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Later Talks ─ 白いユリが咲く
後日談5 ユリを白く染めた人
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「──ええ。眠ってますよ。疲れたでしょうしね」
城井祐一郎は暗いリビングから寝室を振り返る。
やや広すぎるベッドですやすやと寝息を立てているのは、今日正式に妻となった友里だ。
彼女を起こさないようそっとドアを閉める。
「今日は本当にありがとうございました。坂井先生──いや、今は進藤先生でしたね」
時の流れの速さについ感慨深くなる。
それはひょっとしたら、電話の向こうでも同じだったのだろうか。
しばらく間があいてから「もう先生なんかじゃないわよ」と静かな声が返ってきた。
「中学生だったあの頃から、僕にとって先生はずっと先生ですから」
少し笑って答えると、電話の向こうでため息をついた気配がある。
「まったく……世間は狭いとはよく言ったものね。大学時代に家庭教師で教えたあなたと、職場の後輩どうしの結婚式で再会するなんて」
そう、電話の相手である進藤絢子──旧姓坂井絢子は中学生の時の家庭教師だった。
「今回は協力してくださってありがとうございました」
電話の向こうには見えないとわかっているのに、つい頭を下げてしまう。
すると彼女がため息をついたのが伝わってきた。
「……まさかあんな大惨事になるなんて思わなかったのよ。谷元くんと黒田さんの不倫を匂わせるなんて、あなたの頼みとはいえ我ながら馬鹿なことをしたわ」
口ではそう言いながらも、その声に後悔が滲んではいなかったことにひそかに安心する。
「あれを予想できなかったのは僕だって同じです。だって結婚披露宴ですよ? あんなことしないでしょう──良識のある人間なら」
学生時代の友人である谷元亮介の妻・茉莉のことだ。
彼女は今日の披露宴の真っ最中に、新婦である友里に向かって中身の入ったシャンパングラスをひっくり返した。
「……そういう言い方は、あんまりよくないんじゃない?」
「ほら、そういうところが先生じゃないですか」
やんわりとたしなめられたのに苦笑しながら返すと、「あなたねえ」と呆れた声が返ってきた。
「……先生。全ては僕が勝手にたくらみ、勝手に先生を巻き込んだだけです。だから先生は責任なんて何も感じずにいてください」
それは嘘偽りない、心からの言葉だった。
彼女にもそれが伝わったのか、電話の向こうでは少し沈黙が続いた。
「私は黒田さんと谷元くん……そして津山さんの事情を知ってたから──だからこそあなたの頼みを断れなかったの。もちろん、あの子に転職先を世話してやれないかって頼んだのは私が先だけど」
「ああ、そうでしたね」
決して忘れていたわけではないが、もうずいぶんと昔のことのような気がしてしまう。
でも実際にはほんの一年ちょっと前の話にすぎないのに、だ。
「でもまさか、あなた自身の会社で雇うことにするとは思わなかったけど」
ころころと笑い声が聞こえてきて、思わず苦笑する。
「何を仰いますか、一番手っ取り早くてかつ確実な方法なのに。それに、優秀な人材だと太鼓判を押したのは先生でしょう」
正確には、「頭も回るし器用だからどこでもそれなりにやっていけると思う」というようなことを言っていたと思う。
そして実際、友里は事務の担い手として非常に優秀だった。
「……いずれにしても僕は、間違ったことをしたとは思っていません。大切なものを守るためなら、多少の犠牲は厭いませんから」
言いながら、多少の犠牲とは何だったのだろうと考える。
学生時代からの友人の一人だろうか。それとも平和な結婚式だろうか。
「……黒田さんはね、苦しくても苦しいと言わない子よ。言えない子っていうほうが適切かもしれない」
「多少の犠牲は厭わない」などというやや過激な物言いをたしなめられるかと思っていたのだが、返ってきたのは意外な言葉だった。きっと、彼女は彼女で思うところがあるのだろう。
「結果的には、あなたと黒田さんの式は一時めちゃくちゃになってしまったわけだけど、今ではこれで良かったと思ってるわ。あなたたちと谷元くんたちは、もうお互い関わらずに生きていく方がいい」
その言葉に異存はなかった。
