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第一章

ペーパー・ムーン・カフェ

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 店内を見まわすとその日は他にもお客さんが何人かいて、いつもより賑やかだった。入口近くの一枚板のカウンター席では常連さんたちがチェスに興じていた。オレンジ色の照明に照らされてチェスの駒が動くたびにつやつや艶めいて、駒の放つ微かなオレンジ色の光が漆喰の淡い白壁に反射していた。

 カウンター席の真ん中にはスーツ姿にツバと天井の平らな帽子を被った男性が座っていた。スーツは背中の端に少しシワが寄っていた。どこかの商人のようだった。
 その商人の隣にカウンター席の奥に隠れるようにして、小さな女の子が手持ち無沙汰に椅子をくるくる回しながら立っていた。女の子はどうやらその商人の連れみたいだった。親子なのかな?

 商人は粋な声で馴染みの唄でも歌うように喋っていた。でも決して耳障りなわけではなくて。どこか活気のある、愉快で、力強い声だった。

「私たちのつくる翼はそよ風なんです! ぜひ一度、お試しください。纏っていることを感じさせませんよ」

 旅商人はこの街でもたびたび見かけるけれど、そよ風の翼といえば東の果てにしかないという滅多にお目にかかれないものだった。まさかこんなところで見られるとは――。

 この粋な商人の声に誘われて、このところ僕の心を独り占めしていた不安は知らず知らず、僕の中から消え去っていた。そして入れ替わるように今度は明るい未来が、時折僕の心に顔を覗かせた。またマヌーに会えるはず。自然と、そんな気がした。

 僕はなぜか、あの商人に心惹かれた。どうしてなのかははっきりとはわからないけれど。声を聞いているだけで、なんというか、細々した不安も哀しみも、それがどうしたの? って微笑みかけられてるような、そよ風が吹いたときみたいにふっと心の風通しが良くなるような、そんな気がした。
 あの商人はただひたすらに今を生きていたのかもしれない。その逞しいほどの命のきらめきに、僕は束の間、過去からも未来からも解放されていたんだ。たぶん。そのときの僕の瞳にあったのは後悔の過去でも憂うつの未来でもなかった。あるのはただ僕の手の平をあたりまえに照らし続ける鮮やかな五彩の光だった。

 それにしても、あの親子は東の果てからいったいどれくらいの長い旅路を辿って来たんだろう。長かっただろうな。きっと僕には想像もつかないほど、遠くて長い旅。あの商人はいま溌剌として見えるけれど、やっぱり落ち込んだりすることもあるんだろうか。それとも、そんな暇もないほどにひたすらに生き抜いてきたんだろうか。そして旅路の果てに、いったい誰に会いたくなるんだろう。そんなとりとめもないことを、考えていた。

 店の奥にはまだ火の入ったばかりの赤レンガの暖炉があった。暖炉を囲むように背の低いクルミの一枚板のテーブルやカウチソファ、年季の入った安楽椅子や赤や生成りの不揃いなクッション、天鵞絨のスツールなどがいくつも置いてあった。
 この暖炉のそばの席はくつろげるのか、わりと夏でも冬でもいつも人気があるみたいだった。この日も例にもれず早くからお客さんで埋まっていた。――

 この街のことをまだ何も言ってなかったよね。この街は学問の街として千年以上も栄えてきた歴史ある街なんだ。朝日をうけて黄金色に染まった朝靄の中に浮かぶ石造りの家々や尖塔の姿は本当に美しくて、夢見る尖塔都市とも呼ばれてる。

 だから午後になると、その日の講義を終えた学生さんたちが石造りの街のあちこちで議論を交わす姿がよく見られるんだ。なかでも特にこのカフェは学生さんたちのお気に入りらしくて、この日も火の入った暖炉のそばにはそんな学生さんたちが三人、ソファー席に腰かけて最近なにかと話題の魔法談議を交わしていたっけ。

「知識は世界を別けるためのものじゃない。愛すべきものだよ」
「でも、だからってそんな簡単に魔法を使ってはダメよ」
「彼の言っていることも一理ある。そもそも本来の魔法は人間が使いこなせるようなもんじゃない。いつもすぐとなりにあって、必要なときに少しだけ借りるような……もっと神聖で美しくて、畏怖すべきものだよ。それをいつからだろう、偉い人たちは夢や魔法を勝手に閉じ込めて、管理した気になって。自分だって魔法の一部なのに。あんなのは夢でも魔法でもなんでもない。魔法とは名ばかりの、魔力を秘めた危険な池さ。まあ、ある意味では夢とも呼ぶでしょう。夢はいつか覚めるもの」

 僕はホットココアを飲みながら、相変わらず五彩の影をもてあそんでいた。気づけば右側の視界の隅に、半透明の歯車のようなものが浮かんでいた。僕はこの歯車だけは好きになれなかった。そしてなぜかいつも、決まって右側の視界の端に現れた。まもなく平穏が消え去ってしまう。そんな漠然とした不安を感じて、僕は思わず目を細めた。先ほどまではあんなに心惹かれた光景も、いまはただ、神経を逆撫でる眩しいだけの光に過ぎなかった。

 僕のわずかな抵抗もむなしく、いまや右側の視界を一杯に覆い始めたチカチカと勢いを増す得体の知れない歯車は、容赦なく僕の平穏な世界を脅かした。ふたたび訪れる不安を遮るように、僕はまた、眩しすぎるこの世界に目を閉じた。

 いつしか僕は夢うつつの境に迷い込んでいた。――
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