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【は】人間を丸呑みしたいらしい蛇神×一般会社員(前)
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休みの日程なんか話すんじゃなかった。
高速鉄道のシートにもたれ掛かった陽太は、幾度も同じことを考えている。
大体、湿地散策なんて俺の趣味じゃない。
内心そうぼやいてみても、既に窓の外の景色は驚くほどの速さで流れている。引き返せない。
交通費、宿泊費全負担。湿地を歩いてお届け物をすれば日当三万円。とっぱらい。
死んでも家から出たくない人間を除けば、小遣い稼ぎとしては破格の好条件だろう。
陽太が胡散臭い仕事を持ちかけられたのは先々週のことで、それも自分の母親からだった。
盆も正月もろくに帰省していなかったドラ息子に業を煮やした母親は、ゴールデンウイークなら帰ってくるんでしょうね!? と電話を通して小さい雷を陽太へと落としてきたのだ。
『だからさあ、ウチは社員でもシフト制で、土日とか関係なくて、ゴールデンウィークも出てんだよ』
『でもまとまった休みならあるんでしょ?』
『無いことは無いけど……』
どうも電話を切らせてくれる雰囲気ではない。
仕事終わりに一杯ひっかけてきた道すがらだったこともあり、陽太はゴールデンウイーク前に三連休があること、急に決まったので大した予定も無いことを白状するはめになった。
そこからが困難の始まりで、母はそれなら帰ってこなくていいから伯母の仕事を手伝えとしきりに言って来たのだ。
『仕事って言ってもねぇ、神社とかのお使いなんだって。運び手の若いコいなくてさっちゃん困ってるみたいでね』
『だから何で俺が』
『何よ、あんたお父さん入院したときもろくに顔出さなかったじゃない? 里香は来てくれたのに、あんたはちょろっときて仕事仕事って、皆大変だったんだから。さっちゃんもその時家のことやってくれたし、いいお医者さんだって紹介してくれて、あのね、困ったときはお互いさまって小さい頃から教えて』
『わかったわかった、行くよ、行けばいいんだろ!』
灯りの落ちた住宅街に陽太の声が響き、すぐに消えていった。
ʘ
すっげぇ田舎。実家より田舎だ。
村の青年団が集う会館に足を踏み入れるまでに、陽太はありとあらゆる緑を見た気になっていた。
二階建て以上の建物はおろか、民家もまばらだ。
陽太には若々しい稲草の中に家々が取り残されているようにも見えた。
伯母の暮らすこの土地は、低い山々に取り囲まれ、小山と小山の間には湿地帯が広がっており、ゴールデンウイークになるとそれなりの数の観光客がハイキングに来るという。
駅前と交通の便だけは妙に栄えて整っていたことへの解を得た陽太だったが、それでどうなるというものでもない。
駅と直結したビジネスホテルに荷物を預けた陽太は、迎えに来た伯母の幸代が運転する車に揺られ、辛うじて家々が寄り集まる中の片隅にある平屋で説明を受けることとなった。
平屋の中は襖を取っ払った畳敷きの座敷で、古ぼけた木の座卓と綿の減った座布団が点々と置いてある。
青年団というより、村の年寄が茶飲み場として使っているようだ。
「いやホントすいませんね、御覧の通り、自然しかねぇもんだから若いのは外出ちゃってねえ」
伯母の幸代と同年代かそれより上か、そろそろ還暦を迎えそうな年頃の男がすまなそうに胡麻塩頭を掻いている。
「いいのよぉ、かえってお金貰ちゃうのが悪いくらい」
陽太の隣に座った幸代は、陽太が口を開く前に喋っている。
姉妹揃って弁が立つ二人に陽太は反抗心をごっそり削り取られていた。
「それで本当に、御神酒を置いてくるだけでいいんですか?」
陽太は座卓の上に置かれた一升瓶に目をやる。
地元ブランド米百パーセント使用、純米大吟醸。
ちょっといい呑み屋で見かけたらラッキーと言えるほどの良酒だ。
「そう。まあ、岩戸まではちょぉっと遠いんだけど、元気なお兄さんならすぐだよ、すぐ」
「そうですか」
「うちの甥っ子もさ、陸上やってるし体力はあるんだけど、まぁだ高校生なったばしで、さすがに酒担がせて歩かせんのはなあ」
「はぁ」
「うっそぉ、もう高校生? やだぁホント?」
「ほら、蘆屋んとこの倅と同級生だから」
「そうだっけ?」
これは長くなるぞ。
中身が冷めつつある湯呑を片手に、陽太は足の痺れを感じ始めていた。
ʘ
