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束の間
今様狂いと夜半の月
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マヌーが夢に見るものは、八重霧たなびく山際の星かげ、天上の妙なる調べの如き二胡の音、月さやけき夜に舞い踊る時知らぬ山の美しい女神、それから――
「秘曲『足柄』ってどんな歌だったんだろう」
木製のベンチに腰かけたまま、マヌーは白檀扇子でぺちぺちと手のひらを叩きながら夢見がちに呟いた。
やる気のない扇拍子が小高い丘の上に木霊する。
「後白河法皇が今様のお師匠さんから教わったっていう? もうずっと昔のことじゃない」
立烏帽子を外しながら彼女は半ばあきれて呟いた。
「だって何度も曲名が出てくるのに」
「梁塵秘抄?」
「うん口伝集の方。確かにそこに存在していたのに。肝心の歌声を直接聞くことも叶わないなんて」
「はあ、夢見がちなのも考えものね」
「なんとでも言えば」
「声わざの悲しきことは、我が身崩れぬるのち、とどまることの無きなり」
「え?」
「本人もそう記してるじゃない。しょうがなかったのよ」
「まあそうだけど……というか興味あったの? 梁塵秘抄」
「少しはね」
彼女はマヌーの脇に立烏帽子を静かに置くと、振り返って影絵のような星の降る山を眺めた。
「録音する術もなかった時代でしょう? 愛するものが確かにそこに存在したということを、ただ記すことしかできなかった彼の哀しみは、一体いかほどだったろうとは思うわ」
マヌーが初めて『梁塵秘抄』なるものを知ったのは、マヌーがまだカエルだった頃の話。
図書館で棚から本を取ろうとしてうっかり隣の本も一緒に引き抜き、床に落とした本の偶然開いたページに「遊びをせんとや生まれけむ」で知られる歌が載っていたのだったと、だいぶ後になって気づいたのだった。
たしかどこぞの寂聴さんの達筆な字で書かれた美しい筆文字だったと思うが、マヌーとなった今では確かめる術もない。
七五調四句だとか物尽しだとか形式的なこともあろうが、見えない世界への恋焦がれるような純粋な心や自由な世界に、夢見がちなマヌーもまた心惹かれたのだった。
「あーあ、昔を今になすよしもがな」
「あら、昨日は今日の昔なり、でしょ?」
都落ちしたばかりの頃などは、酷い睡眠障害のお供に夜通し歌い明かしたこともあったが、まさか平安時代に流行した今様歌をまとめた歌謡曲集『梁塵秘抄』を編纂したその人が頭痛エキスパートの大先輩で、同じく夜通し歌うような常軌を逸した……もとい今様という庶民に愛された歌曲を心から愛した庶民派の人物だったと知った時の可笑しさといったらない。
聞くところによると、かの芥川氏も好んで読んでいたそうで、つまるところ、ある種の痛み――精神的なものにしろ肉体的なものにしろ――を経験した人たちはある程度好みが似てくるのだろう。
「そんなことより踊りましょうよ」
紅い長袴をたくしあげると、彼女は鈴のついた紐でくくった。
「拍子とるだけでいいんじゃなかったの」
「はあ、つれないったら」
「というかふつう袴までくくる?」
「だって不便じゃない」
「僕そもそも踊り方知らないし」
「あらそんなの。好きなように踊ればいいのよ。いつだったか雨乞い踊ったことあるって言ってなかった?」
「ここで雨乞い踊ってどうするのさ」
「何か降るかもしれないじゃない」
「何かって?」
「さあ、それは踊ってみなきゃわからないんじゃない? 神様次第ってとこね」
「神様? ははは、神様(仮)に向かってなに言って――」
「あら、貴方まだ気づいてないの?」
「気づいてないって……何が?」
「もしかして第3の目、とっくに潰れてるんじゃない?」
「はは、そんなまさか」
そそのかすのは巫女か遊女か、はたまたどこぞの女神か鬼神か。小高い丘の上は夜中にしては眩しいくらいで、枯芝に落ちた影法師がことさら目に染みるようだとマヌーは思った。
「じゃあ、今チアキがどんな状況になってるか知ってる?」
「どんなって。長い階段をのぼって第3の広場にたどり着くころでしょう? だからこうして待って――」
「ふーん?」
「……なにその含みのある言い方」
「別に? でもそっかぁ、やっぱり知らないんだぁ、へー」
