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ダブルダッチ部
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【ダブルダッチ部】
「ぶっ」
ナギサ淹れてくれたインスタントコーヒーを口に含んだ途端、吐き出してしまった。
「まずい」
「え?そうですか?」
彼女は不思議そうな顔をしている。
「ナギサ、いつもながらコーヒーの粉を入れすぎ。何杯入れたんだよ」
「軽く四杯……」
「多いよ」
これが総務委員会名物「ナギサブレンド」である。ど天然で味覚音痴のナギサは、コーヒーの苦いのがわからないのか、はたまたナギサが恋する総務委員長の二宮さんの好みに合わせているのか知らないが、世界でこれ以上にまずいコーヒーはないと断言できる。多分まだコーヒーの美味しい飲み方が開発されていなかった頃でさえ、ここまでまずいコーヒーは飲まれていなかった筈だ。
「うん、美味しい」
委員長の二宮さんはこの「毒」をうまそうに飲む。多分彼の味覚も狂っている。こんなの飲んだら間違いなく早死にする。「ナギサブレンド」はなぜまずいのか。おれは観察の末、原因を突き止めた。
このコーヒーがまずい原因はおそらく四つ。
一つ目は、インスタントの粉をナギサが入れすぎることにある。普通どんなに入れても大さじ二杯くらいがコーヒーカップで飲むインスタントコーヒーの限度だろう。でも、ナギサはその二倍。四杯は当たり前のように小さなコーヒーカップに入れる。酷い時はもっと入れる。こんなにコーヒーの粉を入れてもお湯に解ける筈などなく、いつもダマが浮かんでいる。ダマの浮いているコーヒーなんて想像するだけでも飲みたくなくなる。しかし、それが目の前に出ているのだから恐ろしい。「ナギサブレンド」がまずい原因はこれが一番だろう。
二つ目は、砂糖の量だ。二宮さんは甘党だが、砂糖を入れすぎていて、もはやこれはコーヒーではない別の何かに変化している。初めて飲んだ時、その甘さに舌が痺れて、喉が焼け付くような感覚を覚えた。ナギサはその日によって砂糖の量を変えるが、だいたい大さじ六杯は最低でも入れる。角砂糖なら十個は最低でも入る。当然これも溶けるわけがない。飲み終わった後(といっても滅多に飲み干せないが)、下の方に大きな砂糖の山が姿を現わす。
三つ目はお湯だ。ぬるすぎる。コーヒーは九十度くらいがベストだろうか?よくわからないが、少なくともナギサの入れるコーヒーの温度がコーヒーを美味しく飲むのに最適な温度ではないことは、どんな味覚音痴でもわかると思う。多分、六十度よりも低い温度でコーヒーを淹れていると思う。ぬるい。舌触りが悪い。これはなんとかなるだろうと思って何度か言ったけれど、ナギサは聞かない。一回直りかけたことはあったが、次の日にはまた戻ってしまっていた。
四つ目は、仕方がないことかもしれないが、豆が悪い。別に高級な豆を使えとか、特別に焙煎されたものを使えとか、そんな次元の話じゃない。豆の品種の問題だ。コーヒーにはアラビカ種とロブスタ種という大きく分けて二種類の豆がある。前者は香り高く、酸味やコク、苦味が適度にあり、世界で栽培されている豆のうち八十パーセントはこれだという。一方で後者は、酸味もコクもなく、ひたすらに苦い。ロブスタ種のみのコーヒーなど苦くてとても飲めたものじゃない。だからアラビカ種とロブスタ種を混ぜて飲むのが基本だ。でも、ナギサが入れるインスタントコーヒーは値段重視であるため、ロブスタ種の配合割合が高い。予算のない高校の生徒会だから仕方がないことではある。しかしこれはコーヒー自体誰が作っても不味くなるようにできている。世界一のバリスタでもお手上げだろう。メーカーも配合が下手だ。もう少しインスタントコーヒーの研究をしないと十年先、いや五年先にはこのコーヒーは店先から完全に姿を消すに違いない。まともな人間なら、このコーヒーを二度と買おうとは思わない。これを何度も喜んで買うのはナギサくらいしかいないだろう。
入れ方が下手、粉も砂糖も過剰、お湯がぬるい、そもそも豆が悪い。こんなにコーヒーを不味く作る条件が揃っているのだから、どうして生徒会で美味しいコーヒーを味わえるだろう。
出されたのだからいつも飲むけれど、飲み干せたら褒めて欲しいくらいだ。生徒会室で仕事をするたびにナギサは労いの気持ちを込めてコーヒーを作ってくれるが、労いは気持ちだけで十分だ。これを飲むほうが生徒会の仕事よりも辛かったりする。
「で、二宮さん。話ってなんですか?」
おれはこの日、総務委員会の委員長である二宮さんに用事があると呼ばれていた。
「えっとねぇ、坊ちゃん。君に頼みたいことってのはねぇ……」
二宮会長はナギサの淹れた劇薬を片手にゆっくりと優雅に語り始めた。総務委員会委員長、二年五組、二宮桜嗣。桜に嗣と書いて「オウジ」と読むのである。実に面白い名前だ。ただ、その名前の通りなのか、イケメンで成績優秀。運動神経抜群。さらに仲間思いで性格も良くて、味覚音痴なのを除けば非の打ち所がない男である。名前のとおり、まさに生徒会のオウジ様なのである。次期生徒会長としての最優力候補であり、人気も信頼もある。
「実はね、部室のことなんだけど……」
「部室ですか」
「そう。ダブルダッチ部から部室の申請があったのよ。僕が動いてもいいんだけどさ……」
「はい」
「あんま大きい声じゃ言えないんだけど」
二宮さんは嫌に神妙な雰囲気を醸し出すものだから、委員会室に緊張感が漂い始めた。
「不純異性交遊」
「ええっ、不純異性交遊ですか」
「しーっ、声がでかいよ」
「す、すみません」
おれは驚きのあまり大きな声を出してしまった。委員会室にいたハーブティー先輩が飲んでいたお茶を吹き出してしまった。申し訳ないことをした。
「な、何があったんですか?」
「校内の多目的トイレで、その……ね。二年生と一年生の生徒がやるのを先生が目撃したらしいのよ。だから今度の職員会で処分が出るんだけど、生徒会則との照合作業をして、必要書類を生徒会本部に提出しないといけないから、今忙しいんだ」
「それはいいですけど、多目的トイレですか」
「うん、カギかけ忘れたらしい」
馬鹿じゃないか。しかも多目的トイレで高校生のうちから何やってるんだ。
「ま、それはいいとして、部室のこと、頼んだぞ」
「あ、わかりました」
ダブルダッチ部から部室の申請。そういえばダブルダッチと前に二宮さんが言っていたな。あれから忘れていたけれど、ダブルダッチって一体なんなんだ。
「あの、二宮さん」
「うん、なんだい」
「ダブルダッチって何ですか?」
「そういえば前にも聞かれたな。あの時答えなかったっけ?」
「カフカ先生から電話がかかってきて」
「あー、あれか。生物部のセアカゴケグモが脱走した時か」
「セッ、セアカゴケグモですか」
「うん、五匹も逃げて大変だったぞ」
サソリといいクモといい、そんなに毒を持った生物が逃げ出して大丈夫なのか。
「カフカ先生が刺されかけて大変だったよ。あはは」
「笑い事じゃありませんよ」
「えーと、何の話だっけ?」
「ダブルダッチって何って話です」
「そうだったそうだった。んーとね、縄跳びって知ってる?」
当たり前だ。縄跳びを知らないなら日本人じゃない。おれは当然ですと答えた。おー、知ってるのか、と言って笑ってきた。二宮さんはたまに人を笑っていじくる。おれのことをバカにしてやがらぁ。
「で、縄跳びがどうしたんですか」
「うん。でさ、小学生の頃に大縄跳びってしたろ」
「やりました」
「大縄跳びだよ、要するに」
「え?」
大縄跳び、だと。おれは驚きを隠せなかった。そして少し失望した。
小学生の頃にやった大縄跳びをよく覚えている。やたらとつまらなかった。あんなものなぜ小学生にやらせるのかわからなかった。縄を回すのはいいのだが、飛ぶ段階になると必ず躊躇するやつがいて、うまく流れを作れない。あれが嫌だった。クラス対抗で飛べる回数を競ったりもした。今から思えば、実にくだらなかった。ヒモを回してそこに飛び込んで引っかからないように飛ぶ。これだけの単純すぎるスポーツだ。バスケと大縄跳びを比べたらちっともエキサイティングでもないし、戦略も作戦もないし、物語も友情もへったくれもない。大縄跳びはスポーツの中でも最も低俗なものだとおれは思う。
