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第五話 忘れたい男

どうしても、忘れられない

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彼は、いつもバニラの匂いがした。
倉橋覚は、天井を見ながらかつて愛した男を思い出していた。陽気で、どこか遊び慣れている雰囲気に憧れた。彼に気に入られようと、覚はかなり無理をしていた。本当は気管支が弱いのに、彼にタバコをやめてくれとは言えなかった。待ってろと言われれば、何時間でも待っていた。耐えるのが愛だと、勝手に思い込んでいたのだ。
(なんで、敦人の事なんて・・・)
今、覚はミントの香りに抱かれている。なのに、心の奥底にいるのは自分を裏切った恋人の姿だ。
「どうした?疲れたか?」
短く、荒い呼吸を繰り返しながら西嶋章悟が聞いてくる。モデル並のルックスとスタイルを持った男で、覚の新しい恋人だ。覚は、気遣わしげな視線に黙って首を横に振る。
「もっと、激しくして。もっと、章悟を感じさせて」
初めて、甘えたような声を出した。章悟は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに蕩けるような笑顔をくれた。
「・・・覚悟しろよ」
ゆったりとした腰の動きが激しくなり、覚はその広い褐色の背中に指を這わせた。爪を立てても良いと言ってくれたので、遠慮なくしがみつく。
何もかも、章悟は敦人とは違った。なのに、今も覚の胸の奥には敦人がいる。忘れたいと願っても、忘れられない男。

覚が自分の性癖に気がついたのは、中学生の時だった。男友達らが好きな女子の話題で盛り上がっている時に、覚だけ会話に入れなかった。なぜなら、覚が好きなのは隣のクラスの男子だったから。男が好きな自分は、どこか欠陥品だと思った。誰にも言えないまま、覚は思春期を通り過ぎてしまった。社会人になっても、恋愛の悩みだけは解決しなかった。
誰かと悩みを分かち合いたくて、噂に聞いていたゲイが集まるバーへ向かい敦人と出会った。

誰にでもフレンドリーな中島敦人は、覚には憧れの存在だった。彼の周りには、いつも数人の取り巻きがいて楽しそうだった。その敦人に声をかけられた時、覚は舞い上がるほど嬉しかった。
「男を好きな事は、変でもなんでもない」
覚が抱えていた悩みを、敦人はすぐに理解してくれて慰めてくれた。誰にも見られない柱の陰で、頬や額にキスをされながら愛の言葉を囁かれた。
「初めて見た時から、気になっていたんだ。オレと、付き合わないか?」
覚は躊躇った。敦人の事を嫌いではないが、だからといっていきなり交際するのは勇気がいった。そんな覚を、敦人は熱心に口説いた。
「確かに、親や世間は気になるけど悪い事をしているわけじゃない。オレと君が、セックスをしても困る人はいない」
しっとりと重なった唇の甘さに、覚は時を忘れた。そのままホテルへ誘われ、男同士がどこで交わるのかを身体で知った。
ずっと、側にいたいと思っていたのに・・・。

「ごめん。ちょっと飛ばしすぎたな」
心配そうな顔をしながら、章悟が濡れたタオルで身体を拭いてくれる。覚は、大丈夫と言おうとしてできなかった。少しの間があってから、章悟がポツリと呟く。
「無理に忘れる事はない」
覚がハッと顔を上げれば、章悟が優しく微笑んでいた。覚の瞳から、一粒だけ涙が溢れる。
「ごめん・・・なさい・・・」
章悟は優しい。
スペインで初めて会った時から、覚は章悟に守られていた。
世間体を気にしないと言いながら、敦人は人前では覚と距離を置いていた。だが、章悟は人前であろうと覚の側を離れなかった。タバコが苦手な覚のために、密かに禁煙してくれた。何も言わなくても、覚の苦手なものを理解してくれた。
なのに、覚の心の奥には今も敦人がいるのだ。章悟を裏切っているようで、覚の胸は軋んだ。
「泣くなよ」
章悟が覚を胸に抱く。
「過去の恋愛を、なかった事なんかにできない。だから、自分を責めるな」
まぶたに唇が押し当てられ、髪を優しく撫でられる。章悟が優しければ優しいほど、覚の気持ちは複雑だった。章悟に、言っていない事がある。引き出しの奥にしまったシルバーのペンダント。覚の誕生日に敦人が買ってくれたものだ。覚のイニシャル『S』と敦人の『A』が絡まったようなデザインのトップ付き。

『オレとお前が、絶対に離れない証に』

ベッドの上で囁かれた睦言。その後、敦人がかなりの遊び人だと知った。だが、その時には覚は既に敦人へ本気の恋をしていた。スペインで彼の裏切りを知っても、声を荒げる事さえできなかった。最後の最後まで聞き分けのいい恋人を演じた。
「ちゃんと、別れ話をすればよかった」
ホットワインで落ち着いた覚は、自分のモヤモヤした気持ちを吐き出した。
「・・・章悟は、敦人の連絡先を知らないの?」
幼馴染みである章悟と敦人。連絡先ぐらい知っているのが普通だ。章悟は、肩を竦めてみせた。
「あいつとは絶縁したんだ。電話番号も変えたしな・・・」
「・・・そう」
「あいつに、会いたいのか?」
章悟の言葉に、覚はハッと顔を上げた。そこには、いつもの自信満々な表情はなかった。寂しそうな、切なげな章悟の瞳に覚は慌てて首を横に振った。
「違う。そうじゃないんだ」
覚は、きちんと話さなくてはと思った。このまま気持ちがすれ違ってしまったら、章悟も失う気がして・・・。
「敦人に対して、愛情や未練はないよ。ただ、ふとした時に思い出すんだ」
敦人が、本当の悪人なら良かった。だったら、思い出す事などないのに。
「不安にさせて、ごめん」
覚は、自分から初めて章悟にキスをした。何度も角度を変えて、章悟に促されるまま足を開いた。言葉よりも、こうして身体を開く方がはるかに説得力があった。
章悟を誰よりも愛してる。
覚は、章悟が望むだけ自身を与えた。
心の奥で微笑んでいた敦人の姿は、いつしか気にならなくなっていった。



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