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第1章 呪縛
本心
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応接室に入ると、エレオノーラは奇妙な浮遊感を覚えた。
埋もれた記憶の海から浮上した景色。
(そういえば……ガキのころ、この部屋で走り回ってお母様に怒られたっけ)
部屋の中心に置かれているテーブルの周りで、駆けまわっていて母に怒られたのだ。
ヘルミーネの親である義母ではなく、父の前妻である実母に。
ほとんどの調度品は八年前から一新されているが、間取りは変わっていない。
彼女がぼんやりと記憶を探っていると、イアリズ伯爵から声がかかった。
「エレオノーラ。そこに座りなさい」
指し示されたのは、テーブルを挟んだソファではなく壁際にある木製の椅子だった。
父とペートルスが向かい合う形で座り、エレオノーラは離れた位置に座らされる。
父には『エレオノーラに近づいてはいけない』という認識が呪いのせいで根づいているので、この扱いも仕方ない。
「さて……色々ありましたが。ペートルス卿、エレオノーラにはどこまでお話しを?」
「ほとんど話してありますよ。レディ・エレオノーラを当家で預かりたいという旨は本人にも伝えています。だよね?」
「はひ」
こくりとエレオノーラはうなずく。
提案を受けた当初は心底驚愕したものだが、少し悩んでペートルスの提案を受け入れることにした。
特に生きる意味もないし、一生離れに幽閉されているか、誰かに暗殺されるくらいなら。
一縷の希望に縋ってみるのも悪くないだろう……と。
「ううむ……エレオノーラは受け入れているのか。私としては、その……なかなか心配なところもあるのですがね」
「そうでしょうね。閣下の気持ちもごもっともで、娘を手放すというものは心細いものです。しかし、この家に留め置けば暗殺の憂き目に遭うことは事実。どちらがレディ・エレオノーラのためになるのかを考えて、当家に招くべきであると判断いたしました」
「そうですな……卿のおっしゃるとおりです。しかし、エレオノーラの呪いが貴家にご迷惑をおかけしないかどうか……」
「ああ、それについてはご心配なく。むしろ件の呪いに関しては研究を進めたいと考えているのです。原因不明かつ、前例のない呪い……紐解けば帝国の技術に貢献できるかもしれませんからね」
二人の会話をぼんやりと聞いていたエレオノーラ。
彼女が口を挟む余地はない。
転居することはすでに受け入れていて、あとは父の許可を得るだけなのだから。
ふと、思った。
これから自分が転居するのはどんな場所なのだろうか。
「あの……」
「うん、どうしたエレオノーラ? 何か不安があるのなら、遠慮せずに言いなさい」
「ペペッ、ペートルス様ってどこの家の方なんですか?」
父の表情が凍った。
社交界を知る者からすれば、信じがたい発言。
今この場に他の貴族がいれば、エレオノーラに軽蔑の視線が降り注いでいたことだろう。
当の本人であるペートルスは特に気にした様子もなく、笑顔で告げる。
「ああ、ごめんね。ウィガナック姓を名乗った時点で、僕の出自は理解してもらえたと勘違いしていたよ。僕の家は……ルートラ公爵家って言えばわかる?」
「えっと……すみません。わたし、社交の経験がないので、貴族の家とかよくわかんなくて。で、でも公爵家ってことは、すっごく偉いやつなんですよね!」
「ば、馬鹿者ッ! ルートラ公爵家は皇族公爵家、ペートルス卿はその嫡男であらせられる! つまり皇位継承権すらお持ちの、雲の上のお方なのだぞ!?」
エレオノーラはポカンと口を開けていた。
公爵家ということは、伯爵家の自分よりも上の存在。
それで公爵家についても色々あると思うのだが、なんちゃら家と言われても実感がないのが正直なところだ。
なんとなく偉い人というのはわかったが、父の言葉の意味すらよく理解していなかった。
まさしく箱入り娘、呪いの箱に詰め込まれた世間知らずである。
「なんかすごそう」
とりあえず『すごい』ということがわかったので満足だ。
エレオノーラは鬼気迫る父に気圧され、背筋を正した。
「僕の家についてはそのへんで。いま話し合っているのはレディ・エレオノーラの保護についてですから」
