる」
 ぼそりと呟いた詩織の声を聞きながら、フェルト布で靴がかぶった土埃を軽く払って立ちあがり、フェルト布とブラシを元の場所に置いて詩織を振り返った。
「だから、俺が家元なんておかしいんだよ」 
 きゅっと詩織の眉根が寄って、物言いた気に口を開きかけて閉ざす。
「ん?」
「別に……」
 結局、唇を引き結んで詩織は少しの間黙り込むと、急に思い出したように顔を上げて俺の制服の袖を引っ張った。
「そんなこと言ってる暇があったら早く支度してよ、洋ちゃん!」
「はいはい」
 俺を急かしながらじっと据わった目つきをしている詩織に、これ以上、機嫌を損ねられてもたまらないから素直に従った。

 *****

「若先生、筝はいいんですか?」
 玄関先に車を回してくれた、三十過ぎの、古参の内弟子に尋ねられて俺は頷いた。
「邪魔になるからいいよ」
「でも二日は戻らないんでしょう? 弾かずに耐えられるんですか?」
 真剣に心配してくれるのはいいのだが……。
「まるで中毒者の扱いだな、透さん」
 言えば、ひょこりと首をすくめて実際そうでしょうと、駅まで俺と詩織と荷物を送り届けてくれる彼は苦笑した。
「あ、失礼しました。けど、弾かないと気持ち悪いっていつも言うじゃないですか」
 たしかにそうだけれど、別に絶対ではない。
 家にいる時はなんとなく習慣だからそうであるだけで、外泊の時は仕方ないと切り替えられる。
 でなければ、泊まりがけの学校行事にも参加できない。
 とはいえ、あまり長いと少し身体にも違和感が生じるのだけれど。
「まあね、どうしてもとなったら支部にでも寄るから。それより稽古あるのに」
 稽古場では平日の昼と夕方、通いの門下生のための教室が開かれ師範の資格を持つ内弟子の人達が交代で講師にあたっている。
「構いません、昼の教室は下のが面倒みますし。むしろ駅までで申し訳ないくらいで」
「いいよ、師範会もあるって聞いてる。定演会近いし、打ち合わせ?」
「ええ、出演する教室の先生方を集めての連絡会です」
「それで、今回は叔父と一緒に行かなかったのか」
 叔父の直弟子としてもう十年来の付き合いになるこの人は、付き人のように叔父の外出の供をすることが多い。
 慌てて出掛けていった叔父を車に乗せて、一人帰ってきたから珍しいこともあるものだと思っていた。
「ええ、まあ。それにしても詩織お嬢さんの演奏聞けなくて残念です」
「ああ」
 たしかに、表に出るようになってから詩織がこの家に来ることは少なくなっていたし、来ても一日二日遊びに来るようなもので、以前のように叔父の稽古を受けることもなかった。
 もちろん中道の家では稽古しているのだろうが。
「まあ、ご自分のを修繕にだされてるんじゃあ仕方がないですけどね。詩織お嬢さんは繊細な方ですし。それも受け取りに行かれるんでしょう?」
「らしいね」
 繊細ね。
 単に神経質なだけだと思うけれど。
 ただ弾くだけなら基本的にどんな筝でも構わない俺と違い、詩織は自分の愛器以外はあまり触ろうとしない。
 筝に限らず、他人が触れた道具類を使うのを詩織は嫌う。
 年の半分はどこかで演奏を披露しているような状態だから、筝は一面だけでなく、二、三面使っているようだが家に届いた荷物には含まれていなかった。
 たぶんマネージャーの女性が預かっているのだろう。
「そうだな……久しぶりにちょっと聞きたかったかもな」
「小さい頃はよく一緒に弾いて遊んでましたもんね」
「え?」
 最後に詩織の演奏を聞いたのはいつだったかと考えを巡らせていて、耳を打った言葉に相手の顔を見れば、俺の様子におやと首を傾げた。
「覚えていないんですか?」
「え、ああ……うん」
 透さんは音大の邦楽科在籍中から叔父に師事してもう十数年以上。
 叔父の内弟子だから当然、子供の頃の俺のこともよく知っている。
「まだ前の家元もお元気で。若先生よく詩織お嬢さんの稽古覗いていたじゃないですか」
「そうだったかな」
「詩織お嬢さんがついさっき教わったばかりの稽古を若先生に教えて、若先生はいつもぼんやりそれを聞いていてお嬢さんが怒って、はは、お二人とも可愛らしかったですよ」
 ちょっと待て、と透さんに思う。
 それが本当なら、俺が筝の基本を習ったのは詩織ということになる。
「……叔父は?」
「もちろん側にいましたよ、前の家元と一緒に」
 それで叔父に習ったと記憶がすり替わったのだろうか、だとしたら幼少期の認識なんて随分と曖昧なものだ。
 いや、詩織だってまだ小さいから俺に教える真似をしたところできっとままごと程度だ。
 叔父が側にいたのなら、一緒に教わったのかもしれない。
 しかし、父……は、いただろうか?
 あの人は俺に、というよりも誰にも教えたりはしなかったはずだが。
「ああでも、その時だったかなあ」
「何?」
「え……いや、その……」
 余計な事を言ったというように口元に手を当て、困惑の表情を浮かべた透さんに俺が訝しんだ時、背後から険を含んだ声がかかった。
「洋ちゃん! もう荷物積んでくれた?」
 振り返った先には、ツインニットとスカートに着替えた詩織が立っていた。
「積んだ。まったく人を急かしておいて」
「女の子の支度は色々あるんだから仕方ないでしょ!」
 女性は皆これに近い台詞を言いがちだが、色々って具体的にはなんなのだろう。
 化粧だってそんなに時間がかかるものとは思えないし、ましてや詩織は高校生になりたての少女だから化粧もないのに。
「じゃあ、お二人共行きましょうか」
 さっきの困惑の表情はきれいさっぱり消した透さんが苦笑しながら、後部座席のドアを開けて促すのに従って大人しく車に先に乗り込む詩織を見てさっきまでの会話を思い出し、なんとなく腑に落ちない消化不良な感じのものを抱えたまま、俺も詩織に続いて車に乗り込んだ。
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