「なんだ、大縄跳びですか。あんなもののどこがカッコいいんですか」
「お前見たことないのか、ダブルダッチ」
ないです、とおれが言った。先ほどよりもだいぶテンションの低い声だったと思う。
「ふーん。おれはすごいカッコいいと思うけどな」
「大縄跳びのどこにカッコよくなる要素があるんですか。意味がわかりません」
「まあまあ、そう言わずに。どうだ、一回ダブルダッチ部の活動見に行ってみたら」
二宮さんは突然おれに提案してきた。
「見学ですか」
「見ないのにカッコいいかどうかなんてわからないだろ。見に行ってみなよ。大丈夫、ダッチ部の人みんないい人たちだから」
「そうですかねぇ」
おれはあまり乗り気ではなかったが、二宮さんは誰かに電話をかけていた。「あー、もしもし。影山?今から見学一人行くよ、いい?」と言っていた。影山さんというのはダブルダッチ部とやらの人間だろう。もう半ば強制的に行かされそうである。
「いいってよ、坊ちゃん。行ってきなよ」
「はぁ、わかりました」
おれは二宮さんに送り出されて、ダブルダッチ部を見に行くことになってしまった。いくらなんでも唐突すぎる。思い立ったが吉日などという言葉もあるが、果たしてこれが吉と出るのか凶と出るのかおれにはわからない。
ダブルダッチ部とやらは学校に二つある体育館のうち、大きい方の体育館のギャラリーで練習しているらしい。ふつうに生活していたら滅多にギャラリーなんていかない。おれがバスケ部だった時も一度もギャラリーに行った記憶がない。おれの学校はスポーツが盛んなせいなのか、やたらと体育館が広い。公式試合サイズのバスケのコートを二つとって、そこにさらにバトミントンが練習できる。そして今から行くギャラリーも広いと聞いているので、他の団体が練習することもできる。なかなかないサイズだ。もう一つの体育館もそれなりに広い。初めて見た時に腰を抜かしそうになってしまったくらいである。今となっては体育館の広さに慣れたが、来年もそのまた来年も、おれのように驚く後輩が出てくるのだろう。
大体育館に着くと、中からバスケットボールをつく音が聞こえてきた。なんだか懐かしい気分になってしまった。コートに立って、走り、点を取りあって、勝敗を競うあの楽しさは忘れられない。少しだけバスケが恋しくなってきた。でも、今日の目的はバスケットボールでは無い。ダブルダッチなるものを今から見せてもらうのだ。おれは妙な気分だった。敵地に乗り込むといった表現がしっくりときた。心臓が高鳴る。おれはやたらと緊張していた。試合に出る前のような心持ちである。
大体育館の外側にある階段を登り、おれはギャラリーの扉に差し掛かった。目の前の鉄扉が敵のアジトか。中からは音楽が聞こえてくる。ビとートの効いた、流行りのJ-popである。大音量の音楽が外まで聞こえてくる。おれはダブルダッチがますますよくわからなくなった。こんなに大音量で音楽を流して縄跳びをする。その図が全く想像できない。頭の中はもうぐちゃぐちゃに混乱していた。
おれが扉の前で戸惑っていると、だれかが階段を上がってきた。
「ん、なんか用ですか?」
階段を上がってきたのは、身長百九十センチはゆうに超えているであろう大男だった。しかも筋肉隆々。そして目が隠れるほど髪が長い。どこぞの歌手みたいななりをしていた。
おれは少々びびってしまった。まずいところに来てしまったと思った。こんな怖そうな人間がいる部なのだからやばいことがあるに違いない。
大男は不思議そうな目つきでおれの方を見ていた。おれは黙ってそこに立っていた。なんて言えばいいかわからなかった。微妙な空気がそこにあった。十秒ほど沈黙が続いた。大男はおれから目を離して、ギャラリーの中に入っていってしまった。中から声がした。「なんか外にいますよ」という主旨のことが聞こえて来た。失礼なやつだ。なんかとはなんだ。おれには与田良太郎という立派な名前もあるし、坊ちゃんというあだ名もある。しかしよく考えると向こうはおれを知らないのか。そうだ、おれも向こうを知らないし、なんかと言われても仕方ない。
おれがこんなことを考えていたら、ギャラリーからミディアムヘアの女子が出てきた。おそらく二年生だろう。雰囲気でわかる。
「あ、君が坊ちゃん」
おれは頷いた。二宮さんがおれのあだ名を伝えていたのだろう。でなけりゃ坊ちゃんなんてあだ名か出てくるはずがない。
「そうです。二宮さんから言われてきました」
「嬉しいわ。はじめまして。私が二年生の影山楓です」
影山楓と名乗るこの先輩は丁寧におれに頭を下げた。礼儀正しい人だ。おれなら年下に頭なんか下げやしない。おれも一応挨拶はしておいた。先輩だけか頭を下げるのはどうも違う気がする。
楓さんはおれをギャラリーに招き入れた。相変わらずギャラリーからは賑やかな音楽が聞こえてくる。今度は洋楽だった。声の高い男の声が聞こえてくる。おれはあまり音楽など聞かないからよくわからない。
ギャラリーには何人かいた。まだ何かやっている様子はなかった。皆スマホをいじっている。これから練習のように見えた。
「みんなー、見学だって」
楓さんがこう言った途端、みんなスマホをやるのをやめておれの方を見た。一斉に見られるものだから少しどきりとしてしまった。だがここでびびってられない。おれは胸を張っていつもよりも大きな声で自己紹介した。
「一年五組、与田良太郎です。本日見学させてもらいます、よろしくお願いします」
おれが頭を下げると、「おおっ!」とか「やった」とか喜ぶ声が聞こえてきた。人が見に来るだけでそんなに嬉しいだろうか。中には飛び跳ねている女子や、拍手までする奴もいた。大げさな演出だ。二宮さんに言われて来ただけなのに。
おれが自己紹介を終えると、早速おれの元に来るやつがいた。鼻が高くて、髪が微妙に黒と金色が混ざったような色だった。ハーフなのだろうか。
「どうも、良太郎くん。おれは有賀・セーレン・サイード・ファルロフ・大です」
「え?」
うまく聞き取れなかった。有賀まで聞き取れたが、そのあとがよくわからない。
「どうしましたか?」
「すみません、ちょっとぼーっとしてしまって。もう一度言ってくれませんか?」
「有賀・セーレン……」
「あー、もう少しゆっくり言ってくれませんか?」
「だから、あ・る・が・セー・レ・ン……」
ゆっくり言ってもらって、やっと目の前のこの男の名前がわかった。セーレン・サイード・ファルロフ・大。ハーフでもこんな長い名前聞いたことが無い。
「長い名前ですね。まるで寿限無ですよ」
「よく言われます。俺、実はハーフなんです」
見ればわかる。それに、こんな長いカタカナの入った日本人いてたまるか。
「どことのハーフなんですか?」
「母は日本人、父はデンマーク人です」
「ふーん」
「で、母の父はイランのペルシャ人、そのまた父はオスマン帝国出身のトルコ人です。でそのまた……」
「待って待って。あんた何者?結局どことのハーフよ」
「一応、日本、デンマーク、フィンランド、アイルランド、イラン、そしてトルコの血が混ざってます」
「すごい家だね」
「ウチ、ハーフばっかなんです。みんな同じ国の人と結婚しない。俺も多分そうなると思います」
面白い人だ。こんな人も世の中にいるのだなと感心していたら、有賀・セーレン・なんとかの隣に見たことがある顔がいるのが気がついた。
「春香さんじゃないですか」
「こんにちは、良太郎くん」
クラスメイトの羽多野春香さんだ。おれの隣の隣の席の人である。長い髪を右のポニーテールにしている。可愛い系の女子としてだいたいの男子が二度見する。おれは別に誰が可愛いとかそんな話に興味はないが、噂くらいはよく聞く。学年にゲスい男子は随分と多いような気がする。アホな話なんてしないでいいのに。思うことがあれば心に留めておけば良いのだ。
おれは春香さんに挨拶を終えると、違和感に気づいた。春香さんが二人いる。まるで鏡に映った人間がそのまま出て来たように、春香さんにそっくりな人間がいた。
「ドッペルゲンガー?」
おれが思わずこう口走ると、もう一人の春香さんが「失礼ね」と言ってきた。口調や声音までそっくりである。
「私は羽多野秋音。春香の双子の妹」
