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束の間

三川宵の明星

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 五彩の花冠ステパノスが頭上で激しく揺れるほど息を切らしながら、チアキは第3の広場へとつづくはてしない階段をのぼっていた。

「なんで……最後に……こんな階段が……」

 手には黄色いメガホンを握りしめ、階段の先をひと睨み。視界を埋めつくす白い歯車になんとなく命の儚さを感じながら、チアキは思わず歯ぎしりをした。歯がゆかった。
 石段を踏みしめる足元は、むしろ吹きつけるような無常の風を求めていた。

「……痛ッ……」

 歯ぎしりした拍子に口の中でも切ったのか。鉄の香りに自らの不甲斐なさを重ねながら、チアキはついに石段にへたりこんでしまった。久々の激痛と吐き気に耐えかねていた。くらくらしていた。

「あと……ちょっとなのに……」

 うっかり深淵で昼間からきらきらしないよう口元を押さえるのが精一杯。チアキはもはや歩くことすらままならなかった。
 傾いだ頭上から花冠がゆっくりと転がり落ちるその刹那、チアキの脳裏に懐かしい琥珀の瞳が過った。




   ◇


 
 
「うまれてはみたけれど。チアキまだかな」

 小高い丘の上のベンチで死んだように寝そべるマヌー。おもむろに肘をついて横になると、遥かな山の端を眺めた。マジックアワーの夕焼けは魔法のように優しく美しい。

「まったく。待ってるだけなんて性に合わない。だいたいなにさ、神様(仮)って」

 夕日に染まる茜色の空や紫がかった流れるような雲を一心に眺める少年の、目の端に映り込んだのは影絵の世界を思わせる星の降る山、その美しさに、マヌーは思わず手を伸ばした。
 
「はあそれにしても、一目でいいから会ってみたいなぁ」

 マヌーは折に触れ、この美しい山に会いたくなるのだった。彼にとって星の降る山は『ヴェニスに死す』における美少年タッジオのようなものだった。その美しさに魅入られたものは自らの命と引き換えにしても離れることができない。その美しさに、どうやら自分はこの世界を去ることに未練を感じるほどにはこの世界のことをそれなりに愛していたらしいと、おぼろげにマヌーには感じられるのだった。
 あれはいつのことだったろう、あの時だけははっきりと言われた気がした、――『生きていい』と、そう思わせるような風だった。

「あんなに優しいそよ風なんだもの。きっと天女みたいに美しい……」
 
 空っぽの身体で風に吹かれたあのときから、マヌーはこの星の降る山に住んでいるという美しい女神に恋焦がれていた。


「もし、そこのお方」


 不意に聞きおぼえのある声に話しかけられたマヌーはまるで夢から覚めたようにがっかりした眼差しで、ベンチに起き上がってその人を見つめた。
 紅い長袴ながばかまに白い水干すいかん、流れるような黒髪には平安を思わせる立烏帽子たてえぼし。いにしえの男装の舞妓を思わせるその姿は、平安時代より始まった芸能〝白拍子しらびょうし〟のつもりだろう。腰に差した白鞘巻しろさやまきが微かに光った。

「そこのお方、あなたですか? わたくしをお呼びになったのは」
「いえ呼んでませんけど」
「あら、たしかに木花咲耶姫このはなさくやひめを恋い慕う心を感じたのだけれど」
「そりゃあ彼女には会いたいですよ。あいにくなりすましなら間に合ってます」
「まあ、それは残念」

 ふふっと笑うとその人は、白魚のような手をすらりと伸ばし、マヌーの傍らに置いてあったカエルのお面を手に取ると手持ちぶさたにくるくると回した。
 人差し指で器用にカエルのお面をくるくる回すその人は、到底さっきまで卍巴飛翔していた蝶とは思えない。

「すっかり大人しくなっちゃって、可笑しいったら」

 ひょいとカエルのお面を放りながら彼女は言った。

「しょうがないでしょ。神様役なんだから」

 気怠げに片手でお面を受けとめながらマヌーは答えた。

「というかどうしたのその格好? この前ぼやいてなかったっけ。半分じゃ変身するのも楽じゃないって」
「あら、素敵でしょ? あの人が力を貸してくれたの。そうでなきゃとても変身なんて。集中力が足りないばかりにうっかり片足消えてたなんてことになったら恥ずかしいもの」
「……あの人?」
「心優しい女神さま」

 そう言って彼女は小高い丘の上の端っこに立ち、たいして眩しくもないのに両手で日差しを遮るようなそぶりで、遥かな星の降る山を眺めた。
 
「え、会ったの?」
「さて、どうかしら」

 彼女はふふっと鈴のような音色で小さく笑うと、檜扇ひおうぎ片手に振り返った。
 星の降る山を背に立つ彼女の顔は、五彩の蝶と桜をあしらった扇で隠されていてよく見えなかったが、広げた扇の天からわずかに覗く目元はどこまでも優しい微笑をたたえていた。
 
「不思議よね、ここに立って風にあたるとなぜだか心が軽くなるの。まるで命がわきあがってくるような」
「まあ、ここはそういう場所だよ」

 僕だって会いたいのに、ふてくされるようにそう言うと、マヌーはまた木製のベンチに仰向けになってしまった。

「はい、そこまたふてくされてる」
「しょうがないじゃん、神様役なんだから」
「それが何か?」

 彼女はつかつか――いや、のしのしと、慣れない袴を引きずって木製のベンチに歩み寄り、懐からもう一本扇子を取り出して寝そべるマヌーの額をペチンと叩いた。

「いって」

 涙目になりながらマヌーはおでこをさすりさすり、勢いよく起き上がった。

「なにすんの。相変わらず暴力女すぎる」
「失礼な、ちょっと叩きおこしただけよ」
「おかげで第3の目がつぶれるとこでしたけど?」
「あら、いいじゃない。つぶれたって」
「よくない」
「知ってた? 堕天使って自ら望んで堕ちた者もいるんですって」
「……。なにが言いたいの」
「別に? ちょっとそんな話を小耳に挟んだってだけ。ほんとのところはどうか知らないわ。そんなことより」
「またそれ?」

 彼女はふふっと笑うと暴力に加担させられた白檀扇子びゃくだんせんすを差し出した。

「ちょっと踊りたい気分なの。拍子をとるの手伝ってくださらない?」
 
 返事も待たずに「ありがとう」と言いながら扇子を手渡すと、彼女は懐から今度はかんざしを取り出して、器用に髪をくるくるとまとめだした。
 ヘアゴムもなしに金属を伸ばした細い棒きれ一本でポニーテールが出来ることにマヌーは驚きを隠せない。

「あなたも一緒に踊りましょう?」

 手を差し伸べた男装の麗人の背後で、微かに光ったのは西の空の一番星。
 そよ風に舞ったほんのり甘い花のような香りがマヌーの頬を優しく撫でた。
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