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第13話 木漏れ日の中庭

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 たどり着いたのは中庭だった。体育祭の午後の部の真っただ中なのだから当然と言えば当然なのだけど、誰もいない。
 佐伯先輩は隅に置いてある自販機に近づくと、ペットボトルのスポーツドリンクを買った。

「──はい。苦手な体育祭を乗り切った富永さんに。お疲れ様」

「え」

 確かに体育祭はあまり得意とはいえない──運動全般がそもそも苦手だからだ。でも、そんな話を佐伯先輩にしたことなんてあっただろうか。

「この間体育祭の話した時、あんまり興味ないんだなって思ったから」

 そう言って佐伯先輩は苦笑した。ばれている。

「もしかして、それでここに……?」

 答える代わりに、佐伯先輩は優しく微笑んだ。
 それから私たちは、ちょうど木陰になっているベンチに並んで腰かける。

「……応援のしがいのある先輩だったらよかったんだけどね」

 佐伯先輩がぽつりとつぶやいた。意味がよくわからずに、私は無言で首を傾げる。

「声援と喝采を浴びる体育祭の英雄。青組優勝の立役者。追いつかれるか逃げ切るか、追い抜くか離されるか、その一瞬を固唾をのんで見守る──みたいなね」

 言われて想像する。きっと、みんなが憧れる体育祭のエースといえばそんな存在なのだろう。そんなエースに声援を送りともに戦う─そうか、そういう青春もあるんだ。ふざけて玉をぶつけるだけじゃなく。ただ、そんなワンシーンのなかにいる自分は、正直あまり想像できないけど。

(──あ、違う。そうじゃない……)

 はっとひらめくように気づいてしまった。佐伯先輩の言葉にはほんのりと、心の奥底に沈む思いが滲んでいる。
 佐伯先輩はきっと、怪我や病気のことがなければそのエース的存在になれた人なのだ。でもそれを、自分ではどうしようもない事情で諦めなければならなかった。その悔しさは、私には想像もつかないけれど。
 佐伯先輩のことだから、もちろんそれを悲観しての発言ではないと思う。それでも私が言うのとは重さが違うと感じずにはいられない。

「──!」

 ちょうどその時、グラウンドの方からワッと歓声が上がった。それにつられるように佐伯先輩がはっと顔を上げる。その横顔に一瞬だけ満ちた切なさと諦めを、私は見てしまった。

「──佐伯先輩」

 つぶやくように名前を呼ぶ。「ん?」とこちらをのぞき込んだその顔にはもう影はなくて、私は自分の心臓がきゅっと縮こまるのを感じる。
 佐伯先輩は、きっとこういうのが得意なのだ。気持ちをさっと切り替えたり、本音を隠したりするのが。

「ちょっとだけ、肩貸してください」

 私はそうささやいて、返事も待たずに佐伯先輩の肩に頭を預けた。

「……私は、今の佐伯先輩が好きです」

 もちろん、体育祭のエースとして声援と喝采を浴びる姿だってかっこよかっただろうけど。でも私は、私が出会った先輩を、今の佐伯先輩を好きになったのだ。フォローでも何でもなく、真実として。

「……富永さん」

 佐伯先輩が囁くように名前を呼んだ。

「はい……?」

 私は体勢を元に戻して先輩の方を向く。

(えっ……?)

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。佐伯先輩が視界から消え、代わりにそのジャージから立ちのぼる柔軟剤の香りが鼻腔を突く。

「さ……」

 口を開こうとしたものの、うまく声が出せなかった。だんだんと理解が追い付いてきて気づく──私は今、佐伯先輩に抱きしめられているのだと。
 我に返った私がそっと背中に手を回すと、佐伯先輩はゆっくりと身を起こした。

「僕も好きだよ……富永さんのこと」

「……っ!」

 まっすぐ見つめながらそんな台詞を吐くなんて反則だと思う。
 驚きと嬉しさと、感激と不安と、とにかくいろんな感情がまざって自分でも何が何だかわからない。そんな私を、佐伯先輩は再びそっと抱き寄せた。

「……ありがとう」

 少しだけかすれた囁き声が降ってくる。その声が、言葉が言いようもなく嬉しくて、私は一瞬だけ目を閉じた。
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