「えっ、春香さんって双子だっだですか」
二人は同時に頷いた。見た目どころか動きまで完全にシンクロしている。双子に間違いない。
「うん。右のポニーテールの方が春香」
「左のほうが秋音」
そう言われてやっと二人の共通項に気づくことができた。この二人は見た目まで瓜二つである。二人の共通点よりも相違点を探せというほうが大変だ。
「で、一年生もう二人いるんだけど……宮城、そこでスマホいじってないでこっち来て」
「ん」
先ほどの大男だ。ギャラリーの隅の方で憂鬱そうにスマホをいじくっている。
「なんすか?」
「ほら、見学の人来たから自己紹介して」
宮城と呼ばれた大男はのっそりと立ち上がり、こちらに来た。やはりかなりでかい。
「どーも。えっと、宮城碧です。その……」
宮城碧という男は黙り込んでしまった。
「ごめんなさい、この人話すの苦手で」
「構いませんよ」
「えっと、今紹介したのが一年生で、全部で五人。あと二年生が……」
「おう、おれは佐渡仁介。サドジンと呼んでくれ」
楓さんが二年生について言う前に威勢のいいのが自己紹介して来た。おれは「どうも」と返すと、いきなり握手して来た。力が強い。手が痛くなる。
「じゃあよろしくな、その……山田くん」
「与田です」
「そうだった。で、その委員長の二階堂くんだっけ?」
「二宮さんです」
「そう、そいつだ。で、あだ名がついてるんだろ。蟹工船」
「坊ちゃんです」
この世の中に蟹工船なんてあだ名がいてたまるか。サドジンさんはどうやら人の名前を覚えるのが苦手らしい。熱そうな人だが、頭が足りなさそうだ。
「よろしくお願いします」
「うむ。おい、晶。何してんだ、こっち来い」
サドジンさんに呼ばれてもう一人来た。メガネをかけた、暗そうな人だった。
「あ、どうも。星野晶です……」
声も小さい。おれか「よろしくお願いします」と言っても「あ、うん」と帰ってくるばかりで、普段は無口なのだろうと察しがついた。
「二年生は私を含めて三人。三年生は今日補修だからいないの」
「梨子だけまだ来てなくね?」
「あら、そうね。ま、いいわ。練習始めましょ。そのうち来るでしょ。良太郎くん」
「はい」
「ダブルダッチを見るのは初めて?」
おれはうんと頷いた。
「そう。じゃあ見えるところで見ててね」
「あの、すみません」
「どうしたの」
「ダブルダッチってなんですか」
おれは楓さんに尋ねた。未だにダブルダッチというスポーツのイメージが頭に湧いてこない。
「あら、二宮くんから聞いてないの?」
「大縄跳びだとは聞いてます」
おれがこういうとダブルダッチ部の人はみんな笑い出した。おれは二宮さんに言われたことをそのまま言っただけだ。
「おおざっぱねぇ。まあ、あながち間違ってはないけど。ダブルダッチとふつうの大縄跳びは全然違うのよ。まずね……」
楓さんはギャラリーの端っこに置いてあった登山用のザイルよりも少し短くて細い縄を二本持ってきた。
「これがナワ。ダブルダッチってのは二本のナワを回して、その中で跳んだり、パフォーマンスをしたりするのよ」
二本縄を回す。なるほど、二本も回せば大縄跳びよりも難易度が上がって面白くなるだろう。なかなか興味深い。
「じゃあ跳ぶところ見せるわね。サドジン、晶。ターナーやって」
「そのターナーってやつもなんですか」
「あ、ごめん。例えばバスケでもセンターとかフォワードってポジションがあるでしょ。あれと同じでダブルダッチにも一人一人の役割があるの。ターナーはナワを回す人。他にもジャンパーとか言ったりするけど、まあそれは多分わかってもらえると思うわ。いいから見てみ」
おれはギャラリーの隅の方によって邪魔にならないようにして、言われるがままにパフォーマンスを見せてもらうことにした。
「音楽どうするよ」
「なんでもいいよ、早くしようぜ」
晶さんが流行の音楽を大音量で流し始めた。
サドジンさんと晶さんが二本ナワの両端を握つた。ここまでは小学校時代にやった大縄跳びとほとんど変わらない。変わっていることは二本のナワを使うことくらいだ。サドジンさんと晶さんはナワをピンと張って、そこからゆっくりとナワを回し始めた。ナワを回しながら二人の距離をだんだんと縮めていき、ちょうど一人が中で跳んでも引っかからないくらいの高さまでナワの円は大きくなった。二人の回すナワは一本は左回転、もう一方は右回転。双縄が交互に地にあたり、小刻みに心地よい音を立てながら、一定のリズム、スピードでナワは回っていた。
「いくよ」
楓さんがサドジンさんと晶さんの二人に合図を送ると、二人は「ワン、ツー、スリー」とカウントを始めた。
「ファイブ、シックス、セブン、エイト」
二人の数えるエイトカンウントのエイトからワンに戻る狭間で、楓さんはふわっとステップを踏み出して、二本のナワが回るに飛び込んだ。
楓さんの足に二本のナワが一定のリズムで交互に迫り来る。それを彼女はものともせず、軽快なステップを踏みながら足をすくめようと襲い来るナワを軽々と跳んでみせた。実に鮮やかだ。大縄跳びを飛ぶ時、もっと下手くそな飛び方をする。大縄跳びはみんな大げさに足を高く上げてやたらと疲れる跳び方をするが、楓さんは全然違った。地面から足がついたまま跳んでいるのではないかと錯覚するほど低く跳んでいた。跳んでいる、というよりナワを自在に操りながら踊っているようだった。
「すごい」
おれの口から思わず言葉が漏れた。うまく言葉にできないが、楓さんが二本のナワの中で跳ぶ姿は、本当に美しく、そして雄大だった。おれは語彙力がない。普段は気にもしなかったが、今この瞬間、おれの語彙がないことを悔やんだ。このパフォーマンスを形容できないなんて、とても悔しい。
「これはすごいですね」
「まだ驚くのは早いよ、良太郎くん」
ハーフの大がおれに言った。まだすごいことが起こるのかと聞いたら、そうだと大は答えた。おれは胸が高鳴った。これから何が起こるのだろうかとあれこれと予想を立てた。が、おれの期待は大きく裏切られることになった。悪い方向ではない。想像を遥かに絶することが目の前で起こったのだ。
楓さんは跳ぶのをやめてナワから出ると、今度は代わりにハーフの大がナワの中に飛び込んだ。すると大はしゃがみこんだ。おれは一瞬己の目を疑った。しゃがんだまま飛んでいる。もちろん、先ほどよりはゆっくりとナワは回っているが、大は引っかかることなく、しゃがみながら楽々と跳んでいた。
おれは息を飲んだ。開いた口が塞がらなかった。人間にこんなことができるのか。使っているのはたった二本のナワだけである。信じられない。大縄跳びだと完全に見くびっていた。ここまですごいことができるなんて思いもしなかった。
大は驚きを隠せないおれにまだまだだよと言わんばかりの表情を浮かべ、今度は立ち上がったかと思ったら、逆立ちをして腕で跳びはじめた。なんという腕力だろうか。縄跳びはてっきり足で跳ぶものばかりだと思っていた。腕で跳ぶなんて、未知の世界の出来事としか思えない。
大は五回ほど腕立てしたまま跳んだら、流石に辛くなったのかナワの外に出た。
「どうだ」
おれは無意識のうちに拍手をしていた。目の前で起こっていたことに驚きと感動を禁じ得なかった。奇跡かなにかとしか思えなかった。
「これがダブルダッチか」
「そうだよ。すごいだろ。世界一カッコいいスポーツさ」
大は得意げな様子で言った。正直ここまでとは思っていなかった。予想はしていた。だがおれの予想なんて瞬く間に破られてしまった。大縄跳びなんて……そう思ってナメていたが、これは別次元のスポーツだ。これは縄跳びなんてレベルじゃない。たった二本のナワで異次元の世界を作り出す、奇跡とも呼べる代物だ。
「驚いてるわね、良太郎くん」
部長の楓さんはうふふと笑った。それにしても良太郎くんなんて呼ばれるのは妙な気分だ。坊ちゃんと長らく呼ばれてきたから、下の名前で呼ばれるなんて違和感が拭えない。
「感動しましたよ、ダブルダッチに」
「だろー」
サドジンさんがおれの肩に腕をかけた。でかい体だ。
「さてさて、今度はお前が跳べよ」
「おれですか」
おれは戸惑った。ダブルダッチがどういうものかよくわかった。でも、一度見たきりであんな軽やかに跳んだりできるわけがない。
「いや、おれは……」
