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束の間

偽預言者カエル

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「はいカエルです――」

 下手に向かって歩きながらガラケーしていたカエルは、手近にあった背の高い椅子に腰掛けた。

「にょ? ただの幻想振動症候群だろうって? いやだなあプロデューサー、バレちゃいました?」

 カエルはガラケー片手にくっくと笑った。
 
「ええ、この着信はわたくしの幻想。つくり話です。なにしろ、とち狂ってますからね。でもせっかくですから、このまま幻想を続けても? あれからずっと考えていたんです。この嘘の落とし所を――。でもどうにも答えが見つからず。ならばシアタールキアノスらしくたまには幻想にまかせて未来に想いを馳せるのもありかと思いまして」

 カエルはガラケー片手にどこか遠くを見つめると、急に冷めた声色で台詞を続けた。

「実のところ、このつくり話の覆いを外すつもりはないんですよプロデューサー。復讐劇はもう散々やりましたし、腸煮えくり返っていたのは不甲斐ない自分自身に対してだった。むしろ私はこのままプロデューサーに善人を演じ続けてほしいとさえ思っています。だってあなたが愛を知ればきっと最強のプロデューサーになれるでしょう?」

 カエルの脳裏に、携帯片手に走り去るプロデューサーの姿が浮かんだ。

「そんなのお断り、でしょうか? もしくは聞くつもりすらない、とか? ふふふ。もちろんこれはカエルが見たおぼろげな幻想にすぎません。すでにプロデューサーが愛を知っているのなら、それは幸い。もうこれ以上あなたに向けられた誰かの信頼を傷つけるような真似はしてほしくないですから。むしろプロデューサーが幸せであることを願ってやみません」

 カエルの脳裏に、とある高層ビルの9階が浮かんだ。

「ずっと引っ掛かっていたんです。あなたが伝説的プロデューサーから教わったというあの言葉。たしか『プロデューサーはどこまで監督に寄り添えるか』というような。だってそんなはっきりと形にして託されたプロデューサーなんて他に聞いたことがない。むしろプロデューサーと監督の関係は作品ごとに全然違っているようでした。
 修羅場った班にばかり放り込まれていましたから、その信頼関係が作品づくりにどう影響を及ぼすのかも人よりは間近で見てきたつもりです。それから散々騙されて、良心がない人もいるという現実をカエルはようやく受け入れた。そしたら、引っ掛かっていたあの言葉がスッと脳裏を過って。ようやく色々繋がった気がしました。
 つまり、その人はプロデューサーの性質をとっくに見抜いた上でその言葉を託したのでは? あくまで主導権は監督に渡るようにと。あなたの交渉術と戦略的な視点は世界を見据えたときに強い武器になりますから。監督をあくまで隣から支えて、今後も映画づくりを続けていけるようにと」

 カエルの脳裏に、頭に冠をつけたスーツ姿のプロデューサーが横を向いて不意に立ち止まる姿が浮かんだ。

「いつだったか、1度だけお会いしましたよね。10年ぶり? 11年ぶり? あるいは12年ぶり? 正直、数字を覚えるの苦手で。すぐにはパッと計算できません。でも懐かしい人たちばかりで、仕事とはいえなんだか嬉しくなってしまいました。
 ですからプロデューサーには感謝しているんです。もうあの世界の人たちとは生きてる間に会うことは2度とないだろうと思っていましたから。実際は、そう思っていたのは私だけで会いに来てくれた人も何人かいましたが。心ある人たちにはあまり距離が関係ないんでしょうか。ものぐさな私にはとても考えられない。だからカエルも見習って久々に東京まで足を運ぶことに。
 それにしても、ふふ、さすがに断れませんよ。監督のお願いと言われたら。実際にそうだったのか、あるいはプロデューサーお得意の交渉術だったのかは、わたくしにはわかりませんけれども。しかも近くにいた制作さんに話を振って公の場であることを匂わせて微妙に電話口で断りにくくするという。ふふ。本当に隙がない。
 そんなことしなくても人は信頼で動くこともありますけどね。相変わらず手堅く詰めて容赦がない。さらにどう言えば動くのか相手の弱点をわかっていらっしゃる。さすがプロデューサーです」

 カエルの脳裏に、プロデューサーの行く手を遮るように置かれた巨大な駒の映像が浮かんだ。その駒は城のようでもあり、ティアラのようでもあり。チェスに詳しくないカエルは映像の真意を掴みかねていた。

「実は、打ち合わせ後に制作さんに話し掛けてみたんです。仕事忙しくないですか? 寝られてますか? と。そしたら忙しいなりにも上司に気遣ってもらってると。信頼に満ちた瞳で。
 その姿を見てカエルは心の底から安心しました。ああ、良かった大事にされてると。ほんとうに嬉しくて。だってまさかあの時のカエルのやせ我慢がこんな未来に繋がっているなんて想像できたでしょうか。そもそも報われる時が来るなんて思ってもいませんでしたから。ここにはちゃんと小さな愛が育っているようだと。
 席も誰の計らいか知りませんが皆の目がほどよく届くようになっていて。あれならプロデューサーと2人きりになる心配もないでしょう。帰りもわざわざプロデューサー自らエレベーターホールまでお見送りしてくださって。ええ、ただのカエルにそこまでしてくださらなくても……」

 カエルの脳裏に、スタジオのガラス扉を押し開けてカエルをお見送りするスーツ姿のプロデューサーが過った。


『え、忘れものですかプロデューサー』

『ああ、いや、お見送りをと思ってね』

『え? 社長がお見送りなんて。はは、よしてくださいよ。そんなただのカエルに――』
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