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のじゃロリ狐っ娘に癒されたい!

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『社畜』
 それは、この『日本』における悪しき文化であり、最も消え去るべき概念である。
 魂の束縛を断ち、異世界へ転生できる機会を棒に振り、本来果たすべき使命すらも忘却の彼方に追いやり、ただひたすらに反復的な作業を繰り返す。
 これは、労働ではない。断じて違う。人が行うべき行いではない。
 過酷な労働条件?なるほど、それは確かに間違っていない。
 しかし、それは労働であって労働でない。何故ならそれは――ただの奴隷だ。

 つまり、何が言いたいのかと言うと、この世には『癒し』が必要だという事だ。


 かく言う俺も絶賛社畜中の身であり、今は地獄から退勤し疲労困憊の状態で自宅へと向かっている。
 終電なんぞとっくのとうに無くなった時間帯にくたびれたスーツ姿の男性がフラフラとした足取りで歩いていたら警察にでも声を掛けられそうだが、そんな事を考える余裕すらも今の俺には無かったのだ。
 てか、日常茶飯事すぎて警察も見逃しそうなものだけど。

 最近は月月火水木金金というイカれた勢いで働いていたからか、頭や体が壊れそうになっていますね、はい。
 お金は溜まっていくのだが、使う暇が無いなんて(ほんとクソだな)とは常日頃から思ってる。
 それでも俺がこの世で何とか生きていけているのはひとえに”彼女”のおかげだろう。

 彼女と共に過ごす時間が、俺にとっての唯一の癒しである。
 仕事に忙殺される日々の中で唯一の安らぎだ。
 残業で遅くなっても、俺の帰りをただ待ってくれている。
 俺の帰宅時間に合わせ、料理を作って待っていてくれるのだ。


 ……あぁ、会いたいな。


 そんな「どうしても早く会いたい」という焦燥感に駆られた俺は疲れた体に鞭を打ち、歩くスピードを速めて自宅へと向かった。


 アパートに辿り着いた俺は、ポケットに手を突っ込んで鍵を取り出し、いつものように玄関のドアを開け中に入る。
 そして「ただいまー」と全く覇気のない声で呟くと、奥の方からパタパタという足音が聞こえてきた。


あるじよ、お帰りなさいなのじゃ!」


 俺を出迎えてくれたのは、割烹着姿の女の子。
 目の前にいるこの彼女こそ、今の俺にとって、この世で最も癒しの存在である『稲荷いなりさん』である。
 ぱっちりとした金色の瞳と発達した八重歯。小さな体格で、傍から見れば中学生か、下手すれば小学生と間違われるぐらいの幼い外見を持ち、肌は透き通るように白い。
 そして、大きな狐耳とふわふわでモフモフな尻尾に黄金こがね色に輝く髪は肩にかかるくらいに伸びている。 
 彼女は廊下を小走りしながら玄関に急いで来たかと思うと、嬉しそうに綻ばせた顔を俺に見せながら上気させた声でそう言った。 

 そんな姿を見て、俺の心身を包み込んでいた疲れやストレスと言った負の感情が一瞬にして消し飛んでいく。
 代わりに、底無しの安堵感が俺の中を満たしていき、思わず頬を緩めてしまった。
 それほどまでに、俺にとって彼女は癒しであり、精神安定剤なのだ。 


「ただいまです、稲荷さん」

「うむっ!主よ、お疲れ様なのじゃ!」


 俺がそう答えると、彼女は笑顔で労いの言葉をかけてくれる。
 その愛らしい笑顔を見て俺は無意識に、当たり前のように彼女の頭を優しく撫でる。
 すると、狐なのにまるで子猫のような表情を浮かべる稲荷さん。その純粋無垢な笑顔に、俺まで癒される。
 まさに、マイナスイオンの権化と言ったところだろう。仕事の疲れが吹き飛び、さっきまでの悩みがどうでも良くなってきた。
 (幸せというのはこういう事を言うんだろうな)と心の中で思いつつ、俺は稲荷さんの頭から手を離して靴を脱ぎ玄関からリビングに移動する。


