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二 藩主就任

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一ヶ月かけて江戸から福岡に着いた斉溥は、早々に斉清と共に長崎に赴いた。
当時、異国との窓口であった長崎の警備は、福岡藩と佐賀藩が交代で行うことになっていたからだ。斉溥は、重豪から長崎にある海外貿易拠点・出島やそこで働く異人の話を聞かされていたので、この長崎入りは、福岡以上に心躍るものであった。
そして初めて訪れた出島で、医者のシーボルトと出会う。彼は、養父・斉清とは動植物学を通じて親交を深めている仲であった。

斉溥は知識豊かなシーボルトに魅了され、シーボルトも次々と質問を投げてくる大柄な青年に好意をもった。そして知りうる限りの学術知識をもって、丁寧に答えた。
斉溥は感動と共に、知れば知るほど精密な西洋の学問に舌を巻いた。日本も早く導入しなければ。その思いを一層強めたのである。


「国を開き、西洋の文明を取り入れなければ、日本は列強に対抗できない。お主は一足先に福岡を変えてくれ。わしもいずれ薩摩を変える。それが日本を守ることに繋がる」
長崎から福岡への帰途、輿で揺られながら、斉溥は斉彬の言葉を思い出していた。
江戸を出立する前日、二人は、惜別とともに日本の行く末について語り合ったのである。
続けてこう思った。
「斉彬よ、やはりわしらの考えは間違っていない。西洋に学び、取り入れなければ、日本の未来はない。長崎でそう確信したぞ」

数年後、斉溥は婚姻する。相手は斉清の娘・純姫で、一層、黒田との結びつきを強める狙いがあった。この婚儀をもって、そして自身の眼病が進行していたこともあって、斉清は藩主を斉溥に譲ることを決意。
愛する息子の婚儀を見届けて安心したのか、実父・重豪もまもなく死去した。

天保五年(一八三四)、斉溥はいよいよ藩主として福岡城入りすることになった。若干二十五歳の胸には、「日本を強くするために、福岡藩を改革するのだ」という強い思いが溢れていた。
福岡に到着した斉溥は、城に入って早々、家老たちを前に、改革が必要だと訴えた。
「西洋の脅威はすぐそばまで迫っている。日本も列強に立ち向かうために洋式化を行わなければならないのだ」
斉溥は自信満々に所信を表明し、反応を待った。が、家老たちは呆気にとられて話を聞いた後、沈黙してしまった。

重苦しい空気が流れた後、家老の一人がこう切り出した。
「なるほど、確かに異国の者どもの侵略は許し難いですな。そうした者どもは追い払わなければなりませぬ。しかし恐れ多くも、殿はまだ若うございます。また我が藩は残念ながら財政も厳しい状況です。今、我々は財政を好転させるべく改革を計画しております。我々にお任せください」

斉溥にとっては意外な反応であった。これまで西洋を身近に感じて育った斉溥にとって、洋式化の推進はごく普通の意見である。加えて福岡藩は長崎警護も行っている。当然同意見だと思っていたが、どうやら違うらしい。
一方で洋式化に金が要るのは、斉溥も分かっている。財政改革にも異論ない。若い斉溥は勇んで言った。
「追い払うのではなく、彼らの良いところを取り入れるのだ。進んだ技術を持ち込み、追いつかなければならない。そのために金が必要なのは異論ない。されば、その財政改革はどのようにやるつもりだ。わしが指揮しよう」

すると、先ほどの家老が大仰に溜息をつき、こう返してきた。
「恐れながら殿。殿はまだ福岡に来られたばかりです。まずは福岡藩の実情を把握ください。改革は我々”黒田の者”に任せ、まずは領内を巡検いただきたく存じます」
この返事を聞き、斉溥もようやく家老たちの本心に思い至った。彼らにとって斉溥は、よそ者なのである。いくら純姫と婚儀を結んだとはいえ、島津の人間なのだ。

「外様の若造に何が分かる?」

これが家老たちの偽らざる本音であり、事実、目の前の態度は、それを雄弁に物語っていた。要は舐められているのだ。
さらに家老たちは西洋を敵視しているだけで、その強大さや進歩性を知らない。洋式化など汚らわしい上に、ただの金食い虫だと信じているようだ。

斉溥はいきなり出鼻をくじかれてしまった。
しかしそこは頭脳明敏である。どんな課題があり、何から解決すべきかを、瞬時に頭の中で、整理していった。
家臣たちは自分を信頼していない。そして異国に抵抗をもっている。洋式化を進めたくとも金すらない。では、まず優先すべきは何か。答えは一つしかなかった。

「信頼を得なければならない」

これに尽きた。信頼なくして人は動かない。結局のところ実務を行うのは家臣たちなのだ。とかく家格や先例を大事にする時代にあって、新たな試みをするには、彼らを動かす牽引力が必要であった。そして牽引すべく、異国への抵抗を払拭しようにも、財政を立て直そうにも、信頼がなければ改革などできない。

結論にたどり着いた斉溥は、家老たちにこう告げた。
「それもそうだな。相分かった。そなたたちの申す通り、まずは領内の状況を把握するところから始めよう。財政改革は、お主たちに任せる。頼むぞ」
若さゆえの頑迷さを予想していたのか、案外すんなりと意見を受け容れた斉溥に、家老たちは意外そうな表情を見せたが、すぐ破顔した。
「お聞き届けいただき有難く存じます。斉溥様におかれましては、我々の改革、しかと見届けていただければと思いまする」
こうして斉溥の所信表明は、斉溥と家老たちの距離感をそのまま浮き彫りにした。同時に西洋への意識の差も歴然としていることが明らかになった。斉溥にとって大きな挫折であった。

「まるで異国に来たようじゃわい。同じ異国なら西洋の方が良かったの」
その晩、寝所で一人になった斉溥は、そう呟いた。
「しかし、斉彬。わしはお前との約束を果たす。まずは福岡から変えるぞ」
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