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最終章
Old Tunes : 昔の唄
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「どうして途中で止めてくれなかったんです。恥ずかしいじゃないですか。あんな独りでぶつぶつと呟いて」
「いや、あんまり真剣だったから。でもかすり傷で良かったね。足首のスカーフ、親切な人が巻いてくれたんだよ。その間きみは呻きながら青い蝶が見たい、青い蝶が見たいって。ふふ、そんなに見たかったなら早く言ってくれれば良かったのに。……ふっ」
「酷いじゃないですか。笑い過ぎですよ。そんな他人事みたいに」
「だって、他人事だし」
息切れを気づかれぬよう平静を装いながら一息ついて、僕はふたたび螺旋階段を夢中で走った。
小さなカエルは恥ずかしさでも掻き消すように、僕の背中にしがみつきながら夢中で話した。
「だって私は脇役で。それに最後はあの白黒の床の上で独白シーンだと。本当なら今ごろあなたは……オフィーリアは、大切な人を立て続けに失い、悲しみのあまり正気まで失い、花冠を手に小川のほとりへふらふらと。そして……」
「? そうなんだ。でも僕筋書き知らないから。オフィーリアでもないし」
「何を呑気な。あなたは一度あの川で……」
「あの川で?」
「……。あなたは、あの川へ一度落ちてるんです。覚えてないでしょうけど。一度目のときです。私は天国から見てましたから、あなたの姿がよく見えました」
「ああ、演出家見習いの頃の?」
カエルが背中で頷いた気がした。
「ええ。一度目のときは、確か小川の上に斜めにかしいだ柳の木がありました。あなたはその柳の枝に花冠をかけようとしてよじ登り、けれどもつれない小枝がポキッと折れて、花冠もろとも小川に……」
「へぇ、そんなことがあるんだね」
「またそんな。しばらくは人魚のように浮いていました。まるで自分の不幸に気がつかないみたいに新しいワルツを口ずさみながら。あ、本当は昔の唄の予定だったんです。でもあなたは新しいワルツがいたく気に入って。歌っているうちに衣装が水を含んでそれで……」
カエルが背中で項垂れている気がした。
「誰か他に助けてくれる人いなかったの?」
「いえ、特には。オフィーリアの死の知らせは文学史上最も詩的な死の表現の一つとされていますから。誰かいたところで手を貸してくれる人はいなかったでしょう。でも少なくとも一人は近くにいたはずです。知らせる人が必要ですから。いたはずなのに、私は気づきもせずに……ハァ。もっと担当の演出家は出来ることがあったはずなんです。青い蝶を飛ばすばかりではどうにも。結局あなたは――オフィーリアはそのまま溺れて……溺れて……」
「溺れて、死んだ?」
「……。そうです、死にました。演出家見習いの腕がないばっかりに。あなたはあの小川で溺れて死――」
「覚えてないなぁ」
なんだか小さなカエルが泣いているような気がして、僕は少し大きめの声で遮った。
するとカエルが負けじと声を張り上げた。ぎゅっと首にしがみつかれて心なしか息苦しい。
「そうでしょうとも! 担当の演出家が頼りないばかりに、あなたはあの小川に沈みながら一度幕を下ろしたんです。私の腕がないばっかりに……私はあなたを孤独のうちに死なせてしまった。私のせいであなたは――」
「きみのせいじゃないよ」
「またそんなこと。だって……結局私はあなたを守ってあげられなかった」
「でもきみのせいじゃない。本当に。だって僕覚えてないし」
「それはそうですけどでも――」
「きみは優しいから。たとえ僕がどんな死に方をしてもきっと自分を責めるでしょう。もっとこうしてあげていれば、あのときこうしてあげていればって」
「それは……」
「物語がどう転ぶかは役者次第なんでしょ? 言ってたよね、この劇場に入るとき。僕たちは新たに出会ったんだって。僕はこうして今きみに出会えたことの方が嬉しいよ」
返答に窮するカエルをなだめるように、僕は改めて言葉をかけた。
「もういいんだよ」
カエルのすすり泣く音を掻き消すように、僕は足音を立てて最後の力を振り絞るように駆け上がった。
すると螺旋階段の出口が近いのか、ほんのり甘い花の香りが漂ってきた。
「もうすぐ出口かな。あれ、この香り」
なんだか懐かしい香りがしたと思ったら、どこかの丘で二人並んで夕日を見つめてる映像が脳裏にちらついて、僕は言わずにはいられなかった。
「突然こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど。僕、きみのこと知ってると思うよ。たぶん、ずっと前から」
「私のことを?」
「うん。信じてはもらえないと思うけど。何しろ記憶が曖昧で。でもどういうわけだろう。うーん、ダメだ、肝心なとこが思い出せない。僕も存外、忘れやすいみたいだ」
「ふふふ」
カエルがようやく笑ってくれた。
「私も大事なことほどすぐ忘れちゃうんです。昔から。それはもうしょっちゅう。よく先輩たちに言われました。忘れたくないことは台本でも何でも目のつくとこに書いとけばいいんだよって。私はなんて忘れやすいんだと落ち込んで次の日、偶然先輩の椅子を見たら台本があるじゃないですか。チラッと覗いてみたら、もうぎっしり文字が書いてあって、思わず笑ってしまいました。だってあの先輩も私と同じだったんですから」