本来なら谷元と友里の関係は、別れた瞬間に切れてしまうはずだったのだ──浮気され捨てられるというような別れ方だったのだから。
同じ職場という枷のせいでそれが許されなかったのは、正直あまりに気の毒だと思う。
「……あの二人を招待すると決めた時、彼女何って言ったと思います? 『筋を通す』って言ったんですよ」
あれ以来、彼女に決断を委ねたりせず自分からきっぱり「招待しない」と言うべきだったのではないかと何度も悩んだ。
それでも筋を通すと決めた彼女の決意に水を差すことも、その決断を覆すこともできなかったが。
「まあ……あの子らしいわね」
しみじみとした声が返ってくる。
きっと前の職場でも、彼女はそういう人間だったのだろう。まっすぐで、眩しくて、まさに大輪のユリのような。
「だから何かきっかけがないと、事あるごとに彼女は苦しむことになると思ったんです」
気持ちの上での決別だけでは不十分なのだ。可能なら関係そのものがなくなってしまう方がいい。
「……それで津山さんに不倫を疑わせて、谷元くんと黒田さんの縁を切ってしまおうとしたのね」
やはり説明しなくても先生にはお見通だった。
そう、谷元茉莉が不倫を疑って夫に詰め寄るよう仕向け、谷元自身に友里との絶縁を宣言させるのが一番確実だと思ったのだ。
「計算違いもいいとこでしたけどね」
式で見た時も、偶然街ですれ違った時も、どちらかというと大人しめの、おっとりした「お嬢さん」に見えたのだ。
とてもあんな大それたことをするようには──…。
「あなたも私も、まだまだね」
まるで心の中を見透かされたようで苦笑してしまった。
でも考えてみれば二人ともにとって予想外の出来事だったのだから、見透かすも何もない気もする。
「……ほら、あなたも疲れてるんだからもう寝なさい。結婚式のその夜からよその女とコソコソ電話してるなんて感じ悪いわよ」
おどけた口調に思わず口元が緩む。
昔から絶妙な距離感を弁えた人だと思っていたが、それは今も変わらないらしい。
もう一度、心からのお礼と「おやすみなさい」を口にして電話を切る。
「……終わり良ければ総て良し、か」
そんなつぶやきが、部屋を包む静寂をかすかに揺るがした。
さて、眠る姫君の隣へ戻らなければ──そう思って立ち上がった瞬間、贈ったばかりのオリエンタルリリーが強く香った。
城井祐一郎は暗いリビングから寝室を振り返る。
やや広すぎるベッドですやすやと寝息を立てているのは、今日正式に妻となった友里だ。
彼女を起こさないようそっとドアを閉める。
「今日は本当にありがとうございました。坂井先生──いや、今は進藤先生でしたね」
時の流れの速さについ感慨深くなる。
それはひょっとしたら、電話の向こうでも同じだったのだろうか。
しばらく間があいてから「もう先生なんかじゃないわよ」と静かな声が返ってきた。
「中学生だったあの頃から、僕にとって先生はずっと先生ですから」
少し笑って答えると、電話の向こうでため息をついた気配がある。
「まったく……世間は狭いとはよく言ったものね。大学時代に家庭教師で教えたあなたと、職場の後輩どうしの結婚式で再会するなんて」
そう、電話の相手である進藤絢子──旧姓坂井絢子は中学生の時の家庭教師だった。
「今回は協力してくださってありがとうございました」
電話の向こうには見えないとわかっているのに、つい頭を下げてしまう。
すると彼女がため息をついたのが伝わってきた。
「……まさかあんな大惨事になるなんて思わなかったのよ。谷元くんと黒田さんの不倫を匂わせるなんて、あなたの頼みとはいえ我ながら馬鹿なことをしたわ」
口ではそう言いながらも、その声に後悔が滲んではいなかったことにひそかに安心する。
「あれを予想できなかったのは僕だって同じです。だって結婚披露宴ですよ? あんなことしないでしょう──良識のある人間なら」
学生時代の友人である谷元亮介の妻・茉莉のことだ。
彼女は今日の披露宴の真っ最中に、新婦である友里に向かって中身の入ったシャンパングラスをひっくり返した。
「……そういう言い方は、あんまりよくないんじゃない?」
「ほら、そういうところが先生じゃないですか」
やんわりとたしなめられたのに苦笑しながら返すと、「あなたねえ」と呆れた声が返ってきた。
「……先生。全ては僕が勝手にたくらみ、勝手に先生を巻き込んだだけです。だから先生は責任なんて何も感じずにいてください」
