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第一話 大好きな先輩がお見合いをするらしい
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向かいのビルの窓の明かりもついている。
まだ働いている人間がいることに慰められるような気持ちになりながら、溜め息をついた。
大口の契約の、急な納期の前倒しを頼まれたのが今朝。さすがにそれは無茶苦茶だろ!と言いたい日程だったが、ありがたいことにご指名で依頼を受けた案件だったのもあり、どうにかこうにか飲み込んだ。
ただ、もちろん他にも抱えている仕事はあったわけで、気付けばもうすぐ午後8時をまわろうとしていた。たまにこういうイレギュラーな残業が入る。
気づけばオフィスには俺一人。
部屋の電気が消されているわけでもないのに、パソコンの画面が妙にぼんやりと薄明るい。
かけていたブルーライトカットの眼鏡を外して眉間を抑えてじっとしていると、扉が開く音がする。人の気配を感じて顔を上げた。
「…お疲れ様、まだかかりそう?」
凛としているのに穏やかで優しい声と、ビニール袋の音。
何時間か前に一度退勤したその人は当たり前のように、俺の机に、俺の好きな缶コーヒーを置いた。
ああ、疲れが吹き飛ぶ。
「あー…いや、今終わりました」
「うわ、ほんとだ。手伝えることがあればと思ったんだけど、矢野くんやっぱ仕事速いね。すごい」
パソコンをのぞき込んで、感嘆の声を上げる。緩くまとめた長い髪が、トートバッグを下ろしたときに引っかかったのかちょっと乱れていた。
「そうでしょう。頑張りましたよ。褒めてください」
ぐっと伸びをすると、肩の骨がばきばきと音を立てた。
「ていうか花の金曜日でしょ。なんか予定なかったんですか?」
「え、ないない。私も今日ちょこっと残業だったし。でも今日、この間貸したやつの続編の発売日だったから」
鞄をごそごそやりながら「帰りがけに買って、隣のカフェで読み始めたら止まらなくなっちゃって」と言って笑いながら、その人は俺に これまた当たり前のように文庫本を渡してくる。
「私、読み終わっちゃったから貸す。早く矢野くんの感想が聞きたい」
「なんですか そのにやにやした顔」
「いやーまあ…読んだらわかるよ!」
にやけ顔で隣の席に座り、ビニール袋からおにぎりを2つ出して、「矢野くんは塩むすびだよね」と片方を差し出すその手を、引き寄せて思いきり抱き締めたらどうなるかななんて考えるけれど、それはここではしない。それくらいの理性はある。
「うわ、また失敗した」
隣で自分も梅のおにぎりを開けようとして、うまく開けられずに海苔をびりびりにしたこの人、田中美緒。
2年前に俺の指導係としてついてくれていた先輩。歳は1つ上。この人が、不愛想だった俺にも気さくに接してくれたことで、職場に早めに馴染むことができた。繁忙期に思い切り体調を崩したときは、家にお見舞いにも来てくれた。指導係を外れた今も、何かと気にかけてくれる。
でも。
仕事が終わらないこともキツいけど、今日、それ以上にキツかったのはこの人のせいだ。
* * *
『聞いた?美緒先輩、お見合いするらしいって』
同期の西野と自販機の前の休憩スペースで顔を合わせたときに言われて、思わず飲んでいたアイスコーヒーをむせそうになった。
『お見合いって…あのお見合い?』
『他に何があるんだよ』
西野は「お前、美緒先輩と仲いいから知ってるかと思ってたわ」なんて言うけど、そんな話一切聞いたことがなかった。いや、だってまだ26とかだろ。なんでそんな古風なルートで出会い求めちゃってんだよ。
顔には出さないけど、頭の中は混乱と、我ながらあまりにも身勝手な焦燥感でいっぱいになる。
――俺だっているじゃん。なんで。
ただ、もし事実だったとして、自分がお見合いするなんて職場の誰かに報告するようなことでもないかと思い、天を仰いだ。あの人、特にそういうの言わないだろうな。
あっけらかんとしていて、人のことを気遣うくせに、自分は誰にも言わずに強めの風邪薬を飲んでいるような人だ。
蛍光灯が眩しい。
『可愛いし仕事できるしいい人だし、そんな焦らなくたってよさそうなもんだけどなー』
『…焦るのはこっちだわ』
『は?』
『……いや、納期の話』
アイスコーヒーを一気に飲み干して紙コップを握り潰した俺に「あー…今スケジュールヤバいもんなお前」と憐れみを含んだ眼差しを送りながら、西野は肩を叩いた。
「なんか手伝えることあったら言えよ。俺も今ちょっと厳しいけど、お前ほどじゃないから」
気のいい同僚のありがたい言葉ではあったが、正直それどころじゃなかった。