そう言いかけた時、ギャラリーの扉が開いて、急ぎながら誰かが入ってくるのがわかった。
「ごめんなさい、遅れました」
「リコ、遅いよ」
入ってきたのはショートヘアの女子だった。真っ白いシャツに運動用の短いズボンを履いている。
「どうしたの?」
「すみません、生物部のカメレオンが逃げ出したそうで。手伝わされてました」
またか、とおれは思わず言ってしまった。生物部から生き物が逃げ出すのはもう今年四回目だ。
「あら、この人は」
リコ、と呼ばれていた女子はおれを不思議そうな目で見てきた。大きな目だ。ブラックオニキスの宝玉みたいだ。
「あ、見学の人」
「総務委員会の一年生の与田良太郎です。坊ちゃんって呼ばれてます」
「あら、どうもご丁寧に」
おれが頭を下げるとこの女子も丁寧に頭を下げてくれた。
「ダッチ部入るんですか?」
「いえ、その……」
「わぁー、すごい。足の筋肉とかやばいですね」
リコさんはおれの足を見て感心していた。バスケ部時代、毎日ゆうに十キロは走っていた。辞めてからも、体が動いてしまい、毎日走っていた。多分現役の頃と筋肉量は変わらない。
「どうもです」
おれは少し照れてしまった。バスケ部にはおれよりも筋肉のついたやつは沢山いる。筋肉がないとけなされることはあっても、褒められることは珍しい。なんだか嬉しくなった。
「その、与田くんでしたっけ?よろしくお願いします。私、福田梨子。一年四組です」
「どうも」
彼女は満面の笑みをおれに浮かべてきた。明るくて気さくな人だと思った。花の咲いたような笑顔である。いつまで見ていてもいいなと思えた。
「リコ、これから良太郎くん跳ぶから、跳び方教えてあげて」
リコは楓さんに元気よく返事すると、おれの近くに寄ってきた。近い。いくらなんでも近い。おれの体まで五十センチのところに寄ってきた。
「えっと、跳ぶの始めて」
「無論。今日初めてダブルダッチを見ました」
「あ、そう。簡単よ、まずねぇ、ターナー二人が回してくれてるナワあるでしょ」
「はい」
「そこにタイミングよく入ればいいのよ」
「そのタイミングがわかりません。いつ飛び込めばいいのか……」
「エイトカウント数えてみて」
おれはいち、に、さんと数えた。そしたら笑われた。
「英語よ」
リコさんも笑った。綺麗な笑い方をする人だった。口元に手を当てて、微笑む。おれは少しだけ胸騒ぎがした。
「ワン、ツー、スリーって数えて」
「ワン、ツー、スリー、フォー……」
「で、エイトまで数えたらワンに戻って。ナワに跳びこむタイミングはフォーとファイブかエイトとワンの間。私が数えてあげるから、そこでナワに飛び込んで」
「えっ、あの」
「大丈夫。できるから。自分を信じて」
リコさんは多少強引におれがナワまで一歩のところに連れて行くと、エイトカウントを数え始めた。
「いくよ、ワン、ツー、スリー、フォー……」
おれはナワに跳びこむのを躊躇した。いざ跳びこむとなると、引っかかってナワを止めてしまいそうな気持ちになる。恐怖に近い感覚だ。女の子に告白しようと思うけど、いざ好きな子を目の前にすると言葉が出なくなるのと構造は同じだ。
「ホラ、飛び込まないと」
リコさんはおれに入るようにせがむが、おれは足が動かなかった。入ろうとする。でもやはり踏み出せない。ターナーをやっているサドジンさんと晶さんもおれに入ってこいと言うが、本当にナワに入れるのか不安になった。一本ナワだと、なんとなくこのタイミングで、というのがつかめる。でも、二本になるとタイミングを示されてもいざとなると踏み出せない。
「早く、良太郎くん」
リコさんが急かす。おれは焦ってしまった。目の前で回転するナワに、どのタイミングで飛び込んでも引っかかってしまいそうだ。
「行くんだ、良太郎」
サドジンさんも急かしてきた。えーい、ままよ……。おれが踏み出そうとしたまさにその瞬間、リコさんがおれの手を掴んで、二人でナワの中に飛び込んだ。
「リコさん」
「はい、跳ぶことに集中」
リコさんはおれの目の前でこなれた様子で跳んでいる。ダブルダッチって二人でも跳べるのか。などと感心している場合ではない。ナワの中に飛び込んだ(というよりリコさんに連れられて入った)からには、引っかかってはいけない。おれは足をすくめようと迫り来るナワを必死になって跳んだ。先ほどの楓さんやおれの直ぐ目の前で跳んでいるリコさんに比べたら、断然跳ぶのは下手くそだ。無駄が多いのはよくわかる。でも、おれは必死だった。なぜかナワの中に入ると引っかかってはいけないという義務感に駆られる。
「はい、頑張って」
跳ぶのは意外と大変だ。思った以上に神経を使う。風を切るように、無我夢中でおれは跳んだ。宙を舞うような感覚だ。不思議な気持ちになった。大変だけど、不思議と楽しかった。ナワを一回跳ぶたびに、胸が高鳴った。世界が違って見えた。先ほどまでの大体育館のギャラリーがまるで宇宙のように感じた。無に近い世界の中で、空を切り裂いて、風に乗る。楽しい。実に楽しい。これがダブルダッチか。本当に奇跡みたいなスポーツだ。今初めて喜びを知ったような気分だ。
「あっ」
おれは跳ぶに疲れてペースが乱れてしまい、ナワに引っかかってしまった。途端に元の世界に戻されてしまった。
「ごめんなさい」
「すごい、跳べたじゃないの。良太郎くん」
リコさんはおれの隣で少し汗をかきながら、手を叩いた。周りのみんなも、すごいと言ってくれた。おれは不思議と満足していた。冒険から帰ってきたような気分だ。胸の底から満たされていた。バスケ部時代に味わって、永らく忘れていたものが僕の中で蘇った。
「楽しい……」
疲れてその場に座り込んでいた。汗もかいていた。でも、口からは無意識に「楽しい」の三文字が出てきた。
「すごいですね、ダブルダッチって」
「でしょ。良太郎くん。すごい楽しそうだった」
リコさんは喜んで笑っていた。おれもそれを見て笑みがこぼれた。彼女の微笑みが、おれの胸の中でまた何か違和感を感じさせた。それと同時に、僅かな記憶であるが、彼女と跳んでいる時のことを思い出した。彼女がおれの手を掴む。強引だったけど、柔らかい手だった。おれは女子と手を繋いだことがない。女の手って案外柔らかかった。そしてスベスベしていた。そしていっしょに跳んでいるとき、彼女のショートヘアーから甘い香りがした。そのことを思い出すと胸の違和感がより一層強まった。リコさんはいい人だな、と思った。
「良太郎くん、もう一回跳んでみる?」
おれはうんと頷いた。もう一度この楽しみを味わいたい。
結局、その日は夜の六時まで跳ばせてもらった。楽しい、と言うことしかできないおれの語彙力の無さを恨むが、本当に楽しかった。
「ありがとうございました。みなさん」
「いえいえ、また来てね」
「そうだ、良太郎くん」
リコさんはスマホを取り出した。
「ライン、交換しましょ」
おれはリコさんとラインを交換してもらった。可愛いクマのぬいぐるみのアイコンが表示された。おれはますますリコさんがいい人だと思った。
「ありがとうございます」
「良太郎くんもね。ところでラインのユーザー名、『坊ちゃん』って面白いんだけど」
リコさんはまた笑った。
「あだ名が坊ちゃんなんです」
「『りょーくん』とかの方が似合ってるよ。私、りょーくんって呼んでいい?」
「いいですけど……」
「はい、敬語もやめ。同じ学年でしょ。タメ口でいいのよ」
おれは驚いた。リコさんは面白い人だ。それにおれが考える前にいい答えをくれる。いい友達になれそうだ。
「おいっ、おれとも交換しようぜ」
ハーフの大がラインの交換をせがむので、大とも交換した。
「セーレン・サイード・ファルロフ」
知らない人がこれだけ見ると、ゲームが何かのキャラクターかと勘違いしてしまう。大も面白い人だ。というか、ダブルダッチ部自体個性派揃いでいて退屈しなかった。先輩も随分とおれに優しくしてくれた。バスケ部時代はやたらと上下関係が厳しかった。先輩のユニフォームを間違えただけで怒鳴られた。それと比べると、アットホームな雰囲気で、そこに違和感もあったけれど、先輩の優しさがありがたくも感じた。
ダブルダッチって、面白い。おれは今日一つ、新しい世界を知ることができた、そんな気がした。バスケ部をやめて生徒会に入って早くも二ヶ月。退屈な日々から少しだけ抜け出せた満足感を片手に、おれはその日の帰途に着いた。
