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閑話 過去の枷 3

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 泉からサヤをこの世界に引き込んでしまった瞬間、あまりのことにびっくりして、呆然としてる間に腹でサヤを受け止めることになって、俺は一瞬気絶してしまったのだよな。
 今思い出しても恥ずかしい……いくらなんでもな出会い方だったけれど……でも、俺には運命の出会いだった。

 揺さぶられ、頬を叩かれて目を覚ましたら、ぐしょ濡れのサヤが俺を覗き込んでいて、服が透けていて……慌てて上着を脱いで渡した。
 その時だ。
 俺が見ないようにしている間に、上着を着込んだサヤは、振り返った俺の前で、何故か目元をゴシゴシと擦った。
 全身濡れているのに、目元だけを…………。

「泣いていたろう?」

 できるだけ優しく、そう聞いた。あれがきっと、要の記憶だと思ったから。
 あの時はまだ、異界に迷い込んでしまったなんて、気付いてすらいなかったのだから、こちらに来てしまったことに動揺して泣いてたわけじゃないのは、明白。
 途端に押し黙ってしまったサヤを抱きしめて、心が落ち着くのを待ちながら、耳飾の揺れ動くさまを見ていた……。

「あの、時は…………」

 キュッと、肩に力が入る。
 後ろから見ていても、歯を食いしばっている顎の動きが見て取れた。
 言葉にすると、別のものまで溢れてしまいそうで、耐えている……。
 そう思ったから、頬をそっと撫でて、そこに口づけをした。
 独りじゃないよって、伝わるように……。

「…………忘れ物、取りに……部活の後、教室に、戻ったら……。
 カナくんと、別の男子が、話してはってな……」

 サヤとカナくんが、付き合っているのかという質問を、別の女子に聞いて来いと言われた……と、そんな風に言っていたと、語った。
 するとカナくんは、チッと舌打ちして、そんなわけないだろうと、否定したそうだ。

「…………付き合うてる、はずやったん…………。同じ高校に、合格した、時に……。
 でも、ずっとうまく、いって、なくて…………手も繋げへんのに、恋人やって……言うたって、信じられへんやろ?
 やっとできるんが、道場での乱取り……殴り合いやもん……。恋人らしいこと、何一つできてへんのに、そら、恋人やって、言えへんわ……。
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 カラスと付き合うとか、まじであらへんわ……って……。
 カラスいうんは……私の保育園の時の、悪口……。あの当時はいっつもそれでカナくんに揶揄われて、泣かされとってんけどな」

 カラスぅ?
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 あいつ俺より屈強なの知らねぇの?
 マジか?    えぇ~俺、顔と身体は、あいつええなって思うとったのに。
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 どっから来るとか表情読めねぇし、動きは速いし蹴りは重いし、どえらい狂戦士。
 今ならもっとヤバい思うで。師範に三段の試験受けろって言われとったし。
 うわー、殺されそう……せやけど勿体なぁ、ええ乳しとるのに……。
 殺されとけアホ。……とにかく、カラスはやばい。自分が可愛いなら手ぇ出しなや。

 おふざけ半分の、そんな話で……、サヤは教室に入るのを、止めたのだと、言った。

「ケタケタ笑うとったし……なんや、私もそれ以上聞くんは、無理で……。
 普通に帰って、また道場で顔を合わせるんが、苦痛で……寄り道、して……」

 泣きながら、一人で歩いて、通り過ぎる人が、不思議そうに見てくるのに耐えかねて、普段通らない場所に踏み入って……。
 そのまま、こちらの世界に迷い込んでしまった……。

「…………私、まだカナくんの中では、カラスやったんやなって……。
 付き合うても、なにひとつできひん彼女……そら、嫌になるなって……。
 前に…………その…………あ、あかんかって……突き飛ばして、しもて……。
 なんでやって……何が駄目なんやって……俺がなんかしたか⁉︎    って……っ。
 そのまま喧嘩別れやったし……それからは家の行き来もなくて、稽古の時と学校でしか、会わんくて……。
 もう、カナくんの中では、私は恋人やのうなってて、別れてるんやなって…………」
「………………カナくん、怪我をしてたの?」

 俺の急な質問に、サヤは暫く逡巡した。
 何故それを聞かれるのか、分からなかったのだと思う。

「…………うん。靭帯伸ばして……生活には、支障無いけど、もうあんま……無茶はあかんって……」

 だからか。
 それで、確信が持てた。やっぱりかと。そして、馬鹿だな、と……そう思った。
 馬鹿だな……男はホントに……肝心なところで、馬鹿なんだ。

「カナくんは、サヤのことを、守りたかったんだよ」

 俺の腕の中の優しい娘は、カナくんにとっても、運命の人だったのだと思う……。
 だから、なんとしてでも、守りたかったのだ……。

「カナくんは、サヤより強くありたかったんだと思う。
 だけど怪我をして、焦ってたんじゃないかな……。
 サヤより強くないと、サヤを守れない……そう思って、焦ってたんだと、思うよ」