「そ、そうですな……娘が無知ゆえに大変な失礼を。後で厳しく言っておきますので……」
「仕方ないことですよ。世間と触れる機会をすべて遮断されれば、社会について知り得る術もないでしょうから。彼女はまったく悪くない」
厳しく言える度胸もないくせによ、とエレオノーラは内心で悪態を吐く。
冷や汗をかく伯爵を横目に彼女はこっそり欠伸をした。
「ペートルス卿の寛大なお心に感謝を……。そして、公爵家におけるエレオノーラの扱いはいかがいたしましょうか? ただご迷惑をおかけするというのも気が引けますし、給仕でもさせますかな?」
「そうですね……僕としては賓客として招き、もてなしたいと考えております。ましてやご令嬢に給仕をさせるなど」
位の高い家に、位の低い家の娘が侍女として仕えるのは珍しくないことだ。
伯爵としては最大限ルートラ公爵家に迷惑をかけないよう、娘を侍女にでも推薦したいと考えていたのだが……ペートルスの考えはそれとまた異なる。
「僕は、彼女に世界を広げていただきたいのです」
「世界を……?」
「はい。彼女と接する中で、僕はレディ・エレオノーラにもっと多様な価値観に触れてほしいと思いました。多くの人と交流し、知識を身につけ、そして自分の生きるべき道を見つけてほしい。今まで世界と隔絶され、除け者のような人生を生きてきた彼女は……僕が言うのもお節介かもしれませんが、あまりに不憫に感じた。好意の押しつけのように聞こえてしまうかもしれません。ただ、それが僕の本心です」
いつになく真剣な眼差しでペートルスは語った。
彼の声色には憐憫よりも、同情よりも、どこか苦悶のような感情が滲んでいる。
まるで自分のことを語るかのように……彼は本気だった。
「とりあえず暗殺を防ぐため、当家にて保護させていただきたく思います。その後、彼女がどうしたいのかは本人の意思に委ねるという方向で。お二人とも、それでよろしいですか?」
エレオノーラはおずおずと首肯する。
自分はどうあるべきか。
隔絶された世界で生きてきた彼女にとって、そんな難しい問題に対しては簡単に答えが出せないものだ。
かくしてエレオノーラはルートラ公爵家に転居することになった。
埋もれた記憶の海から浮上した景色。
(そういえば……ガキのころ、この部屋で走り回ってお母様に怒られたっけ)
部屋の中心に置かれているテーブルの周りで、駆けまわっていて母に怒られたのだ。
ヘルミーネの親である義母ではなく、父の前妻である実母に。
ほとんどの調度品は八年前から一新されているが、間取りは変わっていない。
彼女がぼんやりと記憶を探っていると、イアリズ伯爵から声がかかった。
「エレオノーラ。そこに座りなさい」
指し示されたのは、テーブルを挟んだソファではなく壁際にある木製の椅子だった。
父とペートルスが向かい合う形で座り、エレオノーラは離れた位置に座らされる。
父には『エレオノーラに近づいてはいけない』という認識が呪いのせいで根づいているので、この扱いも仕方ない。
「さて……色々ありましたが。ペートルス卿、エレオノーラにはどこまでお話しを?」
「ほとんど話してありますよ。レディ・エレオノーラを当家で預かりたいという旨は本人にも伝えています。だよね?」
「はひ」
こくりとエレオノーラはうなずく。
提案を受けた当初は心底驚愕したものだが、少し悩んでペートルスの提案を受け入れることにした。
特に生きる意味もないし、一生離れに幽閉されているか、誰かに暗殺されるくらいなら。
一縷の希望に縋ってみるのも悪くないだろう……と。
「ううむ……エレオノーラは受け入れているのか。私としては、その……なかなか心配なところもあるのですがね」
「そうでしょうね。閣下の気持ちもごもっともで、娘を手放すというものは心細いものです。しかし、この家に留め置けば暗殺の憂き目に遭うことは事実。どちらがレディ・エレオノーラのためになるのかを考えて、当家に招くべきであると判断いたしました」
「そうですな……卿のおっしゃるとおりです。しかし、エレオノーラの呪いが貴家にご迷惑をおかけしないかどうか……」
「ああ、それについてはご心配なく。むしろ件の呪いに関しては研究を進めたいと考えているのです。原因不明かつ、前例のない呪い……紐解けば帝国の技術に貢献できるかもしれませんからね」
