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第21話 事件

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 今日は佐伯先輩がいない──当番ではないのだ。カウンターの中にいるのは、何度か見た覚えはあるけれど名前は知らない生徒だ。
 私は以前から気になっていた本の貸し出しの処理をしてもらい、そのまま図書館を後にした。いつもなら、佐伯先輩がいない日だって図書室でしばらく本を読んでいくのだけど、今日はやたらと課題が多く、まっすぐ帰って片付けざるを得ないのだ。

「……?」

 大多数の生徒は既に学校を出るか、あるいは部活を始めてしまっているため、校内は閑散としている。廊下に響いているのも私の足音だけだ。でも今、なんとなく人の気配を感じたような気が──…。
 私は立ち止まり、周囲を見回してみた。けれど特に人影は見えない。

(気のせいか……)

 ここは学校なのだ。生徒であれ教師であれ、誰がどこにいてもおかしくはない。それに、人間以外だって──いや、それは考えないでおこう。私は意識的にその考えを頭から追い出し、靴を履き替え校門を出た。


 うちの学校から最寄り駅まで行くためには、大通りに出るよりも住宅街の中を縫うように進んでいくのが早い。その道のりは車がぎりぎり二台すれ違えるくらいの場所もあれば、一方通行の道もある。
 帰宅ラッシュの生徒の波にのまれると厄介なのだが、少し時間がずれているせいで道はどこも空いていた。

(そういえば、明日の体育って何するんだっけ……)

 そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、後ろからゆっくりと車が近づいてきた。

「……すいませーん」

 声に反応して振り向いてみると、運転席の窓から若い男性が顔をのぞかせている。

「鳴豊病院ってどこかわかります?」

「鳴豊病院ですか?」

 どうやら道を聞きたかったらしい。鳴豊病院というのは、確か国道の向こう側にある総合病院だ。学校とは駅を挟んで反対側になるため行動圏外なのだが、おおよその位置ならわかる。

「えーと、まずは……」

 頭の中で一番わかりやすいルートを思い浮かべる──が、普段はこの辺りを車で移動しないのと、早く答えなければという焦りでうまくいかない。そんな空気を察したのか、運転席の男性は後ろを指した。

「ちょっと、後ろのやつが地図もってるからそいつに説明してやってくれます?」

「あ、はい」

 すると、後部座席のドアが開いた。スライド式のドアから遠い側に座っていたらしい女性がこちらに身を乗り出してくる。

「えーと、これなんですけど」

 彼女はそう言って、地図アプリを読み込み中のスマホを見せてきた。

(え、スマホがあってなんで迷うの……)

 そう思ったものの、地理の苦手具合は他人のことを言えないレベルなので口には出さない。位置関係を把握しようと女性が差し出したスマホを覗き込んだ時だった。

「──ひゃっ!?」

 一瞬何が起こったのかわからなかった。けれどすぐに、私は後部座席の女性に両腕を掴まれ、その細腕からは想像もできないほどの力で車内に引っ張り込まれてしまったのだと気づく。

「いっ……」

 膝を思い切り打ちつけた痛みに耐えている間に、ドアが閉まって車が発進した。

(ちょ、何これ!)

 とっさにそう思うものの、この二人組に拉致されたことはもう疑いようがなかった。

(なんで? 目的は? 金?──は見るからに持ってないのわかるだろうし、身代金──にしてもうちの家なんて金持ちでも何でもないし……強姦──されるには魅力が足りないに決まってるしっていうか女の人いるし……)

 ということは、ただ殺されるのだろうか。もうどうしようもないのに焦りと恐怖で体が震え、心臓がバクバクと暴れだす。

(ああ、そうだ……車から直接声をかけてくる人間には気を付けろって、小学校の防犯教室で散々習ったのに……)

 高校生になり、電車通学を始めた以上痴漢や盗撮、あとはストーカーには気をつけてきた。でもまさかこんな初歩的な手口で拉致されてしまうなんて。
 無理やり引っ張られた腕と膝の痛みを堪えながら、私は自分の危機管理の甘さを呪う。

 そうこうしている間にも車は走り続け、私は自分がどこにいるのかがもう完全にわからなくなってしまった。
 隣に座る女を盗み見ると、彼女は無言でスマホを操作していた。スマホをもちながらどうやって私の腕をつかんだのかと思ったが、どうやら短めのストラップを手首に通していたらしい。
 私個人がターゲットだったのか、それともうちの学校の生徒を狙ったのか、はたまた女子高生ならだれでもよかったのかはわからない。それでも計画的な犯行だったのは間違いないようだ。

「……」

 どれくらい移動したのだろう。せめて会話があれば何か手掛かりが得られるかもしれないのに、運転席の男と後部座席の女は一言もしゃべらなかった。かといってこちらから話しかけるわけにもいかず、私はただ、運転席の後ろで小さくなる。
 と、その時だった。

「……乱暴なことしてごめんね。大丈夫?」

 突然話しかけられ、私は飛び上がらんばかりに驚いた。くっきりとアイラインが引かれた目にのぞき込まれ、また鼓動が嫌な速まり方をする。

「あ、ええと……はい」

 それ以外に答えようがなくて、私はうなずいた。声が不自然にかすれている。

「──はい。これ、よかったら」

 渡されたのは小さいサイズのミネラルウォーターだった。その時初めて、自分の喉がカラカラだったことに気づく。

(何か……入ってるのかな……)

 誘拐犯に飲まされるものとして最初に浮かぶのは睡眠薬だ。それか、最悪のケースとしては毒薬──。
 私が躊躇しているのを見てとったのか、彼女は私にだけ聞こえるように囁いた。

「さっき買った新品だから大丈夫。怖かったら私が先に飲んでもいいし」

 予想外の言葉に私ははっと彼女の顔を見上げた。今まで余裕がなくて気づかなかったけれど、かなりの美人だった。そして若い。おそらく二十代前半か、ひょっとしたら十代の可能性もあると思う。

「あ、ありがとうございます……」

 私はお礼を言い、ミネラルウォーターを受け取った。キャップをひねってみると確かに固い。新品を開封するときのパキパキッという音も鳴ったので、私はそのままいただくことにした。
 常温よりもややひんやりとした液体が、喉の奥から体にすっと染みわたる。

「……」

 私を車内に引き込んだのは間違いなくこの人だけど、なんだか気を遣ってくれているように感じられた。それでも不用意に口を開くのはやはり怖い。私はもらったペットボトルを両手で包み込んだまま、大人しく座っていることにする。

「……私が言ってもしょうがないかもしれないけど、あなたには危害を加えるつもりはないから安心してね」

「え……」

 私は思わず相手の顔を凝視してしまう。けれどはっと我に返って元の姿勢に戻った。

 私には危害を加えない──彼女のその発言でわかったことが二つある。
 まずは、私は真の目的を達成するための駒に過ぎないということ。
 そして、私以外の誰かは、危害を加えられるかもしれないということ。

 真の目的は何なのか。狙われているのは誰なのか。心臓がまた嫌な音を立て始めた時、車がゆっくりと停車した。
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