王宮の書類作成補助係

春山ひろ

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57. 婚姻届にはカーボン紙は使わない!

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 マルコの兄、カイトの披露宴は、さながらカーボン紙の披露宴?の様相を呈した。
 
 マルコは、義理の姉となるマイセンから満面の笑顔で「このカーボン紙の技術はセスピーリオ国独自のものじゃ。マルコも手に取ってみるがいい!」と言われ、その物言いと笑顔の落差に苦笑した。

 セスピーリオ国王女の突然の亡命事件から一ヵ月。百戦錬磨の商売人、マルコの両親であっても、この一ヵ月間の体重変動は、日本の株価並みの乱高下を繰り返した。それほどストレスがかかったのだ。

 マイセンは、女官パイアが部屋を出た直後、ドレスの胸元にカーボン紙を隠し、窓から木を伝って外に出た。王女に木登りは出来ないだろうというのは、勝手な思い込みだ。マイセンは、幼少時より「おしゃべりマイセン」、「おてんばマイセン」と呼ばれていたのだ。
 あっという間に外に出ると、彼女は迷うことなく厨房めがけて走った。王宮の設計は、どの国もある程度は似たり寄ったり。彼女は自国の王宮と同じだろうとあたりをつけ、まんまと厨房を見つけると、厨房の外部の入口につけていた馬車の荷台に乗り込んで、王宮からの脱出に成功。
 荷台の重い馬車はゆっくり走り、そこから降りるのは苦ではなかった。問題は、どうやってカイトの家を探すか。そもそも名前も知らないのだ。
 王都ドイボンゴにはスラム街はなく、治安の良い街だ。それでも、いかにも貴族というドレスを着た若い女性が一人で歩くにはリスクがある。
 マイセンがラッキーだったのは、酒場が軒を連ねる一帯で荷台から降りたことだろう。賭博場や娼館が多い一帯だったら危なかった。

 そして彼女は迷うことなく酒場にいき、よく通る声で命じた。
「我はマイセン。そこそこ整った顔をした、頭の良い若い男性を探している!心当たりがあれば教えて欲しい!その者の家に行きたい!」
 王族の声はよく通る。彼女の口上に酒場は水を打ったように静まり返った。具体的な特徴のない条件を、もっともらしく口上する頭のおかしい若い女。
 その場にいた全員がそう思った。
 しかし、ただ一人だけマイセンが王女だと知っている者がいた。チコリ師匠だ。チコリ師匠はカイトに付き添って補助係にいたのだ。そして今、この酒場に飲みに来ていた。

 マイセンは周囲を見渡した。みなが自分を注視する。これほど不躾な視線を浴びたことは、これまで一度もなかった。王族の顔を凝視するのは不敬になるからだ。少し気後れしそうになったが、気丈に彼女は振舞った。

「もう一度、問う!」
 そう彼女が言いかけた時、チコリ師匠が立ち上がった。
 今度は全員の視線がチコリ師匠に集まった。
 のしのしとチコリ師匠がマイセンに近づく。マイセンの目は限界まで開かれた。口に手をあてる。悲鳴が出そうだったからだ。でも出なかった。このことをマイセンは生涯自慢することになる。カイトとの間に子ができ、やがて孫ができ、そして曾孫を抱いた時も「私は、チコリ師匠と初めて顔を合わせた時、悲鳴を上げなかったのよ」と。

 さて悲鳴こそ上げなかったものの、マイセンは立ったまま気絶するという、すごい技を発動した。いわゆる王侯貴族階級の女性が得意とするTHE・気絶だ。しかも立ったままというところは褒めていいだろう。

 こうして丸太のようにチコリ師匠に担がれてカイトの家に入った翌日、そこで目覚めたマイセンがカイトに宣ったのが「複写技術を教えます。だから私と結婚して!これが商人のWin-Winの関係でしょ!」だった。
 
