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第9章 惑わぬ佯狂者の殉教
神柩は謀に消ゆ
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「――シュログリ教の主神、焔神。彼は四百年以上前に死んでいるのです」
教皇の発言にノーラは凍りついた。
シュログリ教の主たる焔神の存在を、トップの教皇自らが否定したのだ。
しばしの沈黙が室内に漂う。
理解が及ばず思考に空白を生じさせていたノーラ。
そんな彼女が理解するための時間を与えてくれたのか、教皇は微笑みながら瞑目していた。
「え、えーっと……それ、言っても大丈夫なんですかね?」
さんざん悩み抜いてひねり出した答えがこれだ。
神の是非に驚愕する前に、言葉の詳細な意味を尋ねる前に、神の死を部外者のノーラに語っても良いのかを尋ねた。
「この事実を知るのは私と巫女長、そして一部の枢機卿のみです。一般の信徒はもちろん、大司教クラスの者も知り得ません」
では、そこまで重要な機密をなぜノーラに話したのか。
「主神が亡くなって以降……シュログリ教は権威を落とすまいと、躍起になって神の死を隠し続けてきました。国内全域に蔓延るシュログリ教は、もはやひとつの宗教ではなく、ひとつの国家に匹敵する勢力になっていましたから。神の死が知れ渡れば権威の失墜とともに組織が崩壊し、多くの人が不幸になってしまう。そして戦の火種にもなってしまうのです」
グラン帝国は非常に広大だ。
そのぶん、各派閥の権力争いも熾烈で。
シュログリ教が弱味を見せれば、利用しようとする貴族ももちろん出てくるだろう。
「あなたの母、エウフェミアは……とても珍しい『幻属性』の使い手で、その才覚も目を瞠るものがありました。そこで悪い教皇……私は、彼女の力を利用してしまった。幻によって神の虚像を作り出し、まだ神が健在かのように信徒を騙していたのです」
ノーラは深く考え込む。
理論的には不可能ではない。
肝試しの際に行使した魔術……周囲に魔力を広げて幻影を見せる術を使えば、神の姿を偽装することだってできるだろう。
だが、ひとつの疑問が首をもたげる。
「信徒全員に幻を見せる……そんなこと、可能なのですか? わたしも母と同じように幻属性の魔術が使えます。ですが、そんなに大規模なものは……不可能に近い、気がします」
「最初はエウフェミアもとても苦労していましたよ。しかし日を重ねるごとに彼女の才覚は開花していき、いつしか難なく大規模な幻影の作成が可能になっていたのです。非常に緻密な幻影で、誰も焔神の姿が虚像であるということに気がつきませんでしたよ」
教皇がここまで包み隠さずに話してくれるのは、ノーラがエウフェミアの娘だからだろうか。
母のことを知りたいという願いに、親身になって答えてくれているのか。
「ですが、母は失踪というか……駆け落ちしたんですよね?」
「事前に巫女長を辞めるという申告はされていました。だからこそ、イアリズ伯爵夫人となった彼女を追わないよう、私から勅令を出したのです。彼女を不幸にしてまで、神の虚像を維持しようとは思いませんでしたからね。人の幸福を願う焔神様の教えに反するわけにはいきません」
教皇が優しい人でよかった。
彼の配慮がなければ、ノーラがこの世に生まれることもなかっただろう。
「エウフェミアが消えたことにより、神の虚像は姿を見せなくなった。信徒の間では『主が今のシュログリ教に失望したのではないか』という噂がまことしやかに広まり、諸侯もまたその隙に付け入ろうとしてきました。おかげでシュログリ教の勢力は削がれ、崩壊の兆しを見せ始めていたのです」
まだシュログリ教はかつての栄光を取り戻していない。
ひとたび生まれた疑念は簡単に払拭できず、組織に生まれた綻びは埋められない。
皇帝派や公爵派からも、シュログリ教を崩壊させようとする魔手は絶えず伸びてくる。
「今は……すばらしい才覚を持つエルメンヒルデ巫女長により、それなりに信頼は回復できました。神をその身に降ろしている、という体で貫き通しています」
神を騙れるほどに優れた力。
そのすべてはエルメンヒルデの献身と努力によって形成されたもの。
正確に言えば、神の代理に堪えなかった少女の式神の献身によるものだ。
教皇はエウフェミアの過去とシュログリ教の現状を語り、改めてノーラに尋ねた。
「そこで提案があります。すでに巫女長から聞いているとは思いますが……エレオノーラ。学園を卒業後、母を継いでシュログリ教に勤めるつもりはありませんか?」
「…………」
「もちろん、エウフェミアほどの才覚と重責をあなたに求めているわけではありません。我らが切れる札の一枚として、シュログリ教を継続させるための一助として、あなたがいてくだされば安心できるのです。人を騙すような、悪く言えば詐欺師のようなお仕事……ということになりますが。神はどうせ何をしようとお許しになります。神はもうこの世にいないのですから」
