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【1】婚約破棄とおためし交際

15.「美しいね。人の『愛』というものは。その気持ちを私も味わってみたいんだ」

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『鬼になりかけたことがある』

 この話を誰かに話すのは初めてだった。
 彰吾は驚いたように聞き返した。

「綾子さんも、鬼に?」

『も』

 綾子はこくりと頷いた。

(――そうね、鈴原くんも鬼になりかけたことがあるのだわ。――だから話せるのかしら)

「――どうして、鬼に?」

 そう聞かれて、綾子はびくっと体を震わせた。
 思い出したくもないけれど。
 けれども、今、あの時のことを思い出して、自分を見つめ直すことが自分にとっては必要な気がした。

「どこから話したらいいのでしょうか……私の家、藤宮家の本来の家紋は【清流】――水の家紋なんです」

 綾子は左手で右手の着物の袖をまくると、腕に炎のように渦巻く【ほむら】の家紋をなでた。

「私の母は女学生時代に、決められた婚約者ではなく、――正反対の属性の家紋を持つ父との間に私を身籠りました」

 水と火、土と風など反対の属性の家紋を持つ者同士は、家紋同士が反発して子を成しにくい。また子が生まれても、家紋を継がないことも多い。
 そのため、相性の良い属性の家紋を持つ家同士で婚姻することが多い。

「祖母は結婚に、――それは、それは反対したそうです。母は一人娘でしたから。しかも父は代々家紋を継ぐ家の出ではなく、【突発発現とっぱつはつげん】で」

 父の武は代々家紋を継ぐ正当な華族の家の出ではなく、突然家紋が発現する【突発発現】による家紋持ちだった。

「祖母は母に、私のことは『どこか養子にやって、忘れなさい』と言ったようですが。母は折れずに私を産んで、父と結婚して家を出ました。けれど――10年前に、藤宮家の正当な家紋【清流】を継ぐ妹が生まれて、家族で藤宮家に戻ったんです。私は妹ができて――」

 綾子は息を呑んだ。ここから先の話は、誰にも言ったことがないことだった。

「――自分自身の存在価値がわからなくなってしまったんです」

「――存在価値、ですか」

静かに話を聞いていた彰吾は、噛みしめるように呟いた。

「【清流】の家紋を持つ妹が生まれて、皆、大喜びでした。母も祖母と仲直りしたいと思っていたんでしょうね。妹が生まれるとすぐに祖母に連絡して――その結果、祖母と母は和解して、父もそれが嬉しかった様子で。ただ――その時、私は、」

 綾子はうなだれた。

「――私は必要なかったのかな、と思ってしまったんです。私は家紋は【焔】だから――それまでは父と同じ家紋を誇らしく思っていたのに。急に、憎くなってしまって。――そんな時、頭の中に直接響くような、囁き声が聞こえたんです」

「――妖の、ですね」

 彰吾の問いかけに、綾子は頷いた。

(鈴原くんも、妖の声を聞いたのよね)

 自分の身体が自分のものではなくなるようなあの感覚。 
今でも思い出す度に嫌悪感と情けなさで震えそうになる。

 『その声』が聞こえたのは、出産後、寝不足の母親の代わりに妹の佳世のお守りをしていた時だった。綾子は穏やかな風が吹き込む窓際で、すぅすぅと寝息を立てて眠る、赤ん坊の佳世を見つめていた。妹の左腕には、母親と同じ流れる水のような形の紋様が刻まれている。

 自分の着物の袖をまくって、渦巻く炎の模様と見比べた。

(もし、私が【焔】ではなくこの子と同じ【清流】の家紋を持って生まれていたら――お母さまは家を出なくてよくって、お祖母さまとお母さまは、ずっと一緒に暮らしていたのかしら)

 祖母の自分を見る目を思い出す。『お前がなんで藤宮家にいるんだ』とでも言うような視線。――直接、そんな言葉をかけられたわけではなかったが、食事のたびに所作が淑やかでないと叱られ、母に『あなたがきちんと教えないから』と愚痴る祖母が綾子は嫌いだった。長屋暮らしに比べて、華族である藤宮家での暮らしは窮屈に感じたし、藤宮家に戻るにあたり、学校も、母親の出身校だという女学校に転校しなければいけなかったのも不満だった。

(お花だとかお琴なんてわからないわよ。やったことないのだから)

 勉強も運動も人よりできる自信があったが、転校した女学校での主要な評価基準はそれではないようだった。観劇や婚約者と行く宴の話で盛り上がる同級生の中でも疎外感を感じていた。綾子はぐっと唇を噛んだ。

(藤宮家になんて戻らなくたって、私とお母さまとお父さまの3人暮らしで十分幸せだったのに)

 その時、頭の中で、誰かの声が響いた。

 ――そう。その通り。この子が君のいままでの幸せを壊したんだ。

(この子が、私の幸せを壊した――)

 その言葉を繰り返す。

 ――そう。この子がいなければ、君は幸せだったのにね。かわいそうに。

(――妹なんて、いらなかった!)