「ぶっ」
ナギサ淹れてくれたインスタントコーヒーを口に含んだ途端、吐き出してしまった。
「まずい」
「え?そうですか?」
彼女は不思議そうな顔をしている。
「ナギサ、いつもながらコーヒーの粉を入れすぎ。何杯入れたんだよ」
「軽く四杯……」
「多いよ」
これが総務委員会名物「ナギサブレンド」である。ど天然で味覚音痴のナギサは、コーヒーの苦いのがわからないのか、はたまたナギサが恋する総務委員長の二宮さんの好みに合わせているのか知らないが、世界でこれ以上にまずいコーヒーはないと断言できる。多分まだコーヒーの美味しい飲み方が開発されていなかった頃でさえ、ここまでまずいコーヒーは飲まれていなかった筈だ。
「うん、美味しい」
委員長の二宮さんはこの「毒」をうまそうに飲む。多分彼の味覚も狂っている。こんなの飲んだら間違いなく早死にする。「ナギサブレンド」はなぜまずいのか。おれは観察の末、原因を突き止めた。
このコーヒーがまずい原因はおそらく四つ。
一つ目は、インスタントの粉をナギサが入れすぎることにある。普通どんなに入れても大さじ二杯くらいがコーヒーカップで飲むインスタントコーヒーの限度だろう。でも、ナギサはその二倍。四杯は当たり前のように小さなコーヒーカップに入れる。酷い時はもっと入れる。こんなにコーヒーの粉を入れてもお湯に解ける筈などなく、いつもダマが浮かんでいる。ダマの浮いているコーヒーなんて想像するだけでも飲みたくなくなる。しかし、それが目の前に出ているのだから恐ろしい。「ナギサブレンド」がまずい原因はこれが一番だろう。
二つ目は、砂糖の量だ。二宮さんは甘党だが、砂糖を入れすぎていて、もはやこれはコーヒーではない別の何かに変化している。初めて飲んだ時、その甘さに舌が痺れて、喉が焼け付くような感覚を覚えた。ナギサはその日によって砂糖の量を変えるが、だいたい大さじ六杯は最低でも入れる。角砂糖なら十個は最低でも入る。当然これも溶けるわけがない。飲み終わった後(といっても滅多に飲み干せないが)、下の方に大きな砂糖の山が姿を現わす。
三つ目はお湯だ。ぬるすぎる。コーヒーは九十度くらいがベストだろうか?よくわからないが、少なくともナギサの入れるコーヒーの温度がコーヒーを美味しく飲むのに最適な温度ではないことは、どんな味覚音痴でもわかると思う。多分、六十度よりも低い温度でコーヒーを淹れていると思う。ぬるい。舌触りが悪い。これはなんとかなるだろうと思って何度か言ったけれど、ナギサは聞かない。一回直りかけたことはあったが、次の日にはまた戻ってしまっていた。
四つ目は、仕方がないことかもしれないが、豆が悪い。別に高級な豆を使えとか、特別に焙煎されたものを使えとか、そんな次元の話じゃない。豆の品種の問題だ。コーヒーにはアラビカ種とロブスタ種という大きく分けて二種類の豆がある。前者は香り高く、酸味やコク、苦味が適度にあり、世界で栽培されている豆のうち八十パーセントはこれだという。一方で後者は、酸味もコクもなく、ひたすらに苦い。ロブスタ種のみのコーヒーなど苦くてとても飲めたものじゃない。だからアラビカ種とロブスタ種を混ぜて飲むのが基本だ。でも、ナギサが入れるインスタントコーヒーは値段重視であるため、ロブスタ種の配合割合が高い。予算のない高校の生徒会だから仕方がないことではある。しかしこれはコーヒー自体誰が作っても不味くなるようにできている。世界一のバリスタでもお手上げだろう。メーカーも配合が下手だ。もう少しインスタントコーヒーの研究をしないと十年先、いや五年先にはこのコーヒーは店先から完全に姿を消すに違いない。まともな人間なら、このコーヒーを二度と買おうとは思わない。これを何度も喜んで買うのはナギサくらいしかいないだろう。
入れ方が下手、粉も砂糖も過剰、お湯がぬるい、そもそも豆が悪い。こんなにコーヒーを不味く作る条件が揃っているのだから、どうして生徒会で美味しいコーヒーを味わえるだろう。
出されたのだからいつも飲むけれど、飲み干せたら褒めて欲しいくらいだ。生徒会室で仕事をするたびにナギサは労いの気持ちを込めてコーヒーを作ってくれるが、労いは気持ちだけで十分だ。これを飲むほうが生徒会の仕事よりも辛かったりする。
「で、二宮さん。話ってなんですか?」
おれはこの日、総務委員会の委員長である二宮さんに用事があると呼ばれていた。
「えっとねぇ、坊ちゃん。君に頼みたいことってのはねぇ……」
二宮会長はナギサの淹れた劇薬を片手にゆっくりと優雅に語り始めた。総務委員会委員長、二年五組、二宮桜嗣。桜に嗣と書いて「オウジ」と読むのである。実に面白い名前だ。ただ、その名前の通りなのか、イケメンで成績優秀。運動神経抜群。さらに仲間思いで性格も良くて、味覚音痴なのを除けば非の打ち所がない男である。名前のとおり、まさに生徒会のオウジ様なのである。次期生徒会長としての最優力候補であり、人気も信頼もある。
「実はね、部室のことなんだけど……」
「部室ですか」
「そう。ダブルダッチ部から部室の申請があったのよ。僕が動いてもいいんだけどさ……」
「はい」
「あんま大きい声じゃ言えないんだけど」
二宮さんは嫌に神妙な雰囲気を醸し出すものだから、委員会室に緊張感が漂い始めた。
「不純異性交遊」
「ええっ、不純異性交遊ですか」
「しーっ、声がでかいよ」
「す、すみません」
おれは驚きのあまり大きな声を出してしまった。委員会室にいたハーブティー先輩が飲んでいたお茶を吹き出してしまった。申し訳ないことをした。
「な、何があったんですか?」
「校内の多目的トイレで、その……ね。二年生と一年生の生徒がやるのを先生が目撃したらしいのよ。だから今度の職員会で処分が出るんだけど、生徒会則との照合作業をして、必要書類を生徒会本部に提出しないといけないから、今忙しいんだ」
「それはいいですけど、多目的トイレですか」
「うん、カギかけ忘れたらしい」
馬鹿じゃないか。しかも多目的トイレで高校生のうちから何やってるんだ。
「ま、それはいいとして、部室のこと、頼んだぞ」
「あ、わかりました」
ダブルダッチ部から部室の申請。そういえばダブルダッチと前に二宮さんが言っていたな。あれから忘れていたけれど、ダブルダッチって一体なんなんだ。
「あの、二宮さん」
「うん、なんだい」
「ダブルダッチって何ですか?」
「そういえば前にも聞かれたな。あの時答えなかったっけ?」
「カフカ先生から電話がかかってきて」
「あー、あれか。生物部のセアカゴケグモが脱走した時か」
「セッ、セアカゴケグモですか」
「うん、五匹も逃げて大変だったぞ」
サソリといいクモといい、そんなに毒を持った生物が逃げ出して大丈夫なのか。
「カフカ先生が刺されかけて大変だったよ。あはは」
「笑い事じゃありませんよ」
「えーと、何の話だっけ?」
「ダブルダッチって何って話です」
「そうだったそうだった。んーとね、縄跳びって知ってる?」
当たり前だ。縄跳びを知らないなら日本人じゃない。おれは当然ですと答えた。おー、知ってるのか、と言って笑ってきた。二宮さんはたまに人を笑っていじくる。おれのことをバカにしてやがらぁ。
「で、縄跳びがどうしたんですか」
「うん。でさ、小学生の頃に大縄跳びってしたろ」
「やりました」
「大縄跳びだよ、要するに」
「え?」
大縄跳び、だと。おれは驚きを隠せなかった。そして少し失望した。
小学生の頃にやった大縄跳びをよく覚えている。やたらとつまらなかった。あんなものなぜ小学生にやらせるのかわからなかった。縄を回すのはいいのだが、飛ぶ段階になると必ず躊躇するやつがいて、うまく流れを作れない。あれが嫌だった。クラス対抗で飛べる回数を競ったりもした。今から思えば、実にくだらなかった。ヒモを回してそこに飛び込んで引っかからないように飛ぶ。これだけの単純すぎるスポーツだ。バスケと大縄跳びを比べたらちっともエキサイティングでもないし、戦略も作戦もないし、物語も友情もへったくれもない。大縄跳びはスポーツの中でも最も低俗なものだとおれは思う。
「なんだ、大縄跳びですか。あんなもののどこがカッコいいんですか」
「お前見たことないのか、ダブルダッチ」
