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父の軌跡 12

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 結局、俺は翌日まで眠り倒した。
 二日間眠っておいて更に寝るのかと自分でも呆れたけれど、おかげで熱も引いたし、体調も万全だ。

「うおおおおぉぉぉぉぉ!むちゃくちゃうめえエェェェェ⁉︎」
「なんだこれー!    なんなんだこれー⁉︎」

 そして阿鼻叫喚。
 食堂と化した応接室が、男の怒声だか歓声だか分からない野太い雄叫びで埋まっている。
 いえ、ただの朝食時間です……。
 サヤとハインが、俺たちの朝食を準備するついでと、有志らの朝食も、ありものの食材で用意したのだが……その結果がこれだ。まあ、予想はしていた。

「女手ありがてえぇ、こんなに違うのかよおおぉぉぉ」
「美人で手料理美味いって最高じゃん。ていうか、高貴な生まれの方なのに調理場に立つの?    なんで?」
「すげぇ手際良かった!」
「男も一人混じってたけどな……」
「良いんだよそこは!    視野に入れるな!」
「もう料理する女子を愛でれただけで幸せ……」
「御子息様の華になんてこと言いやがんだてめぇ」
「妄想くらい浸らせてくれ……頼む」

 俺の横でサヤが真っ赤になって突っ伏している。
 そこら中から御子息様の華として、可愛いだの麗しいだの、かいがいしいだの仲睦まじいだの、聞こえてくるのだ。
 俺も少々辟易していた。……だってこれ、俺が聞こえている分だし。サヤはもっと聞こえているのだろう……。誤解されないように、妾じゃないからと強めに説明したのが不味かったかな……。

「純愛だぜ純愛。お互い成人前だからって耐えてらっしゃるんだと~」
「今時それほど大切にされてる方も珍しいよな」
「いや、俺は分かる。手をつけられない心境……」
「だなぁ、穢れなき純白の蕾を己の手で手折って良いのかって葛藤がまた……」

 お願いなのでもうそれ以上はやめて。

 ウォッホン!

 響いた咳払いで、場がシン……と、静まった。
 暖炉の前に、怒りつつ笑顔。という芸当をこなしているジークと、氷雪が吹き荒れてそうな冷めきった無表情で周りを睥睨しているアーシュが立っていたからだ。
 目立たないよう、各方面から一人、二人程度を引き抜いたという寄せ集め集団であるのに、咳払い一つで制御下に置く二人は結構凄いと思う。

「ほらほらぁ、さっさと食わねぇとおかわり取り損ねるよー?    あと五人くらいかなー?」

 二人の後ろで、前掛けをしたユストが、暖炉に掛かった大鍋の前に立ち、おたまを振り回しつつ、そんな風に言うと、周りが慌てて食事を掻き込みだす。
 おかわりで必死になっている面々に、若いなぁと苦笑しつつ、隣のサヤの背中をさすると、もぞもぞと動いて顔を上げた。

「……私……何か凄い、幻想を抱かれてる気がしてなりません……」
「ははは……」

 幻想……かなぁ?
 あながち的外れでもないと思うんだけどなぁ。
 サヤは、普段はとてもお淑やかだと思うし、訛りのある言葉でおっとりと喋り、所作も美しい。
 俺の警護なんてものに気を配らなくて良いなら、そんな嫋やかさはもっと前面に出てくるのだろうと思うのだ。
 けれど、いざという時の行動力や、決断力には眼を見張るし、思慮も深いし……うーん……美点しか見えてこないなぁ……。

 愛おしくなってきてしまい、頭を撫でると、少し機嫌を直したのか、身を起こす。
 とはいえ、俯き気味に頬を膨らませて栗鼠みたいになっている。それをするから可愛いと思われるんだけどなぁ……と、思うけれど、可愛いサヤを愛でられるのは、俺も吝かではないので、敢えて口にはしない。
 ……そういえば……前は人前で、こういった幼さが見える表情を、あまりしなかった。
 年のわりに大人びて見える、礼儀正しい態度を崩さなかったのに、最近の彼女は、俺だけではなく、ハインや他の面々にも、少し砕けた態度を見せるようになってきたと思う。
 そんな彼女の成長をふと感じ、嬉しいような、ちょっと勿体無いような気分になった。
 今もこうして、気心知れた者らに囲まれているとはいえ、性別を晒した上で、多分彼女の素であろう表情を覗かせている。