 ――そうだね。君の怒りはもっともだ。

 優しく包み込むように、その声がそう言った。
 肯定された気分になった。

(いらなかった!)

 いらなかった、いらなかった、いらなかった!!!

 言葉が頭の中に反響した。
 綾子はふらふらと布団の上で眠る佳世のか細い首へと手を伸ばした。
 そして、手に力を入れ、首を締め上げた。

 ――君の幸せの邪魔をする『そんなもの』――喰らってしまえばいいよ。

 耳元で誘うように、声が囁いた。
 小さな頭にかぶりつこうと、口を大きく開ける。ぎぎぎと、普通ではない大きさで口が開いた。もう自分の身体が自分のものだという感覚がなくなっていた。

『――綾子!!』

 その時。母親の静江の悲鳴のような声が部屋に響いた。
 ばしゃりと水の塊が頭に降ってきて、その勢いで倒れこんで尻を打つ。
 ――それは、静江が家紋の力で発現させた浄化の水だった。
 髪をしたたる流水の冷たさに、意識と感覚が戻った。

『――お母さま?』

 自分は今何をしようとしていたのか。

『私、私――なんてことを――?』

 自分のしようとしたことを思い出し、綾子はその場にへたりこんだ。

『ああ、残念、残念』

 そう言いながら、何もない空間からぱっと急に姿を現したのは長い白髪の――女性のようにも見える、美しいうりざね顔の男だった。

『綾子、大丈夫よ、大丈夫。あなたは悪くないわ』
 
 気づくと駆け寄ってきた母に抱きしめられていた。
 優しく、言い聞かせるように、静江は綾子を腕で抱きながら濡れた髪を撫でた。
 そして、きっと厳しい眼差しでその男を睨んだ。

『あなた――妖ね』

 妖――父親が仕事で退治している異形の存在。
 綾子は本物の妖を初めて見た。
 こんな人間と同じ姿をしているなんて。
 確かに同じ姿ではあるけれど、その妖は絵から出てきたような――人間離れした美しさをしていた。

『妖――そうだね、私は君たちが妖と呼ぶ存在だ。けれど、私には『九十九つくも』という名前がある。自分でつけたんだ』

 饒舌にその妖は語った。

『九十九、百に一つだけ足りないという意味だよ。一つ、足りないんだ。私にはどうしてもね。――だから、この名にしたんだ。ねえ――私に足りないものとは、なんだと思う?』

『――知らないわ。去りなさい!』

 二人の娘を強く抱きしめて、静江は叫んだ。

『つれないね』

 九十九と名乗った妖は寂しそうに肩をすくめた。

『『愛』という感情だ。君たち人間が抱く『それ』は美しく、素晴らしいと私は思っているんだよ』

 母が腕を掲げる。『清流』の家紋が光り、水の膜が九十九と名乗った妖を包んだ。

『娘たちには、手を触れさせないわ……』

『――やはり、美しいね。人の『愛』というものは。その気持ちを私も味わってみたいんだ』

 九十九は感銘を受けたように嘆息しながら、その水の膜を払いのけた。
 静江が綾子たちを抱きしめる力を強めた。

 ――水の膜は、妖を浄化させる戒めになるはずのものなのに。

(――私、私がなんとかしないと)

 綾子は首を振って意識をはっきりとさせた。
 
 母も一応家紋の力は使えるものの、防衛隊員である父のように日ごろから妖と戦っているわけではない。それに加え、母親の家紋【清流】は、浄化を基本とした後衛の能力だ。

 綾子は腕に力をこめた。

(私の家紋は【焔】――お父さまと同じ、妖を焼き尽くす、強い力)

 家紋の力を妖相手に実際に使ったことはなかったが、自分がやらねばならないと意を決した――その時。

 綾子は頭を手づかみで掴まれた。
 九十九は一瞬の間に綾子の頭を掴むと、そのまま体を持ち上げた。
物理的につかまれると同時に―――それは、文字通り、手づかみで、頭の中身を掴まれていた。身体の制御きかなくなり、手足はだらりと垂れ下がる。

 妹なんていらなかった、ふたりをまもらなきゃ、わたしがやらなきゃ、いもうとなんていらなかった、みんないなくなれば、さくらがまたしけんのけっかが、わ、わるいみたい、かよは、ちいさくてかわいい、おかあさま、とかよを、まもらなきゃ、わたしが

 頭の中の思考がかき乱される。

『君は、素晴らしいよ。見た目も美しいし――何より、清純な心に生まれた一点の染みが堪らない。――君が妖になってくれれば、私も愛せるかもしれない』

 九十九は苦悶くもんする綾子を見つめながら、美しく微笑んだ。
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