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十 弾正変節

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幕府は長州藩に、詰問のための召喚状を送付していたが長州が拒否。このままでは「ならば征伐を」となりかねない。長州の状況が分からない各藩が口を閉ざす中、長知は、
「福岡に帰る途中、長州藩が謝罪するよう説得したい」
と提案し、了承を受ける。こうして、長知は、帰途、小郡で長州との会見に臨んだ。

この会見は、朝廷・幕府に対し、過激な活動を謝罪するよう勧める福岡藩側と、勅命に従って、尊王攘夷を貫いてきただけで謝罪など必要ないとする長州藩側の主張が平行線を辿ったまま終わったが、思わぬ変化を起こした。といっても長州藩ではない。変化が起きたのは、長知に従ってきた立花弾正である。

立花が、斉溥の目指す開国・洋式化の数少ない理解者であることは、既に述べた通りである。
しかし、朝廷のお膝元である京都に滞在し、尊王攘夷のメッカ・長州で洗礼を受け、海外が間近に迫っている悲壮感を一身に浴びたことは、そんな彼の考えすら変えた。
「日本を異国から守らなければならない」
という攘夷の意識が芽生えたのである。これは、随行した家臣たちも同様であった。

この期に及んで尊王攘夷の熱気が、にわかに福岡を包んだ。
斉溥は、この状況にいら立つが、何よりも彼を落胆させたのは、立花の変節であった。
元々養子として福岡に入り、信頼できる者が少ない中、曲がりなりにも財政改革や洋式化を推進できたのは、立花の功績に拠るところ大であった。
自分の考えを理解できる存在が失われることは、片腕をもぎ取られるに等しかった。斉溥は孤独であった。

しかし嘆いてばかりもいられない。下関には、今にも外国艦船が攻め込んでくるかもしれないのだ。そうなれば勝てるわけなどない。誰よりもそれを知っている斉溥は、なんとか応戦せず、静観できないものかと思案した。
が、攘夷熱に浮かされる藩士たちは言うことを聞きそうもない。有効な手立てもなく、やきもきしていた。

こうした緊迫の中で、またもや長州が事件を起こす。京都を奪回し、再度、尊王勢力を復活させるべく、長州藩が京都御所へと迫ったのである。
これには斉溥も唖然とする他なかった。いくら尊王を謳っていても、御所に攻め込むなど愚の骨頂。自ら逆臣だと言っているようなものである。
当然、この挙兵は失敗し、長州は大打撃を受ける。そして半月後、遂にイギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカの四国艦隊による下関攻撃が開始されたのである。
砲撃された長州は即座に敗北。圧倒的な軍事力の差を思い知らされる結果となった。

あれだけ攘夷を叫び、意気軒高であった長州が一瞬にして敗れたことは、攘夷熱に浮かれた福岡藩士たちに冷や水を浴びせるには十分であった。幸い異国艦は、福岡藩が守る若松港に近づかなかったため、干戈を交えることはなかったが、もし戦闘になっていたら、と思うと誰もが身の縮む思いであった。

こうして無謀な攘夷論への熱は徐々に冷めつつあった。同時に、人々の目は国内情勢へと戻った。すなわち長州藩に対する仕置きが、衆目の注するところとなったのである。
当たり前のことだが、朝廷は長州藩の暴挙に激怒し、幕府に追討を命じた。

諸藩も、もはや長州に対し同情こそすれど、手を出しかねる状況であった。下手に手を出せば自分たちも朝敵にされかねない。その上、幕府とも敵対する危険すらあるのだ。
しかし斉溥には国内の分裂だけは回避しなければならないとの強い想いがあった。もはや信念といってもよい。
手負いの虎ほど危険なものはない。幕府軍が攻め込んだならば、長州は死に物狂いで抵抗するだろう。そうすればお互いに甚大な被害が出ることは想像に難くない。そんなことになれば、日本の未来は暗澹たるものになる。

一方、幕府にも、内乱は避けたいと考える人物がいた。征長軍の総督に任じられた徳川慶勝その人である。
斉溥とも旧知の仲であった慶勝は、探りを入れに来た斉溥の使者にこう答えた。
「わしも斉溥殿と同じ気持ちだ。長州が降伏するならば寛大な処置をするべきであろう」
また慶勝の参謀的な立場にあった薩摩の西郷吉之助も同じく内乱を憂う一人であった。
「もし長州が恭順を示すのであれば、それを支援して、血を流すことなく事を収めたい」
彼もまた、そう考えていたのであった。こうした報告を受け、斉溥は思った。

「一縷の望みが出てきた。困難極めるものの、あるいは何とかなるやもしれん」
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