 ……周りの声や視線が、サヤを傷つける類の、逸脱して卑猥だったり、みだりがましいものでなくて、良かった……。

 それが無いから、こうしていられるのだろう。

 俺が落ちてしまっていたせいで、サヤの俺に対する献身的な行動が、前面に出てしまった。
 そのため、頭からサヤは俺の華だと認識されたのが功を奏した……ということもあるだろう。懸想したりする者も出てこず、ホッとしている。……若干、崇拝とか、憧憬とか……なんかよく分からない視線が混じっている気もするのだけど……まあ、うん。害が無いなら良い。

 そんな風に応接室の片隅で過ごしていたら、カークが俺の元にやってきて一礼した。

「レイシール様、本日、お戻りとのことですが……」
「ああ、街で宿を取る予定だから、昼過ぎに出発する。色々迷惑をかけた」
「滅相もございません。こちらの浅慮が招いたこと……詫びは、私こそがすべきでしょう」

 そう言うカークに、もう気にしていないからと笑って伝えた。
 村に下りるのは少々気が重いけれど、とばり(カーテン)で視界を閉ざしておけば、落ちるまで体調を崩すことはないだろう。
 そう思っていたのだけど、じっと……俺を見つめていたカークが、おもむろに口を開く。

「……レイシール様……無理を承知で、お願い申し上げたき儀がございます……」
「…………聞こう」
「邸を、見ておかれませんか……」
「…………」

 一瞬静まっていた応接室に、否応なく、カークの声が響いた。
 皆の意識が、一斉にこちらを向く。それを肌で感じ、机の上にあった俺の手が、反射でギュッと握られた……。

 改まって言うから……多分、そういうことを言われるのだろうなと、思っていた。

「先日は、心の準備の無いままでしたので、貴方様を苦しめるようなことになってしまいましたが……心構えができていれば、また、違った発見が、あるかもしれません」

 心構え……。
 そんなもので乗り越えられるなら、どんなに良かったろう……。

 カークの言葉に、つい口元を歪め、苦い笑みが浮かぶのを、抑えられなかった。
 俺だって、ずっとこんなことを繰り返したいわけじゃない。忘れてしまいたいのに、それができないから、ずっと……。

 返事を返せずにいると、近場に座って無視を決め込んでいたハインが、ガタンと、椅子を鳴らして席を立ち、カークと俺の間に、体を割り込ませてきた。
 カークを睥睨し、侮蔑を込めた笑みを浮かべて。

「まだレイシール様は、苦しみ足りないとでも、言うのですか?」

 皮肉たっぷりに、そんな風に言うものだから、暖炉前にいたアーシュもカチンときた様子だ。怒り顔で、こちらに近寄ってきた。
 ジークが慌てて止めているが、腕を振りほどいて聞く気は無いとばかりに、荒々しく払い除ける。

「貴方がたは、この方が、どのような状態で学舎へいらっしゃったのか、ご存知ないのですか。
 六歳の幼子をたった一人、学舎へ追いやったのだと、自覚していらっしゃらないので?」
「こちら側にも事情はあった!    領主様やロレッタ様にも、そうせざるを得ない理由があったと、何故考えない!」
「はっ、大の大人が、言うに事欠いて、幼子に配慮しろか。聞いて呆れるな……失笑しか湧いてこない……」
「貴様っ!」

 追いついてきたジークが、おい、止めろ!    と、アーシュを押しとどめようとしたけれど、怒ったアーシュは取り合わない。
 ハインの胸ぐらに伸びた手を、しかし彼は、容赦なくバチンと叩いてはね退け……怒りに顔を染めた。

「配慮?    していたろうが!    命が掛かるほどにしていたんだ!
 顔半分を痣で変色させて、感情も表情も失くして、片言にしか喋れない、言われたことにしか答えられない、人形のようになるまでだぞ⁉︎
 心を壊すまで耐え忍んで、まだ足りないと⁉︎    じゃあ後はなんだ、死ねとでも言うのか⁉︎」