陽太に課された試練はただ一つ。
湿地の奥にある岩戸と呼ばれる岩石群の前に御神酒を置いて戻ってくること。
何の神かは不明だが、田園に恵みの雨をもたらすよう奉る大事な儀だそうだ。
その運び手は昔から若く元気な男ひとりだけと決まっているという。
青年団の男に理由を尋ねても「さあ? やっぱし神様も若けぇのがいいのかね?」としか返ってこなかった。詳しいことを知りたければ隣町の公民館にある郷土資料コーナーへ行けば分かるらしい。
歴史に興味のない陽太にとっては全くと言っていい程興味がわかなかった。
今度は青年団の運転する軽トラックの助手席に乗せられ、陽太は湿地の入り口まで来ていた。
駐車場から少し歩くと、ようこそ八角湿原へと言う文字と細かな注意書きが書かれた看板があり、その横手には青々とした木々を割るように土の道が続いている。
「こっからは一人で行ってもらうことになりますから。三、四時間もあれば戻って来られますよ。その頃んなったら来ますから」
「分かりました。本当に一人なんですね」
「はい。誰かに代わってもらうとバチが当たって、神様がへそ曲げて雨降らせてくんねえって言われてんですよ」
変な伝承だな。
若干訝しそうにした陽太を見て、青年団の男は陽太が険しい道のりが待っていると考えたのだと思ったのか、慌てて言いつくろい始めた。
「あぁ大丈夫、大丈夫。山登りと違って危ねぇことはねぇんで。木道に沿って歩いていけばすぐですよ」
そう言った途端、男がはっとした顔つきになった。
「いけね、大事なこと忘れてた。しばらく行くと木道が二股んなってるんですけど、右さ行ってください。私有地立ち入り禁止って看板立ててっけど、無視して奥まで行ってくださいね」
「あ、はい」
何でそんな大事なこと忘れんだよ!
もし職場の後輩が似たようなど忘れをしたなら、陽太は一言二言文句をつけたに違いない。
だが、今回の相手にそれもできず、陽太はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
ʘ
まだ朝の空気を名残を残した湿原には、涼やかな風が吹いていた。
背が高く柔らかそうな草がのびのびと天に向かって伸びている。
小指の爪ほどの細かな花をつけた草花があちこちに群生し、緑の中に柔らかな白を添えていた。
目線を上げれば春の空の向こうに木々に覆われたなだらかな丘が見える。
その緑を割るように二つの木道が真っすぐ続き、その両脇には木道から人が降りないようにか等間隔に打たれた杭にロープが張られていた。
あと数日もすればここも賑わうのか。平日の午前中ということもあるのか、木道の上に人影は見当たらなかった。
普通なら老人会が集団でハイキングしていてもおかしくないだろう。
陽太は駐車場に停まる車の少なさに、意外だと零したときのことを思い出す。
「ああ、蛇さんが出るんで。刺激したらいけねぇんで、ここいらのはあんまし来ませんよ。まあ、休みんなったらヨソから人が来るんですけどねえ」
青年団の男が少し困ったような顔で笑っていたのだ。
蛇か……木道の上まで登ってくることあんのか?
陽太は立ち止まってしゃがむと、木道と木道の間を覗き込んでみた。
名も知らぬ草しか見えない。
なにやってんだか。早く終わらせよう。
ハイキング用に購入した真新しいフリースの裾をまくりながら、陽太は一升瓶が入った大きなバックパックを背負い直した。
しばらくの間、陽太は湿原の自然を楽しんでいた。
携帯で周囲や近くに見える白や薄紫の花々を撮影し、タダ旅の記録を残す。
小さな蝶の羽ばたきや見慣れぬ野鳥の鳴き声が、不安と疑念で満ちていた心を落ち着かせてくれた。
だが、連れ合いどころか人の姿もなく、ただただ草木の間を歩くということが、陽太にとって退屈なルーチンに変わりつつあった。
もうラジオでも聞こうか。
まだ再生していない深夜ラジオを聴くためにスマートフォンのアプリを立ち上げようか迷った陽太だったが、未知の先にY字で分かれる木道を見つけると、その考えはしぼんでいった。
ここからは私有地です。許可なく立ち入った場合罰金云々。
杭と杭の間にある立て看板の文言を見て、陽太は月極駐車場を思い出していた。
木道にも行く手を遮るようにロープが張られ、立ち入り禁止と書かれたプレートが提げられている。
でも俺は許可あるもんな。
微かな優越感を覚えながら薄汚れたロープを跨いだ陽太だったが、その先に続く道を見て足が止まった。
……木、古くないか?
