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第1章 桜の木の下で

9 君と呼ぶ彼

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 桜舞い散る春から一年が経とうとしていた。

『ねえ』
『あのさ』
『君』

 固有名詞を呼ばないでいい時は、ねえ、あのさ、とかだが、必要な時は君とずっと呼ばれてきた。

 姫野は男女とも友人が多く、当然、周囲の者には名字や下の名前の違いはあれ、すぐに打ち解けて呼び合っていた。
 利恵や聡美には名字でさん付け、男子には大抵呼び捨て。仲の良い友人は互いに下の名前で呼び合っているようだ。
 仲良くはしても、女子には一歩引いているところがあるように思える。

 見た目が髪を染めていたりピアスをつけていたりと軽く見えるが、軟派な発言もなく、告白されてもいつもそういう気分になれないからと丁寧に断っているらしい。
 そういうところが紳士でクールと、またファンなるものを増やしモテているようで、彼の周りには絶えず人が群がっている印象だ。

 何かを思い出したように、一日一度は静香に話しかけにくることはずっと変わらなかった。
 すっかり当たり前になったそのやり取りに、静香も姫野がいつ話しかけてくるのか楽しみになっていた。
 ときには、静香から話しかけることもあり、最初のころの探り合う会話ではなく柔らかい時間が二人の間に流れていた。

 そういったフランクな姫野に、ずっと『君』と呼ばれることは不思議ではあったが、彼の視線がいつも真っ直ぐに静香を見ていたので、どんな呼び方をされても気にならなかった。
 姫野に呼ばれ振り返ると、密かにほっと彼が小さく息を吐くのに気づいてから、それがとても愛おしくなっていた。

 小さなやりとりが続けられるうちに、次第に彼を視界の隅に入れることが当たり前になった。
 声がしたらそちらの方を意識する。動いているところを見ると、自然と彼を中心に見てしまう。

 元気そうだな。
 楽しそうだな。
 気さくで元気でたまにやんちゃな青年。

 その姿を見守っている自分がいた。

 小さなことだ。
 だけど、積み重なるとそれらが大きくなり、姿を捉えると嬉しいという気持ちが芽生えた。

「新学年でも元気な姿で会えるように。あまり羽目を外しすぎるなよ」

 先生の言葉を最後に、一斉に椅子を引きがやがやと騒がしくなる。

 今日は終業式。
 明日から春休みでしばらく学校に来ることはなく、暖かくなりつつある気候とともに楽しみな分、後ろ髪が引かれるように彼と会えないのを寂しく感じている自分の気持ちを意識した。

 会えないのが、寂しい。
 でも、少しの間だ、と静香は自分に言い聞かせる。

 すでに姫野は友人たちと教室を後にしたようで、姿は見えない。
 仕方がないかと、何を仕方がないと思ったのかも曖昧なまま、静香は教室の窓際の机を見た。

 閉め切られた窓。
 よくあの窓辺で楽しそうに話し、たまに風が強いとカーテンが揺れ、日差しが強いと閉められ、カーテン越しに影とオレンジの光が入ってきていた。
 それらが姫野と友人を照らし、一層穏やかで楽しい空気が教室を包み込むようであった。

 その姿を眺めるのが好きだった。そこにあって当たり前であったのが、進級とともにクラス変えもあるし、メンバーが変わると雰囲気も変わる。
 時は動き、変化し、過ぎ去ったものは戻らない。

 この一年の記憶を思い出すと、景色が姫野込みで浮かぶ。
 それだけ、自分の中で彼の存在が支配していたのだとようやく静香は認めた。

 認めたところで、またどうしようといった具体的なものはない。
 だが、離れたら次に必ず姫野の視界に入るところに自分が居ることができるかわからない。そのことが、どことなく寂しく感傷的な気持ちになった。

 小さく、本当に小さく静香は息を吐き出す。

「静香、もう帰るの?」

 鞄を持った静香に聡美が声をかけてくる。

「うん。また連絡するね」
「絶対だよ。春休み美味しいもの食べに行こうね~。春っていえばイチゴフェア。美味しいケーキ食べたい」
「そうだね。私は服買いに行きたいな」

 利恵がそろそろデート服新調したいんだよね、と言葉を続ける。

「春服かわいいの多いしね。なら、それも込みでまた計画しよう。またね」
「うん。またねー」
「ばいばい」

 友人と春休みの約束と挨拶をした交わした後、静香は教室を出た。

 廊下には数人ちらほら話をしている人たちがいて、それでもその人数はいつもより少ないようだ。
 だが、会話の内容は弾み、春休みを前にして皆どこか晴れやかな顔のような気もして、今学年は終わりなんだなっと実感する。

 そして、さっきは何を仕方ないと思ったのか気づく。

「そっか」

 今日は珍しく姫野と一度も話してないのだ。だから、学年最後ということもあり、落ち着かずどこか感傷的な気分だったのかもしれない。


 ……そうなんだ。


 静香はゆっくりと窓の外を眺めながら歩き、何となく姫野の姿を探す。どこにもその姿が見当たらないと諦めて視線を前に戻し、階段を下りるために廊下を横切った。

「そっか……」

 知らず知らず残念な気持ちから声がまた漏れる。
 ふぅっと重い息を吐き出し、静香は階下を見つめた。

 そのまま階段を一段降りようとしたところで、階段ホールの端から伸びてきた手に後ろからポンっと肩を叩かれる。

「わっ」

 足を戻し驚いて振り返ると、壁に凭れながらにぃっこり微笑む彼がいた。

「ごめん、驚かせた?」

 その姿を認めて、静香は目元を緩める。
 さっきまで憂鬱だった心が、一気に軽くなった。

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