ないです、とおれが言った。先ほどよりもだいぶテンションの低い声だったと思う。
「ふーん。おれはすごいカッコいいと思うけどな」
「大縄跳びのどこにカッコよくなる要素があるんですか。意味がわかりません」
「まあまあ、そう言わずに。どうだ、一回ダブルダッチ部の活動見に行ってみたら」
二宮さんは突然おれに提案してきた。
「見学ですか」
「見ないのにカッコいいかどうかなんてわからないだろ。見に行ってみなよ。大丈夫、ダッチ部の人みんないい人たちだから」
「そうですかねぇ」
おれはあまり乗り気ではなかったが、二宮さんは誰かに電話をかけていた。「あー、もしもし。影山?今から見学一人行くよ、いい?」と言っていた。影山さんというのはダブルダッチ部とやらの人間だろう。もう半ば強制的に行かされそうである。
「いいってよ、坊ちゃん。行ってきなよ」
「はぁ、わかりました」
おれは二宮さんに送り出されて、ダブルダッチ部を見に行くことになってしまった。いくらなんでも唐突すぎる。思い立ったが吉日などという言葉もあるが、果たしてこれが吉と出るのか凶と出るのかおれにはわからない。
ダブルダッチ部とやらは学校に二つある体育館のうち、大きい方の体育館のギャラリーで練習しているらしい。ふつうに生活していたら滅多にギャラリーなんていかない。おれがバスケ部だった時も一度もギャラリーに行った記憶がない。おれの学校はスポーツが盛んなせいなのか、やたらと体育館が広い。公式試合サイズのバスケのコートを二つとって、そこにさらにバトミントンが練習できる。そして今から行くギャラリーも広いと聞いているので、他の団体が練習することもできる。なかなかないサイズだ。もう一つの体育館もそれなりに広い。初めて見た時に腰を抜かしそうになってしまったくらいである。今となっては体育館の広さに慣れたが、来年もそのまた来年も、おれのように驚く後輩が出てくるのだろう。
大体育館に着くと、中からバスケットボールをつく音が聞こえてきた。なんだか懐かしい気分になってしまった。コートに立って、走り、点を取りあって、勝敗を競うあの楽しさは忘れられない。少しだけバスケが恋しくなってきた。でも、今日の目的はバスケットボールでは無い。ダブルダッチなるものを今から見せてもらうのだ。おれは妙な気分だった。敵地に乗り込むといった表現がしっくりときた。心臓が高鳴る。おれはやたらと緊張していた。試合に出る前のような心持ちである。
大体育館の外側にある階段を登り、おれはギャラリーの扉に差し掛かった。目の前の鉄扉が敵のアジトか。中からは音楽が聞こえてくる。ビとートの効いた、流行りのJ-popである。大音量の音楽が外まで聞こえてくる。おれはダブルダッチがますますよくわからなくなった。こんなに大音量で音楽を流して縄跳びをする。その図が全く想像できない。頭の中はもうぐちゃぐちゃに混乱していた。
おれが扉の前で戸惑っていると、だれかが階段を上がってきた。
「ん、なんか用ですか?」
階段を上がってきたのは、身長百九十センチはゆうに超えているであろう大男だった。しかも筋肉隆々。そして目が隠れるほど髪が長い。どこぞの歌手みたいななりをしていた。
おれは少々びびってしまった。まずいところに来てしまったと思った。こんな怖そうな人間がいる部なのだからやばいことがあるに違いない。
大男は不思議そうな目つきでおれの方を見ていた。おれは黙ってそこに立っていた。なんて言えばいいかわからなかった。微妙な空気がそこにあった。十秒ほど沈黙が続いた。大男はおれから目を離して、ギャラリーの中に入っていってしまった。中から声がした。「なんか外にいますよ」という主旨のことが聞こえて来た。失礼なやつだ。なんかとはなんだ。おれには与田良太郎という立派な名前もあるし、坊ちゃんというあだ名もある。しかしよく考えると向こうはおれを知らないのか。そうだ、おれも向こうを知らないし、なんかと言われても仕方ない。
おれがこんなことを考えていたら、ギャラリーからミディアムヘアの女子が出てきた。おそらく二年生だろう。雰囲気でわかる。
「あ、君が坊ちゃん」
おれは頷いた。二宮さんがおれのあだ名を伝えていたのだろう。でなけりゃ坊ちゃんなんてあだ名か出てくるはずがない。
「そうです。二宮さんから言われてきました」
「嬉しいわ。はじめまして。私が二年生の影山楓です」
影山楓と名乗るこの先輩は丁寧におれに頭を下げた。礼儀正しい人だ。おれなら年下に頭なんか下げやしない。おれも一応挨拶はしておいた。先輩だけか頭を下げるのはどうも違う気がする。
楓さんはおれをギャラリーに招き入れた。相変わらずギャラリーからは賑やかな音楽が聞こえてくる。今度は洋楽だった。声の高い男の声が聞こえてくる。おれはあまり音楽など聞かないからよくわからない。
ギャラリーには何人かいた。まだ何かやっている様子はなかった。皆スマホをいじっている。これから練習のように見えた。
「みんなー、見学だって」
楓さんがこう言った途端、みんなスマホをやるのをやめておれの方を見た。一斉に見られるものだから少しどきりとしてしまった。だがここでびびってられない。おれは胸を張っていつもよりも大きな声で自己紹介した。
「一年五組、与田良太郎です。本日見学させてもらいます、よろしくお願いします」
おれが頭を下げると、「おおっ!」とか「やった」とか喜ぶ声が聞こえてきた。人が見に来るだけでそんなに嬉しいだろうか。中には飛び跳ねている女子や、拍手までする奴もいた。大げさな演出だ。二宮さんに言われて来ただけなのに。
おれが自己紹介を終えると、早速おれの元に来るやつがいた。鼻が高くて、髪が微妙に黒と金色が混ざったような色だった。ハーフなのだろうか。
「どうも、良太郎くん。おれは有賀・セーレン・サイード・ファルロフ・大です」
「え?」
うまく聞き取れなかった。有賀まで聞き取れたが、そのあとがよくわからない。
「どうしましたか?」
「すみません、ちょっとぼーっとしてしまって。もう一度言ってくれませんか?」
「有賀・セーレン……」
「あー、もう少しゆっくり言ってくれませんか?」
「だから、あ・る・が・セー・レ・ン……」
ゆっくり言ってもらって、やっと目の前のこの男の名前がわかった。セーレン・サイード・ファルロフ・大。ハーフでもこんな長い名前聞いたことが無い。
「長い名前ですね。まるで寿限無ですよ」
「よく言われます。俺、実はハーフなんです」
見ればわかる。それに、こんな長いカタカナの入った日本人いてたまるか。
「どことのハーフなんですか?」
「母は日本人、父はデンマーク人です」
「ふーん」
「で、母の父はイランのペルシャ人、そのまた父はオスマン帝国出身のトルコ人です。でそのまた……」
「待って待って。あんた何者?結局どことのハーフよ」
「一応、日本、デンマーク、フィンランド、アイルランド、イラン、そしてトルコの血が混ざってます」
「すごい家だね」
「ウチ、ハーフばっかなんです。みんな同じ国の人と結婚しない。俺も多分そうなると思います」
面白い人だ。こんな人も世の中にいるのだなと感心していたら、有賀・セーレン・なんとかの隣に見たことがある顔がいるのが気がついた。
「春香さんじゃないですか」
「こんにちは、良太郎くん」
クラスメイトの羽多野春香さんだ。おれの隣の隣の席の人である。長い髪を右のポニーテールにしている。可愛い系の女子としてだいたいの男子が二度見する。おれは別に誰が可愛いとかそんな話に興味はないが、噂くらいはよく聞く。学年にゲスい男子は随分と多いような気がする。アホな話なんてしないでいいのに。思うことがあれば心に留めておけば良いのだ。
おれは春香さんに挨拶を終えると、違和感に気づいた。春香さんが二人いる。まるで鏡に映った人間がそのまま出て来たように、春香さんにそっくりな人間がいた。
「ドッペルゲンガー?」
おれが思わずこう口走ると、もう一人の春香さんが「失礼ね」と言ってきた。口調や声音までそっくりである。
「私は羽多野秋音。春香の双子の妹」
「えっ、春香さんって双子だっだですか」
二人は同時に頷いた。見た目どころか動きまで完全にシンクロしている。双子に間違いない。
「うん。右のポニーテールの方が春香」