今まで通ってきた木道とは幅も狭く、赤茶けて所々傾いたり欠けているのが見える。
あまり人が通らないのだろう、木道と木道の間からは薄黄色をした百合のような花を咲かせたものがぽつぽつと立っていた。
木道を覆い隠すように木々が枝葉を伸ばしており、妙に薄暗く感じる。
なんかこっちは不気味だな。
陽太が日よけのために被っていたハットの鍔を上げて先の景色を眺めていると、ふいに背後から声をかけられた。
「大丈夫かい?」
「いっ……!?」
突然低い男の声がしたことで、陽太はすくみ上った。言葉にならない言葉が口から漏れている。
陽太の身体が反射的に後ろを振り返る。
するとそこには、見上げるほどの大柄な若い男が立っていた。
いつ? 後ろにいたか? いや居ないよな!?
突如として煙のように現れた男の姿に、陽太は石のように固まってしまった。
いくら周りに気を取られていたとしても、後ろを歩く人の足音を聞き逃すはずがない。
しかも相手は見ての通りの大男だ。
可笑しなことに、男は雨も降っていないのにカーキ色のレインジャケットを着ており、黒いキャップの上からフードまで被っている。
鍔の造る影の下には小奇麗に整えられた黒い眉と切れ長の奥二重があり、色白で鼻柱の通った怜悧そうな顔立ちをしていた。
そして陽太の頭二つ分背の高い男の身体は、レインジャケットを着ていても分かるくらい逞しかった。
長い下肢は黒いジップパンツが窮屈そうなくらい腿の筋肉で膨らんでおり、競輪選手のようだ。
蛇に睨まれた蛙となった陽太の元へ、男が近づく。
どこかレトロなデザインのハイキングシューズが朽ちかけた木道を踏むたび、みし、みし、と不吉な音が鳴った。
その音に陽太の身体が呼応し、強張りが一気に消え去った。
ようやく動けるようになった口を動かし、陽太は半ば無意識で男へ尋ねる。
「ど、どちら様で……」
その言葉に男は足を止め、嬉しそうに目を細めた。
つづく
高速鉄道のシートにもたれ掛かった陽太は、幾度も同じことを考えている。
大体、湿地散策なんて俺の趣味じゃない。
内心そうぼやいてみても、既に窓の外の景色は驚くほどの速さで流れている。引き返せない。
交通費、宿泊費全負担。湿地を歩いてお届け物をすれば日当三万円。とっぱらい。
死んでも家から出たくない人間を除けば、小遣い稼ぎとしては破格の好条件だろう。
陽太が胡散臭い仕事を持ちかけられたのは先々週のことで、それも自分の母親からだった。
盆も正月もろくに帰省していなかったドラ息子に業を煮やした母親は、ゴールデンウイークなら帰ってくるんでしょうね!? と電話を通して小さい雷を陽太へと落としてきたのだ。
『だからさあ、ウチは社員でもシフト制で、土日とか関係なくて、ゴールデンウィークも出てんだよ』
『でもまとまった休みならあるんでしょ?』
『無いことは無いけど……』
どうも電話を切らせてくれる雰囲気ではない。
仕事終わりに一杯ひっかけてきた道すがらだったこともあり、陽太はゴールデンウイーク前に三連休があること、急に決まったので大した予定も無いことを白状するはめになった。
そこからが困難の始まりで、母はそれなら帰ってこなくていいから伯母の仕事を手伝えとしきりに言って来たのだ。
『仕事って言ってもねぇ、神社とかのお使いなんだって。運び手の若いコいなくてさっちゃん困ってるみたいでね』
『だから何で俺が』
『何よ、あんたお父さん入院したときもろくに顔出さなかったじゃない? 里香は来てくれたのに、あんたはちょろっときて仕事仕事って、皆大変だったんだから。さっちゃんもその時家のことやってくれたし、いいお医者さんだって紹介してくれて、あのね、困ったときはお互いさまって小さい頃から教えて』
『わかったわかった、行くよ、行けばいいんだろ!』
灯りの落ちた住宅街に陽太の声が響き、すぐに消えていった。
ʘ
すっげぇ田舎。実家より田舎だ。
