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第5章 繋いだ手を離したくない

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 頼りなげなノックの音に、達貴は小さく息を吸い込むと返事をした。
 それと同時に現れる彼女の姿を眩しく見つめ、ゆっくりと愛おしさに笑みを刻んだ。
 すると、静香の口が何度か開きかけたが声にならず、諦めたように眉を下げた彼女は笑みを浮かべると達貴のもとへと駆け寄った。

「会いたかった」

 詰まるような声に、達貴も気持ちが詰まる。

「俺も、会いたかった」

 一回り小さく白い手が、自分の細くなった手を優しく握る。
 優しい温もりに、笑顔ではあるがどこか悲しげに見える彼女の眼差しに、目の奥が熱くなりそうだ。

 達貴は静香を間近でじっと見つめ、穴が空くのではないかと思うほど見つめ、網膜に刻みつけた。
 出会った頃より伸びた髪。顔立ちも少しシャープになり、大人へと近づき彼女の性格に容姿が近づいていき、男を惹きつける色気も出てきたと思う。

 でも、小さく笑う姿は変わらず目を見張るほど可愛いし、はっきりとした性格はそばにいてすごく居心地が良かった。
 そんな彼女に彼氏として、まっすぐな言葉と視線を向けられ、愛おしすぎてふと弱った姿を見ると守ってやりたくなった。

 だけど、俺のこの手は力が入らない。


 もう、守ってやれない。


 誰よりも、自分がそばにいて見ていたいのに、守っていたいのに、すべてを向けられて取りこぼさず見つめたいのに……、できない。
 悔しい、悔しかった。
 言いようのない憤りとともに、とても虚しくて……、とても悔しい。

 達貴は一度口を開けたが、ただ空気を吸っただけで閉じた。
 繋がった手が震え、彼女の手はそれを閉じ込めるように力を入れた。

 手から、温もりが伝わる。
 こうやって繋げられているのに、温もりを感じられているのに、時間が止まったかのように空間ができ、彼女との間に距離を感じるようだ。

 呼吸のリズムさえも違っているようで、そう感じることが苦しかった。
 もう少し、もう少し、このままでいたい。まだまだ彼女を見ていたいと、細胞全部で訴える。

 願うばかりで、きりがなかった。
 達貴はこれで最後だと言い聞かせ、焼き付けるかのように静香のすべてを目で、空気で、今という時間すべてを取り込むように見つめた。
 閉ざしてしまいたい口を開け、震えそうになる声を叱咤し、声を静香へと届ける。

 「もう、ここには来ないで」

 やっと絞り出した声は、自分でも冷たいのではと思うほど感情がこもっていなかった。
 心に反したことを告げるのだから、感情が乗りようがなかった。

 視線は静香を取りこぼさないように、ここまで神経が向くのかというほど彼女を見つめた。
 身体と心が乖離かいりした感覚。
 気持ちだけがずっと熱したまま、静香を離したくないと訴える。だけど、もう無理だと、身体が悲鳴をあげていた。

 だから、彼女の手を離そう。繋いだ手は、これ以上は繋げることができないと伝えると決めた。

 彼女の時間をたくさんもらった。気持ちをもらった。
 たくさんたくさん見つめ、見つめ返された。
 この胸は、彼女でいっぱいになった。

 俺というものを、俺がいたということを、好きな相手に覚えてもらいたい。刻みつけたいと、もしを考えた時ずっと思っていた。
 まだまだ、したいことがたくさんある。静香ともっともっと時間を歩みたい。

 だけど、それはもうできないと自分でもわかっていた。
 刻々と砂時計の砂が落ちていくように、さらさらと終わりの時が迫っていくのを感じる。

 身体が意思に反して動かない。気力がもう出ない。
 それでも、彼女が好きで好きで叫び出したいのはずっとだ。付き合っても、ずっと達貴の心は叫んでいた。

 彼女は泣くだろうか。
 なじるだろうか。

 こうなる可能性があるとわかっていて、付き合いを要求した俺に。結局、こうなってしまったことに。
 忘れるなと、刻みつけた俺に。
 手を伸ばしてから、ずっとずっと願うように彼女のそばにいた俺に。

 静香は時が静止したかのように、じっと達貴の顔を見ていた。
 彼女の全神経が自分へと向けられていることを、敏感に感じ取る。

 瞳は潤んでいるが視線は逸らさず、達貴の願いを聞き届けるかのように見つめてくる眼差しに、ぐぅっと胸が痛くなる。
 震えるように口を開いた、声にならない彼女の声が耳に届く。

「わすれない」

 鼓動が、とくりと鳴る。

 達貴は小さく頷き、笑った。
 それこそ、達貴の願いだからだ。

 彼女を見つけた瞬間から、目の前が色鮮やかに新たな時間が進み出し、そしてそれは終局を迎えている。
 諦めていた時間が、静香と出会い幸せなものになった。薄暗かった全てのものが、明るく彩られた。


 ────そう思うと、俺の人生は良かったよな。


 静香の瞳が、ゆらゆらと涙の薄い膜をはりながらも達貴を見ている。
 その瞳も綺麗だと思いながら、その向けられる輝きは俺のものだと刻みつけながら、じっと彼女を見つめ返す。

 静香は涙を堪えながら、今度ははっきりと告げた。


「忘れない」


 その一言がどれだけ俺にとって、泣けるほど嬉しいことなのか、彼女はわからないだろう。
 それでも、欲しい言葉をくれる静香がやはり好きだと思わずにいられない。

 家族ではない他人に、ただ、いたな、と思い出すだけの俺ではない俺を知っている相手がいる。
 それが俺がいた『証』だ。

 じっと、震える長いまつ毛と涼やかな双眸を見つめる。潤む目を必死に堪えながら、彼女も自分の姿を焼き付けようと見つめ返す。


 好きだ好きだ、好きだ。


 離れたくない。放したくない。こんなに彼女が好きなのに……。


 でも、これ以上はつらかった。

 無理だった。


 それが、そう思ってしまうことが、しんどかった。
 だから、ここでさよならだ。

 それが伝わったのか、静香の瞳がわずかに伏せられ、溜まっていた涙が音もなく頬を伝う。

「達貴……。好き。好きだよ」

 囁くように告げられ、距離が近づく。
 すぐそばに映し出す互いの姿。
 必死で涙を堪えながら静香は繋いだ手にキスと、口に優しく触れるキスを残すと頬をそっと触れながらまた見つめてきた。

「行って。静香」

 最後の別れの言葉に静香は目を見張り、震える睫毛を伏せこくりと小さく頷くと、ギリギリまで手を繋ぎ何も言わずに部屋を出て行った。

 さよならは言えなかった。言えるはずはなかった。
 最後に彼女の名前を呼ぶだけで、達貴は精一杯だった。

 触れた時に震える彼女の唇。その感触。
 静香も自分と同じで、あれ以上は言葉を発することができなかったのだろう。

 
 泣かせてしまった……。


 そして、達貴ももう限界だった。
 悔しくて、悔しくて、もたない身体が、彼女を強く抱きしめられない現状が、別れを受け入れさせた己が。



 ごめん……、静香。



 離したのか。

 放せたのか。

 気持ちばかりはずっとずっと静香に向かい、もう彼女が恋しい。
 離すことしかできない自分が、この身体が、結局、彼女を泣かせてしまう現実が、悔しくて、悲しくて、悔しかった。

 自由の利く方の、さっきまで繋いていた方の腕で顔を隠すように、達貴は止められない涙を流した。




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