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第一章

31、キスでも埋まらない

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「エル、本当に体調は大丈夫なのか?」

夕食後も仕事に戻っていたルートヴィッヒが部屋に帰って来たのは11時を回ってからだった。

もう元気になったと言うエレオノーラに対して、ルートヴィッヒはエレオノーラに近付くと、本当に回復しているのか見定めようとする。

(お仕事の時もきっとこう言う厳しい眼差しをしてらっしゃるんだわ)

エレオノーラはルートヴィッヒの視線をシビアなものと受け止めていたが、それは仕事場でのルートヴィッヒを見たことがないからだ。

今している目付きの100倍は厳しい。

「今朝よりは顔色が良くなっているようだが──」

エレオノーラの頬を優しく撫でるとギシリと音を立てながら、ベッドの縁に腰掛けていたエレオノーラの横に座ったルートヴィッヒ。
その紫の瞳の視線を間近で一身に受けて、何だか落ち着かない気分になる。
自分はもう薄い夜着なのに、ルートヴィッヒはまだきっちりとした服装で二人でベッドに居るのもエレオノーラの動揺を誘う。

「ル、ルートヴィッヒ様の小さい頃のお話をお聞かせくださいませんか?」

苦し紛れに絞り出した会話のきっかけは自分でも取って付けたような違和感があったが、鍛え抜かれた身体で、大人で落ち着いた雰囲気のルートヴィッヒにもあどけない様子の子供時代があったのだとしたら、知りたいとも思った。

「俺の幼少期? 面白い事は何もないぞ。至って平凡だ」

さっき頬に触れたルートヴィッヒの右手が薄い夜着をまとったエレオノーラの膝の上にあった左手に指を絡ませて握った。
その仕草は自然で、なのにどこか艶めいていて、エレオノーラの心拍数は上がってしまう。
ジークフリートがやって来た前の晩程に親密な行為はあれ以来していないが、ルートヴィッヒがこうして触れてくる事は格段に増えていた。
その度にエレオノーラはあの夜の事を思い出してしまっている。

「ルートヴィッヒ様のお話はいつも興味深いです……」

ルートヴィッヒの指が絡まっている左手が気になって、会話に集中できなくなりそうだった。

「エルはとても聞き上手だからな。俺のつまらない話でも一生懸命に聞いてくれるから、つい下らないことまで話してしまう」

ルートヴィッヒが自嘲しながらエレオノーラの目蓋にキスをすると、睫毛にもルートヴィッヒの唇が触れた。

エレオノーラは真っ赤になっているのをルートヴィッヒに気付かれているだろうなと思い、さらに赤くなる。
そんなエレオノーラの心の内を知っているのかいないのか、ルートヴィッヒは淡々と話し始めた。

「小さい頃の一番最初の記憶は、自分の部屋で文字を覚えている光景だ。多分、2歳くらいだったと思う。この家の跡取りとして、両親は最高の教育を与えてくれたし、俺の部屋には世話係から教育係まで、寝る時以外は常に3、4人の大人がいた。だが忙しい両親にはあまり会えなかったし、同じような年頃の友人には恵まれなかった。だから10歳になった頃ジークが生まれた時はとても嬉しかったのを覚えている」

ルートヴィッヒはその時を思い出しているのか、形の良い口元に笑みが浮かんだ。

「ジークの小さい頃は見た目だけじゃなくて、中身も天使みたいだったんだ。あいつが7歳になる頃には今のようになってしまったが」

今度はエレオノーラが微笑んだ。

「それでも12歳位まではどこに行くにも俺の後ろを付いてきて、まるで雛鳥の様だった。そのジークが騎士団に入団すると聞いた時はやっていけるのかと心配したが、どうやら杞憂だったようだ。あの明るい性格と愛想でどこでも上手くやっているようだからな」

「ルートヴィッヒ様もジーク様もお互いをとても大切に思われているのがこの間のお二人を拝見していて伝わって来ました。今もルートヴィッヒ様のお話をせがんだ私にジーク様のお話ばかりなさっていますし」

エレオノーラは、そういうルートヴィッヒの優しさが好きだった。
堂々としていて、この世の何もかもを自分の思うがままに動かせそうな雰囲気なのに、その実とても細やかな気遣いの出来る人だ。

「ジークの事は大切だが、エルの事も大切に思っている」

「ありがとうございま──」

ルートヴィッヒは左手をエレオノーラの頭の後ろに添えると、エレオノーラにキスをした。
それは長くも短くもないキスで、クチュリとお互いの唇が離れた時に、エレオノーラは少しだけ寂しく感じた。

「エルの子供の頃はどんなだったんだ?」

ルートヴィッヒはエレオノーラの首筋にも軽いキスを落としたと思ったら、右の鎖骨の上をキツく吸われた。

「ひゃぅ……ルートヴィッヒ様、そんな事をなさってはお話に集中出来ませんっ」

エレオノーラが切実に訴える事でルートヴィッヒの導火線に火をつけている事には気付かない。

「すまない、後でにする」

しれっととんでもない事を言われた気がしたが、今それについて考えると平常心ではいられなくなると思い、必死で話を続けるエレオノーラ。

「私にはルートヴィッヒ様もご存知の通り姉が二人います。その姉達と両親に甘やかされて育ちました。特に誘拐未遂にあってからは、余計に甘やかされて……わがまま放題で生意気な子供でした」