ただ、2年前から燻ってきた恋心が突然熱を帯びたことに、驚きと少しの高揚感があったのは嘘じゃない。何度当たっても、この思いが砕けることはなさそうだと思ったから。
まだ働いている人間がいることに慰められるような気持ちになりながら、溜め息をついた。
大口の契約の、急な納期の前倒しを頼まれたのが今朝。さすがにそれは無茶苦茶だろ!と言いたい日程だったが、ありがたいことにご指名で依頼を受けた案件だったのもあり、どうにかこうにか飲み込んだ。
ただ、もちろん他にも抱えている仕事はあったわけで、気付けばもうすぐ午後8時をまわろうとしていた。たまにこういうイレギュラーな残業が入る。
気づけばオフィスには俺一人。
部屋の電気が消されているわけでもないのに、パソコンの画面が妙にぼんやりと薄明るい。
かけていたブルーライトカットの眼鏡を外して眉間を抑えてじっとしていると、扉が開く音がする。人の気配を感じて顔を上げた。
「…お疲れ様、まだかかりそう?」
凛としているのに穏やかで優しい声と、ビニール袋の音。
何時間か前に一度退勤したその人は当たり前のように、俺の机に、俺の好きな缶コーヒーを置いた。
ああ、疲れが吹き飛ぶ。
「あー…いや、今終わりました」
「うわ、ほんとだ。手伝えることがあればと思ったんだけど、矢野くんやっぱ仕事速いね。すごい」
パソコンをのぞき込んで、感嘆の声を上げる。緩くまとめた長い髪が、トートバッグを下ろしたときに引っかかったのかちょっと乱れていた。
「そうでしょう。頑張りましたよ。褒めてください」
ぐっと伸びをすると、肩の骨がばきばきと音を立てた。
「ていうか花の金曜日でしょ。なんか予定なかったんですか?」
「え、ないない。私も今日ちょこっと残業だったし。でも今日、この間貸したやつの続編の発売日だったから」
鞄をごそごそやりながら「帰りがけに買って、隣のカフェで読み始めたら止まらなくなっちゃって」と言って笑いながら、その人は俺に これまた当たり前のように文庫本を渡してくる。
「私、読み終わっちゃったから貸す。早く矢野くんの感想が聞きたい」
「なんですか そのにやにやした顔」
「いやーまあ…読んだらわかるよ!」
にやけ顔で隣の席に座り、ビニール袋からおにぎりを2つ出して、「矢野くんは塩むすびだよね」と片方を差し出すその手を、引き寄せて思いきり抱き締めたらどうなるかななんて考えるけれど、それはここではしない。それくらいの理性はある。
「うわ、また失敗した」
隣で自分も梅のおにぎりを開けようとして、うまく開けられずに海苔をびりびりにしたこの人、田中美緒。
2年前に俺の指導係としてついてくれていた先輩。歳は1つ上。この人が、不愛想だった俺にも気さくに接してくれたことで、職場に早めに馴染むことができた。繁忙期に思い切り体調を崩したときは、家にお見舞いにも来てくれた。指導係を外れた今も、何かと気にかけてくれる。
でも。
仕事が終わらないこともキツいけど、今日、それ以上にキツかったのはこの人のせいだ。
* * *
『聞いた?美緒先輩、お見合いするらしいって』
同期の西野と自販機の前の休憩スペースで顔を合わせたときに言われて、思わず飲んでいたアイスコーヒーをむせそうになった。
『お見合いって…あのお見合い?』
『他に何があるんだよ』
西野は「お前、美緒先輩と仲いいから知ってるかと思ってたわ」なんて言うけど、そんな話一切聞いたことがなかった。いや、だってまだ26とかだろ。なんでそんな古風なルートで出会い求めちゃってんだよ。
顔には出さないけど、頭の中は混乱と、我ながらあまりにも身勝手な焦燥感でいっぱいになる。
――俺だっているじゃん。なんで。
ただ、もし事実だったとして、自分がお見合いするなんて職場の誰かに報告するようなことでもないかと思い、天を仰いだ。あの人、特にそういうの言わないだろうな。
あっけらかんとしていて、人のことを気遣うくせに、自分は誰にも言わずに強めの風邪薬を飲んでいるような人だ。
蛍光灯が眩しい。
『可愛いし仕事できるしいい人だし、そんな焦らなくたってよさそうなもんだけどなー』
『…焦るのはこっちだわ』
『は?』
『……いや、納期の話』
アイスコーヒーを一気に飲み干して紙コップを握り潰した俺に「あー…今スケジュールヤバいもんなお前」と憐れみを含んだ眼差しを送りながら、西野は肩を叩いた。
「なんか手伝えることあったら言えよ。俺も今ちょっと厳しいけど、お前ほどじゃないから」
気のいい同僚のありがたい言葉ではあったが、正直それどころじゃなかった。
ただ、2年前から燻ってきた恋心が突然熱を帯びたことに、驚きと少しの高揚感があったのは嘘じゃない。何度当たっても、この思いが砕けることはなさそうだと思ったから。
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