「左のほうが秋音」
そう言われてやっと二人の共通項に気づくことができた。この二人は見た目まで瓜二つである。二人の共通点よりも相違点を探せというほうが大変だ。
「で、一年生もう二人いるんだけど……宮城、そこでスマホいじってないでこっち来て」
「ん」
先ほどの大男だ。ギャラリーの隅の方で憂鬱そうにスマホをいじくっている。
「なんすか?」
「ほら、見学の人来たから自己紹介して」
宮城と呼ばれた大男はのっそりと立ち上がり、こちらに来た。やはりかなりでかい。
「どーも。えっと、宮城碧です。その……」
宮城碧という男は黙り込んでしまった。
「ごめんなさい、この人話すの苦手で」
「構いませんよ」
「えっと、今紹介したのが一年生で、全部で五人。あと二年生が……」
「おう、おれは佐渡仁介。サドジンと呼んでくれ」
楓さんが二年生について言う前に威勢のいいのが自己紹介して来た。おれは「どうも」と返すと、いきなり握手して来た。力が強い。手が痛くなる。
「じゃあよろしくな、その……山田くん」
「与田です」
「そうだった。で、その委員長の二階堂くんだっけ?」
「二宮さんです」
「そう、そいつだ。で、あだ名がついてるんだろ。蟹工船」
「坊ちゃんです」
この世の中に蟹工船なんてあだ名がいてたまるか。サドジンさんはどうやら人の名前を覚えるのが苦手らしい。熱そうな人だが、頭が足りなさそうだ。
「よろしくお願いします」
「うむ。おい、晶。何してんだ、こっち来い」
サドジンさんに呼ばれてもう一人来た。メガネをかけた、暗そうな人だった。
「あ、どうも。星野晶です……」
声も小さい。おれか「よろしくお願いします」と言っても「あ、うん」と帰ってくるばかりで、普段は無口なのだろうと察しがついた。
「二年生は私を含めて三人。三年生は今日補修だからいないの」
「梨子だけまだ来てなくね?」
「あら、そうね。ま、いいわ。練習始めましょ。そのうち来るでしょ。良太郎くん」
「はい」
「ダブルダッチを見るのは初めて?」
おれはうんと頷いた。
「そう。じゃあ見えるところで見ててね」
「あの、すみません」
「どうしたの」
「ダブルダッチってなんですか」
おれは楓さんに尋ねた。未だにダブルダッチというスポーツのイメージが頭に湧いてこない。
「あら、二宮くんから聞いてないの?」
「大縄跳びだとは聞いてます」
おれがこういうとダブルダッチ部の人はみんな笑い出した。おれは二宮さんに言われたことをそのまま言っただけだ。
「おおざっぱねぇ。まあ、あながち間違ってはないけど。ダブルダッチとふつうの大縄跳びは全然違うのよ。まずね……」
楓さんはギャラリーの端っこに置いてあった登山用のザイルよりも少し短くて細い縄を二本持ってきた。
「これがナワ。ダブルダッチってのは二本のナワを回して、その中で跳んだり、パフォーマンスをしたりするのよ」
二本縄を回す。なるほど、二本も回せば大縄跳びよりも難易度が上がって面白くなるだろう。なかなか興味深い。
「じゃあ跳ぶところ見せるわね。サドジン、晶。ターナーやって」
「そのターナーってやつもなんですか」
「あ、ごめん。例えばバスケでもセンターとかフォワードってポジションがあるでしょ。あれと同じでダブルダッチにも一人一人の役割があるの。ターナーはナワを回す人。他にもジャンパーとか言ったりするけど、まあそれは多分わかってもらえると思うわ。いいから見てみ」
おれはギャラリーの隅の方によって邪魔にならないようにして、言われるがままにパフォーマンスを見せてもらうことにした。
「音楽どうするよ」
「なんでもいいよ、早くしようぜ」
晶さんが流行の音楽を大音量で流し始めた。
サドジンさんと晶さんが二本ナワの両端を握つた。ここまでは小学校時代にやった大縄跳びとほとんど変わらない。変わっていることは二本のナワを使うことくらいだ。サドジンさんと晶さんはナワをピンと張って、そこからゆっくりとナワを回し始めた。ナワを回しながら二人の距離をだんだんと縮めていき、ちょうど一人が中で跳んでも引っかからないくらいの高さまでナワの円は大きくなった。二人の回すナワは一本は左回転、もう一方は右回転。双縄が交互に地にあたり、小刻みに心地よい音を立てながら、一定のリズム、スピードでナワは回っていた。
「いくよ」
楓さんがサドジンさんと晶さんの二人に合図を送ると、二人は「ワン、ツー、スリー」とカウントを始めた。
「ファイブ、シックス、セブン、エイト」
二人の数えるエイトカンウントのエイトからワンに戻る狭間で、楓さんはふわっとステップを踏み出して、二本のナワが回るに飛び込んだ。
楓さんの足に二本のナワが一定のリズムで交互に迫り来る。それを彼女はものともせず、軽快なステップを踏みながら足をすくめようと襲い来るナワを軽々と跳んでみせた。実に鮮やかだ。大縄跳びを飛ぶ時、もっと下手くそな飛び方をする。大縄跳びはみんな大げさに足を高く上げてやたらと疲れる跳び方をするが、楓さんは全然違った。地面から足がついたまま跳んでいるのではないかと錯覚するほど低く跳んでいた。跳んでいる、というよりナワを自在に操りながら踊っているようだった。
「すごい」
おれの口から思わず言葉が漏れた。うまく言葉にできないが、楓さんが二本のナワの中で跳ぶ姿は、本当に美しく、そして雄大だった。おれは語彙力がない。普段は気にもしなかったが、今この瞬間、おれの語彙がないことを悔やんだ。このパフォーマンスを形容できないなんて、とても悔しい。
「これはすごいですね」
「まだ驚くのは早いよ、良太郎くん」
ハーフの大がおれに言った。まだすごいことが起こるのかと聞いたら、そうだと大は答えた。おれは胸が高鳴った。これから何が起こるのだろうかとあれこれと予想を立てた。が、おれの期待は大きく裏切られることになった。悪い方向ではない。想像を遥かに絶することが目の前で起こったのだ。
楓さんは跳ぶのをやめてナワから出ると、今度は代わりにハーフの大がナワの中に飛び込んだ。すると大はしゃがみこんだ。おれは一瞬己の目を疑った。しゃがんだまま飛んでいる。もちろん、先ほどよりはゆっくりとナワは回っているが、大は引っかかることなく、しゃがみながら楽々と跳んでいた。
おれは息を飲んだ。開いた口が塞がらなかった。人間にこんなことができるのか。使っているのはたった二本のナワだけである。信じられない。大縄跳びだと完全に見くびっていた。ここまですごいことができるなんて思いもしなかった。
大は驚きを隠せないおれにまだまだだよと言わんばかりの表情を浮かべ、今度は立ち上がったかと思ったら、逆立ちをして腕で跳びはじめた。なんという腕力だろうか。縄跳びはてっきり足で跳ぶものばかりだと思っていた。腕で跳ぶなんて、未知の世界の出来事としか思えない。
大は五回ほど腕立てしたまま跳んだら、流石に辛くなったのかナワの外に出た。
「どうだ」
おれは無意識のうちに拍手をしていた。目の前で起こっていたことに驚きと感動を禁じ得なかった。奇跡かなにかとしか思えなかった。
「これがダブルダッチか」
「そうだよ。すごいだろ。世界一カッコいいスポーツさ」
大は得意げな様子で言った。正直ここまでとは思っていなかった。予想はしていた。だがおれの予想なんて瞬く間に破られてしまった。大縄跳びなんて……そう思ってナメていたが、これは別次元のスポーツだ。これは縄跳びなんてレベルじゃない。たった二本のナワで異次元の世界を作り出す、奇跡とも呼べる代物だ。
「驚いてるわね、良太郎くん」
部長の楓さんはうふふと笑った。それにしても良太郎くんなんて呼ばれるのは妙な気分だ。坊ちゃんと長らく呼ばれてきたから、下の名前で呼ばれるなんて違和感が拭えない。
「感動しましたよ、ダブルダッチに」
「だろー」
サドジンさんがおれの肩に腕をかけた。でかい体だ。
「さてさて、今度はお前が跳べよ」
「おれですか」
おれは戸惑った。ダブルダッチがどういうものかよくわかった。でも、一度見たきりであんな軽やかに跳んだりできるわけがない。
「いや、おれは……」
そう言いかけた時、ギャラリーの扉が開いて、急ぎながら誰かが入ってくるのがわかった。
「ごめんなさい、遅れました」
「リコ、遅いよ」
入ってきたのはショートヘアの女子だった。真っ白いシャツに運動用の短いズボンを履いている。