「今日は食事と風呂、どちらを先にするかの?」

「そうですね……先にご飯の気分かもです」

「了解じゃ。なら、儂は食事の用意をするからその間にお主はその堅苦しいスーツを脱いでくるとよい」


 稲荷さんはそう言うとキッチンに向かって歩いていき、準備を始める。
 俺は彼女に言われた通り、スーツを脱いでラフな部屋着に着替えてからリビングへ向かい、いつもの席に座った。
 そして、目の前で割烹着姿の稲荷さんがキッチンで調理をする音をBGMにしながらボーッと可愛らしい狐の耳が時折ピコピコと動く彼女の後ろ姿を眺めていると、キッチンにいる稲荷さんから声が掛かるのと同時に出汁の良い匂いが鼻腔を刺激した。
 匂いと共に食欲をそそられる。稲荷さんの方を見やると丁度出来上がった料理をお盆に乗せ、こっちに持ってきているところだった。
 やがて彼女は俺の元に料理を置いていくと、向かい側にある席にちょこんと座る。


「おっ、きつねうどんですか」

「そうじゃ。ここ最近疲れている様子じゃったからの、体に優しい物をと思ってな」


 稲荷さんが言う通り、ここの所残業続きで帰ってくるのも夜遅くなので正直バカ疲れている。
 俺としてもうどんは大好物だし、その上稲荷さんの作った料理とあっては疲れなどあっという間に吹き飛んでいく。
 そして俺は両手を合わせ「いただきます」と言ってから箸を手に取り、きつねうどんを啜った。
 うどんの上に乗せられた油揚げが口の中でとろけるような食感を醸し出し、その後に濃厚なつゆの味が口の中に広がる。

 そのうどんとつゆの相性は抜群で、思わず頬を綻ばせてしまう程の美味しさだった。
 どうやら稲荷さんは俺の疲れている様子を見て、彼女なりに色々と考えてくれたようだ。
 きつねうどんを美味しそうに食べている俺を満足そうに見つめる稲荷さんの表情を見ていると、尚更きつねうどんが美味しく感じられた。
 やはり稲荷さんには敵わないな……と思いながらも俺は、この美味なるうどんを啜り続ける。

 つゆまで飲み干した所で一息つき、稲荷さんを見ると彼女もまた、油揚げが乗ったきつねうどんを美味しそうに食べている姿が目に入った。
 稲荷さんの方もどうやらうどんとお揚げが大好物なだけあって、出汁がしみたお揚げを口に入れた瞬間、心底嬉しそうな表情を浮かべたのを俺は見逃さない。
 ……まぁ、尻尾が勝手に左右に振れてるから隠そうにも隠せないんだけどね。
 稲荷さんもあっという間にきつねうどんを完食したのだが、最後に取っておいたのか相変わらず幸せそうな表情を浮かべながらもう1枚のお揚げを口にしている。

 そんな様子をニヤニヤと眺めていると、稲荷さんはハッと我に返ったのか慌てて顔を左右に振り、急いできつねうどんを食べ終えた。
 照れ隠しのつもりなのか俺から目を逸らしつつ頬を赤く染めながら両手を合わせ、律儀に「ごちそうさま」と述べると食器を片付ける為か席を立ち上がる。
 俺も同じく「ごちそうさま」と返しつつ、稲荷さんに手伝って自分の食器をキッチンへ運んだ。


「こっちは儂がやっておくからお主は風呂に入ってきたらどうじゃ。もうお風呂は沸かしておるからの」

「あー、じゃあ、お言葉に甘えて」

「うむっ!ゆっくり肩まで浸かるのじゃぞ!」


 稲荷さんに見送られながら俺はタオルを持ってお風呂場へと向かう。
 洗濯機に着ていた服を全て放り込むと、浴室へと入り熱いシャワーを浴びた。
 疲れた体に温かいお湯が染み渡り、心地よい感触が全身を包み込み癒してくれる。
 これだけでも仕事の疲れが和らいでいくのを感じた。ゆっくりと時間と疲れが流れていくような、そんな感覚。

 シャンプーで頭を洗い終え、次はボディソープで体を洗おうとしたその時――


「主よー、背中を流しに来たぞー!」


 鏡越しにお風呂場のドアが開き、バスタオル一枚を体に巻いただけの稲荷さんが入ってくるのが見えた。
 そんな突然の出来事に、俺は思考が追いつかず唖然としてしまう。
 一方の稲荷さんはというと、小悪魔のような表情を浮かべながら平然と浴室に入ってきて、そのまま俺の背に抱きついてきた。


「えっと……い、稲荷さん?今、俺……お風呂入ってるんですけど……」

「そんな事は分かっとるのじゃ」

「じゃあ、何で……?」

「主の背中を流す為じゃよ。最近疲れてるみたいじゃから、癒してやろうと思ったんじゃ」

「いや、確かに嬉しいんですけど……でも……」

「……もしかして、ダメだったかの?」


 稲荷さんは少ししょげた顔をしながら上目遣いでこちらを見た。
 そんな顔で迫られると断り辛くなるというものだが、如何せんこの状態は色々とマズい。
 背中から伝わってくる稲荷さんの豊かな双丘、肌の密着具合。バスタオル越しだというのに、既に柔けえ……じゃなくて!
 この状況は流石にマズいと思い、俺は何とか説得する為に稲荷さんに話しかけようとするが言葉に詰まる。
 涙を浮かべながらこちらを見上げてくる彼女の顔を見て、胸が締め付けられたからだ。

