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後日談

兆し

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 雨季となりました。

 今年の麦の収穫量も申し分なく、この新たな農法は確立されたと言っても過言ではないでしょう。
 牧草と野菜と麦を毎年入れ変えて栽培するこの手法を、無償開示品とするための検討会議が始まりました。
 とはいえ地質によっては全く適さないでしょうし、まずそれを調べるところからとなるので、そう易々と取り入れられるものではないのが難点です。
 そしてその地質調査に、嗅覚師の派遣を義務付けることを案に盛り込む提案がなされたのですが……。

「お金は取るべきよ!」

 無償開示と嗅覚師派遣は別物として扱うべき。と、クオンティーヌ様が断固反対。
 現在会議室は荒れておりました。

「だが麦は主食、我が国の生命線だ。まだまだ国民全てに過不足ない状態とは言い難い現状があるのだから、生産量を優先すべきだろう」

 そう主張するレイシール様は、連日の寝不足で目の下が黒ずんでおります。
 いえ、悪夢は見ておりません。
 サヤ様が臨月を迎えられ、いつ出産となってもおかしくない状況が続いておりまして、その煽りで寝不足なだけです。
 と、いいますのも。
 サヤ様の腹部は随分と大きくなられ、腹の重みで仰向けになることも難しく、睡眠が浅いうえ、血流が悪くなり、頻繁に足が攣るようになっていたのです。
 夜中に何度も起き、時には足が攣って呻くサヤ様は、それにつられてレイシール様まで起こしてしまうことを気に病み、何度も寝室を分けようと提案されておりましたが、この方は断固拒否。
 そのためここのところ寝不足が続いておりました。

「どっちにしたって一年、二年で生産量は伸びないわよ!
 ていうか、その一、二年を惜しんでる場合じゃないの。嗅覚師派遣にお金を取らないのは、嗅覚師の存在価値を下げるって私は言ってるのよ!」

 タン! と、机を叩いて口調を荒げるクオンティーヌ様は、そこはかとなく陛下に似てきた気がします……。

「嗅覚師の価値を下げるっていうのは、獣人の尊厳を貶めることでもあるって、私は言ってるの。
 あれは獣人の中でも更に嗅覚が優れていなければなれない特別な職なのよ? 人数だってまだまだ少ないの。
 それを無料だなんて言えば、ただ同然の価値だって誤認させ、軽く扱われることになりかねないの!」
「だが中途半端に農法を取り入れようとすれば、大変危険なことになるんだよ!
 下手をしたらその年から生産量がガタ落ちすることになるし、三年周期を巡らせてみないと実際の結果は分からない……。
 そんな気の長い失敗を許してたら、餓死者だって出てしまうことになる!」
「なんでもかんでも先回りして至れり尽くせりすりゃ良いってもんじゃないでしょう⁉︎
 だいたい、お金払って嗅覚師を招けば防げる失敗なのよ。嗅覚師にお金を出せないっていう奴にとって、彼らの価値はその程度ってことなのよ!
 そう言った輩にはただ与えるじゃ駄目だって私は言ってるの!」
「割を食うことになるのは民なんだぞ⁉︎ 我々は国民の生活を背負っているのに、失敗なんてしてられないだろう!」

 どちらの言い分も間違っていないだけに、収拾がつきませんね。
 こういった時、上手く場を取り持ってくださるクロード様が、現在セイバーン村の水位観測に出向いていることもございまして、この二人の論争の終わりが見えてきません。
 マルは例の如く巣篭もり中。もうかれこれ二時間くらいは似たような内容を言い合っておりますし……。

「ここまでとします」

 ちょうど昼時となったこともあり、会議を打ち切ることにいたしました。

「何言ってるのよ⁉︎」
「まだ決着ついてないだろ⁉︎」

 今まで全く合意を見せなかったくせに、こう言った時だけ都合が良い……。

「今後続けてもつきそうにありませんので、各自互いを論破しうる打開策を見つけてからにしてください。
 では、昼食のお時間です。洗い物が片付きませんからさっさと食べる」
「取りつく島もなし⁉︎」

 とりあえず二人を会議室から叩き出し、皆様にも解散と告げました。
 また次も数時間拘束されたくなければ、各々良策を見つけ出してくるようにと言うことも忘れません。
 そうしておいてから、使用人に会議室の片付けと書類の整理を命じ、私も記録の確認。
 ……やはり延々と同じようなことの羅列になってましたね。切って正解でした。

