櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる

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◆ 一章八話 紫苑の病 * 元治元年 十月

勝負の行方

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 宴会後の夜中とあって、道場は薄暗く、外に吹く風の音だけが響いていた。

 互いに木刀を手に向き合えば、灯りのない中、射し込む月明かりに照らされた沖田の頬に、嫌に楽しげな笑みが浮かんでいる。己の今後が懸かっているとは思えないほど引き上げられた口元に、斎藤はわずかに眉根を寄せて首を傾けた。

「……自棄になっているのか、俺を甘く見ているのか、どっちだ?」

 身構える前に訊ねると、沖田は心外だとでも言うように目を瞬かせて言った。

「どっちでもありませんよ。こんな時に我ながら馬鹿だなあとは思うんですけど、嬉しいんです」

 口元には笑みが浮かべられたままで、言葉通り、その声は少し弾んで聞こえた。

「嬉しい?」
「だって斎藤さん、普段はあまり『勝ちに』来てくれないでしょう。本気でやり合えるんだなって思うと、どうしたって嬉しいじゃないですか」

 いつぞやにも言われたような気がする言葉だ。

 が、斎藤は小さく息を吐いて、木刀を正眼に構えながら答えた。

「あんた相手に気を抜いたことなんてない」
「またまた。いつだって『真剣だったらなぁ』なんて考えている余裕をお持ちのくせに」

 沖田もまた、わずかに左に傾けた平正眼で構えて笑みを深める。

「ねえ斎藤さん。私ね、あなたと稽古するのが一番好きなんですよ。だから――」

 そう朗らかに続けた、次の瞬間。

「絶対、勝ちますからね」

 沖田が踏み込み、突きを繰り出してきた。

 瞬く間もなく切っ先が喉元に向かってくる。ダンッ、と鳴った床板の音が、遅れて聞こえた気がした。

 反射的に右足を下げて身を捻れば、本気で突き破るような勢いで木刀が喉元をかすめていく。何とか避けたが、切り裂かれた空気が首筋に触れ、背中がかすかに粟立った。

 と同時に、斎藤は己の木刀から右手を離し、沖田の左脇腹を狙って横薙ぎに振り抜いた。

 しかし沖田は退くことなく、逆にさらに大きく踏み込んでくる。上段に刀を振り上げながら頭突きでもしてきそうな勢いだった。退くのでは避け切れないと踏んでのことだろう、正しく斎藤の一撃は空振りに終わり、柄頭から斎藤自身の腕が沖田の横腹を擦る音がした。

 思わず舌打ちをして身を旋転させ、立ち位置を入れ替えて距離を取る。振り下ろされた沖田の木刀が間一髪でまた空気を切って唸りを上げ、その隙を狙っての反撃をけん制するように、すぐさま振り向き様の切っ先を向けられた。

 改めて対峙する。今度は会話などない。

 強い風が吹いて、葉擦れの音と共にガタガタと雨戸を揺らす音がする。

 冬が近付いているためか、かすかに乾いたにおいもする。

 それらを静かに素早く吸い込んで、今度は斎藤から間合いに踏み込んだ。

 正眼から沖田の刀の先を弾き、そのまま木刀を振り上げる。

 ――が、そうしようとした目論見から外れて弾いたはずの感触は手のひらに伝わらず、腕を振り上げた斎藤の間合いの中に、身をかがめた沖田が踊り込んでくる。体当たりでもしそうなほどの近さに、これでは沖田も刀を振れまいと頭の隅に思考がチラつき、目をすがめた直後。

「……ッ!」

 しまった、と息を呑んだ時には既に反応が遅かった。

 沖田は刀を振らず、斎藤の懐でさらに姿勢を低くして片足を軸に身を捻り、足払いを仕掛けてきた。

 どうにか跳ぶようにして避けた。

 だが、避けるだけでは遅すぎて、振り上げていた刀を叩き落そうと腕に、背中に、腹に力を込める前に、目下から半円を描いた沖田の剣筋が首元に迫っていた。

「ッぐ……!」

 とっさに肘を間に挿し込んだが、斎藤はまともに一撃を食らってしまった。

 着地とほぼ同時の一撃に体が対応しきれず、倒れこそしなかったが、たたらを踏んで大きくよろめく。二の腕と尺骨にぶつかった痛みが、遅れて全身に広がってくる。

 幸い骨は折れなかった。痛みはあっても、すぐに構え直せば、まだ戦えた。

 それでも真剣ヽヽだったヽヽヽならばヽヽヽ間違いなく、腕ごと、首がもげていた。

 沖田は素早く立ち上がって身構えたが、斎藤は背筋を伸ばし、肩の力を抜いて、握っていた刀を横手に放るようにして手放した。

 沖田が、訝るように片眉を上げる。

 力を抜いた途端、思い出したように荒くなり始めた呼吸に胸を上下させながら、斎藤は一度だけ小さく首を横に振った。

「……諦めるとか、そういうわけじゃない」
「なら、何ですか。憐れみですか」
「俺が憐れみでかづら様のことを諦めると思うのか」

 噛みつくように返された沖田の言葉に、斎藤はいつにないほど低く、『抑え込んだ』と聞き取れる、抑揚がないのに『感情』の滲んだ呻きを喉から絞り出した。

 言ってから、改めて『負けを認めざるを得なかった』という己の不甲斐なさを自覚して、とんだ情けなさに額を抱え、その場にしゃがみ込む。

 腕が震えた。

 痛みからではなく。

 きっと顔には出なかっただろうが、それでも。

 久しく感じていなかった、己自身でも驚くような、腹の底から煮え立つような悔しさが――全身に渦巻いていた。
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