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八 相違

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 なぜこうなったのか。
 そもそも、六玄が何を言っているのか。
 怒りと哀しみに燃え上がった眼でこちらを見据える鬼が恐しく、どっどっと長治郎の左胸奥が早鐘を打つ。
 俺は悪酔いしておかしな幻を見ている。
 そう思いたくとも、先ほど掴まれた両肩に食い込んだ指の感触が未だじんじんとした痛みとなって残っており、それが夢でも何でもないとしきりに告げてきていた。

 拳二つほど開けた先に座る鬼は、手が出そうな己を戒めているかのように、しっかりと両腕を組んで長治郎を睨みつけている。
 その眼は仇敵を見たときの殺気溢れるそれではなく、情念が焦げ付き粘ついた暗い光が宿っていた。
 まさに、伴侶の不貞を詰る者の眼である。
 長治郎にはこのような恨みがましい様子で見下ろされる心当たりが無い。
 それに、さっきの言葉も不可解だった。
 一緒になる? 俺とロクが?
 まさかこのナリで女だったっつう訳はあんめぇな。
 それとも俺のこと女だと思ってっとか?
 長治郎はそう考えもしたが、それはあり得ないことであると既に気づいている。
 裸こそ見せ合っていないものの、二人はふざけ合いの成り行きで互いの身体に触れている。
 長治郎が枕にした股座にはしっかりと立派な雄の膨らみがあり、逆に長治郎の胸板には六玄の背に押し付けるだけの柔らかな膨らみは皆無だった。
 顔立ち、声、手足、諸々から互いが男であることは分かり切っているはずだ。
 長治郎は六玄がなぜ恋仲の相手から別れを告げられたかのような顔でいるのか、本当に分からないでいた。
 
「もう一度問うが、某という者がありながら嫁を探すというのか、そなたは」
 某という者がありながら?
 その言葉は頭の中にパンパンに膨れ上がり、長治郎の思考を止める。
「さ、さっきからよお、訳わかんねぇどワレ」
「訳が分からぬのはそなたの方だ」
「なっ……! ごじゃ言ってんのはおめぇの方だっぺよ! まるで俺らが、その、夫婦んなる約束したみてぇな事言って」
「そうだ」
「はぁ!?」
「そのつもりで通ってきていたのではないのか、長治郎」
 長治郎は己の頭が巨大な釣鐘になり、力いっぱい橦木で突かれているように思えた。
 六玄の声が空っぽの頭にごわんごわんと響き、体中を揺らしていくようであった。

 ↦

 なぜ六玄がを起こしたか、そのことを語る前に、少しだけ洗足六玄という鬼について触れておきたい。
 長治郎からすれば支離滅裂な怒りをぶつけられたようなものだが、六玄には六玄の理路がある。
 まず初めに言っておかなければならないことは、六玄という鬼は、見てくれに反してかなりの粗忽者であるという点である。
 
 妖の世で鬼の武家に生まれついた六玄は、実の親からも三男坊で良かったと言われる程度にはそそっかしく、また、思い込みが激しかった。
 幼い頃は兄が公の場で親類と揉めたと聞けば、ろくに話も聞かず武具を引っ提げて飛び出していこうとするような小童であり、何度その兄や父の手によって庭に腹から上をのめり込ませられたか分からない。
 ヒトであれば即死の所業も鬼にとっては頭を小突かれた程度のものだが、それでも言って聞かせる前にみっともなく庭の木にさせられる程度には厄介だった。
 元服し、ヒトより長い時間を生きて大人の仲間入りをした六玄だったが、その気性は未だ体の芯に残っている。
 何より不幸だったのは、その猪ぶりと相反する面構えに育ってしまったことだ。
 家の鬼の中で誰よりも背丈が大きく、すっと曲がりなく筋の通った高い鼻梁に、形の良い額から伸びる大振りな角、研ぎすまされた刀の如く切れ上がった大きな眼は、ともすると怜悧に見える。
 青鬼特有の青灰色をした肌も聡明な印象を作り出すのに一役買っているのだろう。
 戦装束を付ければ、それはそれは立派な若武者に見えた。
 主家の領主に拝するような集まりで、他の鬼に立派だと褒めそやされても、血筋の者は皆こう答えた。
「いやいや、あれは格好ばかりの猪武者にござります」

 無論、六玄も底抜けの莫迦ではないので、己がどのように思われ、どのような陰口を叩かれているかは知っていた。
 そして、その批評が概ね正しいことも知っていた。
 家督継承の順位から遠いこと、己よりは幾分利発な兄が二人も居ることは六玄としても有難かった。
 だが、それだからと言って現状に甘んじているのも悔しく、見返してやりたいという思いが常に燻っていたのも確かだ。
 六玄は勉学に励み、武道に励み、己を律し、せめて家の恥にならぬようにと気を張って来たつもりであった。
 しかし、地金というものは簡単に変えられるものではない。
 己がやりとりをしていた天狗一派が怪しい動きを見せたとき、父にも兄にも相談せずに飛び出してしまったのだから。
 腹黒い天狗共の企みを見抜けなかった儂に責がある。
 父上や兄上の手を煩わせるわけにはいかぬ。
 人里でぬくぬくしている鴉を殺すことなど容易い。
 表裏者死すべし!
 こうして単騎での奇襲を実行した六玄がどうなったかは、語るまでもないだろう。
 
