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一 出会い

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 長治郎には秘密の酒飲み友だちがいる。
 正確に言えば、秘密の友達が
 現在その者との仲は恋敵のようであり、それでいて許嫁のようでもあり、一言では言い表せない複雑怪奇なものである。
 更に言えば、その友とは人に非ず、身の丈十尺の青鬼であった。
 今、長治郎と鬼は勝負の真っ最中だ。
 勝負と言っても、得物を手にした命の取り合いではない。
 彼らは互いの運命の赤い糸を引っ張り合っているのだ。
 鬼が長治郎に結ばった糸を引きちぎれば鬼の勝ち、長治郎が糸をきつく結わえられたら長治郎の勝ち。
 なぜこのようなことになったのか。
 まずは鬼と長治郎の出会いから遡ることとする。

 ➵

 武家同士があちこちで小競り合いをするようになった昔々のことだ。
 ある寒村に一人の百姓が住んでいた。
 名を長治郎という。
 長治郎の母は病弱であり、長治郎一人を産んで数年後には帰らぬ人となった。
 そして祖父母も父も体中に疱瘡が出来る流行り病でいっぺんに失い、長治郎はひとり残った小さな田畑を耕してようやく食っている独り者であった。
 男盛りでもあり、嫁をもらってもおかしくないのだが、村の者は長治郎にあまり寄り付くことがない。
 なにしろ長治郎も病にかかっており、それが痘痕あばたとなって右の目尻に大きく残ってるからだ。
 病の痕はこれと言って特徴のない長治郎の顔を覚える唯一の特徴で、家族まとめて臥せっていたなか、一人生き残った長治郎は村人にとって不気味に映った。
 中にはあの家に行くとまた病がぶり返すだの、長治郎と一緒になると移されるだの陰口を叩くものもいた。
 そんなわけで長治郎は村八分とはいかないものの、うっすらとした壁を感じながら独り淋しい暮らしを続けていたのだ。
 稲や畑に実りが無くなる頃には、籠を編んだり山に入って薪や茸を採ったり、とにかく黙々と働いて寝る生活の繰り返しだった。
 僅かな楽しみといえば、物売りとして街に出かけ、そこで買った僅かな食い物を口に放り込んで帰るくらいのものだ。
 そんな代わり映えのしない日々の中で、長治郎はある過ちを犯してしまった。

「……ねぇなぁ」
 朝方まで降っていた雨もあがった昼過ぎ、泥濘んだ山道を登る一人の男がいた。
 長治郎である。
 濡れた熊笹を掻き分けながら村の裏手にある山を彷徨う長治郎の目的は、勿論茸である。
 このような天気のあとには笠を開いた茸が見つかりそうなものだが、不思議なことに茸は影も形もない。
 もう誰かが先に来て根こそぎ採ってしまったのだろうか。
 いや、自分の他に村の者を見ていない。
 長治郎はぶつぶつと零しながら木の根をよく探し回ったが、あまりいい収穫は得られなかった。
 自分が食うだけの量も集まらず、このまま山を降りるのも惜しい。
 そう思った長治郎は、己の歩いてきた獣道が途絶えたあたりで立ち止まった。
 落雷だろうか、一際大きな焦げた枯松が倒れず残っているその地点から先は、人喰い鬼が出ると噂されてきた場所だった。
 人の分け入った痕跡も少なく、鬱蒼とした松林が続くばかりである。
『いいか、長治郎。絶対に枯松の向こうさ行くなよ。鬼が出っから。頭っから喰われっちまうど』
 幼い頃、母や祖母が口を酸っぱくして言っていた言葉だ。
 恐らく斜面がきついのだろう。
 なにかの拍子に転げ落ち、見つからずに藪の中で骨になっているのが鬼の正体だと、大人になった長治郎は考えている。
 それに、きっと山の幸を独り占めしようと考えた奴らが流した嘘っぱちだと、儲けの少ない長治郎は考えてしまった。
 なあに、頂上まで行こうっていうんじゃねぇんだ。
 其の辺歩き回って、何もなかったら諦める。
 長治郎は見えない何かに言い訳をして、枯松の横をえっちらおっちら登っていった。

