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第12章 呪われ公の絶息
エレオノーラ
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涼やかな風が吹く。
冬はまもなく終わり、春が訪れようとしている。
ノーラは少しだけ暖かい日差しに瞳を細めた。
帝都エティス。
ペートルスの反乱、ルートラ公の暗殺。
騒動の影などなかったかのように、人々は笑顔で大路を行き交っていた。
結局は貴族たちの世界の出来事。
民にはなんの関係もなく、時は進む。
「ノーラ、そろそろ歩き疲れたんじゃないかな? 少し休もうか」
「ん、そうだね。どこで休もうかなぁ……」
あれからノーラはペートルスと様々な場所を巡っている。
記憶が戻ることを期待しているのではない。
むしろ新たな彼と、新たな人生を歩みだすために。
記憶を失ったペートルスの目には、すべてが新鮮に映っていた。
幸い彼の心根が変わることはなく、紳士然とした振る舞いのまま。
「そうだ! ペートルスは甘いものって好き?」
「甘味か……どうだろう。『前』の僕は好きだったのかな」
「あんまり自分のことは話してくれなかったからさ。興味関心、個人的な嗜好に関してはよくわかんねー人だったよ」
「話を聞く限り、本当に自分を出さない人だったみたいだね……」
ノーラは貴族街の方向に歩きだした。
帝都エティスに初めて訪れた日を思い出す。
ペートルスに連れ出され、衆目の前に晒されたあの日。
ノーラの心臓はかつてないほど高鳴り、初めて見る世界に目を回していた。
今は違う。
どこにいたって一人でも大丈夫だし、でも誰かといるともっと楽しくて。
しばらく歩き、二人は貴族街の一角にあるカフェに着いた。
「ここ……スイーツのカフェ。すっごく美味いんだよ」
初めて帝都に訪れた日……ペートルスに連れてきてもらった店だ。
あのときは対照的に、今はペートルスが期待して目を輝かせている。
入店してノーラはケーキを注文する。
ペートルスの好みがよくわからないので、彼にも別の味のケーキを。
雑談をしながら待つことしばらく。
「お待たせいたしました……!?」
皿を運んできた給仕が驚き目を丸くする。
彼の視線はペートルスに向けられていた。
瞳に宿る感情は恐怖か、あるいは当惑か。
どちらにせよ……貴族街に勤めるような立場の人間なら、ペートルスが反乱を起こした事実は知っているわけで。
ノーラはあくまで笑顔を崩さずに尋ねた。
「……何か?」
「い、いえ……申し訳ございません。こちらご注文の品です」
そそくさと給仕はその場を後にする。
察しの悪いペートルスではない。
彼は何かを感じ取って沈黙を破った。
「あの人は僕を恐れていた。その理由はきっと……君が語ろうとしない、僕の過去にあるのだろうね」
「ま、そっすね。でも知る必要はないと思う。知ったところで過去は変えられないんだから」
ノーラは意図してペートルスの過去に触れないようにしている。
彼が反乱を起こしたことも、呪われた日々を過ごしてきたことも。
語る必要など微塵もない。
どうしても彼が知りたいと言うのなら、語っても構わないが。
「君の言う通り、明日を見ていればそれでいい。けれど……」
……と、ペートルスは言葉を濁した。
彼はなんとも言えぬ表情で眼前のケーキを見た。
「気になることがあるの? それならなんでも言ってよ」
「ノーラ。君と過ごした日々を思い出せないのは、少しだけ苦しいと思うときがある」
「……」
紛れもないペートルスの本音。
この短い間でも、自分はノーラと楽しい時間を過ごしてきたのだと理解できた。
胸の奥にある空白。
これはどうしようもなく埋めようがない。
彼女のことを忘れているのが嫌だった。
どれだけつらいことがあっても……その過去とともに、ノーラと過ごしてきた時間を抱きたかった。
これまでも、これからも。
目前にいる彼女との記憶を失いたくない。
「わぁ……ストレートな言葉」
「すまない、こんなことを言っても君を困らせるだけだね」
「ううん。正直に言ってくれて助かるよ。わたしもね……たまに寂しいって思うときがあるの。前向いていこうぜ! ……なんて言った割には、妙に過去を懐かしむときがあって」