「どうしたの?」
「すみません、生物部のカメレオンが逃げ出したそうで。手伝わされてました」
またか、とおれは思わず言ってしまった。生物部から生き物が逃げ出すのはもう今年四回目だ。
「あら、この人は」
リコ、と呼ばれていた女子はおれを不思議そうな目で見てきた。大きな目だ。ブラックオニキスの宝玉みたいだ。
「あ、見学の人」
「総務委員会の一年生の与田良太郎です。坊ちゃんって呼ばれてます」
「あら、どうもご丁寧に」
おれが頭を下げるとこの女子も丁寧に頭を下げてくれた。
「ダッチ部入るんですか?」
「いえ、その……」
「わぁー、すごい。足の筋肉とかやばいですね」
リコさんはおれの足を見て感心していた。バスケ部時代、毎日ゆうに十キロは走っていた。辞めてからも、体が動いてしまい、毎日走っていた。多分現役の頃と筋肉量は変わらない。
「どうもです」
おれは少し照れてしまった。バスケ部にはおれよりも筋肉のついたやつは沢山いる。筋肉がないとけなされることはあっても、褒められることは珍しい。なんだか嬉しくなった。
「その、与田くんでしたっけ?よろしくお願いします。私、福田梨子。一年四組です」
「どうも」
彼女は満面の笑みをおれに浮かべてきた。明るくて気さくな人だと思った。花の咲いたような笑顔である。いつまで見ていてもいいなと思えた。
「リコ、これから良太郎くん跳ぶから、跳び方教えてあげて」
リコは楓さんに元気よく返事すると、おれの近くに寄ってきた。近い。いくらなんでも近い。おれの体まで五十センチのところに寄ってきた。
「えっと、跳ぶの始めて」
「無論。今日初めてダブルダッチを見ました」
「あ、そう。簡単よ、まずねぇ、ターナー二人が回してくれてるナワあるでしょ」
「はい」
「そこにタイミングよく入ればいいのよ」
「そのタイミングがわかりません。いつ飛び込めばいいのか……」
「エイトカウント数えてみて」
おれはいち、に、さんと数えた。そしたら笑われた。
「英語よ」
リコさんも笑った。綺麗な笑い方をする人だった。口元に手を当てて、微笑む。おれは少しだけ胸騒ぎがした。
「ワン、ツー、スリーって数えて」
「ワン、ツー、スリー、フォー……」
「で、エイトまで数えたらワンに戻って。ナワに跳びこむタイミングはフォーとファイブかエイトとワンの間。私が数えてあげるから、そこでナワに飛び込んで」
「えっ、あの」
「大丈夫。できるから。自分を信じて」
リコさんは多少強引におれがナワまで一歩のところに連れて行くと、エイトカウントを数え始めた。
「いくよ、ワン、ツー、スリー、フォー……」
おれはナワに跳びこむのを躊躇した。いざ跳びこむとなると、引っかかってナワを止めてしまいそうな気持ちになる。恐怖に近い感覚だ。女の子に告白しようと思うけど、いざ好きな子を目の前にすると言葉が出なくなるのと構造は同じだ。
「ホラ、飛び込まないと」
リコさんはおれに入るようにせがむが、おれは足が動かなかった。入ろうとする。でもやはり踏み出せない。ターナーをやっているサドジンさんと晶さんもおれに入ってこいと言うが、本当にナワに入れるのか不安になった。一本ナワだと、なんとなくこのタイミングで、というのがつかめる。でも、二本になるとタイミングを示されてもいざとなると踏み出せない。
「早く、良太郎くん」
リコさんが急かす。おれは焦ってしまった。目の前で回転するナワに、どのタイミングで飛び込んでも引っかかってしまいそうだ。
「行くんだ、良太郎」
サドジンさんも急かしてきた。えーい、ままよ……。おれが踏み出そうとしたまさにその瞬間、リコさんがおれの手を掴んで、二人でナワの中に飛び込んだ。
「リコさん」
「はい、跳ぶことに集中」
リコさんはおれの目の前でこなれた様子で跳んでいる。ダブルダッチって二人でも跳べるのか。などと感心している場合ではない。ナワの中に飛び込んだ(というよりリコさんに連れられて入った)からには、引っかかってはいけない。おれは足をすくめようと迫り来るナワを必死になって跳んだ。先ほどの楓さんやおれの直ぐ目の前で跳んでいるリコさんに比べたら、断然跳ぶのは下手くそだ。無駄が多いのはよくわかる。でも、おれは必死だった。なぜかナワの中に入ると引っかかってはいけないという義務感に駆られる。
「はい、頑張って」
跳ぶのは意外と大変だ。思った以上に神経を使う。風を切るように、無我夢中でおれは跳んだ。宙を舞うような感覚だ。不思議な気持ちになった。大変だけど、不思議と楽しかった。ナワを一回跳ぶたびに、胸が高鳴った。世界が違って見えた。先ほどまでの大体育館のギャラリーがまるで宇宙のように感じた。無に近い世界の中で、空を切り裂いて、風に乗る。楽しい。実に楽しい。これがダブルダッチか。本当に奇跡みたいなスポーツだ。今初めて喜びを知ったような気分だ。
「あっ」
おれは跳ぶに疲れてペースが乱れてしまい、ナワに引っかかってしまった。途端に元の世界に戻されてしまった。
「ごめんなさい」
「すごい、跳べたじゃないの。良太郎くん」
リコさんはおれの隣で少し汗をかきながら、手を叩いた。周りのみんなも、すごいと言ってくれた。おれは不思議と満足していた。冒険から帰ってきたような気分だ。胸の底から満たされていた。バスケ部時代に味わって、永らく忘れていたものが僕の中で蘇った。
「楽しい……」
疲れてその場に座り込んでいた。汗もかいていた。でも、口からは無意識に「楽しい」の三文字が出てきた。
「すごいですね、ダブルダッチって」
「でしょ。良太郎くん。すごい楽しそうだった」
リコさんは喜んで笑っていた。おれもそれを見て笑みがこぼれた。彼女の微笑みが、おれの胸の中でまた何か違和感を感じさせた。それと同時に、僅かな記憶であるが、彼女と跳んでいる時のことを思い出した。彼女がおれの手を掴む。強引だったけど、柔らかい手だった。おれは女子と手を繋いだことがない。女の手って案外柔らかかった。そしてスベスベしていた。そしていっしょに跳んでいるとき、彼女のショートヘアーから甘い香りがした。そのことを思い出すと胸の違和感がより一層強まった。リコさんはいい人だな、と思った。
「良太郎くん、もう一回跳んでみる?」
おれはうんと頷いた。もう一度この楽しみを味わいたい。
結局、その日は夜の六時まで跳ばせてもらった。楽しい、と言うことしかできないおれの語彙力の無さを恨むが、本当に楽しかった。
「ありがとうございました。みなさん」
「いえいえ、また来てね」
「そうだ、良太郎くん」
リコさんはスマホを取り出した。
「ライン、交換しましょ」
おれはリコさんとラインを交換してもらった。可愛いクマのぬいぐるみのアイコンが表示された。おれはますますリコさんがいい人だと思った。
「ありがとうございます」
「良太郎くんもね。ところでラインのユーザー名、『坊ちゃん』って面白いんだけど」
リコさんはまた笑った。
「あだ名が坊ちゃんなんです」
「『りょーくん』とかの方が似合ってるよ。私、りょーくんって呼んでいい?」
「いいですけど……」
「はい、敬語もやめ。同じ学年でしょ。タメ口でいいのよ」
おれは驚いた。リコさんは面白い人だ。それにおれが考える前にいい答えをくれる。いい友達になれそうだ。
「おいっ、おれとも交換しようぜ」
ハーフの大がラインの交換をせがむので、大とも交換した。
「セーレン・サイード・ファルロフ」
知らない人がこれだけ見ると、ゲームが何かのキャラクターかと勘違いしてしまう。大も面白い人だ。というか、ダブルダッチ部自体個性派揃いでいて退屈しなかった。先輩も随分とおれに優しくしてくれた。バスケ部時代はやたらと上下関係が厳しかった。先輩のユニフォームを間違えただけで怒鳴られた。それと比べると、アットホームな雰囲気で、そこに違和感もあったけれど、先輩の優しさがありがたくも感じた。
ダブルダッチって、面白い。おれは今日一つ、新しい世界を知ることができた、そんな気がした。バスケ部をやめて生徒会に入って早くも二ヶ月。退屈な日々から少しだけ抜け出せた満足感を片手に、おれはその日の帰途に着いた。
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