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来世へ

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 時折、呼吸を忘れてしまったかのように、父上は息をしなくなる。
 その度に心臓を潰しそうな心地を味わい、再開された呼吸に安堵して、次の恐怖が訪れるのを恐れ、待つ……。

 もう嫌だ……こんなのは耐えられない。まだ来世に旅立つような時じゃないだろ。だって父上はまだ六十にも達していないのに!

 夕刻までをそんな風に過ごし、当然食事が喉を通るはずもなく……気付けば日暮れ。
 うたた寝していたのだと思う……。だいぶ早い時間から起きていたし、緊張しっぱなしだったから。

 夢の中で、兄上を見た気がした。
 俺とサヤの座す対面の寝台脇に、ただ静かに立っていたのを……。

 慌てて視線を向けたけれど、そこにいたのはユストで、見間違いをしてしまったのだろうと思った。だけど……ここで父上と生活をする間、父上が兄上のことに一切触れてなかったことに、ふと気付いた……。

 アギーのプローホルで、母の死について語ったときのみで、あとは何ひとつ……。

 俺からは触れなかった……。父上にとっての兄上が、どういった存在だったかが、分からなかったから。
 父上も多分、俺を責めることになるだろうと、口にしなかったのではないか……。
 俺の目の前で兄上は来世へと旅立った。不可抗力ではあったけれど、あの死は確実に、俺が招いた……。兄上を手にかけてはいないというだけで、俺が導いた、関わった死だった。

 だけど昔の兄上は……俺を愛してくれていたと、カークは言っていた……。
 兄上が俺を害するなど、想像できなかったのだと。

「……レイ?」

 不意に立ち上がった俺に、同じくうつらうつらしていた様子のサヤが声を掛けてきた。

「…………すぐに戻る」

 それだけ言って自室に急いだ。
 あれを、せめてと思ったから…………。

 執務机の奥深くに隠した小箱がある。
 領主の館が焼けたあの日、兄上の部屋から持ち出した、兄上の所有物。
 懐の隠しにしまっておけるものを、あまり考えず、いくつか選んだ。
 後日その持ち出したものを確認して、ちょっと後悔したのだ……。

 二つはジェスルの工芸品と思しき装飾品だったのだけど、指輪か何かの装飾品だと思って選んだ、絹布に包まれていた丸いものが、どんぐりだった。
 とりあえずそれらを小箱に入れて執務机の奥深くに隠し、いつか遺品として異母様や父上にお渡ししようと思ったまま……。
 今日までその機会を得られずにいたのだけど……あの兄上が棚の引き出しに、どんぐりをしまっていたなんて、違和感しかない。
 きっと大切なものであったのだと思う。だから、あれをと思った。

 古く黄ばんだ絹布を開き、丸く古びた、殻に亀裂が入っているどんぐりを持って部屋に戻り、それを黙ったまま、父上の手に握らせた。
 ゆるく丸まった父上の手は、どんぐりを握ることすらなく、上掛けの上にぽろりとこぼれ落ちてしまい、もう一度それを拾って、今度は俺の手で……父上の手に握り込ませる。
 カサつき、枯れ枝のようになった力無い腕……。それがたまらなく苦しくなって、額を押し付け溢れそうになる嗚咽を噛み殺した。

 どうかまだ、逝かないで……。

 そう願うけれど、きっとこの願いは聞き届けられないのだ……。
 種拾いに行ってこいと言った時の父上は、あの短時間でも辛そうだった。
 本当は声を発することひとつにすら、体力を削られていたはずだ。

「レイっ」

 少し鋭いサヤの声に呼ばれ、肩を揺すられた。
 視線をそちらに向けると、俺を見ていたサヤの視線が、そのまま父上の口元へ向く。

「何か、言うてはる……」

 慌てて視線をやると、確かに父上の唇は小さく震えていた。

「父上っ」

 意識は無い。ならば寝言か……朦朧とする中で、夢や過去の世界を垣間見ていらっしゃるのか……。
 唇に耳を寄せるけれど、音を捕らえることは叶わなかった。

「私が聞いてみる」

 焦った俺の表情を読んだサヤがそう言い、反対側に回り込んで、父上の唇に耳を寄せる。

「…………す、……ない。先に……手を、離し、のは……私の方……だった……」

 いつの、何についての謝罪かは分からなかったけれど、それが兄上に対しての言葉なのだということは、自然と理解でき……。

 やはり父上は、兄上を愛してらっしゃった。
 俺はもっと、汲み取って然るべきだった。

 それを今更ながら、理解した……。

「…………申し訳ありません…………」

 お互いの立場が、状況が、うまく噛み合わなかった。
 だけど本当は、もっと何か、できたはずだった。
 俺がもう少し、強い心を育てていれば。
 兄上を恐れぬ勇気を持てていれば。
 あの人が何かに囚われ、苦しんでいただろうことを、理解できたかもしれない……。

「もしまた来世、兄弟となれたならば次は…………。
 もっと、仲の良い兄弟になれるよう………………っ、もっと……」

 もっと、話をすれば良かった。
 俺を殺そうとした時以外の兄上の言葉は、異母様の言葉を借りたものばかりだったと、もっと早く……。
 そんなものしか思い浮かばないのは、俺が兄上の本当の声を、聞いていなかったからだ……。

「……また、来世のどこかで俺と兄上を…………父上の子にしてください……」

 次こそはちゃんと、兄弟揃って父上を看取る。何も後悔させない。心配させない。謝罪で終わる人生になんてしない。
 もっともっと、幸福に包まれて旅立ってもらえるように、もっとちゃんと…………っ!

 そのまま父上の呼吸はゆっくりと、ゆっくりと、浅くなっていき、途切れるようになっていき、深夜、もう一度の来ない時間が訪れた。
 薄く開いた唇は、ほんの少しだけ口角を持ち上げていて、父上の最後が苦しくなかったのなら、せめてもの救いだと……。
 そう思うのがやっとで、俺は、とうとう失ってしまった大切な人を、来世へと見送った。


 ◆


 半ば現実を受け入れられないまま、父上の葬儀は行われた。
 ごく近しい者たちだけで、静かな、小さな葬儀を。
 それが父上の望みで、ガイウスに託された言葉だったから。
 墓所裏に埋められていた母の遺骨も掘り起こされ、父上の遺骨と共に、セイバーン男爵家の墓所へ納められた。
 父上と共にならば、母もきっと寂しくないだろう……。

 それから異母様に、手紙をしたためた。
 父上が来世へと旅立ったことを、伝えるものをだ。
 兄上の死はまだ伏せることにした。
 執着心の強い異母様が、父上と兄上の死を同時に知ってしまった時、気持ちを強く保っていられるかが分からなかったから。
 この後に及んでと思うかもしれないが……もう、誰であっても失いたくないという気持ちが働いて。今更こんなことをしても、意味がないのにと思いながら……本当を先送りにした。
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