ペートルスの記憶は邪器とともに消え去った。
だが、彼を寿命の枷から解き放つこともできたのだ。
これでいいはず。
あのときの決断は間違いじゃない。
「無理に忘れなくてもいいんじゃないかな。過去の僕よりも君を幸せにすると誓ったけれど……過去の僕の想いだって、なくなるわけじゃないから」
「……そうだね」
ノーラはうなずき、雑談に花を咲かせた。
◇◇◇◇
夜、イアリズ伯爵家に戻ってきたノーラ。
今はペートルスを賓客として迎え入れている。
デニス曰く、ペートルスの扱いに関してはもう少し時間が欲しいとのこと。
まだクラスNの生徒とも顔を合わせられていないし、もちろん社交界に足を運んでもいない。
今のところペートルスは重傷により眠っている……ということになっているらしい。
「お帰り、エ……ノーラ」
アスドルバルは少し詰まって『ノーラ』の名を呼んだ。
ペートルスの前でエレオノーラという名前は使わないことになっている。
『ノーラ・ピルット』というペートルスが授けてくれた名前をできるだけ使っていきたい……というノーラ自身の願いで。
少なくとも学園を卒業するまではこの名前を通すつもりでいる。
「屋敷が騒がしいんですけど、なんすか?」
「ヘルミーネとランドルフの婚姻について話し合うため、このあとネドログ伯爵家の方々がいらっしゃって、我が家に泊まることになっている。前もって伝えておくべきだったな」
「あー……じゃあ、あっちに行ってます」
「あっち……?」
ペートルスは首を傾げた。
いまだに『呪われ姫』はイアリズ伯爵家の離れに幽閉されていることになっている。
そのうち噂が広がって、ノーラが『呪われ姫』だということも世間にバレるかもしれないが。
よその人間が来るというなら籠へ戻らねば。
ノーラはペートルスを連れて離れへ向かった。
「すっげぇ荒れてる……」
久方ぶりに訪れた離れは酷い有様だった。
ろくに手入れもされておらず、庭の地面がぐちゃぐちゃだ。
おそらく離れに住んでいたままなら何も感じなかったのだろう。
しかし外に出て、多くの景色を見聞したノーラにとっては異常な場所に見えた。
よくこんな場所で平然と暮らしていたものだ。
「ここでわたしとペートルスは初めて出会ったんだ」
「こ、ここで……? でもたしかに……懐かしい感じがする」
古びた家屋のそばに歩み寄る。
呪われ姫として過ごした日々、ここでペートルスと出会って刺激を受けた日々。
今も鮮明に思い出せる。
「初めてペートルスと出会ったとき、わたしは孤独だった。信じられる人も、友達もいない。ここ以外の場所を何も知らない。今こうして多くの人に囲まれていることが、すごく奇跡みたいに感じる」
「……」
「ねえ、今から歌うよ。聴いてね」
月光を浴びてそよぐ一本の木を見上げ、ノーラは息を吸った。
無人の庭に美しい声が木霊する。
いつも憂鬱は歌うことで晴らしてきた。
自分が見られることで恐れられるのなら、せめて声だけは美しくあろうと。
「――♪」
小さいころ、亡き母が教えてくれた歌。
もう最後まで歌いきれる。
十年間歌い続けてきた、その続きを。
「……ふう」
歌唱を終える。
最初から最後まで清々しい気分で。
ペートルスに自分の歌声を聴いてほしいから。
「綺麗な歌声だね」
振り向くと、そこには感動に瞳を揺らすペートルスの姿があった。
彼はいつもこうしてノーラを褒めてくれる。
そこに一切の欺瞞はなく、ただ一途な想いがある。
唐突にペートルスは跪いた。
そしてノーラの手を取る。
「――本当に綺麗だよ、エレオノーラ」
「へ……?」
「僕の愛しの姫君。迎えにきてくれてありがとう」
ノーラの思考は停止した。
だって、ペートルスは『エレオノーラ』の名を知らないはずなのに。
「どうして……」
「美しい歌声、記憶に焼きついて離れない声。思い出したよ……君との出会い、過ごした日々。忘れたくなかった。たとえどれだけ苦しい記憶があろうとも」
視界がぼやける。
エレオノーラの瞳から涙が流れた。
言葉にできない感情が胸の奥から次々とあふれ出る。
何も変わらない、あの日と同じペートルスがそこにいる。
彼は立ち上がり、そっとエレオノーラの涙を拭った。
「君に伝えられなかった言葉を贈らせてほしい」
ずっと伝えられなかった想い。