「それならここでもわがままを言ったらいい」

「え?」

ルートヴィッヒの言葉に虚を衝かれる。

「ここに来て数ヶ月経つのにわがままを言うどころか、エルは聞き分けが良すぎる。何か欲しいものや行ってみたい所は無いのか?」

「欲しいもの、ですか……?」

(イレーネ様のことを教えて欲しいけど、そんなのはダメよね……)

エレオノーラはしばらく考え込む。

「──ルートヴィッヒ様は私と結婚してしまって良かったのでしょうか……?」

エレオノーラの澄んだ瞳は心細そうに揺れた。

「当たり前だ。そうでなければ結婚してこんなに何ヵ月も共に暮らしたりは出来ない」

「前にシーモア公爵に勧められて私とお見合いをしたとおっしゃっていましたが、それだけの理由で一度も会ったことのない私との結婚を決められたのですか?」

「厳密には初めてではない。数年前、エルを夜会で見掛けたことがあった。勿論その時はエルと結婚するとは想像もしていなかったが」

ルートヴィッヒは今よりあどけなかったエレオノーラの輪郭を思い出す。

「自分で言うことではないが、こんな見てくれに生まれたせいで、女性は俺の顔だけを見て好意を寄せることが多くて、うんざりしていた。だからエルに会って、自分のことなんかまるで眼中にない様子で、それが新鮮で嬉しかった」

「ルートヴィッヒ様……」

「おかしな事、と言うかエルに対して失礼な事を言っているのは自覚しているが、これが本心だ」

「では女性がお嫌いというのは本当だったのですね」

「──それは若干違うな。俺が女嫌いと言われているのは、自分でそう噂を流したからだ」

「えぇっ! なぜそんな事を……」

仰け反らんばかりに驚くエレオノーラの純粋さがルートヴィッヒには眩しく感じた。

「この間教えそびれたが、ハニートラップを回避するためだ。諜報活動のために女性が男を色仕掛けで騙す事を言う」

「い、色仕掛け……」

ハニーと言う言葉から何か美味しいものを使った罠を連想していたエレオノーラは衝撃を受けた。

「母が病で亡くなり、その数年後に父が後を追うように逝ってしまいこの家を継いだ頃からそう言う女が周りに増えた。メイドとしてここへ潜り込んだりな。それで面倒だから、女嫌いで偏屈だと言うデマをでっち上げて流したんだ。偏屈に関しては嘘でもないが。噂を流した効果はある程度あったし、男が好きだと言う噂の尾ひれも付いたがそのままにしていた」

「そうだったのですか……お屋敷の内部にまでそんな方がいらしたら、お心も休まりませんね」

「侵入者を許した俺の落ち度だ。まあそれでその後は独り身の気楽さを謳歌していたら、こんな年になっていた訳だ」

「──ではやっぱり本当は女性がお好きなのですか?」

エレオノーラは何も考えずにポロっと聞いてしまった後で青ざめた。

「すみません、今の失礼な発言は取り消させて下さいっ!」

「気にするな。エルの質問には『人並みには』、と答えておこう」

ルートヴィッヒはエレオノーラの慌てぶりが可愛らしくて、からかいたくなってしまう。

「そう言うエルはどうなのだ?」

「私、ですか?」

「ノイマイヤー大佐は立派な男だが、有能さと外見では引けを取らないはずのオズワルドのことはいつも少し睨んでいるし、かと思うとオズワルドと同じような何を考えているのか分からないジークとはひどく打ち解けていたしな。エルの好みは不思議だ」

「シーモア公爵とジーク様は全然違います! それにジーク様はルートヴィッヒ様の大切なご家族です。私も出来れば仲良くさせていただきたいのです──」

「ジークの面倒を見てくれて感謝している」

(エルにはあいつも珍しく心を開いているようだったしな──)

「いえ、そんな、私は何もしていません……」

恐縮するエレオノーラは何かを言い出せないでいる様に見える。

「エル、何か言いたいことがあるなら教えて欲しい。俺は鈍感だから気付いてやれない」

「ルートヴィッヒ様は鈍感なんかではありません。いつもとてもお優しくて、私にも周りの方達にも気を配って下さってます」

「では何故そんな泣きそうな顔をしている?」

「そんな顔はしていません、ただ……」

「ただ?」

「ただ、ルートヴィッヒ様に想っている方がいらしたのに、私が強引に結婚を迫ってしまったせいで、お二人の仲を引き裂いてしまったのではないかと──」

そこまで言うとエレオノーラの目に本当に涙が溢れて来て、ポロポロとこぼれてシーツに染みを作った。



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