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第1章 桜の木の下で
7 関係
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夏休みという長い休日に羽を伸ばし終え、二学期が始まった。
青々とした木々にはまだ蝉が最後の追い上げとばかりに合唱し、蒸せ返る行き場をなくした熱風がゆらゆらと揺れる。
暑さが残る中、それとともに気怠さを引きずるように、どことなくのんびりとだらけた空気が学校全体にまだ残っていた。
「ノート見せて」
聞き慣れた少し低くどこか軽やかさが残る声が、頭上から降りてくる。
さっきまで窓際で友人たちと話していたはずなのに、いつの間にか自分のそばに来た相手に静香は忍者みたいだな、と小さく微笑んだ。
笑っては悪いと表情を改め、静香は姫野をゆっくりと見上げる。
「いつの?」
「いつって、さっきの」
少し冗談も込めて聞いてみると、軽く眉尻を下げながらも姫野は笑顔で返してきた。
やりとりが増えるにつれ、当初よりは相手の人となり、どのように話すと楽しいかなど互いにわかってきて、真面目な会話だけではなくなり少し会話も弾む。
「ごめん。よく寝てるから思わず」
「ずっと寝てるわけじゃないし。ただ、教科によってはお経聞いているようでさ。あと弁当食べた後は眠い」
話しているうちに眠さを思い出したのか、あくびを噛み殺したように軽く口を開けた後引き結ぶと、姫野は目元に涙をためた。
「確かに。先生によっては話し方が一定だし授業が淡々とするから、お腹満たされた後に重なると眠くなるよね」
「だろ? うまく隠してるけど他のやつも寝てるし」
「多分、先生気づいてるとは思うけど。もうそこはそこって感じなのかな? ただ、堂々と寝てると目立つから余計に寝てる印象強いのかも」
「そういうもん?」
「そういうもんなんじゃないかな。はい。さっきのノート」
「ありがと」
用事が済むとさっと帰っていく姿を見送り、静香はどこか楽しそうに近寄ってきた友人の姿を捉えた。
「何?」
静香が訊ねると、鬼の首とったとばかりに目を輝かせながらこちらを見ていた聡美は、にやにやと笑って静香の前の席に座った。
「ん~、別に~」
「その含み笑いやめて」
「ええ~っ、だって言葉にしたら怒られるし」
「怒られるようなことを考えてるんだ?」
「そういう訳じゃないよ。単なる例え。なんか、育つ雛鳥を見ている気持ちになるんだよね。何でだろう?」
「何それ?」
「何だろうねぇ。でも、すごく見てると和むなって。あっ、吉村君だ」
話の途中で教室に入ってきた吉村の方に視線を集中させ、双眸をきらきらと煌めかせる聡美に静香は苦笑した。
切り替えが早く、恋する乙女のセンサーは侮れない。
──それにしても、育つ雛鳥って。
それはいいのか悪いのか、悪意がないのはわかるが何となくすっきりしない例えである。
だが、言わんとしているところはわかる気がした。
姫野の静香に対するぎこちなくも真っ直ぐな態度は、当事者であるが、当事者であるからこそなのか微笑ましく、静香にとっても好ましい。
そういった姫野の態度に何も思わないわけでもないし、かといって周囲のいう、聡美が思っているだろう恋愛という感じでもない。
気遣ってもらっていることはわかっているし、きっと好意は持ってもらえているとは思う。
それらは言葉にするものでもなく、ひどく曖昧な心地よい時間が存在するだけだ。
姫野は相変わらずモテているようで、噂で告白されたという話はちらほらと聞く。
学校外でもあるようで、それを聞いてまったく気持ちが動かないわけでもない。
ただ、彼が静香に向ける気持ちには、例えば付き合いたいとか、年齢的な欲望ありきの浮き足立つ恋愛とは違うように思えた。
たくさんある中の一部の時間を、静香と共有できたらそれで良いみたいな感じなのだ。
そう感じるから静香も意識しすぎることもなく、でも存在を意識はする。
そして、周囲も何となく穏やかな気持ちで自分たちのやり取りを見ているのだろう。
彼自身がガツガツしていない。誰にでも平等で、嫌な時は嫌だという。
姫野に告白する相手も、特に静香のことをライバル視する人はいないように思える。
つまりは、そういうことなのだ。
仲の良い友人やクラスメイトのくくりの中、姫野を好きな女子でさえも静香との関係は目くじら立てて意識するほどでもないのだろうと思うのだ。
のんびりと、柔らかく気持ちを撫でられるような日々。
それらがいつまでも続くとは思わないが、まだしばらくはと思った。
彼が目の前にいるだけで、それだけで温かい。楽しそうに友人と話している姿を見るだけで、心が和む。
彼に見つめられると、たまにはにかんだような笑顔を見ると、どうしようもなく胸がそわそわしたが、彼の眼差しを見ているとそれを受け止めておくだけでよいような気がした。
それらの気持ちに無理やり名前をつけたくはなくて、今はまだそれでいいのではないかと、静香は吉村が来てまた弾んだように笑う姫野の姿を視界に捉え密かに微笑んだ。
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