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第一章

相思相愛(仮)

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 ムラトが目を覚ましたのは、昼過ぎになってからだった。
 勝手に退散するわけにもいかず、服を身に着けて鍛冶場に足を向けると、それを待ち構えていたかのようにブロンテスが姿を見せる。
 怠惰だ何だと言われつつ、ムラトは巨大な風呂に浸けられた。
 そのあとはサイクロプス達の昼食の席に侍らされ、酌をさせられたり、山盛りの肉料理を口元にねじ込まれたりと忙しかった。

 サイクロプス達から乱暴で手厚い歓待を受け終えたムラトは、粛々と来た道を戻っている。
 だが、独りではない。
 ムラトの前には緩慢にも見える脚運びで進むブロンテスが居た。
 地下世界の環境の変化は地上の比ではなく、今は気を抜くと身体が吹き飛ばされそうなほどの強風が荒野に吹き荒れていた。
 それでも消えない濃厚な霧のなか、ムラトはひたすらにブロンテスの背中を追いかける。
 よたよたと雛鳥のようにおぼつかない足取りのムラトを、ブロンテスは時折振り返りながら、何も言わずいつもの地点へと足を向けた。
 
 朽ち折れた円柱が点在する遺跡の真ん中に、ぽっかりと丸い空間があった。
 御影石で出来た円の中央に来たブロンテスは、とんとんとサンダルの裏でそこを軽く踏み鳴らす。
 すると、目の前には天まで届く石段が現れた。
 これを登っていくうちに、ムラトはいつしか地上に出るのだ。
「お手数おかけしました」
 武具を詰め込んで膨れた背嚢を背負い直し、ムラトはブロンテスへと会釈をした。
 ブロンテスは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「お前如きがどうなろうと知ったことではないが、折角鍛えた物まで飛ばされるのは御免だからな」
 腕組をしたブロンテスは、顎をしゃくって階段を指した。
「ニンゲン風情に安く買い叩かせるようなことは許さん。いいな?」
「勿論です」
「分かったなら、さっさと行け」
 普段は一刻も早く階段を上りたそうにしていたムラトだが、ブロンテスの眼には、何故か石段に足をかけるのを躊躇っているように見えた。
 野良犬を追い払うような仕草で腕を払われたムラトは、のそのそと階段を上り始めた。
 三、四段登ったところで、ムラトはくるりと振り返る。
 丁度ブロンテスの顔と己の顔とが水平になる高さだ。
「何だ」
 訝しげに単眼をしかめるブロンテスの頬に、ムラトの両手が伸びる。
 ムラトは身体を伸ばして顔を近づけると、そのままブロンテスの左頬に軽く口付けをした。
「な……」
 予想だにしない人間の挙動に、巨体が石のように固まる。
「お前、何を」
「何って、別れの挨拶ですが。あ、こちらではしないんですかね? おっと」
 少し照れくさそうにぼりぼりと頭を掻くムラトだが、吹き降ろす強風に煽られてたたらを踏む。
 極度に態度を軟化させたムラトの行為に放心していたブロンテスだったが、己のある言葉が脳裏を過った。
『俺に身も心も捧げるのなら、これを挿れてやる』
 言った。
 確かに言った。
 目の前のコレに誓わせた。
 交わりの最中にさせた宣誓をすっかり忘れていたことに、ブロンテスは眩暈を覚えた。
 ヒト同士であればただの口約束でも、旧き神の血を引く者との間に交わしたとなると話は別だ。
 ムラトの脳は文字通り、身も心もブロンテスに捧げたという認識で上書きされていた。
「ブロンテス様でも、驚くことがあるんですね」
 へへへ、とやけに嬉しそうにムラトは笑う。
 いつもは見下ろしているその顔が、今はすぐ目の前にあった。
 ドン、と大きな音をさせ、ブロンテスは片足で石床を踏みしめる。
 すると、階段が根元から消え始めた。
 砂の城が風で飛ばされるように、石段が細かな光の粒子となって散ってゆく。
 それはすぐにムラトの足元までやってきた。
「おわっ!?」
「下らんことを申すな。とっと走れ、死にたいのか」
「すみませんでしたっ!」
 脱兎のごとく階段を駆け上る人間の後ろ姿を、ブロンテスはいつまでも見上げていた。