あらゆる枷から解き放たれた、今だからこそ。
「――愛しているよ、エレオノーラ」
冬はまもなく終わり、春が訪れようとしている。
ノーラは少しだけ暖かい日差しに瞳を細めた。
帝都エティス。
ペートルスの反乱、ルートラ公の暗殺。
騒動の影などなかったかのように、人々は笑顔で大路を行き交っていた。
結局は貴族たちの世界の出来事。
民にはなんの関係もなく、時は進む。
「ノーラ、そろそろ歩き疲れたんじゃないかな? 少し休もうか」
「ん、そうだね。どこで休もうかなぁ……」
あれからノーラはペートルスと様々な場所を巡っている。
記憶が戻ることを期待しているのではない。
むしろ新たな彼と、新たな人生を歩みだすために。
記憶を失ったペートルスの目には、すべてが新鮮に映っていた。
幸い彼の心根が変わることはなく、紳士然とした振る舞いのまま。
「そうだ! ペートルスは甘いものって好き?」
「甘味か……どうだろう。『前』の僕は好きだったのかな」
「あんまり自分のことは話してくれなかったからさ。興味関心、個人的な嗜好に関してはよくわかんねー人だったよ」
「話を聞く限り、本当に自分を出さない人だったみたいだね……」
ノーラは貴族街の方向に歩きだした。
帝都エティスに初めて訪れた日を思い出す。
ペートルスに連れ出され、衆目の前に晒されたあの日。
ノーラの心臓はかつてないほど高鳴り、初めて見る世界に目を回していた。
今は違う。
どこにいたって一人でも大丈夫だし、でも誰かといるともっと楽しくて。
しばらく歩き、二人は貴族街の一角にあるカフェに着いた。
「ここ……スイーツのカフェ。すっごく美味いんだよ」
初めて帝都に訪れた日……ペートルスに連れてきてもらった店だ。
あのときは対照的に、今はペートルスが期待して目を輝かせている。
入店してノーラはケーキを注文する。
ペートルスの好みがよくわからないので、彼にも別の味のケーキを。
雑談をしながら待つことしばらく。
「お待たせいたしました……!?」
皿を運んできた給仕が驚き目を丸くする。
彼の視線はペートルスに向けられていた。
瞳に宿る感情は恐怖か、あるいは当惑か。
どちらにせよ……貴族街に勤めるような立場の人間なら、ペートルスが反乱を起こした事実は知っているわけで。
ノーラはあくまで笑顔を崩さずに尋ねた。
「……何か?」
「い、いえ……申し訳ございません。こちらご注文の品です」
そそくさと給仕はその場を後にする。
察しの悪いペートルスではない。
彼は何かを感じ取って沈黙を破った。
「あの人は僕を恐れていた。その理由はきっと……君が語ろうとしない、僕の過去にあるのだろうね」
「ま、そっすね。でも知る必要はないと思う。知ったところで過去は変えられないんだから」
ノーラは意図してペートルスの過去に触れないようにしている。
彼が反乱を起こしたことも、呪われた日々を過ごしてきたことも。
語る必要など微塵もない。
どうしても彼が知りたいと言うのなら、語っても構わないが。
「君の言う通り、明日を見ていればそれでいい。けれど……」
……と、ペートルスは言葉を濁した。
彼はなんとも言えぬ表情で眼前のケーキを見た。
「気になることがあるの? それならなんでも言ってよ」
「ノーラ。君と過ごした日々を思い出せないのは、少しだけ苦しいと思うときがある」
「……」
紛れもないペートルスの本音。
この短い間でも、自分はノーラと楽しい時間を過ごしてきたのだと理解できた。
胸の奥にある空白。
これはどうしようもなく埋めようがない。
彼女のことを忘れているのが嫌だった。
どれだけつらいことがあっても……その過去とともに、ノーラと過ごしてきた時間を抱きたかった。
これまでも、これからも。
目前にいる彼女との記憶を失いたくない。
「わぁ……ストレートな言葉」
「すまない、こんなことを言っても君を困らせるだけだね」
「ううん。正直に言ってくれて助かるよ。わたしもね……たまに寂しいって思うときがあるの。前向いていこうぜ! ……なんて言った割には、妙に過去を懐かしむときがあって」
ペートルスの記憶は邪器とともに消え去った。
だが、彼を寿命の枷から解き放つこともできたのだ。
これでいいはず。
あのときの決断は間違いじゃない。