嘲りの音を含めて教皇は笑った。
答えがすぐに出せるものではない。
それに……うつむきがちにノーラはエルメンヒルデを見た。
「エルンは……いいの? 自分の力でシュログリ教を立て直してきたエルンとしては、複雑な気持ちなんじゃないかな。傲慢な考えかもしれないけど、わたしが立場を奪うかもしれないって」
自分に才能があるなんて思っていないが。
もしも母ほどの才能があった場合、エルメンヒルデは巫女長の座を追われることになるかもしれない。
優秀な新人を恐れるのは、どの組織でもありがちなことだ。
「え、どうして? シュログリ教が栄えるなら何も問題はないよ。先々代巫女長の再来になるのなら、ぜひともお願いしたいところだね。シュログリ教の繁栄以外は何も必要ない。……きっと今は亡き『主』なら、シュログリ教の繁栄を、人々の幸福を願っただろうから」
シュログリ教のために死ねと言われれば死ぬ。
自分のすべてを犠牲にしてでも、彼女は大願を追う。
エルメンヒルデは切にノーラを引き入れることを望んでいた。
母がどんな気持ちでシュログリ教から抜けたのかはわからない。
人を騙すことに良心の呵責を感じていたのか、純粋に父と添い遂げたいと思っただけなのか。
ノーラはじっくりと悩み抜いた末、中途半端な答えを出した。
「……卒業までに前向きに検討いたします、って。無責任な返事でごめんなさい」
巫女の仕事や、自分の力に関して興味はある。
しかし、あと二年の間に考えが変わることもあるし、何よりも自分を取り囲む諸問題に始末をつける方が先だ。
「今は優先したいことがあるので。また落ち着いたら考えさせてください」
「わかりました。今は学業に専念し、よく進路を考えた上で答えを聞かせてください。若いうちの経験は何よりも大事ですからね」
教皇の優しい声色にノーラは安堵した。
将来という不透明なものに対して、充分に向き合うための時間をくれた。
「ただし……エレオノーラが未来へ歩み出すには、やはり障害を取り除かねばならないようですね。巫女長よ」
会話の始まりから浮かべていた微笑みを引っ込めて、教皇は表情を引き締めた。
「引き続き、ニルフック学園への滞在を任じます。今後ともエレオノーラを悪しき者の謀略より守りなさい。シュログリ教のためだけではなく、あなたの世界を広げるためにも……学生としての日々を大切にして生きるのです」
「拝命いたしました」
エルメンヒルデは恭しく礼をする。
彼女の口元がわずかにほころんだ。
まだノーラとともにいられることに対して、不思議な安心感を覚えたのだ。
神は死んだ。
神の代理人も死んだ。
それでもなお、神を宿すシュログリ教のために。
エルメンヒルデは駆動し続ける。
教皇の発言にノーラは凍りついた。
シュログリ教の主たる焔神の存在を、トップの教皇自らが否定したのだ。
しばしの沈黙が室内に漂う。
理解が及ばず思考に空白を生じさせていたノーラ。
そんな彼女が理解するための時間を与えてくれたのか、教皇は微笑みながら瞑目していた。
「え、えーっと……それ、言っても大丈夫なんですかね?」
さんざん悩み抜いてひねり出した答えがこれだ。
神の是非に驚愕する前に、言葉の詳細な意味を尋ねる前に、神の死を部外者のノーラに語っても良いのかを尋ねた。
「この事実を知るのは私と巫女長、そして一部の枢機卿のみです。一般の信徒はもちろん、大司教クラスの者も知り得ません」
では、そこまで重要な機密をなぜノーラに話したのか。
「主神が亡くなって以降……シュログリ教は権威を落とすまいと、躍起になって神の死を隠し続けてきました。国内全域に蔓延るシュログリ教は、もはやひとつの宗教ではなく、ひとつの国家に匹敵する勢力になっていましたから。神の死が知れ渡れば権威の失墜とともに組織が崩壊し、多くの人が不幸になってしまう。そして戦の火種にもなってしまうのです」
グラン帝国は非常に広大だ。
そのぶん、各派閥の権力争いも熾烈で。
シュログリ教が弱味を見せれば、利用しようとする貴族ももちろん出てくるだろう。
「あなたの母、エウフェミアは……とても珍しい『幻属性』の使い手で、その才覚も目を瞠るものがありました。そこで悪い教皇……私は、彼女の力を利用してしまった。幻によって神の虚像を作り出し、まだ神が健在かのように信徒を騙していたのです」
ノーラは深く考え込む。
理論的には不可能ではない。
肝試しの際に行使した魔術……周囲に魔力を広げて幻影を見せる術を使えば、神の姿を偽装することだってできるだろう。
だが、ひとつの疑問が首をもたげる。
「信徒全員に幻を見せる……そんなこと、可能なのですか? わたしも母と同じように幻属性の魔術が使えます。ですが、そんなに大規模なものは……不可能に近い、気がします」
「最初はエウフェミアもとても苦労していましたよ。しかし日を重ねるごとに彼女の才覚は開花していき、いつしか難なく大規模な幻影の作成が可能になっていたのです。非常に緻密な幻影で、誰も焔神の姿が虚像であるということに気がつきませんでしたよ」