 チリチリと胸が痛む。
 分かってても、やっぱり嫉妬してしまう。
 サヤの気持ちが、カナくんに戻ってしまうのじゃないかと……その不安に掻き乱される。
 お願いだから、どうか、故郷に帰りたいなんて、言わないで…………。

「その悪口も、悪口じゃないよ。多分、照れ隠しや牽制……。
 サヤを女性として見る男が増えないように、牽制してたんだ。
 だってカナくんは、サヤの事情も知ってて、ちゃんと強かったんだろう?    それよりも更にサヤは強いのだって、言ってたんだろう?」

 カナくんは、矜持の高い男なのだと思う。
 サヤがどれほど己を鍛えようと、それよりも強くあろうとしたのだろう。
 それが、サヤの才能とたゆまぬ努力……そして自身の怪我により、覚束なくなってしまった……。不安と焦り……それでサヤに、無意識で縋ろうとしたのじゃないか。
 だけど、不安の穴埋めをサヤの身体に求めたせいで、サヤはカナくんを恐れてしまった……。元から、何もできなかったと言っていたのに、そんなことをすれば、結果は分かっていたろうに……。

 ……でも、そうなってしまうのも、分かるのだ……。
 男は、たまにどうしようもなく、間違った選択をしてしまう……。
 今の俺が、正にカナくんの心境なのだろう。

「強くて、誇り高いカナくんが、サヤの方が強いだなんて……。普通は認めたくないよ……。
 だけど、今の自分では盾になれないって、思ったのかな……。だから、矜持を捨てて、サヤを取ったんだ。
 付き合っていないって言ったのは、単にサヤとの約束だったから。カラスって揶揄したのは…………悔しかったからだよ」

 強くなっていくサヤにも、嫉妬したんだと思う。

「己の不甲斐なさが、悔しかったんだよ……」

 俺も手がこうじゃなく、剣の腕があれば、サヤに劣ることを受け入れられなかったかもしれない……。
 そんな風に考えていたら、サヤを抱いていた手の上に、何かが落ちた。
 伝い流れていくそれが涙であることは、当然承知していて、胸が、苦しくなる……。

 お願いだから、今は、帰りたいって、言わないで……。

 グッと腕に力が篭ってしまったのは、サヤにも伝わったろう……。
 俺にも矜持はあるから……ここで男らしくないことは、したくなかった……。自分から言い出しておいて、カナくんに嫉妬なんて、馬鹿にも程がある……。
 きっとカナくんも、こんな気持ちだったのだ……。サヤを、手に入れたのだという、確信が欲しかった…………。
 だけどこれは、心を繋げるためじゃなく、独占欲を満たす欲求……。俺の、本当に望むものじゃないから、我慢しなきゃならない。流されれば、カナくんの二の舞だ。
 だけど、もしサヤが、帰りたいと……カナくんに会いたいと、口にしたら……それを抑え込めるか……正直言って、自信が無かった。

「……大丈夫。
 サヤはちゃんと、愛されていたよ。カナくんに、大切にされていたんだ……。嫌われてなんか、いなかったよ……」

 それでもこれは、完遂しなければ……。
 サヤを苦しいままにさせちゃ、いけない。カナくんの思い出は、サヤがこの世界に持ち込めた、数少ないものだから。

「………………ほ、ほんと?」

 しばらく黙って泣いていたサヤが、絞り出すように、俺にそう問うから……。

「うん。同じ男だからね、分かるよ……」

 もう何かの我慢大会みたいな気持ちで、そう俺も、答えた。
 カナくんと、根競べをしているのだと、そう思おう。

「…………嫌われてへんかったん?    私……」
「うん。ちゃんと、カナくんは、サヤを愛してたよ」

 そこでサヤの堪えていた声も、涙も、爆発した。

「本当に?    本当にそう思う⁉︎」
「うん。本当。絶対に当たってるから……」
「……うぅ…………良かっ…………私…………っ!」
「…………………………」

 必死で俺に縋って泣くサヤを、胸の痛みと一緒に抱きしめた。
 どれだけ苦しかったか……その痛みは、俺の比じゃなかったろうから……。
 ただ、声を上げて泣くサヤが、帰りたいと言わないことにも安堵していて……気を使う彼女が、傷付き、異界に迷い込んでしまった絶望の中ですら、人を気遣うことのできた彼女が、俺への配慮を忘れるわけがないのかなって、思いながら……ホッとしていた。
 ……本音を受け止められない自分の狭量さに落ち込みつつ、カナくんの分も俺は、サヤを大切にしなければいけないのだと、心に刻んだ。
 サヤが、泣いて、泣いて、泣き疲れ、うつらうつらし始めるまでずっと、俺はサヤを抱きしめて、サヤを寝かしつけてから、そっと部屋を後にした。

「また盛大だったわねぇ」

 帰り際ローシェンナにそう言われ、結局聞かれてたのかと、渋面になったけど…………。

「良いんだよ。嬉し涙だから……しっかり流せば良いんだ」

 そう返して、外に出た。
 玄関にはジェイドがいて、そのまま無言で、俺を集会所まで送ってくれた。

 そうやって、ロジェ村の夜は、涙で洗い流されて、清々しい翌朝を迎えたのだ。
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