 カイトは面食らった。マイセンとは補助係で書類の記入方法と、補助係の仕事の一端を話しただけの関係。あとからダダン公爵に、マイセンはセスピーリオ国の王女という身分だと明かされたが、だから何?というのが正直なカイトの感想だ。

 大陸一の両替商を自負する大商人の家の嫡男として生まれた。将来カイトが継ぐことになる個人資産総額は、恐らく王族より上だろう。
 そのうえ育ててくれたのは400人の用心棒兼乳母兼家庭教師だ。彼らにそれこそ粘土を捏ねるように、いじられ、構われ、愛されて育った。両親もそうだ。めったに声を荒げない、肝の据わった父と母。

 こうした生育環境を経て、愛情深く育ったカイトは、可愛い二人の弟に同じように愛情を注いで育てた。双子の弟カリムは同じ年だから、どうやってカイトがカリムを育てるのか。その疑問はもっともだが、カイトは天才だったのだ。

 人類の中には前世の記憶を持っている者がいる。カイトの身近にもいた。可愛いマルコの同僚で、王都で評判の大きな石卸売業を営む大店おおだなの息子・レオナルドだ。前世の記憶を持っている者がいるなら、母の胎内にいた時のことを記憶している者だっている。そう、それがカイトだった。

 ちなみに母の胎内にいた時の記憶は胎内記憶といい、現代日本では幼児の約3人に一人の割合で覚えているものの、4歳以降になると記憶が薄れるという。そして覚えている記憶は概ね、「あたたかくてフワフワしていた」、「お風呂に入っているみたいにぷかぷかしていた」等というのが多いらしい。

 しかし、カイトの記憶はもっと具体的で強烈だ。
 カイトは、母の胎内で弟が逆子になりそうな時は、蹴りを入れて元に戻していた。それも一度や二度ではない。弟のカリムはやんちゃ坊主だが、母の胎内にいる頃からそうだったのだ。時には蹴りが手で引っ張り上げるに変わったりしたものの、さながらアーティスティックスイミングの選手のような動きでカイトはカリムを守っていたのだ。
 そのうえ母は何を思ったのか、妊娠中によく師匠たちの声を二人に聞かせた。もし胎教と考えていたのなら、どういうきっかけで思いついたのか、皆目見当がつかないが、とにかく妊娠中の母は武道館に通って、師匠たちが闘う時にあげる声を胎児に聞かせていたのだ。それは「オラー!」などのよくある声から、「スッグリッテンワッチャラホイ!」とか、「ウワッチャ!ウワッチャ!」、「アチャチャチャチャ!」とか、意味不明な掛け声まで様々である。師匠の数だけ掛け声があった。

 弟のカリムは、そんな師匠たちの声を聞くと、よく眠る子だった。あんな恐ろし気な掛け声を聞いて眠る子というのも、相当図太いと思うが、とにかくカリムはよく寝る子だったのだ。
 対してカイトは、なんと全員の声を聞き分けていた。聖徳太子は11歳の頃、32人が同時に話す声を聞き分けて対応したというが、カイトは母の胎内にいる時に400人の師匠たちの声を聞き分けていたのだ!

 そして誕生。ぐるぐると産道をめぐって、この世に生まれ、薄っすらと目を開けると、ずっと胎内で聞いていた声が直に耳に届いた。嬉しかったし、安心した。だからカイトは笑った。
 すると野太い大歓声の後、師匠たちによる凄まじい懺悔の時間が始まった。到底、生まれたばかりの赤子に聞かせていい内容ではない。「何人殺した」という話が一番多かったが、そのほとんどが、師匠たちの理不尽な境遇に端を発した結果だと、生まれたばかりのカイトは悟った。世の無常を悟った0歳児、それがカイトだ。だからカイトはさらに笑って見せたのだが、それがより一層、師匠たちを号泣へと誘うことになる。
 救世主爆誕である。
 こうして生誕と同時に400人の信徒?と深い絆によって結ばれたカイト(とカリム)は、少しのことではまったく動じない子になった。