 ⚔

 ムラトが息を切らせ、無我夢中で階段を駆けあがっていると、不意に光が目に射してきた。
 その眩しさに思わず腕で顔を覆うと、ふっ、と足元に浮遊感を覚える。
 軽く身体が浮いたかと思うと、気づいた時には木々の緑と苔むした岩に囲まれていた。
 地上世界に戻ってきたのだ。

 ムラトは森を抜け、消えかかる馬車の轍の跡を頼りに草原を歩く。
 空には今にも雨粒を零しそうな、厚ぼったい灰色の雲が広がっていた。
 雨の予感に自然と足早になるムラトだったが、右手奥の草むらから、何者かの視線を感じた。
 ──魔獣、か?
 ブロンテスから与えられた金具の魔力は生きている。
 武器だって腰に吊ったものから背嚢のものまで選り取り見取りだ。
 だが、決して闘いが得意ではないムラトは、緊張にその背を強張らせた。
 こちらの姿は見えないはず。
 だが、音はどうだ? 匂いは?
 目を潰しても襲い掛かる魔犬に、腕を噛み千切られた用心棒が居なかったか?
 思わずムラトが視線の方に目をやった、その時だった。
 ガサガサッと長い草を波立たせ、四つ脚の何かがムラト目掛けて駆けだした。
 ぎょっとしたムラトは、思わず足を止める。
 それは戦士として、最悪の反応だった。
 草むらの隙間から、黒毛に覆われた獣の前脚が飛び出す。
 赤黒い鉤爪が、矢のようにムラトの首元へ繰り出される。
 ムラトが一瞬遅れて腰のメイスに手を伸ばした、その瞬間だった。
 耳をつんざく轟音。
 目玉が灼けるほど眩い雷光。
 それらが一直線に獣へ直撃した。
 驚き飛び退いたムラトは、重たい背嚢に引っ張られながら尻もちをつく。
 目の前には、黒い塊が肉の灼ける悪臭と共に煙を立ち昇らせていた。
「助かったぁ……」
 きっと魔王討伐目的の冒険者へ武器を売ってやったのが、幸運を招いたのだ。
 そう思ったムラトは、天に向かって手を組んで祈ると、足取りも軽く村への道を歩み出した。

「随分と過保護じゃないか、兄弟」
 応接間の長椅子に片肘をついて寝そべりながら、机の上にある巨大水晶を眺めていたブロンテスに、背後から声がかけられた。
 からかいを含んだその声は、ブロンテスの神経を刺激する。
 兄弟ケラヴノスの声を無視していると、また別の声が背後から降ってきた。
「見ろ。ニンゲン君は天に祈っているぞ。報われないな、兄弟」
 吹き出しそうになるのを堪えている兄弟カテギートスの言葉に、ブロンテスはむくりと巨体を起こした。
「今度来た時に躾けてやる。お前達はちょっかいをかけるなよ。全く……」
 ブツブツと不満を口にしながら、ブロンテスは部屋から出て行った。
 その様子に、残された二人は顔を見合わせる。
「聞いたか。ちょっかいをかけるな、だと」
「そう言われると、してみたくもなるな」
 ケラヴノスとカテギートスはニタリと口の端を吊り上げた。
 すると、ひゅっという風切り音が二人の間を駆け抜ける。
 間を置かず、がつん、と石の割れる硬い音が鳴った。
 二つの大目玉が音の方向を見やると、壁には鈍色の投斧が突き刺さっていた。
 開け放たれた扉の向こうから、ブロンテスが投擲したようだ。
「おお、怖い怖い」
「はは、冗談だよ」
 そうして暫く、部屋には雷鳴のような笑い声が響いていた。

第一章 終
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