 ハインの怒声に、カークはうなだれ、アーシュは怯んだ。足を止め……自分を鼓舞するように、腰の剣に、手をやる。

「奥方様の仕打ちは、不幸であったと思う。だがお二人は、多忙を極めていた!    その当時とてそうであったはずだ!
 それに、そのことでロレッタ様を責めるのは筋違いではないのか。彼の方だって、被害者なのだぞ!」

 アーシュの言葉を肯定するような空気が、部屋の男たちからしていた。数人は、アーシュと同じく、怒りすら抱いている……。
 けれどそれらの盾になるかのように、ハインは目を爛々と輝かせ、怒気が視認できそうなほどに怒り、立っていた。
 そのハインを止めるためか、端の方に座っていたシザーが、席を立って、スススとハインの横に立つ。

「………………」

 止める……のではなかった。
 横に並んで、うっすらと、葡萄色の瞳を覗かせて……。

「レイ様に、無理強いは、させない」

 低く掠れた声で、再会後初めての声を発した。
 そして、学舎武術首席の、圧巻の威圧感でもって、アーシュを圧倒する。
 剣の柄に手を掛けていたアーシュは、それに押されてよろめいた。
 抜けば死ぬ。そんな気迫なのだ。本気の時のシザーは、ディート殿にだって劣らないと思う。
 今まで借りてきた猫のように大人しかったシザーの豹変に、この場にいた男らも呑まれていた。

「フラッシュバックというものを、ご存知ですか……。
 過去に酷く傷付いたり、怖かったりしたことが、何かの瞬間再現され、追体験する……というものです。
 本人の意思に関係なく、もう二度と起こってほしくないと思っている経験を、時間が巻き戻ったかのように、繰り返す……。レイシール様は、その苦しみを十五年、一人で耐えてこられてるんです……」

 サヤの言葉に、アーシュが意味が分からないといった表情で片眉を上げる。
 十五年と言う言葉に、カークは反応した。
 一瞬顔を歪めたけれど、それでもなんとか俺を、あの邸へ連れて行きたいのだろう。再度口を開きかけ、言葉が溢れる前に、サヤが更に言葉を重ね、彼の口を塞いだ。

「レイシール様の場合、それが、死の瞬間……お母様に連れられて、あの道を歩いて、泉に沈められて、意識を手放すまでです」

 皆が、息を詰めた……。まさかという空気が、あたりを満たす。
 その中一人、カークだけは、悲しみに顔を歪めていた。

 皆は……知らなかった……のだな。俺が何故、母を疎んでいるか。
 今まで、俺とカークの会話に、何かあるのだとは、思っていたのだろうけど。

「いまだに、夢にまで見るんです……そんな経験をしている人に、配慮しろなんて、言うんですか?
 先日だって……泣いて、呻いて、暴れて、急に静かになって、ピクリともしなくなって……本当に死んでしまったみたいで……見てるだけでも怖くて、辛かった。
 これは、心構え一つで、制御できるものではないんです……だから…………レイシール様が嫌だとおっしゃったなら、諦めてください」

 アーシュが呆然と俺を見ていて、カークは俯く。その背後で、ジークと、遅れてやってきたユストも、言葉を失くしていた。
 何かの間違いではないか。彼の方がそのようなことを、なさるはずがない。そんな風にアーシュが思っているのは、表情で分かる。
 けれど、口にはしなかった。否定しないカークが、何事もなかったわけではないと、態度で肯定しているのだから。

 それ以上の言葉を持っている者は、この部屋にはいなかった。
 しかし。
 サヤはそこで「でも」と、言葉を続けた。
 そっと伸ばされた手が、俺の拳に添えられる。

「行くと決めたんやったら、一緒におる……ちゃんと、隣に。絶対一人には、しいひんしな」

 そう言われて、顔を上げると、眼前に、真剣な表情のサヤが、俺を見ていた。

「夢は、一緒におられへん。せやから、それがずっと、歯痒かった……。
 けど、現実やったら、私は一緒におれる。レイが行くんやったら、私も行く。もう無理やって言うたら、担いででも外に連れ出す。絶対に助ける。
 決めるのは、レイや。レイの気持ちだけで、選んだらええよ」