 他国の王女が身分を捨て、亡命してまでカイトとの結婚を望む。
 両親はちょっと頭を抱えた。
「他国のというのが問題よね」と母がいう。
「オリアナ対セスピーリオにならなければいいがな」と父が答えた。
 身分を捨てる決断をした王女をセスピーリオに戻すという選択は、両親にはない。飛び込んできた者は最後まで手放さない。懐が深いのだ。

「で、カイトは結婚するの?」
 母が、今日の夕飯はどうするのというノリで聞いてきた。
「いや、全く考えたことはなかった」
 カイトは結婚については考えたことがなかった。400人の師匠から様々なことを学んだカイトだが、マルコ同様、恋愛についてのレクチャーが皆無だったこともあって、恋とか愛には疎かったのだ。とはいえオリアナの結婚適齢期の23歳。しかも大店おおだなの跡取り息子とあって、次々に降ってくるお見合い話。それに辟易していたということもあって、あえて考えないようにしていたというのが正直なところだ。

「王女の生まれで…、その身分を捨てるって、想像できないわ」
 母の言葉はもっともだ。
「カーボン紙だっけ、それだけを持って、王城から逃げてくるなんてね。お気に入りの宝石とか、あったでしょうに…」

 その時のマイセンには、どんな宝石よりもカーボン紙の方が大事だったのだ。
 カイトはカーボン紙をドレスに隠して王城から逃げるマイセンを想像したら、なんとなく心がほんわりしてきた。

 …これはきっとまだ恋ではない。
 恋には疎いので、さながら評論家のように第三者視点のカイトだ。
 …だってレオン閣下はマルコの事になると、真っ赤になっていた…。


「私とお父さんはお見合いでね…」
 唐突に母が父との馴れ初めを話し始めた。
「なに?突然」
 両親の馴れ初めなど、気恥ずかしくてあまり聞きたくないカイトは、ぶっきらぼうになってしまった
 母はそんなカイトを見て笑う。
「はいはい。要するに、きっかけなんか、どうでもいいってことよ」
 カイトは面食らった。そうかきっかけなんかどうでもいいだ。

「…結婚しようかな…」
「はい、分かりました」
 そういうと母はにっこり。
「あとはまかせなさい。国同士のやり取りは王宮にお願いするとしても、あなたたちについては守るからね」
 母の言葉は重くて温かかった。

 そして今、カイトたちの結婚式で、冒頭に戻る。
 ただのマイセン嬢になった義理の姉は、マルコに嬉々としてカーボン紙の使い方を教えていた。
「紙と紙の間にカーボンを挟んで、一枚目の紙に書くと…」
 実際にマイセンは実演して見せながら、説明していた。この日のためにマルコの両親が用意した純白のウェディングドレスに同じく純白の手袋。その手袋はカーボン紙を触ったため、指先が少し黒くなってしまった。でもマイセンは気にしない。それよりもマルコに説明したくて仕方がないのだ。

「すると筆圧で、ほら!どうじゃ!見事に複写されている!」
「ほんとに凄いですね!これで申請書類の作成が、格段に速くなります!」
 マルコが嬉しそうにいう。

「さっそくですけど、カイト兄さんたちの婚姻届に、このカーボン紙を使いますか?」
「え、いや」
 途端に歯切れが悪くなったマイセン。
「婚姻届にはカーボン紙は使わないよ。二人で一枚づつ、ちゃんと書こうって決めたんだ」
 マイセンの横から、少し顔を赤くしたカイトがいう。

 冷静沈着、稀代の天才カイト兄さん。
 その兄さんが、この結婚式までの一ヵ月で、だいぶ変わった。

 恋ってすごいな。僕もいつか結婚できるかな?

 マルコが望めば速攻で結婚できる状況だが、それはいずれ分かるから置いておき、とりあえずマルコは「じゃあ、二人の婚姻届の確認は、絶対に僕がするからね!」と、嬉しそうにいったのだ。

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