「無理に忘れなくてもいいんじゃないかな。過去の僕よりも君を幸せにすると誓ったけれど……過去の僕の想いだって、なくなるわけじゃないから」
「……そうだね」
ノーラはうなずき、雑談に花を咲かせた。
◇◇◇◇
夜、イアリズ伯爵家に戻ってきたノーラ。
今はペートルスを賓客として迎え入れている。
デニス曰く、ペートルスの扱いに関してはもう少し時間が欲しいとのこと。
まだクラスNの生徒とも顔を合わせられていないし、もちろん社交界に足を運んでもいない。
今のところペートルスは重傷により眠っている……ということになっているらしい。
「お帰り、エ……ノーラ」
アスドルバルは少し詰まって『ノーラ』の名を呼んだ。
ペートルスの前でエレオノーラという名前は使わないことになっている。
『ノーラ・ピルット』というペートルスが授けてくれた名前をできるだけ使っていきたい……というノーラ自身の願いで。
少なくとも学園を卒業するまではこの名前を通すつもりでいる。
「屋敷が騒がしいんですけど、なんすか?」
「ヘルミーネとランドルフの婚姻について話し合うため、このあとネドログ伯爵家の方々がいらっしゃって、我が家に泊まることになっている。前もって伝えておくべきだったな」
「あー……じゃあ、あっちに行ってます」
「あっち……?」
ペートルスは首を傾げた。
いまだに『呪われ姫』はイアリズ伯爵家の離れに幽閉されていることになっている。
そのうち噂が広がって、ノーラが『呪われ姫』だということも世間にバレるかもしれないが。
よその人間が来るというなら籠へ戻らねば。
ノーラはペートルスを連れて離れへ向かった。
「すっげぇ荒れてる……」
久方ぶりに訪れた離れは酷い有様だった。
ろくに手入れもされておらず、庭の地面がぐちゃぐちゃだ。
おそらく離れに住んでいたままなら何も感じなかったのだろう。
しかし外に出て、多くの景色を見聞したノーラにとっては異常な場所に見えた。
よくこんな場所で平然と暮らしていたものだ。
「ここでわたしとペートルスは初めて出会ったんだ」
「こ、ここで……? でもたしかに……懐かしい感じがする」
古びた家屋のそばに歩み寄る。
呪われ姫として過ごした日々、ここでペートルスと出会って刺激を受けた日々。
今も鮮明に思い出せる。
「初めてペートルスと出会ったとき、わたしは孤独だった。信じられる人も、友達もいない。ここ以外の場所を何も知らない。今こうして多くの人に囲まれていることが、すごく奇跡みたいに感じる」
「……」
「ねえ、今から歌うよ。聴いてね」
月光を浴びてそよぐ一本の木を見上げ、ノーラは息を吸った。
無人の庭に美しい声が木霊する。
いつも憂鬱は歌うことで晴らしてきた。
自分が見られることで恐れられるのなら、せめて声だけは美しくあろうと。
「――♪」
小さいころ、亡き母が教えてくれた歌。
もう最後まで歌いきれる。
十年間歌い続けてきた、その続きを。
「……ふう」
歌唱を終える。
最初から最後まで清々しい気分で。
ペートルスに自分の歌声を聴いてほしいから。
「綺麗な歌声だね」
振り向くと、そこには感動に瞳を揺らすペートルスの姿があった。
彼はいつもこうしてノーラを褒めてくれる。
そこに一切の欺瞞はなく、ただ一途な想いがある。
唐突にペートルスは跪いた。
そしてノーラの手を取る。
「――本当に綺麗だよ、エレオノーラ」
「へ……?」
「僕の愛しの姫君。迎えにきてくれてありがとう」
ノーラの思考は停止した。
だって、ペートルスは『エレオノーラ』の名を知らないはずなのに。
「どうして……」
「美しい歌声、記憶に焼きついて離れない声。思い出したよ……君との出会い、過ごした日々。忘れたくなかった。たとえどれだけ苦しい記憶があろうとも」
視界がぼやける。
エレオノーラの瞳から涙が流れた。
言葉にできない感情が胸の奥から次々とあふれ出る。
何も変わらない、あの日と同じペートルスがそこにいる。
彼は立ち上がり、そっとエレオノーラの涙を拭った。
「君に伝えられなかった言葉を贈らせてほしい」
ずっと伝えられなかった想い。
あらゆる枷から解き放たれた、今だからこそ。
「――愛しているよ、エレオノーラ」
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