 半時ほどかけて探し回ったおかげか、長治郎の背負う籠にはそこそこの茸が集まっていた。
 少し汁物にして、あとは明日朝一番で売りに行こう。
 えびす顔になった長治郎が籠を背負い直し、きた道を引き返そうとした、その時だった。
 落葉松の幹の側で、がさ、がさ、と何かの生き物が蠢く音がした。
 長治郎が音のする方へ顔を向けると大きな塊が蹲っている。
 長治郎はパッと見た瞬間、熊が出たのかと思い、びくりと肩を竦ませる。
 だが、大岩のようなその塊は獣ではなく、立派な戦装束を身に着けていたのである。
 その者も長治郎を見つけ、力を振り絞って木の幹に手をかけた。
 恐ろしいことにべきべきと幹に指が食い込み、硬い表面が薄氷のように割れていく。
 地に伏していたその者は、幹を支えに何とか中腰になると、息を荒げながら長治郎に話しかけてきた。
「ヒトか……すまぬ……これを、抜いてはくれぬか……」
 侍烏帽子に鎧直垂を身に着け、腹巻や籠手で武装した武者が、話すのも億劫そうなくぐもった声で長治郎を呼び止める。
 だが、その武者はヒトではなく、青灰の肌をした大きな鬼であった。
 額からは青黒い一対の角が生え、切り立った崖のように高い鼻梁に、目尻の切れ上がった大きな眼を持った若い男の面構えだ。
 今は眉間に深い皺が寄り、脂汗が滝のように流れ、鼻先や顎下から雫となってぽたぽたと垂れ落ちている。
 鎧など不要ではないかと思わせるほど逞しい体つきで、厚く膨らんだ胸板が衣服を押し上げるようであった。
 そして、鬼武者の肩口や腕には何本も矢が刺さっており、傷口からはヒトの何倍も濃い、もはや黒と呼んでも差し支えのないくらい暗い色の血が滲んで染みを作っている。
 刺さっている矢の羽のすぐ下には、何やら墨字が書かれた紙が結び付けられていた。
 ――鬼だ。本当にいたのか。
 長治郎が呆気に取られ、口を半開きにしたまま鬼を見ていると、彼は立っていることが苦しくなったのか、巨体を屈めて濡れ落ち葉の上に膝をついてしまった。
「頼む……礼は必ず……」
 数間先にいる長治郎を見上げ、鬼は苦痛に顔を歪めている。
 大きく息を吐いたその口からは、鋸のように鋭く尖った牙が見えた。
 長治郎は恐ろしくなり、籠の紐をぎゅっと握りしめ後ずさりをした。
 手負いとはいえ、恐ろしい物の怪だ。
 もしかしたら近づいた瞬間、襲いかかられるかもしれない。
 怪我を治すため、人の肉を齧りたいのかもしれない。
 逃げたい。
 本当に手負いなら、走って山を下れば追いつけないはずだ。
 長治郎の頭の中にこのような考えが波のように押し寄ける。
 だが、それと一緒に母の声も混じって蘇ってきた。
『鬼っつうのはよ、頭だけんなっても動けるんだと。昔偉いお武家様がな、四人がかりで鬼をやったときもな、首を切ったら、その首が飛び上がって、大将の頭にかじりついたんだとよ』
 この鬼はどうだ。
 今見捨てて逃げたら、こいつが死んだとしても、恐ろしい怨霊となって憑いてくるのではないか。
 死んだら首がもげて、俺に噛みついてくるかも……。
 長治郎は侍ではない。ただの百姓である。
 総髪を後ろで結っただけの頭を覆うのは、手ぬぐいのほっかむりだけだ。
 偉いお武家様だって兜を重ねてようやく死なずに済んだのに、どうして俺が生き残れよう。
 長治郎は声を震わせながら、鬼に返事をした。
「とっ、取ったらっ、取ったら俺のこと喰ったりしねぇかっ!?」
 鬼は足を震わせながらも逃げずにいる長治郎を見て、少しだけ表情を和らげた。
「そのような……不義理はせぬ。我らが祖先、鬼神王に誓う……」
 鬼の信仰する神など信用ならない。
 だが、もう言ってしまった。
 長治郎はかちかちと鳴る歯を食いしばり、小走りで鬼の元まで駆け寄った。
 そしてまず肩口に刺さる太い矢を握り、風鳴のような息をする鬼へ声をかけた。
「い、いくぞっ?」
「ああ、やってくれ……」
 矢の刺さる痛み、それを抜く痛み。長治郎はどちらも経験が無いが、酷く苦痛を伴うものであることくらいは分かった。きっと鬼であってもそうだろう。
 だが、このおかしな呪い符が括り付けられた矢に射られたままよりかはましなのだろうか。
 長治郎は汗で湿る掌でを握ると、それ思いっきり引き抜いた。
 矢が抜けると、鏃が肉を抉ったのか、どす黒い血が吹き出し、新たな血染みを作る。
 鬼は牙が折れるほど歯を食いしばって痛みに耐え、うめき声一つ漏らさなかった。
「全部抜くからなっ」
 早く去りたい思いもあってか、長治郎は腕や肩に刺さる残りの矢も引き抜き、そのたびに血が吹き出すのを肝を冷やしながら見る羽目になった。
 合計四本もの不可思議な矢を抜き、長治郎はそれを足元に放り投げると、まだ蹲る鬼に声もかけず、一目散に駆け出していた。
「待て、名を――」
 背後から低い声がしたが、長治郎は決して振り向かず、滑るようにして獣道を駆け下りていったのだった。

 ➵

 あれから数日後。
 長治郎は逃げ帰った当日の夜こそ悪夢にうなされたが、それ以降は平穏そのものだった。
 俺は狐か狸かに化かされたんだ。
 長治郎がそう思い込もうとした矢先のことであった。
 早朝、井戸水で体を清めたあと、質素な食事を摂る長治郎の元へ、慌ただしい足音が迫っていた。

 つづく
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