 ──まただ。また、やってしまった。それも、取返しのつかぬことを……。
 人魔が結託しているとは露程も思わなかった六玄は、敗走の最中、ひたすらに己の行いを悔いていた。
 妖魔の世に還るだけの力も残されておらず、ヒトの世の山奥に逃げ込むしかない。
 槍傷や刀傷は負わなかったものの、それ以上に厄介な矢が全身を蝕み、四肢が引きちぎれそうなほどの激痛を引き起こし続ける。
 この矢は殺すためのものではなく、苦しめるためのものであると、六玄にもはっきりと分かっていた。
 しかし鬼のしぶとさを見誤ったヒトのお陰か、動けずに捉えられるまでのことはなく、おめおめと落ち武者に身をやつすことが出来ている。
 騒ぎが外に漏れたのだろう、追手の気配はない。
 さすがの天狗共も明るいうちからヒトの世を飛ぶこともできまい。
 なにより、聡い一族の者らが今頃暴れまわっているだろう。
 苦痛に悶えながら山中で蹲る六玄はそう思ったと同時に、この苦しみがいつまで続くのかと恐ろしくなった。
 既に身体は己の自由にはならない。
 かといって、鬼の身体は妖怪屈指の頑丈さを持っている。
 首さえ切られても動けるほどには逞しい。
 ──
 絶えず臓物を引っ掻き回されているような、耐えがたい苦痛を受け続ける。
 辺りはヒトはおろか獣の気配さえない山である。
 死んで詫びることも、苦痛から逃れることもできぬ。
 六玄には嗤う天狗共の声が幻聴となって聞こえてきた。
 ──おのれ、はなからこのつもりであったか……! 許さんぞ……!
 憎悪に歯を食いしばっても、喉奥からせり上がるのは血痰だけだ。
 傷が元ではなく、痛みによって気が狂って死ぬのではないか。
 六玄は生まれて初めて、ヒトでいう恐怖を覚えた。
 だが、それもすぐに消える。
 禁忌を犯した百姓が、山を登ってきたからだ。

 長治郎に助けられてからというもの、六玄の言う事といったら一つきり。
「のう、墨影ぼくえい。やはりあの者と儂は出会う運命さだめにあったのだろうか」
 父の雷もなんのその。
 裏切り者共を無事地獄へ送ってからというもの、六玄はすっかりのぼせあがっているようだと、近習となった鬼の墨影は内心溜め息をついた。
「若がそう思われるのであれば、そうでありましょう」
「そうだ、占術が得意なのであろう? あの者と儂を繋ぐ糸があるか否か、占ってはくれぬか」
「お言葉ながら、名も知れぬ、ここにおらぬヒトについてはさすがに占えませぬ」
「そうか。ならば、迎えに行く他あるまいな!」
 しまった。
 若を焚き付けてしまった。
 湯治と蟄居を言い渡された六玄の監視役として使わされた墨影は、己が大きな過ちを犯したことを即座に悟った。
 だが時は戻らず、六玄はまだ傷も治りきっていないにも関わらず、ヒトに化けて出かける始末。
 早速見つけたヒトのどん百姓を掴まえて何やら二人きりの宴まで開いてしまったようだ。
 御屋形様になんと申せばよいのやら。
 肝を冷やしている墨影をよそに、六玄はこんな頼みを口にした。
「名を聞けたぞ! あの者は長治郎というそうだ」
 占え。
 眼がそう言っている。
「道具が揃い次第、ただちに執り行いまする。ただ、御屋形様がお許しになるかどうかは」
「父上には六玄が退屈で今にも逃げ出しそうだとでも申せばよい。叱責は儂が受ける」
「……はっ」
 墨影には頭を垂れるほか出来ることが無かった。
 
 そうして墨影が呪符だの暦だの鬼の角だのを取り寄せている間に、あることが起こってしまった。
 下男の付喪神に飲み食いの後始末を命じていると、湯壷へ向かったはずの六玄が座敷へふらりと戻ってきたのだ。
 湯に浸かっていないにも関わらず、僅かに色の失せた顔で六玄は目を輝かせている。
「墨影、そなたが占うまでもなかったかもしれぬ」
「一体何のことで」
「とぼけるな。長治郎のことだ。長治郎はな、儂とずっと共にありたいと、そう申したのだ! それはもう、そういうことであろう!?」
 長治郎の前ではやや畏まって某と名乗り、成熟した武家として見せる振る舞いはどこへやら、六玄は童のように浮かれている。
「若がそう仰るのであれば」
 六玄と付き合いの浅い墨影は、二度も大きな失態を犯した。
 この場に六玄の父や兄らが居たのなら、こう言っただろう。
 こやつを井戸に落とせ。湯ではなく冷や水に浸けてやれ、と。

 六玄の言う通り、二人が出会ったのは運命と呼べるものかもしれない。
 ただそれは、本来では出会うはずのなかったものだ。
 周りから爪弾きにされている迂闊な人間と粗忽な鬼とが、奇跡的に噛み合ってしまった。
 しかし、人と鬼は違う。
 似通った部分があるにせよ、それは似ているだけで同じではない。
 長治郎はこのあと、それを嫌と言うほど知る羽目になるだろう。

 つづく
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