「だから、何が言いたいの」
眩しいくらいの月を背に、女人の影はふふっと笑った。凛とした鈴の音が天高くまで澄みのぼる。
「あなたはもうとっくに、堕ちてるわ」
「秘曲『足柄』ってどんな歌だったんだろう」
木製のベンチに腰かけたまま、マヌーは白檀扇子でぺちぺちと手のひらを叩きながら夢見がちに呟いた。
やる気のない扇拍子が小高い丘の上に木霊する。
「後白河法皇が今様のお師匠さんから教わったっていう? もうずっと昔のことじゃない」
立烏帽子を外しながら彼女は半ばあきれて呟いた。
「だって何度も曲名が出てくるのに」
「梁塵秘抄?」
「うん口伝集の方。確かにそこに存在していたのに。肝心の歌声を直接聞くことも叶わないなんて」
「はあ、夢見がちなのも考えものね」
「なんとでも言えば」
「声わざの悲しきことは、我が身崩れぬるのち、とどまることの無きなり」
「え?」
「本人もそう記してるじゃない。しょうがなかったのよ」
「まあそうだけど……というか興味あったの? 梁塵秘抄」
「少しはね」
彼女はマヌーの脇に立烏帽子を静かに置くと、振り返って影絵のような星の降る山を眺めた。
「録音する術もなかった時代でしょう? 愛するものが確かにそこに存在したということを、ただ記すことしかできなかった彼の哀しみは、一体いかほどだったろうとは思うわ」
マヌーが初めて『梁塵秘抄』なるものを知ったのは、マヌーがまだカエルだった頃の話。
図書館で棚から本を取ろうとしてうっかり隣の本も一緒に引き抜き、床に落とした本の偶然開いたページに「遊びをせんとや生まれけむ」で知られる歌が載っていたのだったと、だいぶ後になって気づいたのだった。
たしかどこぞの寂聴さんの達筆な字で書かれた美しい筆文字だったと思うが、マヌーとなった今では確かめる術もない。
七五調四句だとか物尽しだとか形式的なこともあろうが、見えない世界への恋焦がれるような純粋な心や自由な世界に、夢見がちなマヌーもまた心惹かれたのだった。
「あーあ、昔を今になすよしもがな」
「あら、昨日は今日の昔なり、でしょ?」
都落ちしたばかりの頃などは、酷い睡眠障害のお供に夜通し歌い明かしたこともあったが、まさか平安時代に流行した今様歌をまとめた歌謡曲集『梁塵秘抄』を編纂したその人が頭痛エキスパートの大先輩で、同じく夜通し歌うような常軌を逸した……もとい今様という庶民に愛された歌曲を心から愛した庶民派の人物だったと知った時の可笑しさといったらない。
聞くところによると、かの芥川氏も好んで読んでいたそうで、つまるところ、ある種の痛み――精神的なものにしろ肉体的なものにしろ――を経験した人たちはある程度好みが似てくるのだろう。
「そんなことより踊りましょうよ」
紅い長袴をたくしあげると、彼女は鈴のついた紐でくくった。
「拍子とるだけでいいんじゃなかったの」
「はあ、つれないったら」
「というかふつう袴までくくる?」
「だって不便じゃない」
「僕そもそも踊り方知らないし」
「あらそんなの。好きなように踊ればいいのよ。いつだったか雨乞い踊ったことあるって言ってなかった?」
「ここで雨乞い踊ってどうするのさ」
「何か降るかもしれないじゃない」
「何かって?」
「さあ、それは踊ってみなきゃわからないんじゃない? 神様次第ってとこね」
「神様? ははは、神様(仮)に向かってなに言って――」
「あら、貴方まだ気づいてないの?」
「気づいてないって……何が?」
「もしかして第3の目、とっくに潰れてるんじゃない?」
「はは、そんなまさか」
そそのかすのは巫女か遊女か、はたまたどこぞの女神か鬼神か。小高い丘の上は夜中にしては眩しいくらいで、枯芝に落ちた影法師がことさら目に染みるようだとマヌーは思った。
「じゃあ、今チアキがどんな状況になってるか知ってる?」
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「ふーん?」
「……なにその含みのある言い方」
「別に? でもそっかぁ、やっぱり知らないんだぁ、へー」
「だから、何が言いたいの」
眩しいくらいの月を背に、女人の影はふふっと笑った。凛とした鈴の音が天高くまで澄みのぼる。
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