 そんな寂しそうな顔をされては、こちらとしても断るに断れない。
 葛藤を続ける事数秒。俺はしばらく考えた末、覚悟を決める。
 やがて俺が諦めた様子でため息を吐くと、途端に稲荷さんは嬉しそうな表情を浮かべて抱きついたまま体を揺らした。
 (本当に彼女には敵わないなぁ)と思っていると「それじゃ、背中洗っていくからのー」と言って、彼女は俺の返事を待たずにボディソープを手に取り泡立て始める。

 流石に前を洗うのは断っておいたのだが、何故か稲荷さんは不満げに頬を膨らましていた。
 これ以上彼女の機嫌を損ねてもマズいので、もう諦めよう。彼女が満足するまで付き合うしか選択肢は無いのだ。
 そう確信すると、俺は稲荷さんに体を預けた。

 彼女の小さな手に握られたボディタオルが俺の背中を擦る度にゾワリとした感覚に襲われるが、稲荷さんの善意を無下にも出来ず我慢しながら彼女の献身的な奉仕に身を任せる。
 稲荷さんの柔らかい手の感触と共に、擦る度にボディタオルから泡が滲み出てきて、それが潤滑油の役割を果たし俺の背中をしっかりと滑った。
 そんな感覚に慣れてきたのか、最初感じていたこそばゆい感覚は次第に無くなり、代わりに心地よい脱力感に包まれる。
 徐々に体から力が抜けていくのが自分でも分かった。そして、次第に思考までもがぼんやりとしていき、気が付けば全身の力が抜けきったようになり、俺は思わず吐息を漏らしてしまう。


「気持ち良いかの?」


 そんな状態の俺の顔を覗き込みながら、稲荷さんが嬉しそうに尋ねる。
 俺が小さくコクりと首を縦に振ると、稲荷さんは満面の笑みを浮かべて再度背中を擦り始めた。
 ――幸せだ。今のこの状況、本当に幸せだ。稲荷さんが居てくれて本当に良かった。
 彼女と一緒でなければ今の俺は確実に生きてはいないだろう。

 そんな事を頭の片隅で思いながら、俺はこの幸福感に身を任せるのだった。






 少しして、泡だらけになった俺の背中をシャワーで流した後、諸々自分の体を洗い終わった俺たちはそのまま湯船に浸かっていた。
 湯船に浸かっているのは俺と稲荷さんの2人だけで、稲荷さんは俺の足の間に座っている状態だ。
 と言っても、お互いの体は密着している訳では無く、稲荷さんの立派な尻尾がクッション及び俺たちを仕切る壁の代わりとなっている。
 稲荷さんのふさふさとした尻尾が俺の足の上で気持ち良さそうに動き、時折触れる肌の感触がとても心地よい。
 少しだけくすぐったい感触なのだが、それが逆に気持ち良いと感じた。湯船に浸かりつつ俺はボーッと正面を見つめながら、幸せを噛み締めていた。

 稲荷さんと2人で湯船に浸かる時は大体いつもこうだが、特に何か会話を交わす訳でも無く、ただただゆっくりと時間だけが流れていく。
 俺は稲荷さんとこうした時間を過ごせるだけで幸せだし、稲荷さんも多分俺と同じ考えなのだろう。
 ただ静かに湯船に浸かっているだけで満足といった様子で、稲荷さんは頬を赤く染めながらコテンと俺の胸に頭を預けてゆったりとしていた。
 そのまま沈黙が流れるが、俺は全然苦にならない。むしろこの時間がずっと続けばいいのにと、心の何処かで思っていた。
 すると、不意に稲荷さんが口を開く。


「主よ、疲れは取れてきたかの?」

「えぇ、稲荷さんのおかげでかなりマシになってきましたよ」

「そうか……それは良かったのじゃ。ここ最近、主は何やら疲れやストレスが溜まってるみたいじゃったからの」


 稲荷さんは少し心配そうな表情を浮かべながら俺を見上げてきた。
 どうやら稲荷さんは俺の疲れを見抜いていたようで、少しでも癒してあげたいという一心での行動だったようだ。