「片付けが終わりましたら貴方たちも休憩なさい」

 それだけ言い置いて、館内の巡回へ。
 この時間はぐるりとひとまわり、職務が滞ってないかの確認を日課としております。
 私の巡回時間は使用人も知るところなので、備品の発注要望書や仕事の報告書、新たな問題等も道中で回収します。
 そして最後に離れへと足を進めました。

「失礼致します。サヤ様、お加減はいかがですか」

 部屋に入ると、揺り椅子でうたた寝しておられたサヤ様がうっすらと瞳を開きました。
 メイフェイアの姿もありませんが、多分昼食中でしょう。この時間はサヤ様とレイシール様が共に過ごされるため、彼女は席を外すのです。
 しかし、いるだろうと思っていたレイシール様の姿は見当たりません。

「大変失礼致しました。お休みでしたらまた後ほど伺いますので……」
「いえ、寝ていたわけではないので……。
 もう会議は一区切りついたんですか?」

 その問いに眉を顰めてしまいました。
 まだそれも知らされていないなど……。

「……レイシール様はまだお戻りではありませんか?」

 そう聞くと、こくりと頷かれるサヤ様。
 ということは、お二人はまだ昼食も済ませていないということです。
 まったく、今度はどこで道草を……っ。

「すぐに捕獲してきます」
「いえ、急ぐ必要はないので。
 運動しないので、お腹もあまり空きませんし」

 覇気がない声音でそう言うサヤ様に違和感を覚えました。
 ここのところ寝不足が続いているとはいえ、腹のお子のことを考えれば、食べた方が良いに決まっております。
 普段のこの方ならそのようなこと、指摘されるまでもなく理解されておいででしょうに。

「…………そうはまいりません。
 食べなければ、お腹に障ります」

 一応そう言ってみますが、反応は薄く、そうですね……と、おざなりな返事がひとつあったきり。
 そこでサヤ様が不意に眉を寄せました。
 微かな変化であり、顔を顰めたというほどでもありません。ほんの小さな、細やかな変化でした。

「……どこか痛むのですか?」
「いえ……ただ少し、寝不足で頭がぼーっとするだけで」

 そう言うサヤ様に歩み寄り、失礼しますと額に手を当てます。
 微かなものですが、普段より体温を高く感じました。
 パンパンに膨らんだ腹部は、今にもはちきれそうなほどで、サヤ様が細身であるだけに異様に見えます。

「……本当に、どこも痛くございませんか?」
「はい。運動不足で逆にだるいと感じるくらいで、痛みは特に……」

 しかしサヤ様は以前、ご自分で痛みに強い……と、申されておりました。
 よもや、ご本人でも気付かぬうちに、腹部が痛みを伴っているのでは?
 それに昨日も同じ時刻、同じようにサヤ様と接しましたが、もっと意識もはっきりされていたように思います。

 一瞬悩みましたが、危険性の高いものから対処すべきに決まっております。
 私は即座に笛を咥え、吹きました。
 ここを離れることが憚られたのです。万が一、一瞬でもサヤ様から目を離し、何かあっては困ります。

 サヤ様に聞こえない音でも、獣人は即座に反応しました。私の耳にもいく通りかの、別の笛の返答が聞こえました。
 ナジェスタ女師は本日シルビア様の検診日で、治療院はユストが担当とのこと。
 ユストは担ぎ込まれた怪我人の治療で手が離せないとのこと。
 レイシール様は孤児院にて、子供らの喧嘩の仲裁中であること。
 直ぐにナジェスタ女師に急使を走らせること。

 私がそれを聞き取ったと同時にメイフェイアが駆け込んでまいりました。

「丁度良かった。メイフェイア、サヤ様を寝台へ」

 私の腕ではこの方を抱き抱えることができません。

 我々の慌てぶりに、サヤ様の意識も少ししっかりされたようです。
 メイフェイアに抱き抱えられ、慌ててその首に腕を回しつつ。

「は、ハインさん⁉︎」
「申し訳ございませんが、少し違和感を感じますので、ナジェスタ女師の診察を受けていただきます」

 そう言うと、ハッとした様子のサヤ様は慌ててこくりと頷きました。
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