ふふふっとカエルはひとしきり笑うと、子どものように無邪気な声を上げた。
「あ、あの青い光!」
「いや、あんまり真剣だったから。でもかすり傷で良かったね。足首のスカーフ、親切な人が巻いてくれたんだよ。その間きみは呻きながら青い蝶が見たい、青い蝶が見たいって。ふふ、そんなに見たかったなら早く言ってくれれば良かったのに。……ふっ」
「酷いじゃないですか。笑い過ぎですよ。そんな他人事みたいに」
「だって、他人事だし」
息切れを気づかれぬよう平静を装いながら一息ついて、僕はふたたび螺旋階段を夢中で走った。
小さなカエルは恥ずかしさでも掻き消すように、僕の背中にしがみつきながら夢中で話した。
「だって私は脇役で。それに最後はあの白黒の床の上で独白シーンだと。本当なら今ごろあなたは……オフィーリアは、大切な人を立て続けに失い、悲しみのあまり正気まで失い、花冠を手に小川のほとりへふらふらと。そして……」
「? そうなんだ。でも僕筋書き知らないから。オフィーリアでもないし」
「何を呑気な。あなたは一度あの川で……」
「あの川で?」
「……。あなたは、あの川へ一度落ちてるんです。覚えてないでしょうけど。一度目のときです。私は天国から見てましたから、あなたの姿がよく見えました」
「ああ、演出家見習いの頃の?」
カエルが背中で頷いた気がした。
「ええ。一度目のときは、確か小川の上に斜めにかしいだ柳の木がありました。あなたはその柳の枝に花冠をかけようとしてよじ登り、けれどもつれない小枝がポキッと折れて、花冠もろとも小川に……」
「へぇ、そんなことがあるんだね」
「またそんな。しばらくは人魚のように浮いていました。まるで自分の不幸に気がつかないみたいに新しいワルツを口ずさみながら。あ、本当は昔の唄の予定だったんです。でもあなたは新しいワルツがいたく気に入って。歌っているうちに衣装が水を含んでそれで……」
カエルが背中で項垂れている気がした。
「誰か他に助けてくれる人いなかったの?」
「いえ、特には。オフィーリアの死の知らせは文学史上最も詩的な死の表現の一つとされていますから。誰かいたところで手を貸してくれる人はいなかったでしょう。でも少なくとも一人は近くにいたはずです。知らせる人が必要ですから。いたはずなのに、私は気づきもせずに……ハァ。もっと担当の演出家は出来ることがあったはずなんです。青い蝶を飛ばすばかりではどうにも。結局あなたは――オフィーリアはそのまま溺れて……溺れて……」
「溺れて、死んだ?」
「……。そうです、死にました。演出家見習いの腕がないばっかりに。あなたはあの小川で溺れて死――」
「覚えてないなぁ」
なんだか小さなカエルが泣いているような気がして、僕は少し大きめの声で遮った。
するとカエルが負けじと声を張り上げた。ぎゅっと首にしがみつかれて心なしか息苦しい。
「そうでしょうとも! 担当の演出家が頼りないばかりに、あなたはあの小川に沈みながら一度幕を下ろしたんです。私の腕がないばっかりに……私はあなたを孤独のうちに死なせてしまった。私のせいであなたは――」
「きみのせいじゃないよ」
「またそんなこと。だって……結局私はあなたを守ってあげられなかった」
「でもきみのせいじゃない。本当に。だって僕覚えてないし」
「それはそうですけどでも――」
「きみは優しいから。たとえ僕がどんな死に方をしてもきっと自分を責めるでしょう。もっとこうしてあげていれば、あのときこうしてあげていればって」
「それは……」
「物語がどう転ぶかは役者次第なんでしょ? 言ってたよね、この劇場に入るとき。僕たちは新たに出会ったんだって。僕はこうして今きみに出会えたことの方が嬉しいよ」
返答に窮するカエルをなだめるように、僕は改めて言葉をかけた。
「もういいんだよ」
カエルのすすり泣く音を掻き消すように、僕は足音を立てて最後の力を振り絞るように駆け上がった。
すると螺旋階段の出口が近いのか、ほんのり甘い花の香りが漂ってきた。
「もうすぐ出口かな。あれ、この香り」
なんだか懐かしい香りがしたと思ったら、どこかの丘で二人並んで夕日を見つめてる映像が脳裏にちらついて、僕は言わずにはいられなかった。
「突然こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど。僕、きみのこと知ってると思うよ。たぶん、ずっと前から」
「私のことを?」
「うん。信じてはもらえないと思うけど。何しろ記憶が曖昧で。でもどういうわけだろう。うーん、ダメだ、肝心なとこが思い出せない。僕も存外、忘れやすいみたいだ」
「ふふふ」
カエルがようやく笑ってくれた。
「私も大事なことほどすぐ忘れちゃうんです。昔から。それはもうしょっちゅう。よく先輩たちに言われました。忘れたくないことは台本でも何でも目のつくとこに書いとけばいいんだよって。私はなんて忘れやすいんだと落ち込んで次の日、偶然先輩の椅子を見たら台本があるじゃないですか。チラッと覗いてみたら、もうぎっしり文字が書いてあって、思わず笑ってしまいました。だってあの先輩も私と同じだったんですから」
ふふふっとカエルはひとしきり笑うと、子どものように無邪気な声を上げた。
「あ、あの青い光!」
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