「ホント……いつもありがとうございます、稲荷さん」


 俺がそう言うと彼女は「くふふっ」と嬉しそうに笑みを浮かべた後、再び俺に体を預ける。
 勢い余って尻尾が俺の腕に絡まり、柔らかな毛並みがくすぐったいが、決して不快には感じなかった。
 浴室内に響く微かな水音だけが鼓膜を刺激し、心地良い沈黙の時間が流れる。
 この沈黙の時間は決して居心地の悪いものではなく、むしろいつまでもこうしていたいと思える程の幸福感に満ちていた。

 しかし、そんなゆっくりと流れる時間がずっと続く訳では無く、必ず終わりは来てしまうもので……


「主よ、そろそろ上がらんとのぼせてしまうぞ」


 稲荷さんはそう言うと俺の足の間から立ち上がり、ザパッと音を立てて湯船から上がった。
 相変わらず長い尻尾がお湯を弾きながら左右に揺れており、水滴が床に落ちていく。
 そんな艶のある尻尾に見惚れていると、稲荷さんは振り返り手を差し伸べてきた。
 俺は彼女の手を握り返すと湯船から上がり、浴室を後にする。

 体をバスタオルで拭き終えた後、先に着替えた稲荷さんが俺の髪を乾かしてくれた。
 背を向けた俺の頭を優しく撫でる稲荷さん。その手つきはとても優しくて、愛でられているような感覚に陥る。
 しばらくの間俺の髪の感触を楽しんでいると、満足したのか彼女はドライヤーの電源を切り、すっかり乾いた俺の髪を一撫でしてからドライヤーを元の位置に戻した。

 そして、片付け終わると稲荷さんは振り返って俺に微笑みかけながら近くで跪き、正座をした後はポンポンと優しく自分の太ももを叩いてみせる。
 これは所謂――膝枕をしてあげるよという合図だ。その様子は、まるで「早くおいで」と催促しているようで、俺は「し、失礼します」と声を掛けてからゆっくりとその膝枕に頭を乗せた。
 太ももの上に頭を乗せて仰向けの体勢を取ると、稲荷さんが優しく俺の頭を撫で始める。
 柔らかい太ももの感触と頭に伝わる弾力がとても気持ち良い。


「ふふっ……今日1日頑張った主へのご褒美じゃ。遠慮せず、ゆっくり休むがよい」

「はい……ありがとうございます」

「くふふっ、どういたしましてなのじゃ」


 稲荷さんは嬉しそうに笑うと、俺の頭を撫でながら時折髪に指を通し手櫛で梳かしてくれる。
 頭を撫でられているだけだというのに、こんなにも幸せな気持ちになれるとは。今日は幸せ尽くしだ。
 稲荷さんは俺の髪を愛でるように優しく撫で続ける。時折、細い指先で髪をクルクルと弄りながら、まるでピアノの鍵盤に触れるように。
 その指使いは心地よく、風呂上がりで体が火照っていたせいか段々と眠気が襲ってくる。
 とろんとした瞳でボーッとしていると、不意に稲荷さんが声を掛けてきた。


「眠くなってきたかの?」

「……すみません」

「謝る事では無い。大丈夫じゃ、主よ。眠るがよい。主の疲れを癒す為に儂がずっと側にいてやるでの」


 稲荷さんはそう言うと、俺の額に口付けを落としてきた。
 柔らかな唇の感触と共に、額に彼女の温かさがじんわりと広がるのを感じる。
 そのまま稲荷さんの太ももの上でゆっくりと瞳を閉じると、彼女は俺が眠りに落ちるまで優しく頭を撫で続けてくれた。
 まるで子供をあやすように、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら……

 稲荷さんには敵わないなぁ……そんな事を思いつつも、俺は睡魔に身を任せて眠りに落ちたのだった――







 ―*―*―*―







 朝6時。目覚まし時計の音で目が覚める。
 すっかり眠気の取れた頭を押さえながら上体を起こし、目覚まし時計を止めながら大きく伸びをした。
 昨日の一件で大幅に疲れが取れたからか何だか体が軽い気がする。

 ふと隣を見ると、そこには静かな寝息を立てながらスヤスヤと眠っている稲荷さんの姿があった。
 狐耳も尻尾もピコピコと可愛らしく揺れており、愛らしい寝顔はとても可愛らしい。

 そんな彼女の様子を微笑ましく思いながらも、俺はもう一度大きく伸びをしてから立ち上がった。
 そして、窓を覆っているカーテンを開け、差し込んできた日光を一身に浴びながら――




「よしっ、今日も1日頑張るか!」







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