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八 久光上京

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月形らの処置を終えた斉溥は、再度幕府の要請で、早々に参勤交代となった。

が、江戸に向かう道すがら、予想外のできごとに遭遇する。丁度、明石辺りに逗留し間もなく都も近づいてきた辺りで、随行した家老たちが慌てて駆けつけてきたのである。
「殿、一大事にござる」
「如何したか?」
「とんでもない話を聞きました。浪士どもが、殿の東進は、薩摩と連携して倒幕を実行するためだ、と騒いでいるようなのです」
「何じゃと!わしはそんなものは知らんぞ。なぜそんな話が出ておるのじゃ」
「どうも薩摩の久光公が、倒幕のため上洛しているとの由にございます」
「久光じゃと?」

島津久光。亡き斉彬の後、薩摩藩を主導していた彼の異母弟である。
兄・斉彬とは薩摩藩主の座を争った仲であったが、久光自身に敵意はなく、むしろ学問好きで、先を見据えた施策を次々と打つ兄に畏敬の念すら覚えていた。
ゆえに斉彬が亡くなった後、薩摩の実権を握った彼は、その遺志を継ぎ上洛しようと考えた。かつて斉彬が斉溥に語った幕政改革を、朝廷の同意を得て迫ろうとしたのである。

薩摩上洛の知らせは、瞬く間に京都中を駆け巡った。そして話に尾ひれがつき、いよいよ薩摩が倒幕に動くと勘違いした浪士たちはこれに驚喜。驚喜した者たちは、何でも都合よく考える。斉溥が参勤交代のため出発したのは、久光が動いた直後であったため、呼応したものと思われていた、というのが事の真相だ。

しかし、斉溥も家老たちもそのようなことはつゆ知らない。
「まさか久光がそんな大それたことをするとは思えん。そんな流言飛語は放っておけ。そのような理由で引き返すわけにはいくまい」
斉溥は言ったが、家老たちも
「されど、都ではその話で持ち切りの様子。無用な詮索を避けるためにも、参勤は見合わせるべきと存ずる」
と引かない。多勢に無勢。こうなると斉溥は弱い。止むを得ず病気と称して引き返さざるを得なくなった。

一方、先に上洛した島津久光は京都の朝廷を動かすことに成功。幕府は一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職に命じた。外様が幕政を動かしたのである。
勢いを得た朝廷は、福岡藩を含む九藩に上京を命じる。これには斉溥も困った。勅命とあらば行かなければならないが、病気を理由に江戸行きを中止したばかりなのだ。
苦慮の末、上京した後、その足で江戸に行くことを決めた斉溥は、時代は変わったと思った。昔ならば朝廷がこのように自らの意志で幕府や諸藩に命令することなどなかったのだ。しかも、その命令は本当に天皇から出たものかどうか分かったものではない。今や長州藩や過激な尊王攘夷浪士たちが朝廷を牛耳り、その権威を傘に自分たちの意志を勅命として発する様相を呈しているのだ。その引き金を引いたのは久光の上洛であった。もはや旧来の権威は無視されつつあった。幕府と朝廷それぞれが別々に命令を発し、中には相反する内容まであった。諸藩に混乱が巻き起こっていた。
このままでは、日本は幕府派と朝廷派に分裂し、内乱が起こってしまう。斉溥はそんな危惧すら抱いていた。
「久光め。実力不相応に余計なことをしおって」
これがもし斉彬であったら、どうであろう。斉溥は亡き友を思った。敵は内にあらず。朝廷も幕府も手を取らなければならない。そのためには尊王一辺倒になってもいけない。まして攘夷などもっての外だ。本当に攘夷を実行すれば、日本は列強に口実を与え、攻め滅ぼされてしまうだけだ。

無論、開国が上手くいっているわけではない。不平等な通商条約による弊害から、全国で物価が高騰し、一般大衆の不満もたまっていた。しかし、だからといって再び国を閉ざすことは愚の骨頂である。まず何よりも、日本としての意思決定機関を統一しなければ対外に向けた交渉すらできない。

「斉溥よ、わしの代わりに国論を統一してくれ。わしらが目指す日本のために」

と、斉彬の声が聞こえたような気がした。

やらなければならぬ。が、どうやって?焦燥は増すばかりであった。

そんな斉溥の気持ちはお構いなしに、世間では、浮かれた尊王攘夷熱が吹き荒れ、朝廷の名の下、各藩に捕縛された尊王派の放免が要求されていた。各藩も抗えずに応じる。
斉溥も不本意であったものの「どうせ要求されるよりは」と、自ら月形らを放免せざるを得なかった。
斉溥は「まずは、できることをやる」という考えに基づき、海防強化に苦心しながら、政局の様子をみていた。しかし、そうした様子見もできなくなる事態が発生する。

長州が攘夷を決行したのである。
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