 そう言って、俺を励ますみたいに、優しく笑って、肩に、頭をこてんと、預けてきた。
 肩から染み込む体温すら、俺のために与えてくれているのだと、分かる……。
 行かさない……ではなく、俺に選べと、言った……。

 強張っていた肩の力を、意識して抜くと、俺は拳の上にあるサヤの手に、もう一方の手を重ねた。
 柔らかくて暖かい。だけどその甲には、俺の付けた傷がある。
 うっすらとかさぶたのついた、ざらつく傷の上に指を這わせた。

「……ふふ。サヤが俺を担ぐの?    それは絵的にちょっと……嫌だなぁ……」

 マルも嫌がるくらいだものな。
 好きな女性に担がれるだなんて、心に余計な傷を負いそうだ……。

 気持ちとしては、行きたくなかった。また崩れてしまうかもしれない……。そうなれば、皆に迷惑をかけるし、俺の情けない姿をまた晒すことになる。
 なにより、家の前に、母が待っていそうで、怖かった……。
 逃してしまった俺を、また捕まえるために。
 笑顔の仮面で偽って、俺の手を握り、泉までの道を、また歩く……。

「…………行くよ」

 そう言うと、ハインが怒り顔で振り返る。

「レイシール様⁉︎」
「ありがとうハイン……だけど大体のことは伏せてあったのだと思う。醜聞だし……だから、皆が知らないのは、当然なんだよ。あまり責めるな」
「何が醜聞ですか!    恥ずかしいのはこんな無体を子供に強いておいて、隠している方でしょうに!」

 怒りのあまり叫ぶハインの前に匙が飛んだ。
 とっさに避けたため、それは壁まで飛んでぶつかり、甲高い音を立てて落ちる。

「バッカらし。ほっとけよ、人ごとなンだからよ。どうせ親なしの俺らにゃ、こいつの心境なンざ理解できねぇんだから。こいつが行くって言うンなら従うまでだろうが。
 まぁ、思うところがあるのは俺も同じだけどよぉ……世の中なンざ、どこも一緒だろ。
 強い奴は、弱い奴を殴って当然。強いから、弱い方から奪うンだろ?    なら、弱かったこいつが悪いンだよ。弱かったから、そう扱われたンだ」

 ジェイドが、俺を見る。弱かった、俺が悪い。

「こいつらの主張は、そういうことだろ?」

 そう言って、部屋を見渡し、鼻で笑った。
 挑発と、侮蔑。それに溜息を吐く。
 あまり虐めないでやってくれるか……。アーシュの言うことだって、もっともなんだ。
 貴族は、優先すべきことが他にあるなら、大を選び、小を切り捨てる。その選択をしなければいけない。そういう身分。
 たとえ本意ではなくても、俺を切り捨てなきゃならなかった。そういう場合もあるだろう。

 今まで……ただひたすら逃げて、堪えて……忘れることばかりを望んできた。
 けれど結局それは叶わず、俺はいまだに、母の夢に囚われている。

「……逃げるから、怖い…………立ち向かってみれば、なんてことないのかもしれない……だったかな」

 そう呟くと、サヤが顔を上げた。

「サヤはそうやって、頑張ったんだものな……」

 だから少しずつでも、ちゃんと前に進んだ。俺たちに触れられるようになった。素の顔で笑えるようになった。

「十五年、目を逸らして、何も変わらなかったんだから……同じことを繰り貸すのは、意味が無いし……。
 サヤがしてきたことなのに、俺が逃げるのは、格好がつかない……から」

 やせ我慢ではあったけれど、そう言って、無理やり口角を持ち上げた。

「行くよ。カークは無理を承知でって言ったものな。それでも、そうした方が良いと、俺のために進言してくれたのだろう?
 なら、行く。案内してもらえるか?」

 そう伝えると、カークは顔を伏せた。

「畏まりました」

 ありがとうございます……と、頭を伏せたまま発せられた言葉は、どこか湿り気を帯びていた。
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