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そよや花

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 時は徳川。季節外れの風鈴がゆららさららと鳴り響く江戸の町にその人はいた。

「いいお天気ね」

 客人が藍色の暖簾をそよとくぐると、呉服屋の店主の鈴のような声が土間に響いた。

 柳葉筆りゅうようひつをことりと置いて振り返った妙齢の女性は、小上がりから「どうしたの」なんて小首を傾げながら、客人にそっと微笑んでいる。

「ご存知ですか小袖さん、あの噂」
「まあ、どの噂?」

 よく見れば文机の上には雅な和紙――桜の紋様をあしらった料紙りょうし――が、書き損じと共に何枚か敷いてあった。
 何か書き物でもしていたのだろうかと思いながらも、客人は構わず続けた。

「決まってるじゃないですか。あの百姓上がりの」
「あら増田様?」
「ええ、なんでも双子の兄弟がいるんじゃないかって」

 客人ががりかまちの桜の一枚板によっこいせと腰掛けたものだから、小袖は店主の顔をさっと引っ込めると、着物の端を軽く持ちながら小走りにやってきて、まるで好奇心を抑えきれないとばかりに隣に座ると、客人の顔をじっと覗き込んだ。

「初耳ね」
「もっぱらの噂ですよ」
「そうなの?」
「小袖さんほんとにそういうの疎いんだから」
「ごめんなさいね、わたしったらあんまり友だちいないみたい」
「またはぐらかす」
「あら、ほんとうよ」

 ふふっと小さく笑うと、彼女は桜木の板の木目をついと指の腹で撫でていたが――和紙の裏表を確かめるように指の腹でぴーっとやるのは彼女の癖であった――ふと我に返った。

「あらやだ、確かめなくたってわかるのに」
「何がですか」
「この桜、あまりに綺麗じゃなくて?」

 桜の木に見とれる彼女の眼差しは、まるで昼間から夢でも見ている人のそれだと客人は思った。

「ほんとうに。ただ在るだけで美しいわね」 
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