教皇がここまで包み隠さずに話してくれるのは、ノーラがエウフェミアの娘だからだろうか。
母のことを知りたいという願いに、親身になって答えてくれているのか。
「ですが、母は失踪というか……駆け落ちしたんですよね?」
「事前に巫女長を辞めるという申告はされていました。だからこそ、イアリズ伯爵夫人となった彼女を追わないよう、私から勅令を出したのです。彼女を不幸にしてまで、神の虚像を維持しようとは思いませんでしたからね。人の幸福を願う焔神様の教えに反するわけにはいきません」
教皇が優しい人でよかった。
彼の配慮がなければ、ノーラがこの世に生まれることもなかっただろう。
「エウフェミアが消えたことにより、神の虚像は姿を見せなくなった。信徒の間では『主が今のシュログリ教に失望したのではないか』という噂がまことしやかに広まり、諸侯もまたその隙に付け入ろうとしてきました。おかげでシュログリ教の勢力は削がれ、崩壊の兆しを見せ始めていたのです」
まだシュログリ教はかつての栄光を取り戻していない。
ひとたび生まれた疑念は簡単に払拭できず、組織に生まれた綻びは埋められない。
皇帝派や公爵派からも、シュログリ教を崩壊させようとする魔手は絶えず伸びてくる。
「今は……すばらしい才覚を持つエルメンヒルデ巫女長により、それなりに信頼は回復できました。神をその身に降ろしている、という体で貫き通しています」
神を騙れるほどに優れた力。
そのすべてはエルメンヒルデの献身と努力によって形成されたもの。
正確に言えば、神の代理に堪えなかった少女の式神の献身によるものだ。
教皇はエウフェミアの過去とシュログリ教の現状を語り、改めてノーラに尋ねた。
「そこで提案があります。すでに巫女長から聞いているとは思いますが……エレオノーラ。学園を卒業後、母を継いでシュログリ教に勤めるつもりはありませんか?」
「…………」
「もちろん、エウフェミアほどの才覚と重責をあなたに求めているわけではありません。我らが切れる札の一枚として、シュログリ教を継続させるための一助として、あなたがいてくだされば安心できるのです。人を騙すような、悪く言えば詐欺師のようなお仕事……ということになりますが。神はどうせ何をしようとお許しになります。神はもうこの世にいないのですから」
嘲りの音を含めて教皇は笑った。
答えがすぐに出せるものではない。
それに……うつむきがちにノーラはエルメンヒルデを見た。
「エルンは……いいの? 自分の力でシュログリ教を立て直してきたエルンとしては、複雑な気持ちなんじゃないかな。傲慢な考えかもしれないけど、わたしが立場を奪うかもしれないって」
自分に才能があるなんて思っていないが。
もしも母ほどの才能があった場合、エルメンヒルデは巫女長の座を追われることになるかもしれない。
優秀な新人を恐れるのは、どの組織でもありがちなことだ。
「え、どうして? シュログリ教が栄えるなら何も問題はないよ。先々代巫女長の再来になるのなら、ぜひともお願いしたいところだね。シュログリ教の繁栄以外は何も必要ない。……きっと今は亡き『主』なら、シュログリ教の繁栄を、人々の幸福を願っただろうから」
シュログリ教のために死ねと言われれば死ぬ。
自分のすべてを犠牲にしてでも、彼女は大願を追う。
エルメンヒルデは切にノーラを引き入れることを望んでいた。
母がどんな気持ちでシュログリ教から抜けたのかはわからない。
人を騙すことに良心の呵責を感じていたのか、純粋に父と添い遂げたいと思っただけなのか。
ノーラはじっくりと悩み抜いた末、中途半端な答えを出した。
「……卒業までに前向きに検討いたします、って。無責任な返事でごめんなさい」
巫女の仕事や、自分の力に関して興味はある。
しかし、あと二年の間に考えが変わることもあるし、何よりも自分を取り囲む諸問題に始末をつける方が先だ。
「今は優先したいことがあるので。また落ち着いたら考えさせてください」
「わかりました。今は学業に専念し、よく進路を考えた上で答えを聞かせてください。若いうちの経験は何よりも大事ですからね」
教皇の優しい声色にノーラは安堵した。
将来という不透明なものに対して、充分に向き合うための時間をくれた。
「ただし……エレオノーラが未来へ歩み出すには、やはり障害を取り除かねばならないようですね。巫女長よ」
会話の始まりから浮かべていた微笑みを引っ込めて、教皇は表情を引き締めた。
「引き続き、ニルフック学園への滞在を任じます。今後ともエレオノーラを悪しき者の謀略より守りなさい。シュログリ教のためだけではなく、あなたの世界を広げるためにも……学生としての日々を大切にして生きるのです」
「拝命いたしました」
エルメンヒルデは恭しく礼をする。
彼女の口元がわずかにほころんだ。
まだノーラとともにいられることに対して、不思議な安心感を覚えたのだ。
神は死んだ。
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