二人の会話をぼんやりと聞いていたエレオノーラ。
彼女が口を挟む余地はない。
転居することはすでに受け入れていて、あとは父の許可を得るだけなのだから。
ふと、思った。
これから自分が転居するのはどんな場所なのだろうか。
「あの……」
「うん、どうしたエレオノーラ? 何か不安があるのなら、遠慮せずに言いなさい」
「ペペッ、ペートルス様ってどこの家の方なんですか?」
父の表情が凍った。
社交界を知る者からすれば、信じがたい発言。
今この場に他の貴族がいれば、エレオノーラに軽蔑の視線が降り注いでいたことだろう。
当の本人であるペートルスは特に気にした様子もなく、笑顔で告げる。
「ああ、ごめんね。ウィガナック姓を名乗った時点で、僕の出自は理解してもらえたと勘違いしていたよ。僕の家は……ルートラ公爵家って言えばわかる?」
「えっと……すみません。わたし、社交の経験がないので、貴族の家とかよくわかんなくて。で、でも公爵家ってことは、すっごく偉いやつなんですよね!」
「ば、馬鹿者ッ! ルートラ公爵家は皇族公爵家、ペートルス卿はその嫡男であらせられる! つまり皇位継承権すらお持ちの、雲の上のお方なのだぞ!?」
エレオノーラはポカンと口を開けていた。
公爵家ということは、伯爵家の自分よりも上の存在。
それで公爵家についても色々あると思うのだが、なんちゃら家と言われても実感がないのが正直なところだ。
なんとなく偉い人というのはわかったが、父の言葉の意味すらよく理解していなかった。
まさしく箱入り娘、呪いの箱に詰め込まれた世間知らずである。
「なんかすごそう」
とりあえず『すごい』ということがわかったので満足だ。
エレオノーラは鬼気迫る父に気圧され、背筋を正した。
「僕の家についてはそのへんで。いま話し合っているのはレディ・エレオノーラの保護についてですから」
「そ、そうですな……娘が無知ゆえに大変な失礼を。後で厳しく言っておきますので……」
「仕方ないことですよ。世間と触れる機会をすべて遮断されれば、社会について知り得る術もないでしょうから。彼女はまったく悪くない」
厳しく言える度胸もないくせによ、とエレオノーラは内心で悪態を吐く。
冷や汗をかく伯爵を横目に彼女はこっそり欠伸をした。
「ペートルス卿の寛大なお心に感謝を……。そして、公爵家におけるエレオノーラの扱いはいかがいたしましょうか? ただご迷惑をおかけするというのも気が引けますし、給仕でもさせますかな?」
「そうですね……僕としては賓客として招き、もてなしたいと考えております。ましてやご令嬢に給仕をさせるなど」
位の高い家に、位の低い家の娘が侍女として仕えるのは珍しくないことだ。
伯爵としては最大限ルートラ公爵家に迷惑をかけないよう、娘を侍女にでも推薦したいと考えていたのだが……ペートルスの考えはそれとまた異なる。
「僕は、彼女に世界を広げていただきたいのです」
「世界を……?」
「はい。彼女と接する中で、僕はレディ・エレオノーラにもっと多様な価値観に触れてほしいと思いました。多くの人と交流し、知識を身につけ、そして自分の生きるべき道を見つけてほしい。今まで世界と隔絶され、除け者のような人生を生きてきた彼女は……僕が言うのもお節介かもしれませんが、あまりに不憫に感じた。好意の押しつけのように聞こえてしまうかもしれません。ただ、それが僕の本心です」
いつになく真剣な眼差しでペートルスは語った。
彼の声色には憐憫よりも、同情よりも、どこか苦悶のような感情が滲んでいる。
まるで自分のことを語るかのように……彼は本気だった。
「とりあえず暗殺を防ぐため、当家にて保護させていただきたく思います。その後、彼女がどうしたいのかは本人の意思に委ねるという方向で。お二人とも、それでよろしいですか?」
エレオノーラはおずおずと首肯する。
自分はどうあるべきか。
隔絶された世界で生きてきた彼女にとって、そんな難しい問題に対しては簡単に答えが出せないものだ。
かくしてエレオノーラはルートラ公爵家に転居することになった。
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