それは嘘偽りない、心からの言葉だった。
彼女にもそれが伝わったのか、電話の向こうでは少し沈黙が続いた。
「私は黒田さんと谷元くん……そして津山さんの事情を知ってたから──だからこそあなたの頼みを断れなかったの。もちろん、あの子に転職先を世話してやれないかって頼んだのは私が先だけど」
「ああ、そうでしたね」
決して忘れていたわけではないが、もうずいぶんと昔のことのような気がしてしまう。
でも実際にはほんの一年ちょっと前の話にすぎないのに、だ。
「でもまさか、あなた自身の会社で雇うことにするとは思わなかったけど」
ころころと笑い声が聞こえてきて、思わず苦笑する。
「何を仰いますか、一番手っ取り早くてかつ確実な方法なのに。それに、優秀な人材だと太鼓判を押したのは先生でしょう」
正確には、「頭も回るし器用だからどこでもそれなりにやっていけると思う」というようなことを言っていたと思う。
そして実際、友里は事務の担い手として非常に優秀だった。
「……いずれにしても僕は、間違ったことをしたとは思っていません。大切なものを守るためなら、多少の犠牲は厭いませんから」
言いながら、多少の犠牲とは何だったのだろうと考える。
学生時代からの友人の一人だろうか。それとも平和な結婚式だろうか。
「……黒田さんはね、苦しくても苦しいと言わない子よ。言えない子っていうほうが適切かもしれない」
「多少の犠牲は厭わない」などというやや過激な物言いをたしなめられるかと思っていたのだが、返ってきたのは意外な言葉だった。きっと、彼女は彼女で思うところがあるのだろう。
「結果的には、あなたと黒田さんの式は一時めちゃくちゃになってしまったわけだけど、今ではこれで良かったと思ってるわ。あなたたちと谷元くんたちは、もうお互い関わらずに生きていく方がいい」
その言葉に異存はなかった。
本来なら谷元と友里の関係は、別れた瞬間に切れてしまうはずだったのだ──浮気され捨てられるというような別れ方だったのだから。
同じ職場という枷のせいでそれが許されなかったのは、正直あまりに気の毒だと思う。
「……あの二人を招待すると決めた時、彼女何って言ったと思います? 『筋を通す』って言ったんですよ」
あれ以来、彼女に決断を委ねたりせず自分からきっぱり「招待しない」と言うべきだったのではないかと何度も悩んだ。
それでも筋を通すと決めた彼女の決意に水を差すことも、その決断を覆すこともできなかったが。
「まあ……あの子らしいわね」
しみじみとした声が返ってくる。
きっと前の職場でも、彼女はそういう人間だったのだろう。まっすぐで、眩しくて、まさに大輪のユリのような。
「だから何かきっかけがないと、事あるごとに彼女は苦しむことになると思ったんです」
気持ちの上での決別だけでは不十分なのだ。可能なら関係そのものがなくなってしまう方がいい。
「……それで津山さんに不倫を疑わせて、谷元くんと黒田さんの縁を切ってしまおうとしたのね」
やはり説明しなくても先生にはお見通だった。
そう、谷元茉莉が不倫を疑って夫に詰め寄るよう仕向け、谷元自身に友里との絶縁を宣言させるのが一番確実だと思ったのだ。
「計算違いもいいとこでしたけどね」
式で見た時も、偶然街ですれ違った時も、どちらかというと大人しめの、おっとりした「お嬢さん」に見えたのだ。
とてもあんな大それたことをするようには──…。
「あなたも私も、まだまだね」
まるで心の中を見透かされたようで苦笑してしまった。
でも考えてみれば二人ともにとって予想外の出来事だったのだから、見透かすも何もない気もする。
「……ほら、あなたも疲れてるんだからもう寝なさい。結婚式のその夜からよその女とコソコソ電話してるなんて感じ悪いわよ」
おどけた口調に思わず口元が緩む。
昔から絶妙な距離感を弁えた人だと思っていたが、それは今も変わらないらしい。
もう一度、心からのお礼と「おやすみなさい」を口にして電話を切る。
「……終わり良ければ総て良し、か」
そんなつぶやきが、部屋を包む静寂をかすかに揺るがした。
さて、眠る姫君の隣へ戻らなければ──そう思って立ち上がった瞬間、贈ったばかりのオリエンタルリリーが強く香った。
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