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束の間

メランコリー・ガリアルド

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 天心に月がかかるころ礼拝堂の真ん中でひとり静かに祈りを捧げる者がいた。
 バラ窓から降りそそぐ青いひかりに白いヴェールが幽かにゆれて、ひざまずいた白黒の床に影法師がゆらりと踊った。
 花模様のレースからわずかにのぞいた口元は男か女か中性的な微笑を湛えている。

「……Soft you now……」

 哀愁を誘う音色につられて礼拝堂の扉を押し開けると、王子はバラ窓の下で祈る白い人影をみとめた。甘く囁く声がメロディーに重なり礼拝堂に妖しく響く。

「Nymph, The fair Ophelia……What a treasure」

 カツンカツンと足音を響かせて白黒の床をまっすぐに進むと王子は白い人影を後ろからそっと抱きしめた。

「美しいオフィーリア、妖精よ。どうかその祈りに穢れた僕の罪の許しも含まれんことを。僕の愛しい宝物」

 一向に返事もせず祈り続けるレースの下の顔を覗こうとして軽くいなされ、王子はいよいよ白い人影を逃がさんと抱きしめる腕に力を込めた。

「どうか振り返ってその可憐な声を聞かせてくれないか。今宵はあやかしの類いが多くていけない」

 すると白い人影はつれない仕草で静かにかぶりを振った。

「ああそうか、ゴメンよ。キミは此処では迂闊に振り返れないんだったね。ならば僕が正面にまわろう。それならいいだろう? もう一度会えて嬉しいよ、オフィーリア」

 正面に回り込むなり王子は白いレースを引っ掴んだ。
 不意をつかれた王子の手から滑り落ちた花模様のレースが白黒の床の上でひらりと舞った。

「そんな」

 琥珀の瞳に戸惑いの色を浮かべながら王子は呆然と立ちつくした。

「どうして。だってそんなはず。あり得ない」

 ヴェールの下から現れたのは血まみれの短剣を手にひざまずくかつてオフィーリアだった少年だった。
 少年は後ろ手に持っていた血まみれのバラを差し出した。

「このバラに見覚えは?」

 いよいよ頭を抱えて狼狽える王子にかまわず少年は台詞を続けた。

「I will speak daggers to her, but use none」

 片言の英語を怪訝に思いながら顔をあげた王子の瞳に、少年の悪戯気な笑みが映った。

「その台詞、どうして」
「覚えたの。必死に。そりゃきみみたいに上手くはないけど。speak daggers 短剣のような言葉を話そう。鋭い刃物のような。でも――」

 少年は血まみれの短剣をかざした。

「本物の短剣は使わない。ハムレット王子もそう言ってることだし」

 不敵な笑みを浮かべる少年をしげしげと見つめながら王子はまったく状況が掴めずにいた。

「本物?」
「うん。ハムレットの最後はフェンシングで決闘らしいね。毒やら剣やら悲劇らしく一人を除いて皆殺し。でもこれは偽物の短剣」
「またまやかしか幻の類いか。そうやって偽りの話で僕をたぶらかそうと」
「幻だと思うなら、もう一度僕を刺してみてよ」
「そんなこと望んで二度もやるわけない」
「そう、なら僕がきみを刺すまで」

 少年は血まみれのバラを大事そうに胸ポケットにしまうとゆらりと立ち上がった。
 逆光気味のシルエットに鈍く光るのは血まみれの短剣。
 少年はそろりと短剣の柄を握った。

「今度こそ受けとってくれるよね。僕の真心」

 言うなり少年は天高くかざした血まみれの短剣を王子に向かって振り下ろした。
 すんでのところでかわした王子の眼前を切っ先がかすめる。

「なんで逃げるの」
「幻でもなんでもオフィーリアの手を汚させるわけにはいかない」
「へえ、お優しいんだね。王子さまは。そうやってきみはいつも一人で背負い込んで。肝心なことはいつも言わないんだ。この秘密主義者」

 重力に任せて倒れこむように一歩踏み出すと少年は勢いよく短剣を突き出した。

「やめてくれオフィーリア」

 剣筋の勢いはそのままに、王子はひらりと身を翻すと少年の背中を突き飛ばした。

「……痛ッ」

 白黒の床の上を無様に転がりながら少年は思わずうめき声を漏らした。

「こんなことやめようオフィーリア」
「やめないよ」

 起き上がりざまに切りつけるつもりで振り上げた少年の白刃はむなしく空を切っただけだった。

「ほんとは死ぬのが怖いんだ王子さま」
「そんなはずない。どうせ刺されたところで僕は永遠に死ねないよ。この劇場がある限りずっと」
「こっちだって。こんな短剣じゃあ僕は殺せない」
「はあ。まったく」

 王子はおもむろに白黒の床の上に寝そべると、観念したように大の字になった。

「そんなに言うなら好きにしたらいい。いくらでもキミの思うように刺してくれ」
「じゃあ遠慮なく」

 馬乗りになって少年が振り上げた血まみれの短剣は、すんでのところで王子にふたたび遮られた。
 
「しつこいよ王子さま」
「どっちが」
「知ってた? 執念深い人ってしたたかの素養があるんだって」
「いったい何のことだか」
「早くその手を離してよ王子さま」

 白黒の床の上で取っくみあいを始めた二つの人影は軽快に、まるで3拍子のリズムに合わせて跳ねるように踊った。



 結局王子に軽々と短剣を取り上げられて、少年はふてくさりながら王子の隣へ大の字になった。天井でバラ窓が五彩に煌めいて、白黒の床に寝そべる少年たちを照らした。

「少しぐらい刺されてくれてもいいのに」
「真剣勝負でそういう訳にはいかないよ」
「だから真剣じゃないって。わからずや」

 少年はおもむろに立ち上がろうと膝をついた拍子に床の上の花模様のレースに足を滑らせた。

「うわっ」

 ふわりと宙に舞った白いレースに真っ赤な血糊がとび散った。
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