村の青年団が集う会館に足を踏み入れるまでに、陽太はありとあらゆる緑を見た気になっていた。
二階建て以上の建物はおろか、民家もまばらだ。
陽太には若々しい稲草の中に家々が取り残されているようにも見えた。
伯母の暮らすこの土地は、低い山々に取り囲まれ、小山と小山の間には湿地帯が広がっており、ゴールデンウイークになるとそれなりの数の観光客がハイキングに来るという。
駅前と交通の便だけは妙に栄えて整っていたことへの解を得た陽太だったが、それでどうなるというものでもない。
駅と直結したビジネスホテルに荷物を預けた陽太は、迎えに来た伯母の幸代が運転する車に揺られ、辛うじて家々が寄り集まる中の片隅にある平屋で説明を受けることとなった。
平屋の中は襖を取っ払った畳敷きの座敷で、古ぼけた木の座卓と綿の減った座布団が点々と置いてある。
青年団というより、村の年寄が茶飲み場として使っているようだ。
「いやホントすいませんね、御覧の通り、自然しかねぇもんだから若いのは外出ちゃってねえ」
伯母の幸代と同年代かそれより上か、そろそろ還暦を迎えそうな年頃の男がすまなそうに胡麻塩頭を掻いている。
「いいのよぉ、かえってお金貰ちゃうのが悪いくらい」
陽太の隣に座った幸代は、陽太が口を開く前に喋っている。
姉妹揃って弁が立つ二人に陽太は反抗心をごっそり削り取られていた。
「それで本当に、御神酒を置いてくるだけでいいんですか?」
陽太は座卓の上に置かれた一升瓶に目をやる。
地元ブランド米百パーセント使用、純米大吟醸。
ちょっといい呑み屋で見かけたらラッキーと言えるほどの良酒だ。
「そう。まあ、岩戸まではちょぉっと遠いんだけど、元気なお兄さんならすぐだよ、すぐ」
「そうですか」
「うちの甥っ子もさ、陸上やってるし体力はあるんだけど、まぁだ高校生なったばしで、さすがに酒担がせて歩かせんのはなあ」
「はぁ」
「うっそぉ、もう高校生? やだぁホント?」
「ほら、蘆屋んとこの倅と同級生だから」
「そうだっけ?」
これは長くなるぞ。
中身が冷めつつある湯呑を片手に、陽太は足の痺れを感じ始めていた。
ʘ
陽太に課された試練はただ一つ。
湿地の奥にある岩戸と呼ばれる岩石群の前に御神酒を置いて戻ってくること。
何の神かは不明だが、田園に恵みの雨をもたらすよう奉る大事な儀だそうだ。
その運び手は昔から若く元気な男ひとりだけと決まっているという。
青年団の男に理由を尋ねても「さあ? やっぱし神様も若けぇのがいいのかね?」としか返ってこなかった。詳しいことを知りたければ隣町の公民館にある郷土資料コーナーへ行けば分かるらしい。
歴史に興味のない陽太にとっては全くと言っていい程興味がわかなかった。
今度は青年団の運転する軽トラックの助手席に乗せられ、陽太は湿地の入り口まで来ていた。
駐車場から少し歩くと、ようこそ八角湿原へと言う文字と細かな注意書きが書かれた看板があり、その横手には青々とした木々を割るように土の道が続いている。
「こっからは一人で行ってもらうことになりますから。三、四時間もあれば戻って来られますよ。その頃んなったら来ますから」
「分かりました。本当に一人なんですね」
「はい。誰かに代わってもらうとバチが当たって、神様がへそ曲げて雨降らせてくんねえって言われてんですよ」
変な伝承だな。
若干訝しそうにした陽太を見て、青年団の男は陽太が険しい道のりが待っていると考えたのだと思ったのか、慌てて言いつくろい始めた。
「あぁ大丈夫、大丈夫。山登りと違って危ねぇことはねぇんで。木道に沿って歩いていけばすぐですよ」
そう言った途端、男がはっとした顔つきになった。
「いけね、大事なこと忘れてた。しばらく行くと木道が二股んなってるんですけど、右さ行ってください。私有地立ち入り禁止って看板立ててっけど、無視して奥まで行ってくださいね」
「あ、はい」
何でそんな大事なこと忘れんだよ!
もし職場の後輩が似たようなど忘れをしたなら、陽太は一言二言文句をつけたに違いない。
だが、今回の相手にそれもできず、陽太はただ苦笑いを浮かべるだけだった。
ʘ
まだ朝の空気を名残を残した湿原には、涼やかな風が吹いていた。
背が高く柔らかそうな草がのびのびと天に向かって伸びている。
小指の爪ほどの細かな花をつけた草花があちこちに群生し、緑の中に柔らかな白を添えていた。
目線を上げれば春の空の向こうに木々に覆われたなだらかな丘が見える。
その緑を割るように二つの木道が真っすぐ続き、その両脇には木道から人が降りないようにか等間隔に打たれた杭にロープが張られていた。
あと数日もすればここも賑わうのか。平日の午前中ということもあるのか、木道の上に人影は見当たらなかった。
普通なら老人会が集団でハイキングしていてもおかしくないだろう。
陽太は駐車場に停まる車の少なさに、意外だと零したときのことを思い出す。
「ああ、蛇さんが出るんで。刺激したらいけねぇんで、ここいらのはあんまし来ませんよ。まあ、休みんなったらヨソから人が来るんですけどねえ」
青年団の男が少し困ったような顔で笑っていたのだ。
蛇か……木道の上まで登ってくることあんのか?
陽太は立ち止まってしゃがむと、木道と木道の間を覗き込んでみた。
名も知らぬ草しか見えない。
なにやってんだか。早く終わらせよう。
ハイキング用に購入した真新しいフリースの裾をまくりながら、陽太は一升瓶が入った大きなバックパックを背負い直した。
しばらくの間、陽太は湿原の自然を楽しんでいた。
携帯で周囲や近くに見える白や薄紫の花々を撮影し、タダ旅の記録を残す。
小さな蝶の羽ばたきや見慣れぬ野鳥の鳴き声が、不安と疑念で満ちていた心を落ち着かせてくれた。
だが、連れ合いどころか人の姿もなく、ただただ草木の間を歩くということが、陽太にとって退屈なルーチンに変わりつつあった。
もうラジオでも聞こうか。
まだ再生していない深夜ラジオを聴くためにスマートフォンのアプリを立ち上げようか迷った陽太だったが、未知の先にY字で分かれる木道を見つけると、その考えはしぼんでいった。
ここからは私有地です。許可なく立ち入った場合罰金云々。
杭と杭の間にある立て看板の文言を見て、陽太は月極駐車場を思い出していた。
木道にも行く手を遮るようにロープが張られ、立ち入り禁止と書かれたプレートが提げられている。
でも俺は許可あるもんな。
微かな優越感を覚えながら薄汚れたロープを跨いだ陽太だったが、その先に続く道を見て足が止まった。
……木、古くないか?
今まで通ってきた木道とは幅も狭く、赤茶けて所々傾いたり欠けているのが見える。
あまり人が通らないのだろう、木道と木道の間からは薄黄色をした百合のような花を咲かせたものがぽつぽつと立っていた。
木道を覆い隠すように木々が枝葉を伸ばしており、妙に薄暗く感じる。
なんかこっちは不気味だな。
陽太が日よけのために被っていたハットの鍔を上げて先の景色を眺めていると、ふいに背後から声をかけられた。
「大丈夫かい?」
「いっ……!?」
突然低い男の声がしたことで、陽太はすくみ上った。言葉にならない言葉が口から漏れている。
陽太の身体が反射的に後ろを振り返る。
するとそこには、見上げるほどの大柄な若い男が立っていた。
いつ? 後ろにいたか? いや居ないよな!?
突如として煙のように現れた男の姿に、陽太は石のように固まってしまった。
いくら周りに気を取られていたとしても、後ろを歩く人の足音を聞き逃すはずがない。
しかも相手は見ての通りの大男だ。
可笑しなことに、男は雨も降っていないのにカーキ色のレインジャケットを着ており、黒いキャップの上からフードまで被っている。
鍔の造る影の下には小奇麗に整えられた黒い眉と切れ長の奥二重があり、色白で鼻柱の通った怜悧そうな顔立ちをしていた。
そして陽太の頭二つ分背の高い男の身体は、レインジャケットを着ていても分かるくらい逞しかった。
長い下肢は黒いジップパンツが窮屈そうなくらい腿の筋肉で膨らんでおり、競輪選手のようだ。
蛇に睨まれた蛙となった陽太の元へ、男が近づく。
どこかレトロなデザインのハイキングシューズが朽ちかけた木道を踏むたび、みし、みし、と不吉な音が鳴った。
その音に陽太の身体が呼応し、強張りが一気に消え去った。
ようやく動けるようになった口を動かし、陽太は半ば無意識で男へ尋ねる。
「ど、どちら様で……」
その言葉に男は足を止め、嬉しそうに目を細めた。
つづく
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